姉の婚約者を寝取った話

なかたる

文字の大きさ
上 下
9 / 9
番外小話

しおりを挟む



 遠くから聞こえたその声にカイルはゆっくりと顔を上げた。彼の視線の先に映るのはただ一人、普段から目に入れても痛くないほど可愛がっているクレジオット伯爵家の長男であり、彼の婚約者の双子の兄であるシェリルだった。小柄で華奢で可愛くて、けれどその美しい顔にときおりこちらも息を呑むほどの妖しさを見せる、そんな後輩。
 楽しそうな笑みを向けられている男は一体誰であろうか。交友関係の広すぎる彼の全てをただの先輩に過ぎないカイルが把握することはできなかったし、しようとすればきっと面倒になって離れられることは目に見えていた。
 縛りたい。自分だけを見て欲しい。自分だけに笑いかけて欲しい。お前が俺だけに全てを捧げてくれたなら、俺だってお前に全てを捧ぐのに。
(いつまで喋ってるんだよ、こっち見ろよ…!)
 心の中で念じながら唇を噛んだカイルはその手で力拳を作った。なんの話をしているのだろう。そんな風に簡単にベタベタとボディタッチなんかして。
 もちろんそれは至って普通の光景であって、カイルの嫉妬を抜きにすればシェリルは友人と談笑しているだけに過ぎない。
 その様からはとても、昨夜ベッドの上で乱れた妖艶なと結びつかないほどの屈託のない笑顔。
「──カイル先輩!」
 ふっとこちらに視線が向く。それまで他の男に向けられた屈託ない笑みも当たり前に自分に注がれ、ほんの少しの距離なのに小走りで駆け寄ってくる。
 どうしてこんなにも可愛いのだろう。いや、こいつは自分がどうしたら可愛く見えるのかを知っている。
「…友達。いいのかよ」
 嬉しさをグッと押し殺したカイルは出来る限りの冷めた目を向こうで残された男に向ける。
「え?あぁ、大した話じゃなかったので」
 そんなことはないはずだ。そうでなければあんな風に楽しそうに話すものか。だがこいつは今、あの男よりも俺を優先したのだ。俺のためにこちらへきたのだ。それくらいには俺とこいつの距離は近いのだ。
「先輩がここを通るなんて珍しいですね。もしかして僕に会いに来てくれたとか?」
 こてんと首を傾げ上目遣いで尋ねてきたこいつに素直にそうだと言ったら、きっと引き攣った顔で少しずつ離れていくんだろう。
 教室に戻るのにこんな遠回りをしてまでほんの少しでもお前に会いたかったって。馬鹿みたいだと、いっそ笑ってくれたら報われるだろうか。
「…馬鹿じゃねぇの?」
 お前が好きなのは、お前の大嫌いな双子の姉に好かれている俺だろう。シェリアと婚約しなければ、シェリアが俺を好きだと言わなければ、たとえ歪んでいてもこんな関係にはなれなかった。
「あはは、分かってますよ、そんなわけないって。でもちょうど良かったです、僕は先輩に用事あったので。あとで教室の方伺おうと思ってたんですけど」
「…なんだよ」
 なんだろう、心当たりがない。それに来てくれたかもしれないのなら大人しく教室で待っていればよかったとも思う。いや、シェリルが他の奴らの目に付かなかったことを考えれば良かったのかもしれないが。
「これ忘れていったでしょう?僕のベッド隙間に落ちていましたよ。片方だけだと困るでしょう」
 シェリルがポケットから出したのはカフスボタンだ。漆黒の、それは。
(──俺のじゃねぇよクソが)
 俺はそんなものは持っていない。一体それが誰のものかなんて知りもしない。ベッドの隙間なんて、じゃあこのボタンの持ち主と寝たのか、あの部屋で。
 目の前がふつふつと赤くなってくる。いっそこいつをどこかへ閉じ込めてしまおうか。永遠に、他の男と会おうなんて思わないくらいに抱き潰して。
「…あぁ、ちょうど探してたんだ。悪かったな」
 その時カイルは自分でも不思議なくらい穏やかな声が出た。怒りで満ちておかしくなってしまいそうな頭とは裏腹に、恐ろしいほど、優しく。
「わざわざ持って来させて悪いな。お前の部屋に忘れたかと思っていたんだが、どうせ今日の夜に取りに行くつもりだったんだ」
 その手から受け取ったカイルにシェリルは一瞬固い表情をした。それから、いつものように軽くあしらう笑顔で口を開く。
「そうだったんですか。でもごめんなさい、今夜は先約があるんです」
 男か。男なんだろ。さっきの奴か?それとも別の奴?俺の知っている奴か?お前はその男と、昨夜俺にしたみたいに抱き着いて、それからあなたが一番気持ちいいなんてよがるのか。
「…そうか。ならいい」
 いいわけがない。絶対に許さない。相手の男は殺してやる。けれど、俺が今ここでこいつに問い詰めたって絶対に相手のことは教えてくれない。それなら今夜こいつの部屋を張って、相手が来たら顔を見ればいい。もしもこいつが出かけるのなら後をつけてやる。
「…止めてもくれないんですね」
 どこか寂しそうに呟いたシェリルに鼻で笑ってしまった。
「止めて欲しかったのか?」
「まさか」
 笑顔で返されてやっぱりなと思う。止めていいのならいくらだって止める。だがそこで止まるようなら初めから俺なんかに手を出していないはずだ。
「先輩のそういうところ」
「…なんだよ」
 やめてくれ。冗談でも好きだなんて言ってくれるな。そんなことを言われたら哀れで浅はかな俺は、お前の全てを容認しなければいけなくなるのだろう。
 あと何度この握った拳から血を滴らせれば、お前は少しでも俺の好意に気付いてくれるのだろう。いっそ言ってしまおうか、お前が好きだと。
「好きですよ」

