大切な人達を全て奪われたけど、夢が叶ったので過去は振り返らず前に進もうと思います

アイスノ人

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第37話 堕ちる序章

 薄暗く湿った空気が漂う路地裏を小夏が歩いていた。

夜の帳が降り、ちらつく街灯の光が頼りない。道の端には、いかにも胡散臭い男たちが立ち並び、低い声で甘い誘いを投げかけるが、小夏は無視して歩を進めた。

路地の奥に進むにつれ、ざわめきが遠ざかり、不穏な静けさが広がる。

やがて、目の前に目的地が現れた。

『カラオケ店 Ada』

小汚いネオン看板が、バチバチと不安定に点滅していた。

どうやら中の電池が切れかけているらしい。

小夏はその場に立ち尽くし、深いため息をついた。

「はぁ……」

小夏はまるで牢獄へ足を踏み入れるような気分だった。だが、軽く息を吐き、覚悟を決めると、地下へと続く階段を静かに降りていった。

薄暗い店内に足を踏み入れると、受付のカウンターにはくたびれた五十代くらいの男が座っていた。

彼は小夏の顔をちらりと見たが、何も言わずにすぐに視線を雑誌へ戻す。

どうやら、この店に来るのは初めてではない客と認識しているようだった。

小夏は迷うことなく奥の個室ルームへ向かう。

ノブを回し、部屋の中へと足を踏み入れた。広いスペースには、ソファーがいくつも配置され、大人十人ほどが余裕で入れる空間だった。

部屋に入った瞬間、

「クソが!!!」

怒号と共に、テーブルが激しく蹴り飛ばされた。

「あのクソ女!俺よりあのクソ陰キャ選びやがった!!」

声の主は伍代雄二。
ソファーに座ったまま、拳を握りしめ、今にも爆発しそうなほど怒りに満ちている。

「葵のやつもだ……調子にのりやがって!!」

そう吐き捨てるように言うのは鷹松圭太。
手にしていた空き缶を年季の入った壁に叩きつけると、乾いた音が響いた。

小夏は二人を見て呆れたように、深いため息をつく。

「……で?私をここに呼んだ理由は?」

冷静に問いかけると、伍代と鷹松がこちらを睨みつけてきた。

「チッ……」

舌打ちをしながら、鷹松は新しい缶ビールを袋から取り出す。

伍代が荒々しく口を開いた。

「もうなりふり構っていられねえ。あの女共をめちゃくちゃにしてやる……」

小夏は無言のままスマホを取り出し、慣れた手つきで操作を始めた。

画面に映る複数のフォルダを素早くスクロールし、狙った画像を選択する。その指の動きには迷いがなかった。

しばらくすると、伍代のスマホに通知音が響いた。

その音が狭い部屋に響き、伍代の表情が一瞬固まる。

彼が急いでスマホを手に取り、画面を確認する。

そこに映っていたのは、公園で伍代と雅がデートをしていた時の隠し撮り写真。

角度的に、二人がキスをしているように見える。

「これか……こいつを今使えってことか?」

伍代が小夏に尋ねる。彼女は小さく頷き、にやりと笑った。

「それだけじゃないですよ。実は私、啓先輩の正体を知っちゃったんですよね」

その言葉に、伍代と鷹松が顔をしかめた。

「……は?正体?」

「ニュースとか見ないんですね、先輩方」

呆れたように言いながら、小夏は話を続ける。

「この前ニュースで、ある記者会見が放送されてたんですよ。私が先輩に盗作させた小説、あれが映画化されることが発表されて、その時にその本の原作者も紹介されてたんです」

