明日の家のホスピス~感染した僕達~

天倉永久

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第五話 夏の始まり、始まった私の死への絶望へ

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私が公園のベンチで寝起きするようになったのはいくつになった頃だっけ……?
そうだ……確か父が無理心中しようとしたあの日からだ……仕事で多忙な父親の頭がおかしくなって、父は家に車のガソリンを撒いた。ローンで買ったといつも自慢していた車からガソリンを抜いて、私と父と母、家族三人で住んでいた家に火をつけた。私は当時十五歳でもうすぐ中学を卒業して春から高校に進学するはずだったのに、狂った父に全て壊された……
深夜でまだ寝ている私を起こしに来た母は、火傷だらけになりながらも、寝ぼけている私の体を布団で覆い、燃え盛る家から私を外に出すと、そのまま力なく倒れたのを十八歳なった今でも鮮明に覚えている。

「……千秋……」

玄関の先で、火傷だらけの母は私の名前を言うとそのまま事切れた。裸足でパジャマ姿の私は呆然と母の死体を見下ろすだけ……前を見ると住み慣れた家が燃えている。明け方、消防隊によって鎮火された家で父は焼死体となって発見された。
両親を失った私は児童養護施設に入れられたけど、そこで年上の男女から殴る蹴るなど当たり前のイジメを受けた。

「千秋ちゃんは何も心配しなくていい。僕のことだけでも家族と思ってくれていいから」

泣いている私を施設の職員のおっさんは親身になってくれたけど、それはレイプする口実だった……私の初めては好きでもない薄毛のおっさん……私が痛い痛いと叫んでもおっさんは笑っていた……
それを境に施設を脱走して三年……今はホームレス同然の生活をしている……とりあえず売春で成り立っているホームレス生活だけど……HIVのせいで駄目になった……あんな幽霊みたいな顔したやつとSEXしたせいで……
いつも寝起きしている公園のベンチから見る薄暗い空。公園の時計を見ると時刻は六時を少し回った頃だった。朝の六時じゃない。夕方の六時だ。

「……おはよう……」

誰に言ったわけでもない朝の挨拶をする私。誰からも返ってくることもないのに、なぜかその日だけはしてしまっていた。馬鹿らしくなり公園のベンチから立ち上がると、私は公園にあるトイレの手洗い場へと足を運ぶ。いつもここで身なりを整える。
コンビニで万引きした歯ブラシセットで歯を磨き、同じく盗んだ洗顔料で顔を洗い軽く化粧をする。この化粧品も盗んだもので、最後は香水を首元にかける。これも盗んだもの。香水の瓶が空になったから、私はそれを床に捨てた。
トイレの鏡に映る私の顔。肩まで伸びた色あせて少しだけ痛んだ金髪の髪に化粧のおかげで比較的に綺麗になった白い肌をしている。着ているキャミソールの両肩からはどこかの外国の文字が刻まれたタトゥーがある。売春で稼いだ金で勢いで入れたタトゥー。巷では私のことをタトゥー女と呼ぶものがいる。金さえ払えば誰とでもヤラせるというものも……別に事実だから気にもしないが。

「ねぇ……相沢千秋……あんたはいつまで生きられるの……?」

鏡の自分に問う私。返って来る言葉なんてないのはわかっているけど。

「わかんないよね……ごめんなさい……」

それは酷く元気のない笑い方だった。月島歩生。全てはあの薬中にナンパされてSEXしたせいだった。一週間くらいした後、インフルエンザみたいな症状が出て、なけなしの金で病院へ行くと、一ヶ月後にHIV検査を医者から勧められた。医者の計らいで検査料金がほぼ無料みたいなものだから受けてみることにした。検査の結果はHIV陽性だった。エイズを発症したら助からないと告げ、医者は何種類もある薬の処方箋を書いたが、保険証もない住所不定の私に薬代を払える金はなかった。医者もそこだけは計らえなかったようだ。
これは無理心中して私を殺そうとした父のせい? それともコンドームするこをを拒んだ薬中の歩生のせい? この答えは私には決まっている。父もそうだし、歩生もそうだ。しかし恨んでいる父は死んでいる。だから今現在、どこかでのうのうと生きている歩生を強く恨むことにした……とにかく居所を探したい……

歩生が属していた半グレのたまり場であるほぼ二十四時間営業のBARに私は足を運んでいた。
榊一。半グレ達のリーダーである手下たちは、舐めまわすような目で私のことをジロジロと見ている。その内のスケベそうな一人が私の手を掴んだ。

「俺、今二千円くらいしかないけど、全財産出すから一発どう?」

私は軽く舌打ちをして、スケベそうな男の手を振りほどくと、BARの奥へと進む。スケベそうな男は酒に酔っていたようで、下品な高笑いが嫌でも背中越しで聞こえた。

「おい、この先に何の用だ?」

私を制止させるように金髪の男が前に立ちふさがる。綺麗な金髪の髪をしていたが、私はその顔を見てゾッとした。刃物か何かで斬られ続けたのか? 彼の顔はズタズタで左目は失明しているようで、閉じかけた左目は半ば白目をむいている。まるでゾンビのような顔。見る人がゾッとしないほうがおかしい……

「あ、あの……榊って人に用があって……」

この人のゾンビのような顔に恐る恐る私が言うと、彼は深くため息をつく。

「何? 君もあいつに呼ばれたの? 今は機嫌が悪いから、帰った方がいい。さっき呼ばれてきた子も、叫び声がしていたけど、今はしていない。俺からうまく話しておくから、帰りな」

金髪のゾンビ顔の人は優しく私を促した。根はやさしい人なんだと思うけど、私には関係ない。

「どいて」

私は一言だけ言うとBARの奥へと進んだ。ゾンビの人は「おい!」とだけ叫ぶ。

「この売女が! 気絶してんじゃねぇよ! しゃぶれ! 今すぐ跪いてしゃぶれ!」

そこはBARの奥のテーブル席。いかにも悪人面の男が何度も私より小柄な女性を踏みつけている。

「たく! 使えねぇ、売女が!」

榊一は吐き捨てるように言うと、怒りの感情を小柄な女性にぶつけた。頭を踏みつけてその足をどけた突端、女性は耳から出血した。死んでしまったのではないかと、私はその場で凍り付く。

「あん? 誰だ、お前?」

榊は私の姿に気が付くと怪訝そうなしかめっ面を見せたが、私の胸元を見るなり不気味な笑みを見せた。

「何? 新しい子? 呼んだ覚えねぇけど、まぁ、こっち来なよ」

不気味な笑みを崩さずに私を手招きする榊。私はこいつのナニをしゃぶりに来たんじゃない。凍り付きながらも私は恐る恐る訊こうとした。

「あ、歩生、月島歩生どこにいるか教えて!」

私はブルブルと震え、今にも失禁しそうになる。

「月島ぁ? 薬中の?」

私が震えながら頷くと、榊は私に近づいてくる。まるで悪魔のような不気味な笑みが近くまで来る。その黒々とした瞳は私を舐めまわすかのようにじっくりと私の体を観察していた。

「月島ねー。クスリ欲しさに勝手に売人の外人殺して、今頃刑務所にでもいるんじゃねぇか?」

私は読みが外れたと確信した。榊は歩生が執行猶予付きの判決を受けたことを知らないようだった。行く当てもなさそうなやつだから、この半グレに戻っていると私は思っていた。
ここにもう用はない。私はBARを後にしようとした。

「まぁ、待てよ」

榊が私の手首を掴んできた。振り払おうとするが、榊の力は強くて、女の私にはどうすることもできない。

「なぁ売女、金払ってやるから相手しろよ」

SEXしろってことだ。仕方ないから私はこいつに教えてやることにする。

「私、HIVに感染してるの。歩生にうつされた。HIVくらいわかるでしょ? エイズだよ」

教えてやったのに榊は私の手首を放そうとしない。不気味な笑みはそのままだ。

「だけど、しゃぶるくらいはできるだろうが。あと、このこと知っといてほしいんだけど、俺は女ボコボコにしないと勃起しなくて不便で仕方ないんだよ」

榊の不気味な笑い方は一瞬で不敵なものへと変わる。
今からこいつ……こんなケダモノに私は殴られるんだ……殴られてケダモノのペニスをしゃぶらされるんだ……嫌だよ……どうして私だけこんなふうになるんだろう……? 私と同じ年くらいの子は、学校に通えてみんなから祝福されている毎日を送っているのに、どうして私だけこんな目に遭うの……?

「あの榊さん! これ以上はヤバいですって! その子も病院に連れて行かないと死んじゃいますよ!」

金髪のゾンビみたいな顔をした人だった。割って入ってきたけど、彼の足はガタガタと震えているのが見えた。金髪のゾンビ顔の人、彼が心配したのは私ではなく、床に倒れて耳から血を流し、小刻みに痙攣している小柄な女の方だった。

「そんなら捨ててこい! 店の裏にゴミ捨て場があるだろうが?!」

怒声を上げる榊。私の手首は決して放さなかった。

「あ、あんたが捕まったら、この半グレは終わるし、俺だって共犯で刑務所に何年入るかわかったもんじゃねぇんだよ!」

金髪のゾンビ顔の人も負けじと怒声を上げる。

「残った目も潰すぞ、お前……両目失明して刑務所で過ごしてみるか……?」

血も凍るような榊の言葉に金髪の人は言葉を失った。

「捨ててこい」

金髪の人に命令する榊。小柄な女は小刻みな痙攣を止めて、ピクリとも動かなくなっていた。

「なぁー、まず顔とか殴らせて」

榊の顔には不気味な笑みが戻っていた。私の手首からは手を放してくれたが、すぐに首を掴まれてしまう。私は恐怖で震えて身動きができなかった……

「タトゥーエイズ女の綺麗な顔、台無しにしてやるよ」

榊が重そうな拳を振り上げる。私は瞳を閉じて覚悟するしかない……お似合いの無様をさらして……

「死ね」

それは榊じゃない男の人の声。私がゆっくりと瞳を開けると、ゾンビ顔の金髪の人が榊の首をナイフで刺していた。榊の黒々とした瞳と私は目が合う。その瞳は最初は驚いたかのように瞳孔が開いていたが、金髪の人がナイフをゆっくりと抜くと、榊の瞳は死への恐怖で溢れて、その口からは真っ赤な血を吐血した。

「……た、助けて……助けてよー……」

それはケダモノとは思えない命乞いをし、また吐血して榊は床に倒れる。

「……暗いよ……何にも見えないよー……ママにパパ……そばにいてよ……」

榊は事切れた。私が人が死ぬのを見たのは、自分の母親と合わせて二度目だが、榊の場合は常軌を逸していた。フラッと歩いてその死に顔を見ると、まるで静かに暗い地獄にでも落ちたかのように苦痛に埋もれていた。