 あぁほら、お前の気まぐれの言葉で、俺は馬鹿みたいに浮かれる。お前に好かれていると、たとえそれがほんの些細なことでも喜んでしまう。

 手のひらに握った黒のカフスボタンは彼が教室に戻った頃、すっかり血に塗れていた。



***



「あれ、このカフスボタン懐かしい」
 退寮のための部屋の掃除を手伝うと言ってくれた恋人の申し出を有難く受け取ったカイルだったが、不意にクローゼットの奥から出てきた黒のカフスボタンがシェリルの手にあるのを見てカッと血が上った。
「そんなもの捨てろ!!」
 捨てようにも捨てられなかったそれが、シェリルを抱いた顔も知らぬ男の持ち物が、再びシェリルの手に触れるのは心底気分が悪かった。
 だが何も知らないシェリルは突然の大声に驚きびくりと肩を跳ねさせる。
「え…あ、ご、ごめんなさい、勝手に…」
 怯えた目をする彼にしまったと頭を押さえる。違う、こんなことで怯えさせてしまうなんて。
「…怒鳴って悪い。…貸せ」
「あ…」
 シェリルの手から奪ってダストボックスに投げれば何故だか彼は惜しそうに視線で追う。
 どこか寂しげに見えるそれに折れたのはカイルの方だった。
「…あれ、俺のじゃない」
 あのカフスボタンの持ち主を探したけれど見つからず、けれどシェリルに触れた男を野放しにしておくのにも腹が立って、絶対に見つけてやると念のために置いておいただけだ。
 押し殺すような低い声で真実を呟いた俺に、シェリルは、キョトンとした顔をして。
「あ、はい。僕のですもんね」
 あっけらかんと返されたその言葉にカイルの思考が一瞬停止する。──今こいつはなんと言った?
「…は?いや、…何を言ってるんだ?」
「えっと…だってそれ、僕が街に遊びにいった時に露店で気に入って自分で買ったやつ」
「はぁ!?お前これ、ベッドに落ちてたって!」
「あぁあれ、先輩に会いに行く口実が欲しかったのと、あわよくば嫉妬とかしてもらえないかななんて」
 思ったり、と呟いた彼は思い出したのか耳まで真っ赤にして可愛らしいことこの上ない。
 しかし、だ。
「っはああああああ!!?」
 ふざけるな。俺がどんな思いでそれを自分のものだと言ったと思うのだ。
「わっ…ご、ごめんなさい、めんどくさい真似して…」
「俺がっ…!」
 どれだけ、顔も知らぬ男に殺意を抱いていたか。
「だって先輩のこと大好きで……ごめんなさい…。…嫌いになりましたか…?」
 ちらりと上目遣いをする彼はやはり自分の可愛い角度を良く知っている。
 あぁだからか。だから、俺が受け取った時にほんの少し驚いた顔をしていたのか。俺が自分のじゃないと言うと思っていたから。
 なんとも面倒くさい遠回りをしたものだとしみじみ感じながらその場に蹲ったカイルに、シェリルは申し訳なさそうな顔で近付いてくる。
「カイル先輩…?」
 本当、馬鹿みたいだ。それでも嬉しいんだ。ずっと表面上ばかりの笑顔でいたお前が屈託なく俺に笑いかけるのが当たり前になって、そんな風に不安そうな顔も見せてくれるようになって。