伍代と鷹松の表情が固まる。

「まさか……」

「そう、啓先輩ですよ」

驚愕の表情を浮かべる二人。伍代が慌てて口を開いた。

「ちっ、それであの時二人と一緒に喫茶店にいたのか」

舌打ちしながら呟く鷹松。

「まさかあいつが……どうやってそれが分かったんだ?」

小夏はスマホを軽く掲げ、にやついた顔を見せる。

「ええまあ、懐かしいウサギちゃんを見つけたんで……」

「ウサギ?」

首をかしげる二人をよそに、小夏は続ける。

「それより、その写真、使うなら今ですよ?」

「……今?」

鷹松が怪訝そうに眉を寄せる。

「映画化が決まった小説、読んでみたんですけどね。あれ、啓先輩が雅先輩と葵先輩をモチーフにして書いたものなんですよ」

忌々しそうに吐き捨てるように言う。

「だから?」

、雅先輩と葵先輩に啓先輩が原作者だってことを知らせるんですよ。それに加えて、あの小説が二人のために書かれたものだってことも伝える。その上で、この写真を見せて脅すんです。あの二人は自分に関する脅しには屈しないでしょう。でも、啓先輩のためなら話は別。彼を守るためなら、きっと動くはず……。例えば、この写真を週刊誌に持ち込んで、小説のモチーフになった女が実は男なら誰にでもなびく尻軽だって噂を流すって言えば、あの二人、どう反応すると思います?」

その言葉に、伍代と鷹松の口元がゆっくりと歪む。冷酷な笑みが広がり、互いの視線が交わされた。

「……面白えな」

伍代が低く呟くと、鷹松が乾いた笑いを漏らす。
二人の間には、これから展開される計画への興奮が滲んでいた。

小夏はそんな二人を冷めた目で見下ろし、肩をすくめた。

「じゃ、私はここまで。あとはご自由に。あ、決行場所と時間だけは念のため教えといてくださいね」

彼女の声には、すでにこの場には興味がないと言わんばかりの冷淡さがあった。
ソファーから立ち上がり、無造作に髪を払うと、ゆっくりとドアへ向かう。

店を出ると、ひんやりとした夜の空気が肌を撫でた。
小夏は一息つきながらスマホを取り出し、アドレス帳を開く。

――幸田こうだ 早苗さなえ

画面をタップし、耳に当てると、軽快な声が弾けるように響いた。

『こなっちゃん、ひさしぶりやん!どないしたん?』

相変わらず能天気な声だ、と小夏は心の中で呆れつつも、口元に小さく笑みを浮かべた。

「さなっち、久しぶり。ちょっと計画に支障が出そうだから、次の手で行こうと思って」

『計画って……ああ、あれか。あんた、まだ啓君追いかけてんの?ほんましつこすぎてウケるんやけど』

けらけらと笑う彼女の声がスピーカー越しに響く。しかし、その瞬間、小夏の表情が氷のように冷たく変わった。

「あ……?」

僅かに低くなった声に、早苗は即座に察知したのか、慌てたように声を改める。

『ご、ごめんやって!冗談やから、ほんまに!』

「……それより、昴さんに時間空いたら連絡するよう伝えてくれない?」

『兄貴に?ええけど……最近映画出演決まったりで忙しそうやけど、まあ、こなっちゃんの頼みなら兄貴も断らんやろ。相変わらず、ロリコン野郎やしな』

早苗がクスクスと笑う。

「相変わらず、か……昴さんも変わらないね」

『ほんまやわ。わが兄貴ながら、下衆なとこは直らんね。あとは?それだけでええんか?』

「うん、今のところは……でもまた何か頼むかも」

小夏がそう言うと、早苗は『オッケー、幼馴染のよしみやし、心配せんでええで』と軽い調子で返した。

通話を切ると、小夏はスマホを見つめ、静かに息を吐いた。

雅と葵、そして啓の関係は、もう十分に引っ掻き回した。おそらく、あの二人と啓先輩の関係は、もう元には戻らない。
もちろんチャンスがあるならあの二人にも償わせる。
私が負った傷の代償を。

だから今は……。

小夏はゆっくりと目を閉じ、考えを巡らせる。そして、目を開いたときには、口元にわずかな笑みが浮かんでいた。

「香坂真凛……篠宮神楽……」

その名を静かに呟く。その声は、ひどく冷たく、しかしどこか楽しげでもあった。
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