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それはまだ序章にすぎない
第五話
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「で、誰?」
「え…っと、天勝勇人ってやつ。天勝家は兄さんも知ってるだろ? 」
いつもより数段低いその声に、思わず背筋が跳ね上がった。……もしかして、怒ってる?
『𝔠𝔬𝔪𝔢』
俺より淡い紫が細められた瞬間、書斎机から大量の紙が巻き上がった。あまりの光景に目を見開く。こんな大掛かりな魔術は見たことがなかった。
恐らく書類であろうそれは、空中でくるくると渦を巻き、数枚だけを残して再び引き出しへと戻っていく。まるでイワシの大群みたいだ。
兄さんは落ちてきた紙を荒々しく掴むと、ざっと目を通した後に容赦なく破り捨てた。舌を打つような音が聞こえたような気もするけれど、兄さんは舌打ちなんて真似はしないから、きっと俺の幻聴だろう。うん、幻聴だ。
柔らかなラグに、白い破片が散らばっていく。あの書類が何だったのかはわからないけど、普段は優しい兄さんの意外な一面に、俺は心底怯えきっていた。
──なにあれ、なにあれ、めちゃくちゃ怖いんだけど!?馬鹿高い壺を割った時も、会合を勝手に抜け出して誘拐騒ぎになったときも、オーダーメイドのスーツに紅茶を溢してしまった時も、いつだって笑顔で許してくれた兄さんが…………いやこれ、本当に同一人物か?
動揺する頭で爺の方に目をやると、俺と同じく固まっていた。いやわかる、そうなるよな。心の中で首がもげるほど頷きながら、そっと目線を兄さんに戻す。
これ以上怒らせてはいけないと、俺の中の警鐘が鳴り響いていた。
「みつ……」
「はい!」
その声はいつも通り優しかったけれど、つい反射で軍隊のような返事をしてしまう。それほどまでに、今の兄さんは恐ろしかった。
普段優しい人は怒ると怖い。よく聞く話ではあるけど、人伝に聞くのと実際に見るのとでは、まさしく雲泥の差であった。
「ふふっ、なんで敬語なの」
「や……その、なんとなく?」
「転校しようか」
転校。
あまりにも簡潔で重大な二文字、平仮名でいえば四文字。文脈を思いっきりぶった斬り、明日の天気でも聞くような気軽さで投げ渡されたそれは、とても俺の頭では処理できなかった。
は……、え、?
真っ先に冗談という文字が頭に浮かんだけど、大前提として、兄さんは滅多に冗談を言わない。こんな重大な話なら尚更である。じゃあ本気……と考えかけて、いやいやまさかと首を振る。だって、俺が通っている学校は、転校なんてそう易々と口に出せるところじゃない。
『私立御伽学園』
表向き、歴史のある名門校だと名乗ってはいるが、馬鹿高い学費と寄付金のせいで、大半の人間は門前払い。それに託つけて政界や財界の重鎮たちが子弟を放り込み、いつしか金と人脈づくりの温床になっていった。
まぁざっくり言ってしまえば、キャラと自己主張が強すぎる生徒たちによる潰し合い――蠱毒である。
賄賂に密告、謀略、計略、私刑に虐めと何でも御座れ。学校側はむしろこれを推奨していて、精神を病もうが自殺しようが、対処できなかった当人が悪いという認識なのだ。そもそも、こんな治安の悪い学園に入れるなよって話なんだけど、そこはもう代々の慣例である。
朔魔家も先祖代々この学校の出身で、兄さんは順当に大学まで進んでいる。転校なんてしたら、それこそ一族の笑い者だ。兄さんは、それを知ってるはずなのに。
「その…冗談、だよな……?」
「ああ、ごめん。まずは転入先を決めるのが先だったね。どこか希望はある?」
「ちょっと待って、俺は別に転校したいわけじゃ――」
バンッッ!!