「え? 安藤さん……あんた何やったんすか?」

一人の半グレの男が異常に気づく。安藤。それがこのゾンビ顔の人の苗字らしい。私を助けてくれた人の……

「に、逃げるぞ……おい! 逃げるぞ!」

安藤は左手で呆然自失する私の手を握ると、外へと連れ出そうとする。彼の右手には榊の首を刺した血の付いたナイフが握られている。

「お前ら、追ってきたりするなよ! したらあいつとおんなじ目に遇わせてやるからな!」

右手には血の付いたナイフで手下の半グレたちを威嚇し、左手には私の手を握りしめている安藤は、私を連れてBARの外へと飛び出す。
散々一緒に走った挙句、安藤と私は生ごみの臭いが充満する路地裏へと逃げ込んだ。

「どうする? やばいぞこれ……刑務所に行く前に粛清されちまうよ……! ち、違うよ、榊に人望なんてなかっただろ? 恐怖で支配していたクソ野郎なんだから、俺なんかが殺されるはずない……!」

ようやく私の手を放してくれた安藤は両手で頭を抱えながら自問自答をした。

「でも、人殺したんだからさぁ、まず刑務所には行くでしょ?」

助けてもらっておいて私は正論を言う。怖い思いしたから、余計なことでも言ってやりたい。

「うるせぇんだよ! 榊に呼ばれて来たアバズレが!」

「私、誰にも呼ばれてない。あいつがまだ身を置いていると思って、あんたたちのたまり場のBARに行った。そしたらこんなことになって……」

「あ? あいつって誰だよ?」

「月島歩生、探してる」

「あの野郎を探してどうすんだ?」

「殺してやりたい」

ゾンビ顔の安藤は笑い声を上げる。

「それは偶然だな。俺も歩生を殺したくて仕方ないんだ。あいつのせいでこんな顔になって、彼女にもフラれて散々なんだよ……! 人の恩なんて忘れやがって……!」

こいつもつまり歩生を殺したい。私の仲間なんだ。それにゾンビみたいな顔になったのは歩生のせいらしい。

「お前は? お前はどうして歩生を殺したいんだよ?」

訊いてくる安藤に私は全てを話す。HIVをうつされたことに、裁判で証人になったのに負けて歩生に笑われたこと。話しただけで憎しみがわいてくる。

「あいつの病気うつされたのかよ? 哀れだな」

心にそんな余裕などないはずなのに安藤は笑みを浮かべる。私はそんな安藤をキッと睨みつけた。

「まぁ、怒んなよ。歩生の居場所は知らないけど裁判を担当した国選弁護人なら知ってる。早瀬って男だよ」

国選弁護人の早瀬。歩生の裁判の時に私の証言を駄目にした男だ。忘れるはずがない。

「どうしてあんたなんかがそんなこと知ってんのよ?」

私は安藤に疑問を問いかけた。

「高い金払って探偵に調べさせたんだけどよ。これが使えねぇ探偵でそれくらしかわからなかったんだよ。守秘義務が邪魔してどうにもなりませんって言い訳しやがって、あの野郎……!」

「探偵って、どうしてそこまでしたの?」

「決まってるだろ、歩生の居場所を知って殺すためにだよ」

安藤の失明していない方の目。その右目からは静かな殺意が感じ取れた。

「そういや裁判の検察の証人で、タトゥーの女がいたらしいって、クソ探偵が曖昧なこと言ってたけどお前のことか?」

それは無論私のことだから、一度だけ安藤に頷く。

「嘘だろ? お前、見るからに社会から孤立しているのに、どうして証人になんかなったの? 誰からも信用なんかないだろ?」

「うるさい。勝っても負けても金払うって、検察のババァに言われたんだよ!」

訊いてくる安藤に私は堪らず語気を荒げた。

「で? 金貰えたのかよ?」

「貰えてない。名前書いた名刺しか渡されてないし、事務所の場所だってわからない」

「とんだ馬鹿だなお前。それって弁護士や検察の苦し紛れの常套手段ってやつだよ。あいつらはとにかく言いなりになる馬鹿がほしいんだよ。お前みたいな女でも証言させればもしかしたら勝訴するかもしれないっていう、そういう博打にされたんだよ、お前は」

笑って、そして呆れる安藤。こいつがそこそこ賢いのはわかった。
私は自分のことを馬鹿女だと知っている。わかっているけど、世間のことなんて何も知らない……ましてや裁判の常識なんて知る由もない……

「何で私なんだよ!?」

無知な私はキレるしかない。すぐそばにあったポリバケツを蹴飛ばした。

「学校にも行けないし! 住所も不定だから仕事も家もない! 挙句に気持ち悪いオヤジ達に体売って、どこの言葉かもわからないタトゥー体に入れてさぁ! あんな薬中にエイズうつされて、金もないから薬だって買えない! これがどういうことかわかる?! 十年後くらいに私は痩せ細って死ぬしかないんだよ!」

怒り悲しみ憎しみ。それらを私は安藤にぶちまけた。

「落ち着けよ。悪かったよ。言い過ぎた……俺なんか手下の……いや、手下だった半グレたちに殺されるか、今から警察に自首しても、二十年くらいは塀の中で過ごすことになるんだぜ……」

自分にはもっと最悪な運命が待っていると安藤はそう言いたいらしい。私を助けたことといい、やはりこいつはいいやつなのかもしれないと私は思う。

「塀から出てきたころには四十過ぎてる……あ、悪い……嫌味とかそういうんじゃ……」

言葉に困る安藤を見て、私は少しだけ笑った。

「嫌味にしか聞こえないよ。だってあんたは無様でも生きていられるんでしょ? 無様で死んでいく私とは大きな違いだよ」

私の少し笑った笑みの中には、静かで冷たい空しさがこびりついていた。死への恐怖によってこびりついた冷たさ。その冷たさは静かで何の役にも立たない。看取ってくれる人、面倒を見てくれる友達も私にはいない。残っているのは空しさだけ……

「元気出せよってのは……禁句か……」

安藤は顔を伏せた。

「あ! 安藤さん見っけ!」

「おい! いたぞ! 集まれ!」

数人の殺気だった男たちが路地裏に入って来る。BARにいた榊の手下たちだ。

「安藤さん! あんた榊さん殺しちゃって、俺ら野垂れ死に確定なんですけど!」

「まさかお人好しのあんたが俺たちの面倒見てくれるんですか?」

「こいつにヤクザ黙らせたり、ましてや女売ったり、ヤクの売買の斡旋なんてできねぇだろ!」

生ごみ臭い路地裏で醜い笑い声がこだまする。半グレ達皆が安藤を笑った。

「なぁ、おい、お前今からここに行け!」

安藤から一枚のメモ紙を渡される私。

「これも持ってけ! そいつが歩生の居場所吐かなかったらそれで脅して聞け!」

持っていたナイフも渡された。刃には榊の血がまだついていた。

「逃げろ」

安藤が一言いうと、私は路地の反対側に走った。

息を切らせながら無我夢中で走り終えた私。そこは人気のない閉まったシャッターだらけの商店街だった。恐る恐る後ろを向いた。追って来る半グレ達はおらずホッと胸をなでおろした。
血の付いたナイフを脇で挟んだ。ヌルっとした気持ち悪い感触があったが我慢する。私は安藤に渡されたメモ紙を息を切らせながら開いた。
メモにはこう書かれたいる。早瀬法律事務所。三沢ビル三階。深天町二の五の八号。それは弁護士の早瀬が構えている法律事務所の住所だった。
深天町。歩けば一時間ほどの距離だった。私はとぼとぼと閉まったシャッターだらけの商店街を歩き始めた。

「……ちゃんと脅せるかな……?」

着ているキャミソールの上前で血の付いたナイフを拭いた。人を、誰かを脅したこのない私はどこか空虚にナイフをズボンの後ろポケットに隠すように刺した。ポケットの底が裂けたがどうでもいい。
深天町に着くと、私は道行く人に三沢ビルの場所を聞いた。住所がわかっていても、学がほぼない私には番地なんて理解できない。私が「すいません」と訊く道行く人たちは皆が私を蔑んだ目で見ては無視した。きっとどこかの家出少女が物乞か何かしていると勘違いされているようで私は惨めに感じた。それでもめげずに三沢ビルの場所を尋ね続けた結果、買い物袋をもったおばさんが三沢ビルの場所を教えてくれた。そのおばさんも何この子といわんばかりの顔をしていたが、もう気にする必要もない。どこかで生きている歩生に近づけるのだから……私は今、嫌な目をしながら口元を微笑ませている……
三沢ビル。そこは五階建てのボロビルだ。私はボロビルの中に入ると階段を上がり三階を目指す。三階へと上がると早瀬法律事務所の看板が確かにあった。
私はノックもなしに中へと入った。

「あなた薬物一回やっただけで逮捕されて裁判するんでしょ? 任せてくださいよ。最高で無罪もありえますし、最悪は執行猶予付きの判決です。刑務所に入ってまず懲役することなんてありませんから! 私を信じてお任せください」

電話の受話器を忙しそうに耳に当てている男。その顔は忘れない。弁護士の早瀬は私の姿を見るなり、人差し指を一本立てて、待つように合図していた。

「それでは新しい依頼人が来ましたので今夜はこれで失礼しますよ」

電話機に受話器を置いて切り、着ている小綺麗な背広を整える早瀬。

「ごめんなさいね。忙しくてね。君も薬物がらみの依頼人? 立っているのも何だしソファーに座りなよ」

早瀬は私をソファーに座るように促したけど、私はゆっくりと首を左右に振ってやった。

「ああ? 何だよそっち系の子? 今夜は頼んでいないのに? 服に血が付いているけど、ここに来る前、過激なプレイでもしてきたの?」

過激な出来事なら見たけど、どうやら見かけで判断されたらしい。

「私の顔、忘れた? 覚えてない?」

私が冷たく問いかけると、早瀬はまるで品定めするように私の顔を見る。こいつが下を見れば当然キャミソールから見える私の胸の谷間があるから、このクソ弁護士は興奮した。

「おかしいなー、君みたいな可愛い子、ヤッたら覚えているのに……」

胸から私の顔を再び見る早瀬。そのニヤけた目と私の目が合った途端。早瀬の表情は凍り付いた。

「な、何だよ! お前! あのときの検察の証人かよ?!」

私のことを思い出した早瀬に、私は単刀直入に訊くことにする。

「お望みならタダでヤラセてやるから、月島歩生の居場所教えてよ」

「お前の病気うつるだろうが! ふざけんな! それに守秘義務ってのがあってな! 俺が教えたことがバレたら、弁護士資格も消えるし、下手したら俺は刑務所行きになるんだよ!」

