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第4話 陽だまりの少女、彼女がくれた言葉
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透き通るような青空の下、正月気分もすっかり過去のものとなってしまった一月末のとある朝。
僕は急遽学校を休み、某大手の出版社の前に来ていた。
昨夜父さんからの電話があった後、家に帰った僕を待っていたのは、大喜びで出迎える両親と怒り心頭に震える僕の担当者、緋崎 美紗さんだった。
どうやらあの日、葵と一悶着あった時に、緋崎さんは何度も僕に連絡してくれていたらしく、それに気づかないままだった僕に痺れを切らし実家まで凸撃したとの事だった。
そして今回ここに来る事になったのは、その緋崎さんからの話で波木賞受賞に関する事だ。
本来なら記者会見など大々的にやるものだが、生憎とまだ未成年のため、公の場での記者会見は断る事になった。
ただし最年少という記録的なものもあり、何もしないわけにはいかないと、予め用意された一部記者用の質問に答える形で、各紙掲載となる事に。
しかし、緋崎さんから聞いた話はそれだけではなかったのだ。
むしろここからが本番と言える内容だった。
なんと僕の作品、二人と一人、が映画化する運びとなったのだ。
いきなりの急展開に僕も両親も目を白黒させながら緋崎さんの話を聞いていたが、やはり余りの事の重大性に今一現実味が湧かず、急遽ここ出版社の一室を借りて関係者を交えた会談を行う事になったのだ。
「よし……」
覚悟を決めた僕は、前もって用意してもらっていた入館カードを守衛さんに見せ、中に入った。受付を通り、待ち合わせている応接室のある場所へと向かう。
エレベーターに乗り、十階のボタンを押すとドアがゆっくりと閉まり、足元がガクンと揺れ、動き始めた。
上昇していくエレベーターの中、緊張のせいか額に浮かんだ冷や汗をハンカチで拭う。
階層の数字が次々と切り替わるのを見つめながら、大きく息を吐いた。
緋崎さんの話だけではうまく想像できなかったけど、ここまでくるとより一層昨夜の出来事が現実味を帯びてくる。
夢じゃないんだ……。
波木賞受賞、そして賞を取った僕の作品が映画化。
大切なものを一瞬で全て失い、それ故に叶った僕の夢が形となる。
そう思った瞬間、不意に頭の中に雅と葵の姿が浮かんだ。思わず胸がキュッと締め付けられる。
余計な考えを振り払うように頭を振ると、チンという音が響きドアがゆっくりと開いた。
エレベートを降り、案内された内容を思い出しながらしばらく歩くと、やがて扉の前に応接間と書かれたプレートを見つけ立ち止まった。
腕時計を確認する、約束の時間にはまだ少し早い。
辺りをキョロキョロ見回すと、廊下にある長椅子を見つけた。
丁度いい、ここに座って時間まで待っていよう。
そう思い椅子に腰かけようとした時だった。
「あ、隣いいですか?」
凛とした涼やかな女性の声。
「え?」
思わず声の方に振り向くと、そこには一目で分かるほど美しい少女が一人、花が咲いたように微笑んでいた。
少女が不思議そうに小首を傾げこちらを見ている。
「あ、どどど、どうぞ!」
僕はハッとし慌ててスペースを作り席へと促した。
「ふふふ、どが三つも、ありがとうございます」
そう言ってからかうように涼やかに笑う少女は、絹のような美しく長い黒髪を手で掻き上げ、淡く甘い匂いを漂わせながら、ふわりと僕の横に腰かけた。
彫像の様な端正な顔立ちの美少女、だがどことなくその面影に幼さも感じる。
同い年だろうか?それにどこか見覚えのある顔……。
「あ、もしかして貴方も関係者さんですか?」
「え、ぼ、僕は――うわっ!」
突然少女がこちらに向き直り聞いてきたので、驚いた拍子に思わず椅子から落ちそうになった。
「きゃっ大丈夫!?」
ブルーサファイアの大きな瞳が見開き、僕を心配そうに見つめてくる。
「は、はは、だ、大丈夫です」
苦笑しつつ体制を戻し椅子に座りなおす。
雅や葵で見慣れていたと思っていたが、ここまで綺麗な子となるとそうはいかない。
ましてや相手は初対面。
元々コミュ障で陰キャとなるとそのハードルは更に高くなる。
「一応無関係ではないんですが、関係者ってほどじゃ……あ、貴女は?」
僕は何とか間を繋がせようと必死に聞き返した。
「あ、私、香坂 真凛って言います、貴方は?」
香坂 真凛……え?香坂?真凛!?
