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6 チェドラスの宿
しおりを挟む「平穏な巡礼の旅に」
キールトが持ち上げた杯に、フィンは黙って自分の杯を軽く当てる。
先に旅の汚れを落とした男二人は、アイリーネが身体を拭き終えるまで一階の居酒屋で待つことにした。
外観はずいぶん寂れた店に見えたが、中は常連客たちで程々に賑わっていて、抑え気味に話せば会話を盗み聞きされるようなことはまずなさそうだった。
「フィン、明日から僕とは別行動になるけど、できるだけ〝嫁さん〟と仲良くな」
フィンは杯を下ろし、静かに口を開く。
「……気にならないんすか」
不思議そうな顔をしたキールトに、フィンはぼそりと呟いた。
「元婚約者と他の男が二人きりで旅するなんて」
キールトはふっと微笑んだ。
「気にはなるさ。アイリは幼なじみで親友だし、きょうだいみたいな存在でもあるからな。まあ、くれぐれも無体な真似はしてくれるなよ」
フィンは苦笑いを返す。
「あの強者に、誰がそんなふうに手出しできるっていうんですか」
「――拒まれなかったら?」
「……は?」
心の内を見透かそうとでもするかのように、キールトは翠色の瞳でフィンをじっと見つめた。
「もし、アイリが許したら?」
フィンは唇をきゅっと結んだ後、笑顔を浮かべた。
「ないっす。ないない。俺、あいつには絶対に欲情しないし――」
ついとキールトの視線がフィンの背後に移る。つられてフィンが振り返ると、そこには気まずそうな顔をしたアイリーネが立っていた。
「……あ、あの、神学生さま、明日詣でる予定のチェドラス大聖堂について、いくつかお訊ねしたいことが……」
席を立ったキールトとアイリーネは壁際でひそひそと何やら言葉を交わし、すぐに戻るとフィンに告げると、連れ立って階段を上がっていった。
「――旦那、ずいぶんと寛大だねえ!」
ひとり残されたフィンに向かって、少し離れた席で仲間たちと酒を酌み交わしていた赤ら顔の中年男が、身を乗り出してからかうように声を掛けてきた。
「さっきの黒髪の別嬪さん、あんたの嫁さんだろぉ? 神学生とはいえ男と二人っきりにさせちまって、気になんねえのかい?」
◇ ◇ ◇
「――ああ、大丈夫だよ。化膿してるわけじゃない」
寝台の上に膝をついたキールトは、上掛けで腰回りを隠して目の前に座っているアイリーネの裸の背中を眺めて言った。
「服がこすれたのか、ちょっと赤くなってるとこはあるけど」
「よかった。拭いてたら少しピリッとしたから、気になって」
邪魔にならないように身体の前に持ってきた長い黒髪を押さえながら、アイリーネはホッとしたように息を吐いた。
「でも、まだ痛々しいな……」
アイリーネの白い背中に太く斜めに走った火傷痕を見ながら、キールトはいたわしげに呟く。
「あの軟膏はちゃんと塗ってるのか? 引き攣れにも効くし、痕を薄くする効能もあるんだから、欠かさず塗るんだぞ」
「うん……。手が届きにくいところはちょっと難儀するけどね」
「今夜は僕が塗ってやるから、出して」
渡された小さな陶製の瓶から軟膏をすくい、アイリーネの背中に塗り伸ばしながら、キールトは兄のような口調で言った。
「アイリ、もう無茶はしないでくれよ」
「キールトもね。慎重なようで意外と思い切ったことするから」
「いや、そっちこそ。ほら、侯爵家の楡の木のてっぺんから仔猫が下りて来られなくなったときだって――」
懐かしい昔話に花を咲かせ始めた幼なじみの二人は、背後で薄く開けられた扉の向こうにフィンが立っていたことには気がつかなかった。
◇ ◇ ◇
思い出話をしたせいか、アイリーネは当時の夢を見た。
キールトと一緒にシーン侯爵家で騎士見習いをしていたとき、主である侯爵が寒い国から一匹の仔犬を連れ帰ったことがあった。
「親からはぐれた野生の狼犬でね。なかなか懐かないんだよ」
栗色の毛に水色の瞳をしたその仔犬の世話は、アイリーネやキールトたち年少の見習いたちに任された。
グロートと名付けられた仔犬は、「かわいい~」と言って鼻先に手を出した同僚の少女に早速噛みつき、手分けして干そうとしていた洗濯物を引きずり回して泥だらけにし、誰かの靴を咥えていっては土の中に埋めた。
餌を与えようが、褒めようが、叱ろうが、一向に言うことを聞かないばかりか、言い返すかのように全力で吠え立てる始末で、アイリーネたちはしばらくの間小さな暴君に振り回される日々を過ごした。
成長するにつれ人に馴れ、修行を了えたアイリーネたちが侯爵家を離れるころにはおとなしく撫でさせてくれるまでになっていたが、グロートが心を許すきっかけになったのはおそらく雷だった。
侯爵家にグロートが来て半月ほど過ぎたころ、激しい雷雨に見舞われた晩があった。
怯えてキュウキュウと鳴くグロートを、アイリーネたちは宿舎の中に入れて、布でくるんでなだめ続けた。
「大丈夫……」
撫でながら何度もそう声を掛けているうちにグロートは落ち着き、その夜を境に徐々に人に懐いていったように思う。
アイリーネが薄く目を開けると、透き通るような水色の瞳が見えた。グロートの水色だ。
「大丈夫だよ……」
そっと抱き寄せて、栗色の頭を撫でる。
懐かしい温もりに頬をすり寄せ、ずいぶん大きく逞しくなったんだなと微笑み、でもどうして顔や身体はすべすべしているんだろう……などと思っていると――。
「なっ、何が大丈夫なんだよ」
上ずった人間の声が耳許で響き、アイリーネは覚醒した。
「え……!?」
腕の中にいたのはグロートではなくフィンだったのだと気がついた途端、アイリーネは慌てて手を離した。
「えっ、や、な、なんで……っ」
しかもフィンは半裸だ。距離を空けるようにして身を引くと、今度は背中に温かいものが触れた。
「ん……」
背後から幼なじみの声が聴こえ、ようやくアイリーネは、窮屈な寝台でフィンとキールトに挟まれて就寝したことを思い出した。
この国の大抵の男性は上衣を身に着けずに眠るので、キールトもフィンと同じように脚衣しか穿いていない。
「眩しいな……もう朝か……。おはよう」
少し身体を起こしたキールトが、不思議そうに訊ねる。
「暑いのか? 二人とも顔が真っ赤だぞ」
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