守秘義務って言うのが邪魔しているのがわかった。それよりもこのクソな弁護士が私の病気を恐れていることが救いだ。私はズボンに刺したナイフを抜くと、何のためらいもなく左手首を切った。血が夥しく流れる。

「……なーんだ……私の血って綺麗じゃん……」

手首には痛みがあったけど、さほど気にならなかった。手首から出る真っ赤な熱い自分の血を私は右手に持っていたナイフを力なく床に捨てて見惚れた。この血には目には見えないウィルスが沢山いるんだ……目の前で狼狽えるクソ弁護士を喋らすには十分だ。守秘義務とやらを潰せる。

「うつすよ。あんたも仲間になりたい? すぐそばに死がある毎日になりたい? いっつもそのことが頭から離れなくて……心が苦しくて生きるんだよ?」

私は出血する手首を徐々に早瀬に近づけた。

「わかった! わかったから待てよ!」

早瀬は法律事務所にあった棚から分厚いファイルを手を震わせながら取り出す。

「えーと! 月島歩生だろ!? 俺が執行猶予付きの判決勝ち取ってやったクズ野郎!? 今年の春の裁判だから……あった! そうだ! 拘置所の記録がこっちきててまとめといたんだよ! 執行猶予勝ち取った裁判だったから! あのクズ! ホスピスに行ってるよ!」

「ホスピス?」

聞きなれない言葉に私は怪訝に小首を傾げた。

「死にかけの人間が行く病院みたな場所だよ! 癌とかエイズになったやつが最後に行く場所! あのクズがいるの明日の家っていうホスピスだよ! 拘置所の出所後の住所録にそうある! HIV感染重度のために民間ホスピス明日の家が新住所になるって記録されてる!」

私にとって洗いざらい喋ってくれたと思う早瀬だったが、最後に訊きたいことが抜けていた。

「そのホスピス、どこにあるのか教えてよ」

早瀬は慌てながら、デスクの上にあった紙切れに住所を書いてくれた。

「俺が教えたって、誰にも言うなよ! 俺の弁護士生命が終わっちまうんだから!」

住所の書かれた紙切れを渡す早瀬に私は

「知ったことじゃないから」

と吐き捨てて早瀬法律事務所を後にした。

駅のトイレに私はいた。

「痛っ……!」

深く切ってしまった手首にトイレットペーパーを何重にも巻き付ける。早瀬に貰った紙切れにはホスピス明日の家の住所と、降りる駅名まで丁寧に書かれていたが、私はふと肝心なことを思い出し、自分の財布の中身を見ることにした。

「げ……」

落胆する私。財布の中身、私の所持金は九千円と小銭が数枚だけ。どうせ脅していた早瀬から財布も奪えばよかったと後悔した。今から早瀬法律事務所に戻って早瀬に金を出させようとも考えたが、もし早瀬が警察に通報していたら元も子もない。その通報一つで私は悪者で、早瀬の弁護士資格とやらが守られるのだから。
私はトイレから出ると、覚束ない足取りで切符売り場へと向かう。上にある路線図に行き先である栄駅までの値段を見るとなんと五千円もした。
渋々と私は五千円の切符を買い、改札に切符を通すと駅のホームに降りるのだった。電車が来るまでしばらく時間があったから、私は駅のホームにあるベンチに座る。

「やっぱ痛いな。深く切りすぎたけど、大丈夫かなこれ?」

夜の夏の駅のホームで独り言を言う私。この駅のホームには私しかいなかったので別に恥ずかしくはなかったが、手首に巻いたトイレットペーパーからは少しだけ血が滲んでいた。

「さて、歩生のやつ、どうやって殺してやろうかな?」

安藤から貰ったナイフも早瀬の事務所に捨ててきたままだ。拾って持ってくればよかったと私はまた一つ後悔した。

「馬乗りになって首絞めてやるのもいいよね。それはあいつの苦しむ顔が近くにあるってことだから」

私は誰もいない駅のホームで一人笑う。誰かに目にされれば異常者確定だ。

「でも、切っちゃった左手が不安だなー、ちゃんと力入るかなー?」

左手を握り締めたり開いたりする私。痛みはあったが何とか力は入った。

「殺した後、私はどうすればいいの……? 刑務所かどこかで、十年後くらいに死ぬの待てばいいのかな? 嫌だよ……そんなのが私の最後なわけ……? いくらなんでもあんまりだよ……!」

必死で我慢したけど涙が止まらなかった……

「……怖いよぉ……誰かそばにいてよ……私がこれまでしてきた最低すぎる行い……謝るから……」

それは好きでもない男たちに体を売り続けたことを。涙声で信じたことのない存在に懇願し謝罪しても……もうどうにもならない……私には家族も、友達も誰もいない……孤独と恐怖の中で自分が終わることを考えたら、無力で悲しくて仕方なかった……

「……ごめんなさい……」

ホームに電車が入って来る。私は痛くない右手で両目の涙を拭うと、電車に乗った。適当な席に座り落ち着こうとするが、私の無力な悲しさはすすり泣きに変わるだけだったから、ただ顔を伏せた……
電車の扉は閉まり発車する。電車の縦向きの席から徐々に流れては消える夜の町並みを少しだけ眺めると、私は涙がまだ残る目を閉じた。今夜は人が殺されるのも見たし、私を守ってくれた安藤がどうなったのかもわからないし、初めて誰かを脅してしまった……だから疲れた……電車特有のガタンゴトンと煩い音はあるが……うたた寝くらいはきっとできると思う……

「ママ! あのお姉ちゃん! 体に絵があるよ! クネクネしたお蛇さんみたいな絵!」

私がまだ眠い目を開け、声のする隣の座席を見ると、五歳くらいの女の子が私のことを興味津々そうに指さしていた。

「こら。指さしちゃいけませんよ」

「うー」

女の子を優しく叱った母親らしき人に、私にはどういうわけか見覚えがある気がする。叱られた女の子は頬を膨らませている。

「いやー、うちの娘がごめんなさいね。どうか気を悪くしないで」

後ろ髪をかく眼鏡をかけた男の人は叱られた女の子の父親のようだが。私はこの人にも見覚えがあった。
……私にとって優しかった人たちだ……

「……ああ……」

私は懐かしい思いに駆られて、ぎこちなく三人に手を伸ばそうとするが。その手が三人に届くことはなかった……どういうわけか体がうまく動かせず、声だってうまく出せなかった。見覚えのある二人が誰なのかを思い出したから……心から叫びたいのに、そんな簡単なことができない……

「お姉ちゃん、どうしたの? 寂しそうなのはどうして? 苦しそうなのはどうしてなの?」

無垢な瞳をした子供のころの私が訊いてくる。
私が寂しそうで苦しそうなのは……病気だから……けど、それだけじゃない……孤独に心を殺されてしまったから……来る日も来る日も、誰からも愛されない日々を生きてしまったから……

「ごめんなさい千秋……私が生きてさえいれば……あなたにまともな人生を生きさせてあげれたのかもしれないのに……駄目な母さんでごめんなさい……」

謝罪した私の母は、子供のころの私を大切そうに抱きしめて頭を撫でてくれた……
違う。駄目な母親なんかじゃない……あなたは、火傷だらけになりながら私を守って死んでくれた……心からありがとうって言いたいのに……

「ありがとうって言いたいのに、お姉ちゃんはその言葉が怖くて誰にも言えないから……落ちていくしかなかったんだ……」

私の心を見透かしたかのように代弁してくれる子供のころ私。ありがとう。それは私にとっては怖い言葉。ありがとうという感謝の言葉を告げた誰かに、裏切られるのが怖いから決して使わないようにしていた……

「千秋……ごめんな……死なせようとしてしまった……」

よせよ! あんたの言葉なんか……父さんの言葉なんか聞きたくない……! 私はあんたのせいで惨めで、好きでもない男に毎日体売ってさ……! そうやって生きるしかないって無理矢理自分を偽って……HIV……こんな病気になった……

「ごめんな……ごめんな……千秋……俺は地獄に落ちても、償いたいのに……償えない……今の千秋に何もしてやれない……許してくれなんて言えないけど……見守ることだけはしたいんだ……」

父さんも子供のころ私の頭を撫でた……それは悲しそうに数回だけ……
その子に触るな……私に触るな……! それより人生を返してよ……! こんな死への絶望の人生じゃない……私の人生はもっと明るくて、些細なことで誰かにありがとうって言えるそんな人生だったはずなんだ……

「お姉ちゃんは心のどこかでまた明るく暮らせることを願ってる。また家族三人で暮らして、学校に通えて、友達もいて、心が平穏になることを望んでいるけど、自分でもそんな人生がないとわかっている……」

「あ……」

また代弁してくれた子供のころの私。駄目だ。この子嫌い……私の心の中を知っているこの子が嫌いだ……私も自分が嫌いだから仕方ない……体がようやく動いてくれるから、私は座席を飛び出して、子供のころの私の首を締めて殺してやろうと……

「死ね! 死ね! こいつ死ね! 私の心の中のこと言うなー! 私がどれだけ苦しいか知らないだろー!」

私は怒りに任せて子供のころの自分の細い首を両手で絞めた……

「……知ってるよ……だって私だから……」

首を締められているのに、子供のころの私は苦悶の表情一つせず言う。ふと父と母を見ると、優しく微笑んでいるかのように見えた……

「何で安心してるの?! ちゃんと私のこのザマを見ろよ! どれだけ惨めに生きてきたかわかってる?! いなくなるな! いなくなるなよ! 嫌だよ…ザマう一人でいたくないよ……また誰かに愛されたい……ひとときでいいからさぁ……」

視界がぼやけて私の体の感覚は消えていく……


「ご乗車ありがとうございます。栄、栄に停車します。お忘れ物のないように注意してください」

電車のアナウンスで私は目を覚ました。開いた瞳にはまだ涙が残っていたから手で拭った。
駅の改札で切符を通して、出口である階段を降り始めたけど、その場で階段に座り込んでしまう。半ば動揺しながら前髪をかきあげる。両親の夢を見たのが堪えてしまっていた。

「懐かしかったな……」

自分でも酷く寂しい笑い方をしながら言ったと思う。両親の夢なんて死んでから一度も見たことがない。また目を閉じてここで眠れば会えるかなと考えるがやめた。会ってしまえば懐かしくはなれると思うけど、また子供のころの私がいると思うと怖かった。私の心を見透かした二度と会いたくない自分だ。階段を照らしていた蛍光灯が消える。恐らく駅全体の電気が消えたのだろう。今何時かわからないが終電が終わったに違いない。