なるほど、どうりで見覚えがあったはず。
引き籠りの僕でもその名前はよく知っている。
確か三年前くらいに突如デビューした女優で、新人とは思えない演技力で、数々のドラマや映画にも出演している子だ。
年齢は僕と同い年で、学業と女優を掛け持ちしながら頑張っている彼女の姿には、老若男女問わず多くの人々が魅了されている。
もちろん僕もその一人で、彼女が主演を務める大好きな映画、御伽の国の少女は何度も見直してしまい、台詞すら覚えてしまった程だ。
「すみません、名乗るのが遅くなりました、ぼ、僕は相沢 啓って言います……」
「はじめ……ふふ、私の大好きな人と同じ名前」
「え?」
思わずドキリとしてしまった。
こんなの不意打ち過ぎる。
「蘭学事啓先生って知ってます?波木賞受賞した小説家で、ファンの間でははじめ先生って呼ばれてるんですけど、私あの人の大ファンなんです」
はじめ先生、確かに緋崎さんからもそう呼ばれている、まさか僕が知らないだけでその呼び名がファンの共通認識だったとは……え?いや待って、ファン?あの香坂 真凛が僕の?いやいやいやいや!
「急にこんな話するのも変なんですけど、私一応女優やってて、だけど一度この仕事辞めようか迷っていた時期があったんです」
「じょ、女優ですか……何でまた辞めようと?」
突然何を言い出すかと思えば、香坂 真凛が女優を辞める?
そんな事になったらファンの間で暴動が起きるんじゃないか?いや、それにしてもこんなに大成功を収めている彼女がなぜ女優を?
香坂さんが僕の問いに、小さく苦笑しながら頷き口を開く。
「この業界って色々あるんですよ、私なんかまだまだ子供で周りは大人ばかり、そんなに要領よくないんです私、だから人一倍頑張らなきゃって思って努力しているんですけど、酷い事言われたり嫌な思いしたりで、だんだんと自信なくしちゃって……でも、そんな時にはじめ先生の作品に出合えたんです」
「二人と一人、ですか……?」
どこかこそばゆい思いをしつつ尋ねる。
「はい!うちの社長に進められて読んだんですけど、もうすっっっっっっっごく面白くて!読み終わった時には泣きはらしたせいで目が腫れあがっちゃってて、その日の撮影中止になっちゃったくらいなんですよ」
「はは、それは大変でしたね」
「はい。でもそれぐらい読んでて感動できたんです。今まで映画やドラマの関係でたくさん本を読んできたんですけど、あれほど心が動かされた作品はありませんでした、そんな時に社長から、もしかしたらこの作品が映画化するかもしれないっていう話を聞いたんです、そしたらもう女優を辞めるとか、そんなの頭の中から一瞬で消し飛んじゃってて、私はこの映画に出るために女優になったんだって、そう思えるくらい運命を感じたんです!」
香坂さんはそうハッキリ言いきりながら、両の手でガッツポーズを取って見せた
「運命……ですか」
まさか僕の作品がここまで他人の人生に影響を与えていただなんて。
これまで雅や葵のために書き続けてきたから、他の誰かが僕の作品を読んでどう思ったのか、何を感じたのかなんて知ろうともしなかった。
ふと、昨日雅や葵から言われた言葉が脳裏を過る。
――一人で殻に閉じこもって。
独りよがり、か……。
何も考えず、ただ二人の事だけを考えて書いてきた。
約束を果たすため、だから二人と距離が離れても今は仕方がない、だが果たしてそれは二人にとって良い事だったのか……。
もっと他に、伝えることがたくさんあったのでは?