「…駆け引きも計算もうまいことだな」
「わっ…!?」
 ぐいっと彼の手を引いてベッドに転がせたカイルはもう今日は片付けをする気はなくなっていた。
「荷物の整理、」
「あとででいい。嫉妬させられた分ちゃんと責任取ってもらうぞ」
「っだめ、今は汗もかいたし汚く…」
「いい」
 なんだっていいから、手を繋いで、抱きしめて、キスをさせてくれ。もう二度とお前の合意なく無茶なことはしないと約束をするから、だから、俺を愛して。
「シェリル。…愛してる」
「っ…もう…」
 何度言ったって耳まで真っ赤にして恥ずかしそうにするお前が堪らなく好きで、好きで、愛していて。
「…先輩がいなくなったら寂しくなっちゃいますね、きっと忙しくて今みたいに簡単には会えない」
 卒業するにあたって領地の管理を父から任された俺は女と結婚して子供を作る気はないと公言したにも関わらず家を勘当されることはなかった。
 たしかにしばらく忙しくなるだろうと容易に予想はできたが、それでも関係なくカイルは言った。
「毎日だって会いに来る」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない。毎日顔を見ないと俺が死んでしまう」
「ふふ、また上手いこと言って」
 本当なのに冗談だと思っているシェリルはてんで相手にしてくれない。それどころか、だ。
「浮気しちゃ駄目ですよ、泣いてしまいますからね」
 自分がどれほど俺に愛されているか分かっていないのだ。シェリルの顔によく似たシェリアに迫られた時でさえ反応しなかったのに。付き合いで行った娼館で、そんなに魅力がないのかと女に泣かれたことはもう数えきれない。
 俺が抱きたいのはお前だけだ。俺が好きなのも、愛してやまないのも。
(俺はお前が浮気したら相手を殺してしまうだろうな)
 恋人になってもまだ足りない。もっと、もっと。俺にはお前だけなんだ。お前が初恋で、お前しか知らなくて、けれどお前はそうじゃない。今までだって他に好きな男がいたんだろう?そうして新しい恋をしてきたみたいに、いつか俺を好きでなくなってしまうかもしれないんだろう?
 そんなことは許さない。俺と恋人になったあの日から、一生手放す気はない。
「リル」
 お前が卒業するまで俺はずっと会いに来る。卒業したら、一緒に住もう。
 着々と俺の中で現実となっていくだろう未来計画はまだ知らなくていい。俺の愛が重すぎることは、いつか死に間際にでも恨んでくれ。だからどうかそれまでは。
「愛してる」
「ふふ、僕も…あなたを愛してる、っん…ぁ…」
 ずっと、こうして触れさせてくれ。欲望は尽きないけれど、こうしてそばに居るだけで幸せなことも、事実なのだから。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。


処理中です...