「はぁー……お腹空いた……」

そういえば寝床の公園で起きてから何も食べていなかった。階段の先には栄の町がある。コンビニかどこかで何か買えばいいと考えたが所持金は四千円ちょっとしかない。歩生を殺した後、なけなしでも逃走資金は必要だ。無駄遣いはしたくない。私は目の前の暗闇だけをボーと見つめるしかない……頭の中で自分の最後がいつで、それは痩せ細って死んでゆくさまが……考えたくもないのについ考えてしまう……

どれだけボーとしていたのか? 階段の先は薄明りに照らされていた。スーツを着たサラリーマン風の男が階段を上がりながら、怪訝な顔で私を見ていた。ほんの少し私はその男と目が合うと軽く舌打ちをして立ち上がる。

「ねぇ! お兄さん! 今からトイレでしゃぶってあげるよ! 一万でどう?!」

ヤバいと感じたであろうサラリーマン風の男は急ぎ足で駅の階段を上がって行く。

「馬鹿が……嫌な顔で私のこと見やがって……今すぐ死んじまえ……」

イライラしながら私は駅の階段を降りた。その先には空しい朝の薄明りに照らされた寂れた町が広がっている。色あせたドラッグストアやら古い昭和な服屋。何の風情もない町を私は苦笑しながら見渡した。

「なぁ、お姉ちゃん! この町は初めてそうだね! 今からどっか行くの?」

陽気そうなタクシーの運転手が車内の窓から顔を出し話しかけてきた。

「明日の家っていうホスピスまで行きたい」

私が行き先を言うと、陽気なタクシーの運転手はどこか嫌な表情を見せた。

「ホスピスねぇ……それは……誰かのお見舞いか何かかな?」

「そんなとこ。乗ってもいい?」

「あ、ああ、いいよ。乗って」

タクシーの自動ドアが開き私は乗り込んだ。何の風情もない町を走り出すタクシー。しばらくすると木々の生い茂る山道へと入っていく。

「お姉ちゃん、凄い刺青だね。外国の文字みたいだけど何て書いてあるの?」

バックミラー越しに私のタトゥーを見ながらタクシー運転手は訊いてきた。

「意味は知らない。たまたま金があって適当に入れたものだから」

「たまたまそんなもん入れちゃ駄目だよ。お父さんお母さん悲しむでしょ?」

私はイラつきながら瞳を閉じて静かに舌打ちをした。お父さんにお母さん。今は考えたくもない話題だ。

「親孝行はしないと絶対に後悔するよ。できなかった俺が言うのも何だけど」

「うるさい! 黙って運転しろよ!」

瞳を開けたとき私は運転手の言葉を遮るように運転席の座席を蹴っていた。

「な……! この前のエイズのガキといい、失礼な客が多いよまったく……」

落胆するかのように小言を言う運転手。エイズのガキというのに私は引っかかった。

「ねぇ、そのエイズのガキってどんな奴だった?」

「ああ!? 何だか幽霊みたいな顔したガキだったよ?!」

座席を蹴っていたから当然に機嫌悪そうに怒る運転手は答える。幽霊みたいな顔したガキつまり歩生だ。

「だいたい避妊もしないからそんな駄目な病気になるんだよ! お姉ちゃんだってそう! 粋がってそんな刺青入れてる時点で駄目な大人になるの決定なんだから! 俺の言ってることわかるだろ?」

このタクシー運転手は私の何を知っているの? 説教臭いだけだろ? お前なんかが……何の意味もないことタレやがって……何様だよ……?

「私がどうしてホスピスに行きたいのか? 知りたい?」

「どうしてだよ? 教えてよ?」

運転手はどうでもいいといわんばかりの態度をした。

「あんたが言った幽霊みたいな顔したガキにエイズうつされたから、今から殺しに行くの。私は悔しいまま死にたくないから。駄目な私にできることをしにいく」

タクシーは急ブレーキを踏んだ。

「おい! 気をつけろよ! 頭打つだろうが!」

私は運転手に怒声を浴びせた。

「どうせ死ぬくせにそれくらいのことで喚くなよ。料金とかいいからもう降りてくれ」

「何だよそれ……どういう意味だよ!」

理由はほぼわかっているが、怒りのあまり私は訊かずにはいられない。

「エイズの客なんて乗せたくないんだよ。風評被害なんてごめんだからな。それに人殺しに行くって……まぁ、エイズのガキが死ぬだけだから世の中のためかもな」

後部座席の方を向き、嫌味な笑みを浮かべながら吐き捨てるように言うタクシー運転手。

「ホスピス……どこにあるの……?」

今にも爆発しそうな怒りを抑えながら私は訊く。こんな山道で降ろされても私にはホスピスの場所がわからないから……

「自分で探せよ! いいから降りろ!」

タクシーの自動ドアが開く。タクシーから降りる私は夏の日差しによって熱くなった古いアスファルトの地面だけを見つめた。セミの鳴き声が煩い。顔を上げるとタクシーは走り去って行った。

「ふざけんなー! 歩生殺したら次はお前を殺してやるからな! 私は絶対にそうするからな!」

怒声を上げ息を切らしてもこの山道には私しかいない。一人で惨めな私だけ……私は歩くしかなかった……惨めに……

額から流れる汗を拭ってしばらく歩いた先に古いバス停があった。その横には狭い林道がある。

「ここかな……?」

この先にホスピスがあるという自信などなく私は林道を歩いた。歩いた先に大きなウッドハウスが視界に入った。綺麗に草を刈られた庭がウッドハウスの周りにあり、その一角で金髪の小柄な少女が騒いでいた。少女の右耳から夏の日差しによって銀色の光が微かに反射していた。ピアスかイヤリングかは知らないが、耳にアクセサリーを付けた少女であることはわかった。その少女に向かい合うかのように立っている背の高い男。月島歩生で間違いなかった。何があったか知らないが、歩生は少女の頭を軽く叩いていた。

「……痛っ……お前……誰に何したかわかってんのかよ……?!」

私は遠くから見ていてわかりづらいが、怒りを露にする金髪の少女は歩生を睨みつけているような気がする。

「……軽く叩いただけだろうが……調子乗んなよこのクソガキが……!」

それは裁判の時以来久しぶりに聞いた歩生の声だった。

「どうして……? 何でだよ……」

私は呆然と立ち尽くして、歩生と金髪の少女のやり取りを見ていた……歩生が金髪の少女の頭を叩こうとしたとき、まだ叩かれていないのにわざとらしく泣き出す金髪の少女。その泣き声を聞きつけたかのように黒髪の少女が駆け寄ってきて、金髪の少女を抱きしめた。

「……軽くでも叩いたんだ……」

長い黒髪をした私と歳が変わらなそうな少女に歩生は必死で弁明しているようだ。私が知っている薄汚い性格をした歩生とは別人に思えて気に入らない……今すぐに殺してやりたい気持ちがあるのに……

「どうして楽しそうなんだよ……お前……」

どこか楽しそうな歩生が羨ましく思えて仕方なかった……私はこんなにも惨めに生きているのに……

「……お前らって、生きてるの楽しそうだな……」

遠くからでもわかる。金髪の少女と、その子を抱きしめる黒髪の少女に向かって歩生は楽しそうに笑っていた。

「何で私だけ寂しく生きなきゃいけないの? きっと最後は寂しく死んでいくのに……」

呆然と私は歩生が二人の少女と楽しそうにやり取りしているのを見ていた。歩生への殺意や恨みは当然あるけど、まさか歩生への羨ましさが自分の中で生まれるとは思ってもみなかった。

「おーい! 今日は教会から神父様が来る日だぞ! 早く礼拝堂に集まれ!」

白衣を着た男が叫んでいた。多分、医者で間違いないと思う。金髪の子が歩き出すと、歩生も黒髪の少女もその後ろを歩き出した。

「ねぇ、私も一緒に行っていい?」

名前も知らない金髪の少女の後ろに私もついていきたかった。きっと楽しそうだから……私が歩き出そうとすると、夏の暖かい風が吹いた。足下に一枚の布切れが飛んでくる。おもむろに拾うと、それは白いタオルだった。

「ごめんなさい! 洗濯物が飛んじゃって!」

洗濯カゴを持った白い服を着た女性が息を切らせながら駆け寄って来る。恐らくここの看護師だ。

「え? あなたここの入居者じゃないよね? 見ない顔だし……」

私の首元や両肩から見えるタトゥーを見て看護師の女性はギョッとした表情を見せる。

「きっと面会の方ですよね……?」

「まぁ、そんなとこだよ。はい」

私は右手で足下に落ちているタオルを拾うと看護師の女性に渡そうとする。

「ありがと……って、あなたその手首どうしたの?! 血が出てるよ!」

持っていた洗濯カゴを地面に落とし、看護師の女性は私に距離を詰める。

「痛っ……」

左手首に熱い激痛が走ったかと思い、目をやると巻いたトイレットペーパーが真っ赤に染まり、血が滴り落ちていた。

「止血! 止血! そのタオルで今すぐ押さえなさい!」

言われるがまま私は右手に持ったタオルで出血している左手を押さえる。せっかくのふわふわで白くて清潔そうなタオルが血で赤くなっていくのを見て、どこか罪悪感を感じてしまう。

「とりあえず、先生に診てもらおう! こっち来て!」

後ろから私の両肩に手を添えながら看護師の女性は私をホスピスの中に通してくれた。
ホスピスの中、綺麗でツヤのある綺麗なフローリングの床。ここが大きなウッドハウスの中だからか? この場所は木々のいい香りがしていた。

「あ、もしもし皆口先生! ケガ人が一人いまして! いえ、ここの入居者じゃなくて、部外者で……」

このホスピスの受付で誰かに電話をかけている看護師の女性。どこか必死で私のことを説明してくれているらしいが、私はここの木の香りが気に入って鼻で大きく深呼吸をした。必死な看護師の女性のことなどお構いなしだ。

「わかってますけど! とにかく手首が切れてるみたいなんで、診てやってください!」

しばらく受け答えすると看護師の女性は受話器を電話機に戻した。

「では今から処置室に案内しますから!」

私は看護師の女性に連れられることになった。どうやらここで自分で切った手首の治療をするらしい。人を殺しに来たのに、これじゃ拍子抜けもいいところだ……
看護師の女性に診察室の椅子に座らされる私。待つこと数分。白衣を着た軽薄そうな男が処置室に入って来る。

