大切な人達を全て奪われたけど、夢が叶ったので過去は振り返らず前に進もうと思います

アイスノ人

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第55話 新章・白の狭間

 病院の廊下は白く静まり返っていた。無機質な蛍光灯が薄く光を落とし、足元を照らしている。自動販売機の前に立つ響子は、小さな音を立てて缶コーヒーを取り出し、指先で冷たさを確かめた後、静かにプルタブを引いた。

 一口、苦味のある液体を喉に流し込む。ほのかに漂う微糖の甘さが、乾いた気持ちをわずかに癒してくれる気がした。

 その時、遠くから足音が響く。淡々とした歩調。白衣の衣擦れが静寂の中に微かに混じる。

 ふと顔を上げると、向こうから歩いてくる男が目に入った。研修医のプレートを胸に下げた天音瑞樹。

 ——雅に紹介された男。

 響子はゆっくりと彼に視線を向けた。

 瑞樹もまた、こちらの視線に気付いたのか、数歩手前で立ち止まる。そして、僅かに目を細め、微笑を浮かべた。

「どうも、瑞樹さん……でしたっけ?」

 響子の声は低く、どこか探るような響きを帯びていた。

「……僕のことをご存じ……」

 瑞樹は言いかけ、何かに気づいたように口元を緩めた。

「ああ、以前雅ちゃんをタクシーで送ってくれた方ですね?」

 にこやかに言う瑞樹。しかし、その微笑みの奥に漂う違和感を、響子は逃さなかった。

「相沢啓の姉の響子です……弟がお世話になっています」

 形式的に頭を下げる響子。その仕草は礼儀正しくも、どこか冷ややかだった。

「お世話だなんて、とんでもない。良かったですね、啓くん、今日退院が決まって」

「ええ、おかげさまで……それより、先生……」

「そんな、先生だなんて。僕はただの研修医ですよ」

 瑞樹が軽く肩を竦める。しかし、響子の表情は変わらない。視線は鋭く、静かな圧を孕んでいた。

「失礼ですが……雅さんの家でお会いする以前に、どこかでお会いしませんでしたか?」

 その問いに、瑞樹の眉が微かに動いた。ほんの一瞬。だが、それは響子にとって十分すぎるほどの反応だった。

「ああ……啓くんとは何度か雅ちゃんの家で会ったことがありますよ。たまに挨拶を交わす程度でしたけどね。もしかして、お姉さんが啓くんと一緒にいた時に、顔を合わせたことがあったのかもしれませんね」

 瑞樹は軽く笑いながら言う。その態度はごく自然で、取り繕う素振りもない。しかし、響子の目は彼を捉えたまま、微動だにしなかった。

「いえ……よく、あの辺りをうろついていませんでしたか?」

 静かに問いかける。その声はどこか冷たく、疑念が滲んでいた。

 瑞樹の笑顔が、一瞬だけ僅かに揺らぐ。

「さあ、どうでしょう……そんなに頻繁に雅ちゃんの家に行ってはいませんでしたし、失礼ですが、誰かと勘違いされているのでは?」

 瑞樹は問い返す。しかし、その目は相変わらず柔らかい光を湛えたままだ。

 響子は息をひとつ吐くと、静かに言った。

「記憶力はいい方なんですよ……私」

 二人の間に張り詰めた空気が広がる。

 白い病院の廊下が、まるで別の空間のように感じられた。音が遠のき、時間の流れが遅くなったような錯覚に陥る。

 均衡を破ったのは瑞樹だった。

「あ、いけない。先生に呼ばれているんだった。遅れると嫌味が凄いんですようちの先生」

 そう言うと、少し慌てたように時計を見やる。

「すみません、啓くんのお姉さん。お話はまた今度、時間があるときにでも。それでは失礼します」

 最後まで表情を崩さず、にこやかなままの瑞樹。

 彼は響子に一瞥をくれると、悠然とした足取りで去っていった。

 その背中を響子はじっと見つめた。

 そして、手に持っていた缶コーヒーを片手で握りつぶし、ゴミ箱へ投げ入れる。

 小さな音を立てて、缶が中に沈んだ。

 響子は踵を返し、低く呟いた。

「啓と一緒に雅の家なんて、行ったことないんだけどな……」

 しかし、すぐに首を振る。

「……まさか」

 その言葉が、寒々しく病院の空気に溶けていった。

 確証がない言葉に蓋をするように、響子は沈黙のまま、啓の病室へと歩き出した——。
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