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51 もう一度
しおりを挟むフィンが病室の扉を叩こうとすると、中からルーディカの懇願が聴こえてきた。
「『姫』だなんて……。お願いですから、いつものようにお呼びください……!」
「でも確かに、王女様に敬称をつけないのはまずいよね」
アイリーネの弾んだ声も耳に届き、フィンの唇には笑みが浮かぶ。
「そんな……」
困っている恋人にキールトが助け船を出した。
「イドランの事件の顛末を陛下が公表されて、アイリがルーディカの幼なじみだってことは世に知れ渡ったんだし、その同僚のヴリアンとも元々交流があったってことで、畏まった場面以外ではそれぞれ今までどおりの呼び方でいいんじゃないか?」
ルーディカが「私もそう思いますっ」と力強く賛同すると、アイリーネは「じゃあ」と言った。
「せめてルーディカの方からは、公私問わず私のことを『様』をつけずに呼んで欲しいなあ」
「えっ」
「あ、僕のことも、ただの『ヴリアン』と」
「む……無理です」
おろおろとルーディカは断る。
「慣れたらきっと平気だよ。素性を偽って旅してたときも、〝弟〟のことはちゃんと『フィン』って呼べるようになったじゃない」
「あ……あれは、そう呼ばないとフィン様から怖い顔で睨まれるから……」
「ではその経験を活かして、まずはフィンだけでも敬称なしで呼ぶようにされてはいかがですか?」
ヴリアンの提案に、ルーディカは弱り切ったような声を上げる。
「で、できません……!」
そこで、フィンはいきなり扉を開けた。
「そうですよ。あのときみたいに呼び捨てでお願いします」
「フィン様……!?」
扉を閉めたフィンは、うろたえるルーディカに「『様』は要りませんよ、姉上」と楽しそうに言いながら、寝台の方へと歩いていった。
「リーネ、調子はどうだ」
「うん、随分いいよ。自分が療養中だって忘れてたくらい」
「そうか。良かった……」
笑顔を交わす二人の空気は、以前とは明らかに違っていた。傍で見ている者たちが「二人きりにしてあげた方がいいんじゃないか」と、少しそわそわするほどに。
「ああ、僕はもう行かないと」
折よく正午の鐘の音が聴こえてきて、ヴリアンは足許に置いてあった荷物を持ち上げた。
「アイリが元気になった姿を見られてよかったよ」
相談の結果、ヴリアンだけが先にエルトウィンに戻ることになった。
経過観察が必要なアイリーネとそれに付き添うフィン、婚約に向けた準備があるキールトは、もうしばらく王都に留まる。
「ヴリアン、もしかして馬車じゃなくて馬に乗っていくの?」
アイリーネに訊ねられ、黒い隊服姿のヴリアンは微笑む。
「一刻も早くたどり着きたいからね」
確かに、頼りになる同僚たちに代理を任せてきたとはいえ、小隊長が四人とも長らく隊を空けている状態は気がかりだ。
挨拶をしてヴリアンが立ち去ると、ルーディカが「私たちもそろそろ」とキールトを促した。
「そうだな。また来るよ」
扉の方へ歩いていく途中で、何か思い出したかのようにルーディカが振り返った。
「あの……陛下が気を揉んでおられましたよ。お二人のどちらからも、まだ『やはり結婚のお許しをいただきたい』と言われていないと」
「えっ」
アイリーネとフィンの声が重なる。
「両家のお父様がたが領地に戻られる前に許可を出したいのにと、落ち着かないご様子でした」
思わず二人は視線を合わせ、すぐにぎこちなく逸らした。
アイリーネの意識が戻ってからしばらくは眠っている時間の方が多かったし、声が出やすくなるまではなるべく喋らないようにしていたので、ずっと傍にいたとはいえ二人は込み入った話をしていなかった。
ルーディカとキールトは優しく微笑む。
「アイリ様、お大事に」
「もう派手な喧嘩はしないでくれよ」
扉が閉まると、沈黙が二人を包んだ。
「……えっと……」
寝台の傍らに置かれた椅子にフィンは腰を下ろすと、気まずそうに切り出した。
「リーネ、聞きたくない話かも知れないけど……。まず、俺がなんでおまえに騎士を辞めて欲しいなんて言っ――」
「あのっ」
アイリーネは上掛けをめくり、寝台から脚を出す。
「は?」
床に立とうとするアイリーネを見て、慌ててフィンは腰を上げる。
「ど、どうした?」
フィンはアイリーネを支えようと手を伸ばした。
「軽い散歩なんかは、明日から徐々にやるって話だっただろ?」
「大丈夫……」
やんわりとフィンを押しやると、アイリーネは寝衣のまま床に片膝をついた。
「リーネ……!?」
目を見開いて立ちすくむフィンを、アイリーネは凛々しい表情で仰ぐ。
「フィン・アーティー・マナカール」
アイリーネは片手を差し出した。
「騎士を辞めるつもりはないけど、私と結婚してください」
口を半開きにしてフィンは固まる。
「あ……」
姿勢を保つことができずにアイリーネがふらつくと、フィンはようやく我に返り、急いで抱き上げて寝床に横たえた。
はあ、と息を吐き、フィンはそのままアイリーネの肩のあたりにふわりと額をつける。