「おい、何だよー! 手首血だらけじゃねぇかー?! こんなの外科の仕事だろ?! 俺は落ちこぼれの内科医なんだからさー!」

白衣の軽薄そうな男は何度もめんどくさそうに首を傾げて私の血だらけの手首を見ながら言っていた。

「そんな! 縫合用の糸とかここにあるじゃないですか!」

看護師の女性は険しい表情を見せて言う。

「そんなもん形だけで置いてあるんだよ! 俺にはせめて包帯巻くのが限界なんだよ!」

めんどくさそうな態度を崩さず、白衣を着た軽薄そうな医者は私の向かい側にある椅子に腰かける。

「タトゥーすげーし……」

私の姿を一度一瞥すると、明後日の方向を見ながら医者は言う。

「ガーゼ机に引いて」

「はい!」

医者は真剣な表情になって看護師の女性に指示した。診察室の机に厚みのある白いガーゼが引かれる。

「君はガーゼの上に手首乗せる」

私は言われるがまま出血する左手首をガーゼの上に乗せた。自信のなさそうな表情で医者はぎこちなくゴム手袋をはめた。

「皆口先生! きっとできますよ! 成功したら奥さんとの冷めた夫婦仲も良くなりますよ!」

両手の拳を胸のあたりで握りながら応援する看護師。

「今、関係ないからそれ! それに冷めてねぇよ……まだ少しは温かいところあるんだから……」

軽薄そうな医者の皆口は震える手で医療用の鋏を手に取ると、覚悟を決めたかのように一度だけ頷いた。

「じゃ、じゃあ、切るからね……」

私が手首に巻いたトイレットペーパーを皆口はゆっくりと医療用の鋏を使って切っていく。

「へぇー……トイレットペーパーって結構止血できるんだな……」

まっすぐ切られたトイレットペーパーの下に、安藤に貰ったナイフで切った私の手首の切り傷が顔出す。出血は収まっているかのようだが、熱い痛みが手首に集中していた。私の苦悶の表情を察したようで皆口は柔らかい笑みをこぼす。

「一応は止血できてるみたいだから、感染症とかの心配はないし、まず死にはしないよ。今から傷口を縫合するけど、その前に消毒薬を傷口にかけるからね。すっごく痛いけど、まぁ、我慢できる痛みだと思うから……」

泳ぐ皆口の目を私は信用できない眼差しで見るしかない。皆口は消毒薬と書かれたラベルのプラスチックボトルを手に取り、蓋を開けると「行くよ」と私の心の覚悟も聞かずに手首の傷に消毒薬をかけた。

「うわぁぁー!!」

傷口の痛みが一層熱くなり、私は叫び声を上げて悶え苦しむ。看護師の女性が素早く私を後ろから抱きしめるように体を押さえてくれた。

「我慢! 我慢! 大丈夫だから!」

「ふ、ふざけんな! 麻酔とかないのかよ?!」

お世話になっておきながら、堪らず私は皆口に怒鳴ってしまう。

「ごめんね。局所麻酔の類はあるにはあるけど、扱い方知らないんだよ……ミリ単位で打たなきゃいけないし、間違えたら多分ヤバいんだよ」

ヘラヘラ笑いながら謝罪する皆口に私は痛みの中で当然怒りを覚えた。

「怒んないでよー、こっからが本番なんだからさー」

皆口はヘラヘラしながらピンセットで細い金属製の糸をつまんだ。恐らく傷口の縫合用の糸なんだと思う。

「せ、先生、手、震えてますよ……本当に大丈夫ですか?」

私を後ろから抱きしめるように押さえる看護師は心配そうに訊く。

「大丈夫……多分だけど大丈夫だよ……研修医の頃、一度だけやったことあるから……」

皆口は何だこれといわんばかりにピンセットでつまんだ縫合用の糸を見つめている。

「最近の縫合糸ってこんなに細くなってんの? 嘘だろ……? 縫合針って手でつまんでいいんだよね?」

右手に持ったピンセットで縫合糸をつまんで、震える左手で縫合針とやらをつまむ皆口は看護師に訊いていた。

「わ、私に訊かないでくださいよ! ゴム手袋してるから多分ですけど大丈夫なんじゃないですか?」

「うん。信じたよ」

自信なさげに皆口は看護師に向かって静かに頷いて見せた。私には無責任そのものに思える。縫合用の糸を縫合針の小さな点みたいな穴に通して皆口は満足気な笑みをこぼす。

「行くよ。チクチクすると思うけどタトゥー入れたときと、きっと同じような感じだからー……」

正直、私がこの訳の分からないどこかの外国の文字のタトゥーを入れたときはそれほど痛くはなかった。ちゃんとした職人の店で入れたものだから。タトゥー職人は痛みを最小限に抑えるやり方を知っていたんだと確信する。その証拠に現役の医者である皆口が手首の傷に縫合針を入れた途端、泣き叫びそうな痛みが走る……

「痛い! 痛い! 痛い!」

叫ぶ私。両目からは涙の大粒が出始める。後ろから私を抱きしめる看護師の腕の力が強くなった。

「て、手首は動かさずにじっとしておこうね! これはあなたを助けるためだから!」

「ああー! 馬鹿が! 俺は注射打つのもへたくそでクレーム来るのによ! 何で縫合なんて無理なことさせんだよ?!」

「お、お前! クレーム来るくらいへたくそなのかよ?!」

大粒の涙を流し、後悔したときにはもう遅かった。逆ギレしながら皆口は私の手首の傷に縫合針を入れていく。自分でつけた傷で自業自得なのだが痛くてたまらない。縫われていく傷口。縫合用の糸の摩擦も私の手首の傷から下から上へと上下し、私は不快で仕方なく無様な叫び声を上げ続けた。

地獄のような時間は終わり、皆口は丁寧に私の手首に包帯を巻き始めている。この処置だけは手慣れた様子なので私は涙目ながら感心してしまう。

「それで少しだけ聞きたいんだけど、君の手首はどうしてこうなったの?」

包帯を巻きながら質問してくる皆口に私は

「自分でやった」

と正直に答えた。それから自殺しようとしたわけじゃないとちゃんと説明する。

「じゃあ、何? ここが病院だと思ってわざわざ来たの? こんな山奥に? 悪いけどここはホスピスで」

「月島歩生に会いに来た。ここにいるの知ってるから」

皆口の言葉を遮って私は言う。自分がHIVに感染していること。うつした相手が歩生であること。彼が属していた半グレで、榊一を殺した安藤。その安藤に助けられてナイフを渡されたこと。そのナイフを使って自分の手首を切り、感染した自分の血で、安藤が雇った探偵によって調べさせた歩生の国選弁護人である早瀬を脅して、この場所を知ったこと。全部話した。

「私。感染してるからその血は危ないよ」

「そっか……ゴム手袋してるから大丈夫だよ。それに肌に血が付いた程度じゃHIVは感染しないから」

皆口は血の付いたゴム手袋を外して医療用廃棄物と書かれたゴミ箱にそれを捨てた。

「歩生に会って君はどうするの?」

「何でもいいから殺してやる」

そこも私は正直に答える。皆口は空しそうな視線を私に向けた。

「今から言うことよく聞いてね。君の場合は初期の感染だから今から薬を飲み続ければウイルス量も減少するし、エイズの発症リスクも大幅に抑えられる。それにウイルス量が減れば子供だって作れるし、君は普通の人生を歩めるんだ。生きれるチャンスがあるのに人殺しして刑務所行くなんてそんなの馬鹿げてるだろ?」

「無理だよ。私は住所不定ってやつで医療保険には入れないから、高価な薬買う金なんてないんだよ。それに子供って……私なんかが授かっていいわけないじゃん……」

自分でもさぞ不貞腐れた笑みを浮かべたと思う。皆口は黙って私を見つめているしかない始末だ。
グゥー……
そのとき私の腹の虫が鳴った。昨日の夜から何も食べていないから当然だ。

「こっち見んな! お前もいつまで抱き着いてんだよ!」

皆口と私をまだ後ろから抱きしめていた看護師に、恥ずかしさを隠すように私は叫んでいた。

「あはは、どうやら腹減ってるみたいじゃん。とりあえず食堂で何か食べなよ。大丈夫、金なんか取らないからさ。君、案内してやってよ」

「はい! わかりました!」

元気よく返事をする看護師に「さぁ、こっち」と連れられて私は診察室から出された。

「何だよ、また急患って……」

皆口も急ぎ足で診察室から出て、どこかへと去っていく。

「ここの食堂の食事はかなり美味しいからきっとあなたも気に入るはずよ」

去っていく皆口の背中を見ていたとき、看護師の女性は私の左手を取りながら言う。手を引かれながら私は

「あ、あの……」

「うん?」

「……ありがとう……」

この言葉を使うのは本当に苦手だ……

「どういたしましてって、私が言うことじゃない。それは後で皆口先生に言いましょうね」

まるで子供をあやすかのような言葉遣いをする看護師に私は悪態をつきたかったが

「……わかったよ……」

と我慢した。というかできた……

食堂に連れられた私。コーヒーのいい香りと、それとパン屋の匂い。小麦の焼けるいい匂いがした。丸いテーブルが五つある食堂、そのテーブルの一つに眼鏡をかけた一人の初老らしき男性が椅子に腰かけて静かにコーヒーを飲んでいる姿が目につく。

「あら、こんにちは神父様」

黒い服を着た初老の男性に、看護師の女性は丁寧にお辞儀した。

「相変わらずここのコーヒーがお好きなんですね」

顔を上げる看護師の女性は訊く。

「はは、ここではただで飲めますからね。それにいい香りがして、とても味わい深い」

初老の男性。神父様と呼ばれた人はコーヒーを美味しそうにまた一口飲んだ。

「インスタントのコーヒー粉と、業務用のコーヒー豆を砕いて混ぜた物ですよ」

看護師の女性が言う。

「ちょ、ちょっと、愛ちゃん! それ企業秘密だっていつも言ってるじゃん!」

食堂の受け取り口から顔を出す男がいた。彼は動揺しながら看護師の女性。愛ちゃんに注意を促していた。

「ごめん! ごめんなさい!」

両手を合わせながら謝罪する愛ちゃん。この女は多分ドジな方なんだと私は認識した。

「このホスピスは本当に明るくていい場所ですね」

神父様とやらは柔らかい笑みをこぼしていた。

「め、面目ありません……」

謝罪するドジな看護師の愛ちゃんさんは苦笑いしていた。そのやり取りが酷く馬鹿らしく思え、私はため息交じりに笑った。こいつらのお人好しがとにかく馬鹿らしかった。
ああ……いい世界で生きられるこいつらが羨ましい……

「それよりこの子、お腹空いてるみたいなんで何か食べさせてあげたいんですけど」

「あ、ああ、待ってな……すぐに何か用意するから……」

食堂の受け取り口から顔を出している男は、私の姿を見るなりギョッとしたようだ。きっと私のタトゥーが原因だ。こんな場所では場違い極まりないんだろう……
愛ちゃんと向かい合わせに丸テーブルに座っていると