そう、僕は自分の事で精いっぱいで、周りが見えていなかったんだ。
歳を追うごとに綺麗になっていく幼馴染たち。
反面、コミュ障で陰キャな僕は、クラスでもどこか浮いていて、あの二人と比べて釣り合いが取れない事を常に悲観していた。
教室の片隅で小説を書いている時、自然と耳に入ってくる二人の噂話。
聞きたくない、煩わずらわしいとわざと聞かない振りをして周りを遠ざけた。
これさえあれば、これを書き上げれば、そう自分自身に言い聞かせ、現実を見ずに書き続けたんだ。
「はい運命です!って、初対面の人に何こんなに熱く語ってるんだろ、あはは、今日という日が待ち遠しくて、なんか朝からテンションおかしいんですよね私。その、相沢さんも映画の関係でここに来てるんですよね?って……ど、どうしまた?どこか具合でも!?」
「へ?」
突然慌てふためく彼女に一瞬何事かと思ったが、その答えは直ぐに分かった。
頬を伝う熱を帯びた雫が、自分の意思とは関係なく僕の目から流れ落ちていたのだ。
だが次の瞬間、僕の視界に向日葵模様の布が飛び込んできて、濡れた僕の頬を優しく包んでくれていた。
「大丈夫……ですか?」
香坂さんが心配そうな表情を浮かべこちらを覗き込み、ハンカチで僕の目元を拭ってくれている。
その優しさが今の僕には温か過ぎて、必死に止めようとする涙が更に溢れ返る。
「あら、はじめ先生……え?何?ど、どうしたんですか?」
聞きなじみのある声に反射的に顔を上げた。
二十代中ほどの大人の女性、ミディアムロングヘアをバレッタで一つまとめにし、いかにもキャリアウーマンといった感じのスーツ姿、緋崎さんだ。
普段はキリッとした顔立ちだが、今は僕の様子を見て困惑している。
「はじめ……先、生?」
香坂さんが手に持っていたハンカチが、滑るようにハラリと床に落ちた。
「きゅうぅぅぅ」
突然意味不明な擬音を発しながら香坂さんの体が大きく揺らいだ。
それを見ていた緋崎さんが慌てて彼女の体を支える。
「な、何?なんなのこの状況!?」
「あ、いや、これは何というかそのつまり――」
僕は喚き混乱する緋崎さんを何とか宥めようと、必死に身振り手振り伝えようとする、が考えがまとまらない。
僕の前で目を回す香坂さん、それを必死に抱き支える緋崎さん、ここに来て前途多難、一体どこからどう説明すればいいのやら……。
僕は急遽学校を休み、某大手の出版社の前に来ていた。
昨夜父さんからの電話があった後、家に帰った僕を待っていたのは、大喜びで出迎える両親と怒り心頭に震える僕の担当者、緋崎 美紗さんだった。
どうやらあの日、葵と一悶着あった時に、緋崎さんは何度も僕に連絡してくれていたらしく、それに気づかないままだった僕に痺れを切らし実家まで凸撃したとの事だった。
そして今回ここに来る事になったのは、その緋崎さんからの話で波木賞受賞に関する事だ。
本来なら記者会見など大々的にやるものだが、生憎とまだ未成年のため、公の場での記者会見は断る事になった。
ただし最年少という記録的なものもあり、何もしないわけにはいかないと、予め用意された一部記者用の質問に答える形で、各紙掲載となる事に。
しかし、緋崎さんから聞いた話はそれだけではなかったのだ。
むしろここからが本番と言える内容だった。
なんと僕の作品、二人と一人、が映画化する運びとなったのだ。
いきなりの急展開に僕も両親も目を白黒させながら緋崎さんの話を聞いていたが、やはり余りの事の重大性に今一現実味が湧かず、急遽ここ出版社の一室を借りて関係者を交えた会談を行う事になったのだ。
「よし……」
覚悟を決めた僕は、前もって用意してもらっていた入館カードを守衛さんに見せ、中に入った。受付を通り、待ち合わせている応接室のある場所へと向かう。
エレベーターに乗り、十階のボタンを押すとドアがゆっくりと閉まり、足元がガクンと揺れ、動き始めた。
上昇していくエレベーターの中、緊張のせいか額に浮かんだ冷や汗をハンカチで拭う。