どこからか激しい音がして、思わずびくりと肩を揺らす。すっかり汗をかいたグラスの中で、琥珀色の液体が元気に飛び跳ねていた。呆然と目を瞬いて、ようやく状況を理解する。あれは、兄さんが机を叩いた音だったのか。
「星黎様、どうかそのあたりで……」
「じいや、席を外してくれるかな」
待って、行かないでくれ。縋るような目で見つめながらも、爺は所詮使用人で、次期当主である兄さんに逆らえないことは知っていた。それが主従関係というもので、爺は何一つ悪くない。悪く、ないんだけど……
扉が音もなく閉まり、正真正銘、部屋の中には俺と兄さんしかいなくなってしまった。
とてつもない圧迫感に、冷や汗が止まらない。同じ血が流れてはいても、光と兄とでは生物としての出来があまりにも違った。
……兄さんのことを怖いと思う日が来るなんて。膝の上で握りしめた手をただじっと見つめ、浅い呼吸を繰り返す。さながら、蛇に睨まれた蛙の気分だ。
数分か、はたまた数十分か、永遠とも思えるような時間が過ぎた後、ようやく兄さんが口を開いた。
「みつる」
本名で呼ばれたのは、恐らく今日が初めてだ。気を抜けば飛び出してしまいそうな心臓を抑え、乾ききった口内から僅かな声を絞り出す。
「は、い」
「みつるが私に意見したのは、今のが初めてだね」
初めてに次ぐ初めて。……つまり今日は、初めて記念日なんじゃないか? 一周回って馬鹿なことを考えつつも、俺の脳内では、兄さんの機嫌を損ねない返答が高速でシュミレーションされ続けていた。
そもそも発言の意図がわからない。意見したのは初めてだよね? という事実確認なのか、はたまた兄さんに楯突いた俺を遠回しに叱っているのか。――多分、この場合は後者だろう。
とりあえず、否定から入るのは絶対に駄目だ。兄さんに口喧嘩で勝てるわけがないし、下手をすれば火に油を注ぐ結果になりかねない。
けれど、ただ愚直に肯定すれば良いという話でもなかった。……だって俺は、転校なんてしたくない。
つまり、だ。今の状況で一番望ましいのは、意見したことをまろやかに肯定しつつも、兄さんを立てるような返答――というわけで、正解はこれだ!!
「兄さん、心配してくれてありがとう。で、でもさ…! もう天勝も諦めたみたいだし、一人だけどようやく友達も出来たんだ。あいつなんかのために転校するのは……ほら、なんか癪だし……」
最後の方は尻切れとんぼになってしまったし、そもそも顔を上げてすらいないけど、最低限のことは言い切れたと思う。上目遣いでチラチラと様子を伺うと、兄さんは考え込んでいるように見えた。これは……行けたんじゃないか!?
「友達……へぇ、それは聞いてないなぁ」
そんな喜びに水を差すかのように、再び冷ややかな声が響き渡る。選択を間違ったと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「もっと詳しく、教えてくれる?」
あれ、リセットボタンってどこだろう。
「え…っと、天勝勇人ってやつ。天勝家は兄さんも知ってるだろ? 」
いつもより数段低いその声に、思わず背筋が跳ね上がった。……もしかして、怒ってる?
『𝔠𝔬𝔪𝔢』
俺より淡い紫が細められた瞬間、書斎机から大量の紙が巻き上がった。あまりの光景に目を見開く。こんな大掛かりな魔術は見たことがなかった。
恐らく書類であろうそれは、空中でくるくると渦を巻き、数枚だけを残して再び引き出しへと戻っていく。まるでイワシの大群みたいだ。
兄さんは落ちてきた紙を荒々しく掴むと、ざっと目を通した後に容赦なく破り捨てた。舌を打つような音が聞こえたような気もするけれど、兄さんは舌打ちなんて真似はしないから、きっと俺の幻聴だろう。うん、幻聴だ。
柔らかなラグに、白い破片が散らばっていく。あの書類が何だったのかはわからないけど、普段は優しい兄さんの意外な一面に、俺は心底怯えきっていた。
──なにあれ、なにあれ、めちゃくちゃ怖いんだけど!?馬鹿高い壺を割った時も、会合を勝手に抜け出して誘拐騒ぎになったときも、オーダーメイドのスーツに紅茶を溢してしまった時も、いつだって笑顔で許してくれた兄さんが…………いやこれ、本当に同一人物か?
動揺する頭で爺の方に目をやると、俺と同じく固まっていた。いやわかる、そうなるよな。心の中で首がもげるほど頷きながら、そっと目線を兄さんに戻す。
これ以上怒らせてはいけないと、俺の中の警鐘が鳴り響いていた。
「みつ……」
「はい!」
その声はいつも通り優しかったけれど、つい反射で軍隊のような返事をしてしまう。それほどまでに、今の兄さんは恐ろしかった。
普段優しい人は怒ると怖い。よく聞く話ではあるけど、人伝に聞くのと実際に見るのとでは、まさしく雲泥の差であった。
「ふふっ、なんで敬語なの」
「や……その、なんとなく?」
「転校しようか」
転校。
あまりにも簡潔で重大な二文字、平仮名でいえば四文字。文脈を思いっきりぶった斬り、明日の天気でも聞くような気軽さで投げ渡されたそれは、とても俺の頭では処理できなかった。
は……、え、?