「お待たせ」

と男がトレーに乗った料理を運んでくる。その表情は相変わらず私のタトゥーを見てギョッとしていた。

「さぁ、召し上が」

愛ちゃんが何か言おうとしたが、私は気にせず出されたパンとシチューを無我夢中で食べだす。

「こ、こら、いただきますくらいちゃんといいなさいよ……」

残念ながら私にはそんな教養はない。だから無視したんだ。

「う……」

パンを喉に詰まらせたから、私は慌ててカップに注がれてきたミルク入りのコーヒーを飲む。

「もう、ゆっくり食べなよ。同じ女として言わせてもらうけどはしたないよ」

育った環境が違うんだ。煩いと私は愛ちゃんに反論しようとした。

「きゃ……!」

誰かに背中を触れられていた。それも人差し指でゆっくりとなぞるようにだと思う。妙にくすぐったい感触に私は柄にもない声を出してしまう。

「優しかった母に祈ります。あなたはいつも笑っていて傷ついた私を抱き締めてくれました。その優しさを私は忘れません……か、英語の筆記体だね。これ」

「な、何してんだ……!」

怒りのあまり後ろを振り向けば、白いワンピースを着た長い黒髪をした少女が私の背中に人差し指を当てながら立っていた。

「動かないで。もう少し読みたい」

その子は息を呑むくらいに綺麗な少女で、同じ女の私でもその綺麗さに見惚れてしまう。見惚れてしまって私は動けなくなった……

「今は神様にお祈りします。どうか母との優しさを忘れませんように」

黒髪の彼女は私のタトゥーを日本語に訳して声に出して読んでいた。

「これは素晴らしいですね雫さん。そんな難しい文字が読めるんですね」

神父様とやらが感心しながら言う。この子の名前は雫と言うらしい。

「これでも進学校通ってましたからね。中退しましたけど……」

雫は苦笑いを浮かべている。

「初めまして。ここに入ってきた新しい人でいいんだよね? 私は理月雫って言います」

自身の胸に手を当てて自己紹介をする理月雫は図々しく私が座る丸テーブルの空いている椅子に座って来る。

「多分、私と同じ年くらいだよね? 名前訊きたいなー」

「千秋。相沢千秋だよ」

ため息交じりに仕方なく私は自分の名前を教えやった。

「そっかー、じゃあ千秋ちゃんって呼ばせてもらうね。ここには同じ年くらいの女の子いないから何だかホッとするよ」

こいつは私と友達にでもなりたいのか? だったらごめんだ。私は友達なんかほしくないし、ほしいと思ったこともない。

「私はここの新入りじゃないし、これ食べたらすぐにやることがあるから……それ終わったら出ていく……」

パンを一かじりしながら冷たくあしらう私。これで理月雫は椅子から立ち上がり、どこかへと去っていくだろう。

「雫ちゃん。この子は……えーと、何ていうか、お客さんでいいのかなー……?」

愛ちゃんは私を見ながら困ったふうな笑みを見せる。無視してやりたいところだが、タダ飯を食べさせてもらっているんだから、私は一応頷いた。

「お客さんね。それは残念だな」

そうだ。お前にとって残念なことなんだから、さっさと消えてほしい。食事の邪魔だ。

「それなら今だけでも友達になろうよ」

溢れんばかりの笑みを見せる雫。前向きすぎて私とは正反対の性格をしていた。

「ねぇ、ねぇ、千秋ちゃんは彼氏とかいるの? 聞かせてよ。または片思いの男の子でもいいよ」

「いない」

食事をしながら私はきっぱりと言った。事実いないから。

「そんなの絶対に嘘だよー。千秋ちゃん可愛いから、誰かに絶対恋されてるよー」

「教えなよ千秋。私も聞きたい」

愛ちゃんまでもが話しに入ってくる。しかも私の下の名前を呼び捨てにしていた。

「はぁー……」

溜め息をつきながら私はスプーンをトレーに置いた。仕方なくこの際付き合うことにした。恋話しとやらが終われば、こいつらはきっと黙ってどこかへ消えてくれると信じてた。

「雫はいないの? 彼氏とか?」

「わぁー、初めて名前で呼んでくれた。嬉しいなー」

初めても何もこいつとはほぼ初対面だ。

「ちょっ、ちょっと、あんた、私の恋愛事情とかも聞きなよ!」

「わかったよ。愛ちゃんは私たちなんかより年上だから。きっといい恋愛したことあるんでしょ?」

私が訊くと愛ちゃんの目は酷く泳いで、動揺を隠せずに辺りをキョロキョロとさせた。

「ないんだね。ざまはみろ」

私が冷たく言い放つと、愛ちゃんは空しそうにうつむいた。

「落ち込むならなんで恋愛事情聞けとかいったの?」

「もう二十歳後半だし……見栄を張りたかった……それなのにいい嘘が浮かびませんでした……」

「嘘つく気だったの? 最低だね」

私がコーヒーを一口すすってから言うと、愛ちゃんはさらにうつむいた。

「あんたたちに私の苦労ってわかるの……大学二浪してようやく看護師免許取得できたかと思えば雇ってくれるとこ、給料安いこんな田舎のホスピスだけだったし、生意気な金髪の問題児からはいつもババァって呼ばれるんだよ……このままじゃ、ストレスでいつか頭の中が爆発しちゃうよ……」

「冷が帰ったら、叱っておくから、だから愛ちゃんは元気出しなよ」

苦笑いしながら雫は愛ちゃんを慰めるように頭をそっと撫でた。

「叱るって言っても、雫ちゃんは冷ちゃんの手下でしょ? 本当にちゃんと叱れるの?」

手下ってどういう関係だよっと私は思う。

「あー、多分自信はないけど、できるだけちゃんと叱るから……」

いい大人が一回りは年下であろう雫に頭を撫でられて涙目を見せている。どうやら冷とかいうここの問題児が、愛ちゃんを苦しめているようだ。

「お話し、元に戻すけど、雫は彼氏いるの?」

少し高圧的に言う私。恋話を切り上げてさっさと一人になりたい。

「実はこれがいるんですよー」

嬉しそうに頬を赤らめて言う雫。この綺麗な容姿だ。男がいないほうがおかしい。

「へぇー、どんな男だよ? 聞かせろよ!」

私は雫への嫉妬に支配された。体を売って生計を立てていたが、私には彼氏がいたことなんて一度もない。一人になるのはとにかく後だ。

「名前は吉永修一君。高校の同じクラスだった同級生で、勉強はあんまりできなかったけど、スポーツはすごくできて、バスケ部のエースなんだから」

自慢気に雫は語り始める。

「はて? 雫さんの通っていた学校は進学校なのですよね? お勉学のほうはあまりなのに、その方はどうして入学できたのですか?」

コーヒーを飲んでいた神父が話しに割って入ってくる。こんなどこぞのおっさんがうっとうしいと心から思うが、私もそのことに疑問を感じた。だって進学校でしょ? どうして勉強もできない雫の彼氏が入学できたのだろうか?

「修ちゃんはバスケのスポーツ推薦だから」

なるほどねと、私と愛ちゃんと神父は同じように頷いた。

「それで、それで、雫ちゃんはどうしてその修ちゃんと付き合うことになったの?」

瞳を輝かせながら愛ちゃんは雫に訊く。どうやら私と同じで心が躍っているようだ。

「ほ、放課後……忘れ物取りに教室に戻ったら、修ちゃんが偶然いて、ふ、普通にキスされて……それで……」

恥ずかしそうに雫はその綺麗な顔を赤くした。

「告白がキスだけ?」

「うん、そうだよ」

「雫は嫌だよとか言わずに、抵抗しなかったの?」

「しなかっていうか、できなかった……いきなりだったから……」

「そいつのこと本当に好き?」

「もちろん好きだよ」

それは嘘偽りない女の顔。男を信じだ女の顔だ。私の心の躍りは消えた。雫は私が思うに典型的な馬鹿女だ。

「その彼氏って、ここには会いに来てくれてるの?」

私が訊くと雫は気まずそうに、何度か首を横に振った。

「来てくれたこと一度もない。どうしてかな? 部活がきっと忙しいんだと思うけど……」

ぎこちなく笑う雫を見て私は心底呆れた。

「あんたさぁー、見捨てられたってわかんないの?」

言った瞬間、私には後悔などなくただ雫を静かにあざ笑っていた。こいつは進学校に通っていたのに、こんな田舎のホスピスにいるのが見捨てられているいい証拠だ。不治の病できっと助からないから、その修ちゃんとやらも諦めてここには寄り付かないんだろう。

「あんたの自慢の彼氏の修ちゃんは今頃新しい彼女さんとズコズコやってるよ」

雫は途端に俯いた。

「自分の現実くらい知っときなよ。馬鹿女」

少なくとも私は自分の現実を知っている。この馬鹿女が目をそらしていたのが気に入らなかった。

「いい加減にしなよあんた! どういうつもりでそんなこと言うの!? 苦しいのは自分だけだって悲観的になってない!?」

愛ちゃんが怒声を上げてくるけどどうでもいい。そうだよ。私は自分が悲観的で仕方ない。だから俯く雫に傷つくことを言ってやる。はけ口にしてやる。それで気が晴れないことなんてわかってる……

「あんたって癌か何かでここにいるの? 余命は何年くらいだよ? 教えてよ?」

「……一年……一年かそこそこ……二年目があったら奇跡だって言われた……」

ゆっくりと顔を上げる雫は笑っていた。とても弱々しく苦しそうで悲しそうに笑っていた……

「……どうして笑えんだよお前……私は心が苦しくて、いてもたってもいられないのに!」

「もうおやめなさい。そんなことを雫さんに訊いても、あなたにとって何の解決にもなりません」

神父のジジィが綺麗ごとを言いやがる。

「解決にならないことなんか知ってるよ。だけど、言わなきゃ苦しいんだよ!」

私の叫びは食堂を静まり返させた。沈黙が気に入らず自分の髪をかきむしり出す。その刹那、沈黙の中で食堂の電話が鳴りだす。

「はい、もしもし……え……? ご面会? それ、今からですか……?」

受話器を取った愛ちゃんは、暗く重たい声で応対し始める。

「あ、あの今は……雫ちゃんのほうも、色々あって落ち込んでいて……あ、はい……訊いてみます……」

愛ちゃんが受話器から耳を放すと

「雫ちゃん、今ね、玄関口のほうでご両親が面会したいって来てるんだけど……どうする……?」

浮かない表情の愛ちゃんは雫に訊く。

「え? 何でかな? もう会わないって言ったくせに……」

雫は暗い表情の中で微かに笑みを浮かべている。それはこいつなりの防御本能。どんなときでも笑みを浮かべて自分を守っているんだと、私には理解できた……雫は馬鹿女であり、どこまでも弱い女なんだ……

