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かけくら
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彼が生まれた場所、そこは暗くて臭気に満ちていて、大変居心地の良い幸せな空間だった。彼が父親に抱きしめられることはついぞ無かったが、たくさんの兄弟、そして彼を庇護し、愛し、生き方を教えてくれた母がいた。彼は幸せだった。
彼は兄弟たちの中で一番小柄で、取っ組み合いのじゃれ合いではいつも軽く組み敷かれ、また放られていた。けれどもそれは強みでもあった。小さな体は彼の足を疲れさせることなく、素早くどこまでも走ることができたのだ。
「そら、あそこまで競争だ、走れ!」
頭を空っぽにして、全身を使って、風を感じ、少しずつ遠ざかる兄弟たちの気配を感じ、ぐんぐん迫る目標だけを見つめる。普段の劣等感を切り裂き、光のように駆け抜ける瞬間、それは彼の人生の閃きだった。
やがて彼も大勢の兄たちと共に、家業に参加する日が迫っていた。「もし捕まったらどうすればいいの?みんなとはぐれたら?」彼はくり返しそんな弱音をはき、兄たちや母は、半ばうんざりしながら、そして彼を可愛く思いながら、毎度こう言った。
「大丈夫、お前はすばしっこく、誇り高い小さな身体をしている。それを使うんだ。そら、あそこまで競争だ、走れ!」
彼らの誉れ高き矮小な仕事、盗賊。彼らが盗むのはきらめく宝石や金という紙切れではない。生きるのに必要なものだけ、食べるものと住むところだけだ。自由で危うい生活を、彼らは愛していたし、またそれ以外の生き方も知らなかった。
他の兄弟たちと違い、腕っ節に自信が無く弱気だった彼だが、盗賊は逃げるのが仕事だ。初仕事で自分の才と盗みの蜜を味わった彼は、冒険心に溢れた勇敢な盗賊に育っていった。
「閉ざされし…山?」
彼がそれを知ったのは、2番目の兄がきっかけだった。
「そうさ、そう呼ばれる巨大な白い山があるらしい。他の一家――同じく盗賊だ――の奴らが噂してた。なんでも、いつまでも腐らない食いもんがたくさんあるらしいぞ!」
母と一番上の兄は止めたが、他の兄弟達、そして彼は今、はるか高みまでそびえ立つ山を眺めている。山、というより、壁に近いそれと、隠れられる物陰のない道のりに慄いたが、しかし、彼らは若く愚かである。踏み出した足を、誰も止めなかった。
持てる身体能力と知略の限りを尽くし、彼らは求めていたモノを発見し、そしてそれが決して甘美な楽園の果実でない事を知った。そこを去ろうとしたときには、既に時は過ぎ去り、二度と温かい平和な暗闇に帰れなくなっている事を、彼らは最期に悟ったのである。
一人を除いて。
「うわっ…!嘘だろ、え、きもちわるっ」
「ねずみ?!うそ、もうこの冷凍庫使えないよ!」
彼は駆け抜けた。どこに向かっているのかもう分からなくなっていたが、それでも駆けた。後悔というには重すぎる慟哭を抱えて、それでもあらん限りの力を尽くして、どこまでも駆け抜けた。生きなければならない。生きようとしなければならない。最期に囁いた兄弟の言葉が、その想いを激しく燃やす。
「そら、あそこまで競争だ、走れ」
彼は兄弟たちの中で一番小柄で、取っ組み合いのじゃれ合いではいつも軽く組み敷かれ、また放られていた。けれどもそれは強みでもあった。小さな体は彼の足を疲れさせることなく、素早くどこまでも走ることができたのだ。
「そら、あそこまで競争だ、走れ!」
頭を空っぽにして、全身を使って、風を感じ、少しずつ遠ざかる兄弟たちの気配を感じ、ぐんぐん迫る目標だけを見つめる。普段の劣等感を切り裂き、光のように駆け抜ける瞬間、それは彼の人生の閃きだった。
やがて彼も大勢の兄たちと共に、家業に参加する日が迫っていた。「もし捕まったらどうすればいいの?みんなとはぐれたら?」彼はくり返しそんな弱音をはき、兄たちや母は、半ばうんざりしながら、そして彼を可愛く思いながら、毎度こう言った。
「大丈夫、お前はすばしっこく、誇り高い小さな身体をしている。それを使うんだ。そら、あそこまで競争だ、走れ!」
彼らの誉れ高き矮小な仕事、盗賊。彼らが盗むのはきらめく宝石や金という紙切れではない。生きるのに必要なものだけ、食べるものと住むところだけだ。自由で危うい生活を、彼らは愛していたし、またそれ以外の生き方も知らなかった。
他の兄弟たちと違い、腕っ節に自信が無く弱気だった彼だが、盗賊は逃げるのが仕事だ。初仕事で自分の才と盗みの蜜を味わった彼は、冒険心に溢れた勇敢な盗賊に育っていった。
「閉ざされし…山?」
彼がそれを知ったのは、2番目の兄がきっかけだった。
「そうさ、そう呼ばれる巨大な白い山があるらしい。他の一家――同じく盗賊だ――の奴らが噂してた。なんでも、いつまでも腐らない食いもんがたくさんあるらしいぞ!」
母と一番上の兄は止めたが、他の兄弟達、そして彼は今、はるか高みまでそびえ立つ山を眺めている。山、というより、壁に近いそれと、隠れられる物陰のない道のりに慄いたが、しかし、彼らは若く愚かである。踏み出した足を、誰も止めなかった。
持てる身体能力と知略の限りを尽くし、彼らは求めていたモノを発見し、そしてそれが決して甘美な楽園の果実でない事を知った。そこを去ろうとしたときには、既に時は過ぎ去り、二度と温かい平和な暗闇に帰れなくなっている事を、彼らは最期に悟ったのである。
一人を除いて。
「うわっ…!嘘だろ、え、きもちわるっ」
「ねずみ?!うそ、もうこの冷凍庫使えないよ!」
彼は駆け抜けた。どこに向かっているのかもう分からなくなっていたが、それでも駆けた。後悔というには重すぎる慟哭を抱えて、それでもあらん限りの力を尽くして、どこまでも駆け抜けた。生きなければならない。生きようとしなければならない。最期に囁いた兄弟の言葉が、その想いを激しく燃やす。
「そら、あそこまで競争だ、走れ」
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