真っ先に冗談という文字が頭に浮かんだけど、大前提として、兄さんは滅多に冗談を言わない。こんな重大な話なら尚更である。じゃあ本気……と考えかけて、いやいやまさかと首を振る。だって、俺が通っている学校は、転校なんてそう易々と口に出せるところじゃない。
『私立御伽学園』
表向き、歴史のある名門校だと名乗ってはいるが、馬鹿高い学費と寄付金のせいで、大半の人間は門前払い。それに託つけて政界や財界の重鎮たちが子弟を放り込み、いつしか金と人脈づくりの温床になっていった。
まぁざっくり言ってしまえば、キャラと自己主張が強すぎる生徒たちによる潰し合い――蠱毒である。
賄賂に密告、謀略、計略、私刑に虐めと何でも御座れ。学校側はむしろこれを推奨していて、精神を病もうが自殺しようが、対処できなかった当人が悪いという認識なのだ。そもそも、こんな治安の悪い学園に入れるなよって話なんだけど、そこはもう代々の慣例である。
朔魔家も先祖代々この学校の出身で、兄さんは順当に大学まで進んでいる。転校なんてしたら、それこそ一族の笑い者だ。兄さんは、それを知ってるはずなのに。
「その…冗談、だよな……?」
「ああ、ごめん。まずは転入先を決めるのが先だったね。どこか希望はある?」
「ちょっと待って、俺は別に転校したいわけじゃ――」
バンッッ!!
どこからか激しい音がして、思わずびくりと肩を揺らす。すっかり汗をかいたグラスの中で、琥珀色の液体が元気に飛び跳ねていた。呆然と目を瞬いて、ようやく状況を理解する。あれは、兄さんが机を叩いた音だったのか。
「星黎様、どうかそのあたりで……」
「じいや、席を外してくれるかな」
待って、行かないでくれ。縋るような目で見つめながらも、爺は所詮使用人で、次期当主である兄さんに逆らえないことは知っていた。それが主従関係というもので、爺は何一つ悪くない。悪く、ないんだけど……
扉が音もなく閉まり、正真正銘、部屋の中には俺と兄さんしかいなくなってしまった。
とてつもない圧迫感に、冷や汗が止まらない。同じ血が流れてはいても、光と兄とでは生物としての出来があまりにも違った。
……兄さんのことを怖いと思う日が来るなんて。膝の上で握りしめた手をただじっと見つめ、浅い呼吸を繰り返す。さながら、蛇に睨まれた蛙の気分だ。
数分か、はたまた数十分か、永遠とも思えるような時間が過ぎた後、ようやく兄さんが口を開いた。
「みつる」
本名で呼ばれたのは、恐らく今日が初めてだ。気を抜けば飛び出してしまいそうな心臓を抑え、乾ききった口内から僅かな声を絞り出す。
「は、い」
「みつるが私に意見したのは、今のが初めてだね」
初めてに次ぐ初めて。……つまり今日は、初めて記念日なんじゃないか? 一周回って馬鹿なことを考えつつも、俺の脳内では、兄さんの機嫌を損ねない返答が高速でシュミレーションされ続けていた。
そもそも発言の意図がわからない。意見したのは初めてだよね? という事実確認なのか、はたまた兄さんに楯突いた俺を遠回しに叱っているのか。――多分、この場合は後者だろう。
とりあえず、否定から入るのは絶対に駄目だ。兄さんに口喧嘩で勝てるわけがないし、下手をすれば火に油を注ぐ結果になりかねない。
けれど、ただ愚直に肯定すれば良いという話でもなかった。……だって俺は、転校なんてしたくない。
つまり、だ。今の状況で一番望ましいのは、意見したことをまろやかに肯定しつつも、兄さんを立てるような返答――というわけで、正解はこれだ!!
「兄さん、心配してくれてありがとう。で、でもさ…! もう天勝も諦めたみたいだし、一人だけどようやく友達も出来たんだ。あいつなんかのために転校するのは……ほら、なんか癪だし……」
最後の方は尻切れとんぼになってしまったし、そもそも顔を上げてすらいないけど、最低限のことは言い切れたと思う。上目遣いでチラチラと様子を伺うと、兄さんは考え込んでいるように見えた。これは……行けたんじゃないか!?
「友達……へぇ、それは聞いてないなぁ」
そんな喜びに水を差すかのように、再び冷ややかな声が響き渡る。選択を間違ったと気づくのに、そう時間はかからなかった。
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あれ、リセットボタンってどこだろう。
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