「嫌なら私から断るから! 無理なんて絶対しなくていいと思うから!」

「会うよ……会うから」

雫が俯くと、愛ちゃんは心配そうな表情で「通してください。食堂です」と電話の受話器の相手に伝えたようだ。愛ちゃんは受話器を電話機に置いた。

「神父様。まだここにいてくれますよね?」

不安そうな面持ちで愛ちゃんは神父のジジィに訊く。

「私でよければもちろんいますよ。雫さんのご両親は……その……色々と問題がおありなようなので……千秋さんのほうはどういたします?」

「話しかけんなよ、ジジィ……!」

「それでは一人のジジィとしてあなたに問います。このままこの食堂にいますか? それとも出て行って用事をすませて去り、せっかくできたご友人を見捨てますか?」

「友達なんかじゃない」

私は吐き捨てるように言う。

「そんな! あなたのことを気にかけてくれる人じゃないですか? どうしてそんなことが言えるんです? 不貞腐れても何もいいことはありませんよ! 今だけでも本当の自分でいるのも悪くないはずです!」

綺麗ごとを並びたてるジジィ。私の本当の自分ってどんなだよ……? もしも父親が心中事件を起こさなかったら? もしも通いたかった高校に通えていたら? きっと体にタトゥーなんか入れず、もっと素直な自分だったはずだ……私は神父のジジィに、何も言わずにただ面倒くさそうに一度だけ頷いた。

「それでいい。本当のあなたに少し近づけた」

余計な綺麗ごとを言うクソジジィだと思い私は睨みつけようとしたが……やめた……
しばらくすると、この暑いのにビシッとした背広を着たおっさんと、ワイシャツとスカートの出で立ちをした薄化粧の綺麗な女性が食堂へと入ってくる。どこか重苦しい表情をした二人。雫の両親で間違いない。一人丸テーブルに座る雫は、自分の両親だというのにぎこちなく会釈した。私と愛ちゃんと神父のジジィはすぐ隣の丸テーブルで、雫を見守るように見ている。私の場合は傍観しているだけだが……

「まぁ、久しぶりに会ったのに気まずそうね? 来ちゃいけなかったかしら?」

椅子に腰かけると、まず最初に口を開いたのは母親のほう。冷たい表情で我が子を見ている。そんな母親に雫は何度か首を横に振る。

「大病患っているくせに、まだ歩けもするみたいだし、どうして元気そうなんだよ? 本当なら今頃痩せ細って身動きできないはずだろ?」

機嫌悪そうに言い放つ雫の父親は、背広の懐から煙草の箱を取り出す。

「ここ……禁煙だよ……」

雫が言うとその父親は溜め息をついてテーブルに煙草の箱を投げ捨てた。

「せっかく私立の進学校に通えていたのに、そんな病気のせいで台無しにしやがって、まったくいい親不孝者だよお前は」

「酷いなー、好きでこんな病気になったわけじゃないし……」

実の父親にそこまで言われて、この馬鹿女は俯きながらも目を細めて笑っている。その姿に私は舌打ちしたい気分になるがグッと堪えた。

「俺が学校に寄付金いくら払ったと思ってるんだ?! 全部無駄になったんだぞ?!」

怒りを露にする父親。それも学校に払った金のことでだ。

「だいたいそんな病気になったのも、あんたが道路飛び出したのが原因でしょ?」

私は怪訝になる。道路を飛び出して不治の病なる? いったいどうしてと考えてしまう。

「まだ小さい子供だったからしょうがないよ」

ぎこちなく言い返す雫。その顔はまだ笑っている。私にも愛ちゃんや神父のジジィにだってわかる。雫は決して心から笑っていない。今ある現実に戦いもせずに笑っている……それは逃げるように笑っているんだ……

「父さんなぁ、会社から退職金前借りすることになったんだ。それもこれもここの入居費用が高いせいだよ。お前のせいで老いぼれになるまで会社の奴隷だよ!」

「エイズなんて同性愛者がなる病気にうちの娘がなっているなんて、ご近所に知られたら私たちは一生惨めよ! 汚らしい……」

我が娘に怨念のようなものをぶつけている雫の両親。雫も私と同じ病気なんだと知った。死がすぐ隣にある理不尽な病気なんだと……雫には随分と酷いことを言ってしまった……謝らなきゃいけないけど……それは今じゃない……

「じゃあ、お前らここに何しに来たんだよ!? ああ!?」

怒声を上げて私は立ち上がる。愛ちゃんもそうしないし、神父のジジィときたらずっとテーブルにある湯気の消えかかったコーヒーカップを見つめている始末だ。お前らが言わないなら私が代弁してやるよ!

「何なんだお前?!」

雫の父親は当然見ず知らずの私に狼狽える。

「家族の話しに入って来ないで! あなたには関係ないことでしょ?!」

金切り声を上げだす雫の母親。こんな母親の腹からよくもまぁ、雫のような人懐っこくていい子が生まれたもんだと思ってしまう。

「初めまして。私の名前は相沢千秋です。雫と同じHIV陽性で今この瞬間も死への絶望の中で生きています。それよりお前らってさぁ、実の娘に嫌味言って鬱憤晴らすためにここ来たのかよ!? 父親だったらもっと自分のことなんて投げ出してさ、不治の病なった娘のこと心配するだろ!? 母親だったら汚らわしくても、娘のこと本当は心のどこかで愛してるはずじゃない! そのことが微塵もないお前らに家族名乗る資格なんて何一つないだろ!」

涙目になりながら怒り私は雫の両親へと訴えたが、彼らの蔑んだ私への表情に訴えなど意味がないものだと悟った。きっとHIVというものがこの人たちにとって差別の対象そのものなのだから……

「千秋ちゃん。私のことはもういいから……お母さんとお父さんに怒らないでよ……」

雫……こいつはまだ笑っている。困った風だけどまだ笑っている……

「何笑ってんだよお前!? そんなの強さでも優しさでも何でもないんだよ! お前の目の前にいる人達なんて、こんなの家族でも何でもないんだよ! いいからもう自分から捨てちまえ! こんな連中! どうせ会っても酷いこと言われるだけなんだろ!?」

私は強く説得した。雫の家族面したこいつらはまるでゴミを見るかのような目で蔑んで私を見ていると、次の瞬間には父親のほうが嫌味にほくそ笑んだ。

「お前らみたいなHIV患者は社会のためにとっとと死んじまえよ。どうせ病気のせいで子供も作れないんだろ? 今を生きていたって未来なんてないくせしやがってよ……! どうして生きてるんだ?! お前らにとってもう意味ないことだろ?!」

食堂にて雫の父親の怒声が響いた。こいつが言うお前らというのは、私だけじゃない。実の娘の雫のことも入っている。安藤のナイフを捨てるんじゃなかったと私は後悔した。弁護士への脅しや自分の手首を切るためじゃなかった。このクソを刺すためにあのナイフはあったんだ。

「誰かの生き死にに意味がないって、どうしててめぇが決めてるんだ!? お前は何様だこら!」

その刹那、誰かが雫の父親の髪を後ろから鷲掴みにして、テーブルにクソ野郎の顔を叩きつける。

「え! あなた!」

今の自分の亭主の姿に雫の母親はただ狼狽えた。

「嘘だろ? やるじゃん」

私はそれを行った人物を見直した。この人はただ不器用にコーヒーカップを見つめたいたんじゃない。怒りを抑えていたんだ。だけど爆発してしまったけど。

「ちょっ……神父様!」

愛ちゃんは両手で口元を押さえて驚いている。先ほどまで大人しそうなイメージの神父のジジィが暴力的な行為に走っているのだから。食堂にいる私たちは騒然とした。

「いいか?! お前が今否定した実の娘さんはな! ここで自分の終末を待ちながら生きているんだよ! 自分の終末が不安な我が子に親なら安心する言葉くらいかけてやるべきだろうが?! どうなんだ?! ああ!!」

雫の父親は鷲掴みにされた後ろ髪を引っ張られ、神父のジジィが耳元で怒りの声を上げている。雫の父親のその額は衝撃によりパックリと割れて血が滴り落ちていた。

「こ、この野郎……! 借金してでも優秀な弁護士雇って、お前を刑務所行きにしてやる……!」

それは悪あがきな言葉だと私は思う。

「刑務所だぁ?! 俺は二十年服役してたんだ! お前殺してまた入りゃいいんだろうが!」

この神父のジジィが元受刑者だとわかった。二十年という長い間刑務所に入っていたということは、きっとこの人は誰かを殺したんだ……それを聞いた雫の父親の表情は青ざめる。額からの出血のせいじゃないだろう。

「あんたはちゃんと見なきゃダメじゃない」

頭を抱え込んでビクビクとしている雫に私は言う。

「あんたは守ってもらえてるんだよ。 いい? とっても幸せなことなんだから目をそらしちゃダメ」

雫は脅えながらも痛い目にあう父を見る。それとヤクザ顔負けの神父様もだ。

「こ、これは私たち家族のも、問題です! 他人のあなたが口出しをしないでください!」

狼狽しながら雫の母親は言う。それを聞いた神父のジジィは雫の父親の後ろ髪を鷲掴みにしたまま呆れた表情を見せた。

「家族だぁ? 世間体やら自分たちの財布のことばかり気にしてるお前らが、家族? 実の娘を邪魔者扱いしてるくせに笑わせんな!」

このジジィ、まさかこの人たちのこと本当に殺る気じゃないのかと私は疑ってしまう。だって目がマジなのだから。

「神父様。これ以上は警察沙汰になりそうなんでその手を放してください。こんなことするの俺が知るあなたらしくありませんよ」

食堂に入ってくる皆口は冷静に神父のジジィを宥めた。

「これは皆口先生のおしゃるとおりです! 私としたことが、取り乱してしまいました。大変申し訳ないことをしてしまった……!」

鷲掴みにした雫の父親の後ろ髪を放すと、神父のジジィは皆口に深く頭を下げた。

「傷深いですか? ちょっと見せてください」

皆口は雫の父親のもとへと歩むと、額の傷を見始める。

「深く割れてますね。まぁ、自業自得なんでしょうけど、傷口縫いますんで処置室にまで来てください。お話ししたいこともありますんで」

傷口を縫うという皆口の言葉に私は開いた口が塞がらない。まさか私の手首の傷を縫ったことで自信でもつけたのだろうか?