階層の数字が次々と切り替わるのを見つめながら、大きく息を吐いた。
緋崎さんの話だけではうまく想像できなかったけど、ここまでくるとより一層昨夜の出来事が現実味を帯びてくる。
夢じゃないんだ……。
波木賞受賞、そして賞を取った僕の作品が映画化。
大切なものを一瞬で全て失い、それ故に叶った僕の夢が形となる。
そう思った瞬間、不意に頭の中に雅と葵の姿が浮かんだ。思わず胸がキュッと締め付けられる。
余計な考えを振り払うように頭を振ると、チンという音が響きドアがゆっくりと開いた。
エレベートを降り、案内された内容を思い出しながらしばらく歩くと、やがて扉の前に応接間と書かれたプレートを見つけ立ち止まった。
腕時計を確認する、約束の時間にはまだ少し早い。
辺りをキョロキョロ見回すと、廊下にある長椅子を見つけた。
丁度いい、ここに座って時間まで待っていよう。
そう思い椅子に腰かけようとした時だった。
「あ、隣いいですか?」
凛とした涼やかな女性の声。
「え?」
思わず声の方に振り向くと、そこには一目で分かるほど美しい少女が一人、花が咲いたように微笑んでいた。
少女が不思議そうに小首を傾げこちらを見ている。
「あ、どどど、どうぞ!」
僕はハッとし慌ててスペースを作り席へと促した。
「ふふふ、どが三つも、ありがとうございます」
そう言ってからかうように涼やかに笑う少女は、絹のような美しく長い黒髪を手で掻き上げ、淡く甘い匂いを漂わせながら、ふわりと僕の横に腰かけた。
彫像の様な端正な顔立ちの美少女、だがどことなくその面影に幼さも感じる。
同い年だろうか?それにどこか見覚えのある顔……。
「あ、もしかして貴方も関係者さんですか?」
「え、ぼ、僕は――うわっ!」
突然少女がこちらに向き直り聞いてきたので、驚いた拍子に思わず椅子から落ちそうになった。
「きゃっ大丈夫!?」
ブルーサファイアの大きな瞳が見開き、僕を心配そうに見つめてくる。
「は、はは、だ、大丈夫です」
苦笑しつつ体制を戻し椅子に座りなおす。
雅や葵で見慣れていたと思っていたが、ここまで綺麗な子となるとそうはいかない。
ましてや相手は初対面。
元々コミュ障で陰キャとなるとそのハードルは更に高くなる。
「一応無関係ではないんですが、関係者ってほどじゃ……あ、貴女は?」
僕は何とか間を繋がせようと必死に聞き返した。
「あ、私、香坂 真凛って言います、貴方は?」
香坂 真凛……え?香坂?真凛!?
なるほど、どうりで見覚えがあったはず。
引き籠りの僕でもその名前はよく知っている。
確か三年前くらいに突如デビューした女優で、新人とは思えない演技力で、数々のドラマや映画にも出演している子だ。
年齢は僕と同い年で、学業と女優を掛け持ちしながら頑張っている彼女の姿には、老若男女問わず多くの人々が魅了されている。
もちろん僕もその一人で、彼女が主演を務める大好きな映画、御伽の国の少女は何度も見直してしまい、台詞すら覚えてしまった程だ。
「すみません、名乗るのが遅くなりました、ぼ、僕は相沢 啓って言います……」
「はじめ……ふふ、私の大好きな人と同じ名前」
「え?」
思わずドキリとしてしまった。
こんなの不意打ち過ぎる。
「蘭学事啓先生って知ってます?波木賞受賞した小説家で、ファンの間でははじめ先生って呼ばれてるんですけど、私あの人の大ファンなんです」
はじめ先生、確かに緋崎さんからもそう呼ばれている、まさか僕が知らないだけでその呼び名がファンの共通認識だったとは……え?いや待って、ファン?あの香坂 真凛が僕の?いやいやいやいや!
「急にこんな話するのも変なんですけど、私一応女優やってて、だけど一度この仕事辞めようか迷っていた時期があったんです」
「じょ、女優ですか……何でまた辞めようと?」
突然何を言い出すかと思えば、香坂 真凛が女優を辞める?
そんな事になったらファンの間で暴動が起きるんじゃないか?いや、それにしてもこんなに大成功を収めている彼女がなぜ女優を?
