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第8話「遠くへ行きたい夜」
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真夜中の商店街は、雨上がりの匂いをまだ残していた。
シャッターを下ろした店の前を、ひとりの女性が小さな買い物袋を提げて歩いている。
奈央(なお)、三十代前半。
昼はパート、夜は子どもの世話。家事が終わったはずなのに、布団に入ると目が冴えてしまい、気がつけば外へ出ていた。
「……あの子を置いて、どこか遠くへ行きたいなんて。母親失格だよね」
自分を責めるように呟いたとき、ふと視界にやわらかな灯りが差し込んだ。
路地の奥に、古びたレンガ造りの建物がぽつりと佇んでいる。
「Midnight Café」
⸻
扉を押し開けると、カラン、と鈴が鳴った。
オレンジ色の灯りとジャズの音色が、夜の静けさをやさしく塗り替える。
「いらっしゃいませ」
白いエプロンを結んだ灯(あかり)が、ぱっと微笑んだ。
奈央は驚いたように目を瞬かせる。
「こんな時間に……女の子が?」
「えへへ。わたし、ここでお手伝いしてるんです」
カウンターに腰を下ろすと、奈央は袋を足元に置き、ぽつりと話し出した。
⸻
「子どもは大事だし、かわいいんです。
でも……毎日、家と仕事の往復で。自分の時間なんてなくて……。
本当は、どこか知らない街に旅してみたい。
でもそんなこと思うたびに、“母親なのに”って自分を責めちゃうんです」
灯は真剣な顔でうなずいた。
「……わがままじゃないと思いますよ。
夢を持っちゃいけない人なんて、いないから」
その言葉を口にした瞬間、灯の胸の奥にかすかな痛みが走った。
“わたしの夢って、なんだろう”――そんな思いが、心のどこかで静かに芽をもたげる。
⸻
「お待たせしました」
マスターが、白い湯気を立てるカップを静かに差し出す。
「シナモンティーです」
カップから漂う香りは、遠い国の市場を思わせる。
奈央がそっと口をつけると、舌に広がる甘さと香ばしさの奥から、若き日の記憶が立ちのぼった。
――友達と旅した海辺の町。見知らぬ人との笑顔。夜風に混じる歌声。
心の奥にしまいこんでいた「遠くへ行きたい」という願いは、まだ消えていなかった。
「……ああ、そうか」
奈央はカップを両手で包み込み、微笑んだ。
「いつか、あの子と一緒に……行けたらいいな」
⸻
灯の瞳がきらりと光った。
「すてきです! きっと楽しい旅になりますよ」
奈央は思わず笑って、「ありがとう」とつぶやく。
マスターは懐中時計を撫でながら、静かに言葉を添えた。
「夢は遠くにあるようで、いつもすぐそばにあります。
それを見失わなければ、必ず道は続きます」
奈央が扉を開けると、東の空が薄桃色に染まりはじめていた。
夜の冷たい空気の向こうに、朝焼けの光が彼女を迎える。
⸻
店内に再び静けさが訪れる。
灯はカウンターの隅で、自分の指を見つめながらつぶやいた。
「……わたしも、どこかへ行けるのかな」
マスターは何も言わず、ただ穏やかに頷いた。
チクタク……チクタク……
古い時計の音が、夜明けとともにやさしく響き続けていた。
シャッターを下ろした店の前を、ひとりの女性が小さな買い物袋を提げて歩いている。
奈央(なお)、三十代前半。
昼はパート、夜は子どもの世話。家事が終わったはずなのに、布団に入ると目が冴えてしまい、気がつけば外へ出ていた。
「……あの子を置いて、どこか遠くへ行きたいなんて。母親失格だよね」
自分を責めるように呟いたとき、ふと視界にやわらかな灯りが差し込んだ。
路地の奥に、古びたレンガ造りの建物がぽつりと佇んでいる。
「Midnight Café」
⸻
扉を押し開けると、カラン、と鈴が鳴った。
オレンジ色の灯りとジャズの音色が、夜の静けさをやさしく塗り替える。
「いらっしゃいませ」
白いエプロンを結んだ灯(あかり)が、ぱっと微笑んだ。
奈央は驚いたように目を瞬かせる。
「こんな時間に……女の子が?」
「えへへ。わたし、ここでお手伝いしてるんです」
カウンターに腰を下ろすと、奈央は袋を足元に置き、ぽつりと話し出した。
⸻
「子どもは大事だし、かわいいんです。
でも……毎日、家と仕事の往復で。自分の時間なんてなくて……。
本当は、どこか知らない街に旅してみたい。
でもそんなこと思うたびに、“母親なのに”って自分を責めちゃうんです」
灯は真剣な顔でうなずいた。
「……わがままじゃないと思いますよ。
夢を持っちゃいけない人なんて、いないから」
その言葉を口にした瞬間、灯の胸の奥にかすかな痛みが走った。
“わたしの夢って、なんだろう”――そんな思いが、心のどこかで静かに芽をもたげる。
⸻
「お待たせしました」
マスターが、白い湯気を立てるカップを静かに差し出す。
「シナモンティーです」
カップから漂う香りは、遠い国の市場を思わせる。
奈央がそっと口をつけると、舌に広がる甘さと香ばしさの奥から、若き日の記憶が立ちのぼった。
――友達と旅した海辺の町。見知らぬ人との笑顔。夜風に混じる歌声。
心の奥にしまいこんでいた「遠くへ行きたい」という願いは、まだ消えていなかった。
「……ああ、そうか」
奈央はカップを両手で包み込み、微笑んだ。
「いつか、あの子と一緒に……行けたらいいな」
⸻
灯の瞳がきらりと光った。
「すてきです! きっと楽しい旅になりますよ」
奈央は思わず笑って、「ありがとう」とつぶやく。
マスターは懐中時計を撫でながら、静かに言葉を添えた。
「夢は遠くにあるようで、いつもすぐそばにあります。
それを見失わなければ、必ず道は続きます」
奈央が扉を開けると、東の空が薄桃色に染まりはじめていた。
夜の冷たい空気の向こうに、朝焼けの光が彼女を迎える。
⸻
店内に再び静けさが訪れる。
灯はカウンターの隅で、自分の指を見つめながらつぶやいた。
「……わたしも、どこかへ行けるのかな」
マスターは何も言わず、ただ穏やかに頷いた。
チクタク……チクタク……
古い時計の音が、夜明けとともにやさしく響き続けていた。
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