「おまえなあ……」
声が優しくて、アイリーネは嬉しそうに目を細めた。
「結婚してくれる?」
フィンは短く返事した。
「うん……」
アイリーネはそっとフィンの頭を抱きしめる。
「ごめんね。フィンが私に騎士を辞めて欲しがった理由、今なら分かるよ」
フィンはアイリーネに体重をかけないよう片肘をつき、頭を抱かれたまま聴いていた。
「私が危険な目に遭うのが辛いんだよね?」
フィンは深く息を吸い込んだ。
「……ああ」
アイリーネは、毒に侵されていたときに見た夢を振り返る。
現実ではなかったとはいえ、愛する人が傷つき倒れ、この世から去ってしまうことの恐ろしさを、アイリーネもまざまざと味わった。
「おまえのことは騎士としてもすごく尊敬してる。でも、おまえが苦しんだり、いなくなるかも知れないと思うと怖くてたまらないんだ……」
フィンの素直な告白が、胸のあたりから響いてくる。
「大火傷を負っておまえが静養してる間、何があっても護れるように強くなりたいってあがきながら、やっぱり、おまえが一番安全でいられる方法は、隊に戻らないことなんだと思った」
フィンは首を上げ、アイリーネを見た。
「でも、それは俺の勝手な考えなんだから、強制するつもりはなかったんだ。俺だっていつも危険と隣り合わせで、同じようにおまえに心配かけることになるんだし。おまえが辞めたくないんなら、俺がもっともっと強くなって護るだけだ」
アイリーネも、透きとおるような水色の瞳をじっと見つめる。
「私もたくさん精進して、自分のこともフィンのことも、しっかり護れるようになりたい……」
フィンは口許をほころばせ、アイリーネの頬を撫でた。
アイリーネが柔らかく微笑み返すと、ふいにフィンは難しい表情になり、さっと身体を起こして椅子に座り直した。
「フィン?」
「おまえが本調子じゃないのに、色々したくなってきて困る……」
視線を逸らして漏らされた呟きに、アイリーネの頬は赤く染まる。
「――俺、さっきまでカーリッジ伯爵邸に行ってたんだ」
唐突にフィンが口にしたのは、アイリーネの父親が王都に滞在するときに世話になっている、叔母の嫁ぎ先の名前だった。
「もうすぐ、ドミナン伯爵が見舞いに来るはずだぞ」
アイリーネの表情が強張る。
「父が?」
「実は、伯爵もしばらく臥せってたんだ」
「……えっ?」
「刺客とやり合ったおまえが重篤な状態になったと報されたときに倒れて、それからずっと寝込んでて……」
アイリーネはぽかんと口を開けた。
「カーリッジ伯夫人によると、おまえが一命を取りとめたって聞いてからは随分良くなったんだそうだ。俺がおまえの回復ぶりを報告したら、さらに気力が湧いてきたようだったな」
戸惑いながらアイリーネは瞬きを繰り返す。あの父がアイリーネの身を案じて具合が悪くなるなど、想像すらしたことがなかった。
「おまえをこんな危ない目に遭わせたくないから、騎士を諦めさせたかったらしいぞ」
「……うそ……」
フィンは苦笑いを浮かべる。
「不器用だよなあ。おまえの母上が最後に身ごもったときに体調を崩して、様々な危険性について伯爵も医者から説明を受けたんだそうだ。そしたら、いつか母になるであろうおまえに荒っぽいことをさせるのが急に恐ろしくなって、それからはずっと危険から遠ざけたくて堪らなかったらしい」
「……そ、そんなこと」
アイリーネは怒りを含んだ声を出した。
「今さら言われても信じられない。いつまでも一人前の騎士として認めてくれなくて、淑女のようにふるまおうとしてもダメ出しばかりされて。私、そう簡単にはお父様のことを……」
「別にそれでいいんじゃねえか」
「えっ」
「許したり許せなかったり、大事に思ったり腹が立ったり、厄介なことも多いけど、家族なんてそんなもんだろ?」
フィンは口を尖らせる。
「俺だって、九割九分はクロナンのこと許してねーし」
アイリーネはしばらく黙ると、フィンの言葉が何となく腑に落ちたのか、ふっと表情を和らげた。
「――ねえ、九割九分ってことは、残りの一分は?」
「あ? まあ、ムカつくけど奴には借りがあるからな」
「借り?」
フィンは不愉快そうに鼻の付け根に皺を寄せる。
「あいつと同じ修行先で騎士見習いをしてたとき、見境がつかなくなった同僚に何度か押し倒されそうになったことがあったんだ。そのたびにクロナンが偶然通りがかって、そいつの気が削げて事なきを得た」
「えぇ……」
「クロナンのやつ、『おや、何事かと思ったら』ってひょっこり首を突っ込んでくる小芝居が、いつも同じなんだよなあ」
様子が浮かんだアイリーネは吹き出す。
「それは、確かに借りがあるね」
「あいつにやられた酷い仕打ちに比べたら、ほんのちょっとだけどな」
屈託なく笑い続けるアイリーネにつられたように頬を緩め、フィンは手を伸ばしてアイリーネの髪を大切そうに撫でた。
「――婚約の件、進めてもらっていいな?」
ずっと触れていて欲しいと思いながら、アイリーネは頷いた。
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