香坂さんが僕の問いに、小さく苦笑しながら頷き口を開く。
「この業界って色々あるんですよ、私なんかまだまだ子供で周りは大人ばかり、そんなに要領よくないんです私、だから人一倍頑張らなきゃって思って努力しているんですけど、酷い事言われたり嫌な思いしたりで、だんだんと自信なくしちゃって……でも、そんな時にはじめ先生の作品に出合えたんです」
「二人と一人、ですか……?」
どこかこそばゆい思いをしつつ尋ねる。
「はい!うちの社長に進められて読んだんですけど、もうすっっっっっっっごく面白くて!読み終わった時には泣きはらしたせいで目が腫れあがっちゃってて、その日の撮影中止になっちゃったくらいなんですよ」
「はは、それは大変でしたね」
「はい。でもそれぐらい読んでて感動できたんです。今まで映画やドラマの関係でたくさん本を読んできたんですけど、あれほど心が動かされた作品はありませんでした、そんな時に社長から、もしかしたらこの作品が映画化するかもしれないっていう話を聞いたんです、そしたらもう女優を辞めるとか、そんなの頭の中から一瞬で消し飛んじゃってて、私はこの映画に出るために女優になったんだって、そう思えるくらい運命を感じたんです!」
香坂さんはそうハッキリ言いきりながら、両の手でガッツポーズを取って見せた
「運命……ですか」
まさか僕の作品がここまで他人の人生に影響を与えていただなんて。
これまで雅や葵のために書き続けてきたから、他の誰かが僕の作品を読んでどう思ったのか、何を感じたのかなんて知ろうともしなかった。
ふと、昨日雅や葵から言われた言葉が脳裏を過る。
――一人で殻に閉じこもって。
独りよがり、か……。
何も考えず、ただ二人の事だけを考えて書いてきた。
約束を果たすため、だから二人と距離が離れても今は仕方がない、だが果たしてそれは二人にとって良い事だったのか……。
もっと他に、伝えることがたくさんあったのでは?
そう、僕は自分の事で精いっぱいで、周りが見えていなかったんだ。
歳を追うごとに綺麗になっていく幼馴染たち。
反面、コミュ障で陰キャな僕は、クラスでもどこか浮いていて、あの二人と比べて釣り合いが取れない事を常に悲観していた。
教室の片隅で小説を書いている時、自然と耳に入ってくる二人の噂話。
聞きたくない、煩わずらわしいとわざと聞かない振りをして周りを遠ざけた。
これさえあれば、これを書き上げれば、そう自分自身に言い聞かせ、現実を見ずに書き続けたんだ。
「はい運命です!って、初対面の人に何こんなに熱く語ってるんだろ、あはは、今日という日が待ち遠しくて、なんか朝からテンションおかしいんですよね私。その、相沢さんも映画の関係でここに来てるんですよね?って……ど、どうしまた?どこか具合でも!?」
「へ?」
突然慌てふためく彼女に一瞬何事かと思ったが、その答えは直ぐに分かった。
頬を伝う熱を帯びた雫が、自分の意思とは関係なく僕の目から流れ落ちていたのだ。
だが次の瞬間、僕の視界に向日葵模様の布が飛び込んできて、濡れた僕の頬を優しく包んでくれていた。
「大丈夫……ですか?」
香坂さんが心配そうな表情を浮かべこちらを覗き込み、ハンカチで僕の目元を拭ってくれている。
その優しさが今の僕には温か過ぎて、必死に止めようとする涙が更に溢れ返る。
「あら、はじめ先生……え?何?ど、どうしたんですか?」
聞きなじみのある声に反射的に顔を上げた。
二十代中ほどの大人の女性、ミディアムロングヘアをバレッタで一つまとめにし、いかにもキャリアウーマンといった感じのスーツ姿、緋崎さんだ。
普段はキリッとした顔立ちだが、今は僕の様子を見て困惑している。
「はじめ……先、生?」
香坂さんが手に持っていたハンカチが、滑るようにハラリと床に落ちた。
「きゅうぅぅぅ」
突然意味不明な擬音を発しながら香坂さんの体が大きく揺らいだ。
それを見ていた緋崎さんが慌てて彼女の体を支える。
「な、何?なんなのこの状況!?」
「あ、いや、これは何というかそのつまり――」
僕は喚き混乱する緋崎さんを何とか宥めようと、必死に身振り手振り伝えようとする、が考えがまとまらない。
僕の前で目を回す香坂さん、それを必死に抱き支える緋崎さん、ここに来て前途多難、一体どこからどう説明すればいいのやら……。
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