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第6話「眠らぬ夜に夢を」
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風が止み、夜の街は水面のように静まり返っていた。
午前零時を少し過ぎた路地に、ひとりの老人が足を運ぶ。
佐伯(さえき)、七十を越えた紳士。
深い皺を刻んだ顔には、どこか影が落ちていた。
「……最近、夢を見なくなったんだ」
誰に聞かせるでもなく、つぶやく。
布団に入っても、ただ暗闇が広がるだけ。
若い頃は、未来の夢に胸を膨らませ、眠るのが楽しみだったのに。
「心まで、もう枯れてしまったのかねえ」
ふと視線の先に、古びたレンガ造りの建物が現れた。
木製の扉の上で、黒鉄の看板が月明かりを受けて揺れている。
「Midnight Café」
⸻
カラン、と鈴の音。
静かな店内に漂うコーヒーとハーブの香り。
「いらっしゃいませ」
白いエプロンを結んだ灯(あかり)が、小さく微笑んで迎えた。
その後ろで、マスターが懐中時計を指先で撫でながら、穏やかに会釈する。
カウンターに腰を下ろした佐伯は、帽子を膝に置き、深いため息をついた。
「もうね、何年も夢を見ないんだ。目を閉じても真っ暗で……何も浮かばない。
昔は、あれほどいろんな夢を見たのに。私はもう、何も残っていないのかもしれん」
灯は少し首をかしげ、ゆっくりと口を開いた。
「夢って……寝てるときだけのものじゃないと思います。起きてるときでも、見られるんじゃないかな」
彼女自身、その言葉を口にしながら、胸の奥がざわめいた。
⸻
マスターが静かにカップを差し出す。
「どうぞ。夢見酒です」
薄紫に輝く液体から、やわらかな香りが立ちのぼる。
佐伯が一口含んだ瞬間、まぶたの裏に光が差し込んだ。
――若き日のアトリエ。
キャンバスに向かい、絵筆を握る自分。
初めて個展を開いた日の胸の高鳴り。
そして、絵を見つめて笑った妻の面影。
忘れたと思っていた光景が、次々とよみがえる。
「……まだ、ここにあったんだな。私の夢は」
佐伯は胸に手を当て、静かに微笑んだ。
⸻
「ありがとう。今夜は、眠れそうだ」
立ち上がる彼を、灯がそっと見上げる。
「おやすみなさい。いい夢を見られますように」
マスターは懐中時計を閉じ、静かな声で告げる。
「夢は消えません。形を変えて、いつも心に寄り添っているものです」
佐伯は深く頭を下げ、扉を開いた。
夜明け前の空に、淡い光が差し込み、まだ見ぬ朝の色を映していた。
⸻
店内に再び静けさが戻る。
灯は窓辺に立ち、東の空を見つめながら小さくつぶやく。
「……わたしの夢は、どこにあるんだろう」
その声に、マスターは何も言わず、ただ優しく微笑んだ。
チクタク……チクタク……
止まったはずの時計の針が、わずかに進む音が聞こえた。
午前零時を少し過ぎた路地に、ひとりの老人が足を運ぶ。
佐伯(さえき)、七十を越えた紳士。
深い皺を刻んだ顔には、どこか影が落ちていた。
「……最近、夢を見なくなったんだ」
誰に聞かせるでもなく、つぶやく。
布団に入っても、ただ暗闇が広がるだけ。
若い頃は、未来の夢に胸を膨らませ、眠るのが楽しみだったのに。
「心まで、もう枯れてしまったのかねえ」
ふと視線の先に、古びたレンガ造りの建物が現れた。
木製の扉の上で、黒鉄の看板が月明かりを受けて揺れている。
「Midnight Café」
⸻
カラン、と鈴の音。
静かな店内に漂うコーヒーとハーブの香り。
「いらっしゃいませ」
白いエプロンを結んだ灯(あかり)が、小さく微笑んで迎えた。
その後ろで、マスターが懐中時計を指先で撫でながら、穏やかに会釈する。
カウンターに腰を下ろした佐伯は、帽子を膝に置き、深いため息をついた。
「もうね、何年も夢を見ないんだ。目を閉じても真っ暗で……何も浮かばない。
昔は、あれほどいろんな夢を見たのに。私はもう、何も残っていないのかもしれん」
灯は少し首をかしげ、ゆっくりと口を開いた。
「夢って……寝てるときだけのものじゃないと思います。起きてるときでも、見られるんじゃないかな」
彼女自身、その言葉を口にしながら、胸の奥がざわめいた。
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マスターが静かにカップを差し出す。
「どうぞ。夢見酒です」
薄紫に輝く液体から、やわらかな香りが立ちのぼる。
佐伯が一口含んだ瞬間、まぶたの裏に光が差し込んだ。
――若き日のアトリエ。
キャンバスに向かい、絵筆を握る自分。
初めて個展を開いた日の胸の高鳴り。
そして、絵を見つめて笑った妻の面影。
忘れたと思っていた光景が、次々とよみがえる。
「……まだ、ここにあったんだな。私の夢は」
佐伯は胸に手を当て、静かに微笑んだ。
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「ありがとう。今夜は、眠れそうだ」
立ち上がる彼を、灯がそっと見上げる。
「おやすみなさい。いい夢を見られますように」
マスターは懐中時計を閉じ、静かな声で告げる。
「夢は消えません。形を変えて、いつも心に寄り添っているものです」
佐伯は深く頭を下げ、扉を開いた。
夜明け前の空に、淡い光が差し込み、まだ見ぬ朝の色を映していた。
⸻
店内に再び静けさが戻る。
灯は窓辺に立ち、東の空を見つめながら小さくつぶやく。
「……わたしの夢は、どこにあるんだろう」
その声に、マスターは何も言わず、ただ優しく微笑んだ。
チクタク……チクタク……
止まったはずの時計の針が、わずかに進む音が聞こえた。
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