かけくら

T女

文字の大きさ
1 / 1

かけくら

しおりを挟む
 彼が生まれた場所、そこは暗くて臭気に満ちていて、大変居心地の良い幸せな空間だった。彼が父親に抱きしめられることはついぞ無かったが、たくさんの兄弟、そして彼を庇護し、愛し、生き方を教えてくれた母がいた。彼は幸せだった。
 彼は兄弟たちの中で一番小柄で、取っ組み合いのじゃれ合いではいつも軽く組み敷かれ、また放られていた。けれどもそれは強みでもあった。小さな体は彼の足を疲れさせることなく、素早くどこまでも走ることができたのだ。
「そら、あそこまで競争だ、走れ!」
頭を空っぽにして、全身を使って、風を感じ、少しずつ遠ざかる兄弟たちの気配を感じ、ぐんぐん迫る目標だけを見つめる。普段の劣等感を切り裂き、光のように駆け抜ける瞬間、それは彼の人生の閃きだった。

 やがて彼も大勢の兄たちと共に、家業に参加する日が迫っていた。「もし捕まったらどうすればいいの?みんなとはぐれたら?」彼はくり返しそんな弱音をはき、兄たちや母は、半ばうんざりしながら、そして彼を可愛く思いながら、毎度こう言った。
「大丈夫、お前はすばしっこく、誇り高い小さな身体をしている。それを使うんだ。そら、あそこまで競争だ、走れ!」

 彼らの誉れ高き矮小な仕事、盗賊。彼らが盗むのはきらめく宝石や金という紙切れではない。生きるのに必要なものだけ、食べるものと住むところだけだ。自由で危うい生活を、彼らは愛していたし、またそれ以外の生き方も知らなかった。
 他の兄弟たちと違い、腕っ節に自信が無く弱気だった彼だが、盗賊は逃げるのが仕事だ。初仕事で自分の才と盗みの蜜を味わった彼は、冒険心に溢れた勇敢な盗賊に育っていった。

 「閉ざされし…山?」
彼がそれを知ったのは、2番目の兄がきっかけだった。
「そうさ、そう呼ばれる巨大な白い山があるらしい。他の一家――同じく盗賊だ――の奴らが噂してた。なんでも、いつまでも腐らない食いもんがたくさんあるらしいぞ!」

 母と一番上の兄は止めたが、他の兄弟達、そして彼は今、はるか高みまでそびえ立つ山を眺めている。山、というより、壁に近いそれと、隠れられる物陰のない道のりに慄いたが、しかし、彼らは若く愚かである。踏み出した足を、誰も止めなかった。
 持てる身体能力と知略の限りを尽くし、彼らは求めていたモノを発見し、そしてそれが決して甘美な楽園の果実でない事を知った。そこを去ろうとしたときには、既に時は過ぎ去り、二度と温かい平和な暗闇に帰れなくなっている事を、彼らは最期に悟ったのである。
一人を除いて。




「うわっ…!嘘だろ、え、きもちわるっ」
「ねずみ?!うそ、もうこの冷凍庫使えないよ!」






 彼は駆け抜けた。どこに向かっているのかもう分からなくなっていたが、それでも駆けた。後悔というには重すぎる慟哭を抱えて、それでもあらん限りの力を尽くして、どこまでも駆け抜けた。生きなければならない。生きようとしなければならない。最期に囁いた兄弟の言葉が、その想いを激しく燃やす。

「そら、あそこまで競争だ、走れ」
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

【bl】砕かれた誇り

perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。 「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」 「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」 「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」 彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。 「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」 「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」 --- いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。 私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、 一部に翻訳ソフトを使用しています。 もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、 本当にありがたく思います。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

婚約破棄を伝えられて居るのは帝国の皇女様ですが…国は大丈夫でしょうか【完結】

恋愛
卒業式の最中、王子が隣国皇帝陛下の娘で有る皇女に婚約破棄を突き付けると言う、前代未聞の所業が行われ阿鼻叫喚の事態に陥り、卒業式どころでは無くなる事から物語は始まる。 果たして王子の国は無事に国を維持できるのか?

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

今、婚約破棄宣言した2人に聞きたいことがある!

白雪なこ
恋愛
学園の卒業と成人を祝うパーティ会場に響く、婚約破棄宣言。 婚約破棄された貴族令嬢は現れないが、代わりにパーティの主催者が、婚約破棄を宣言した貴族令息とその恋人という当事者の2名と話をし出した。

処理中です...