「そいつ、傷口縫うのめっちゃヘタクソだよ」

「おい、黙ってろって、せっかく痛い目あわそうと思ったのによ」

呆れながら私を見る皆口に、私の口元は自然と笑みを浮かべてしまう。だって可笑しかったから。

「痛い目あわすだと? それに自業自得ってどういうことだ?! お前は誰の金で飯が食えると思ってるんだ?! 俺のような人間が金払ってるおかげだろうが!」

性懲りもなく雫の父親はまた叫び始める。どうやら元々こういう性格らしい。きっとまたブチギレるだろうと神父のジジィに私が目をやると、ジジィは心底呆れた表情で雫の父親を見ている。

「まぁまぁ、落ち着いてください。とにかく処置室まで行きましょう。傷口も縫いますし、先ほど言ったようにお話しもありますから」

ヘラヘラしながら笑う皆口。堅物そうでキレやすい雫の父親にとってその態度は怒髪天に他ならなかった。

「おい! なめてんのか?! お前みたいなヤブ医者に傷縫われてたまるか! 話したいことあるならここで話せ!」

「ああ、そうですか。手間が省けてこちらとしても嬉しく思います」

皆口はヘラヘラとした態度をやめると、真剣な表情というよりかはどこか蔑んだ表情で雫の父親を見る。

「あなたの娘さんである泉雫さんの月々かかる費用について何ですが、緩和および終末期医療の費用はもうお支払いいただなくて結構です。無料でいいです。全額こちらで負担いたしますんで、だからもうここへは来ないでください。重荷なくなったから、もう楽でしょ?」

皆口は柔らかい口調で話したが、私には吐き捨てる言葉のように聞こえた。雫のクソ親は何やらブツブツと相談しだすと、皆口の申し出を呑んだようで、二人とも何度か軽く頷いて見せる。こいつらに親の資格なんかないと私は実感した。だって、このホスピスに金がかかるから死に行く娘を捨てることにしたんだ。このクソな父親はさっき、借金してでも、弁護士を雇って神父のジジィを刑務所に容れてやるとほざいた。だったら借金してでも、自分の娘の余生を守ってやるべきだろうと私は思う。こんな毒親を雫はお父さんお母さんと呼ぶべきじゃない。私は決めた。雫の味方であると決めた。

「雫。もうこいつらとは縁切りな」

「え……? いきなりそんなこと言われても……困るよ……」

「困るとか、いつもでもふざけたこと言ってんなよ。いくら血がつながっていても、病気になったあんたのこと邪魔者扱いして、たった今見捨てたんだよ? こんなのもう親じゃないよ。それにあんたの作り笑顔、見ているこっちが苦しくなるから、どうかもうしないでほしい」

作り笑顔。それは綺麗な雫には似合わない。雫が椅子から立ち上がってくれたとき、私の口元は自然とほころんだ。

「私はもうあなたたちとは会いたくありません。お父さんはテストの点が悪いとお酒に酔って私をぶつような人だし、お母さんはいつも世間体ばかり気にしていて嫌でした……私はここで最期を迎えるから、どうかもう来ないでください……」

一礼する雫に、割れる額を押さえながら雫の父はほんの一瞬怒りの表情を見せたが、「あなた」と妻に制止されると、その怒りの表情は空しいものへと変わっていく。

「お引き取り下さい」

皆口が言うと雫の両親は何も言わずに去っていく。捨てられた雫はボロボロと泣き出してしまう。

「やるじゃん雫! よく言えたね! さすが私の友達だよ!」

私は泣いている雫に抱き着き、その頭をぎこちなく撫でるしかない。こういうことには本当に慣れていないから……だけど雫という存在を友達として受け入れようとすると、私の胸の中で何かが温かくなるような感じがする……それはとても幸せなことなんだと不器用ながらも私には理解できた……

「今はたくさん泣いて忘れろ雫。何かあったら俺たちがいるだろう? このホスピスいる人達みんながお前の家族みたいなもんなんだから。お前は一人ぼっちじゃないんだからな。これだけは忘れるなよ」

皆口の優しい言葉に雫は私の胸の中で何度も頷いた。ここが、このホスピスが優しい場所だと気づく私。

「私にも、家族みたいな人達……できるかな……? ここにいればできるかな……?」

だから欲を出した。皆口に訊くと、彼は柔らかい笑みを浮かべて首を数回横に振った。

「どうして? 歩生殺すことなんてもういいからさ! あいつと仲良くするように努力する! だからここにいさせてよ!」

雫から離れると私は懇願する。父によって失われた家族をまたここで持つことができるかもしれないと思うと、居ても立っても居られない。ここで、この場所で愛に飢えた日々を終わらせたい……

「駄目だ。君の場合は、まだまだ生きられる。ここは死を穏やかに待つ人しかいない場所だから」

「まだまだ生きられるって?! 住所不定だから薬も買えないの知ってるだろ?! 痩せ細ってどっかの路地裏で一人で死にたくないよ! 私はここがいいんだ! お願いだからいさせてよ……!」

皆口の白衣を両手で掴みながら頼み込む。自分でも図々しい頼みだとわかってる。ワガママで自分勝手な頼みに他ならなかった……

「たく、どうすりゃいいんだよ……」

苦虫を噛み潰したような哀れむ表情で皆口は私を見る。

「経理の人も言ってましたけど、うちってただでさえ赤字ですからね……」

愛ちゃんが割って入ってくる。その表情は皆口と同じく私を哀れんでいた。雫がここにいるのを無料にしたから、金のない私を置ける余裕などないのだろう。馬鹿な私でもそれくらいわかる。

「なら、千秋さん。こういうのはどうですか?」

諦めて俯きそうになったとき、神父のジジィが口を開いた。

「私があなたの身元保証人になりましょう。私が住まいにしている教会があなたの住所になるから、これで住所不定にはなりません。無理に恩返ししろとはいいませんが、私の教会で働いてみてはいかがですか? かなり安いですがもちろん賃金はお支払いします」

またとない提案だった。会って間もない見ず知らずの私に手を差し伸べてくれる人がいた……ジジィ呼ばわりして失礼な態度をとった私にだ……

「いいの……? きっと迷惑かけると思うけど……」

皆口の白衣から両手を放し、上目遣いで何度も神父を見る。

「ええ。いいですよ。迷惑なら好きなだけかけてください。随分と辛い目に遇われてきたんでしょ? 辛いということがどういうことか千秋さんは知っているから、さっき雫さんに行ったように、また誰かに優しくできると私は信じています」

私の辛さをわかってくれる人がいた……そんな初めてな人がいた……私は気が付いたら……泣き止みそうな雫をそっちのけにして、大泣きしていた……今まで生きてきたのが本当に辛い日々だったから……その日々がようやく終わりを迎えたら……

明日の家のホスピスの外は相変わらずセミの鳴き声がした。最初ここに来たときは煩いと感じたが、今では新鮮に感じる。それと同時に夏の美しさも感じる。上を見上げれば暑くて澄んだ夏空が広がっているから。

「千秋。ほら」

皆口が私に茶封筒を差し出す。

「何? もしかしてラブレター? こんな封筒じゃセンスないよ」

茶封筒を受け取り、面白半分に私はふざけて見せる。

「なわけないだろ。俺の知り合いのいる総合病院の紹介状だよ。住所も封筒の裏に書いてあるから必ず行くんだぞ。お前の場合、薬さえ飲み続ければ普通の人生歩めるんだからな。それから手首の抜糸のほうもそこでしてもらえるから」

「皆口……あ、あのさぁー……」

「何だよ?」

私にとって、この言葉を言うのは本当に苦手だ。

「何から何まで……ありがとう……」

本当はそっぽを向いて言うことじゃない。だけど心が何だかくすぐったいのだから仕方ない。

「あ、千秋の照れた顔って新鮮だね」

きっと赤くなった私の顔を愛ちゃんはまじまじと見る。

「う、うるさいな! いいからこっち見んなよ!」

恥ずかしさのあまり、私はまた別の方向にそっぽを向くが愛ちゃんの「うふふ」とからかうような笑い声が嫌でも耳に入った。

「千秋ちゃん。またここに来てくれるよね?」

そっぽを向いた先に雫が寂しそうな笑みを浮かべて立っていた。もしかしてもう会えないと思っているのだろうか? 今はこの子を傷つけるようなことを言ってはいけない。だって私の友達なのだから。私は自分に素直になることにした。

「もちろんまた来るよ。それとも何? 友達に会いに来ちゃいけないの?」

雫の寂しそうな笑みは消えた。

「千秋さん。それでは行きましょうか」

ボロい車の横に立つ神父さんが私を呼んでいる。

「じゃあ、またね雫」

私が言うと

「うん! またね!」

雫は元気よく言葉を返して手を振ってくれた。

「うわぁ、間近で見るとほんとボロい車だね」

どうやらボロくて白い軽自動車が神父さんの愛車らしい。

「失礼ですね。三年ローンでやっと購入したんですよ。私は気に入っています」

神父さんは運転席に乗るとキーを回しエンジンをかけると、私も助手席に乗った。走り出すボロい軽自動車。明日の家のホスピスが遠ざかっていくのを私はバックミラーで見る。まだ手を振り続ける雫と、見守るように見ている皆口と愛ちゃん。ここでいい人たちに会えたことが、私の知らない思いを。本当に嬉しくてかけがえのない思いというものを教えてくれた気がする。

「ねぇ、神父さん。訊いてみたいんだけど、いい?」

山道を走る軽自動車の中で私はおもむろに口を開く。

「はい。どんなことですか?」

「どうして刑務所なんかにいたの?」

私が訊くと神父さんはハンドルを握りながら、若干口元を微笑ませた。

「馬鹿な小僧だったからです。それも救いようのないくらいにね……」

神父さんは左手でハンドルを持つと、右手で左の袖をまくった。その腕には色あせた刺青が彫られていた。神父さんは口元を微笑ませていたが、その微笑みは空しさと後悔に近いものに溢れているかのように感じ取れた。

「若いころ、私は酷い麻薬中毒でした。売り物に手を出していたっことがバレて組を破門されて、禁断症状に苦しんだ挙句に、町にいた適当な売人を殺してクスリを手に入れようとしたんですが……私が殺してしまったのは、ただの仕事帰りのごく普通の男性でした……あの日の私は……これは言い訳にしかなりませんが、クスリの禁断症状で正常な考え方ができませんでした……逮捕されて裁判にかけられて、判決は懲役二十年の実刑になりました……」

それはどこかの誰か。神父さんは歩生に似た境遇だった。

「自分が酷い罪を犯したから、宗教に目覚めたの?」

「まぁ、そうですね。私が神に仕えて、それを誰かに伝えるのは確かに罪滅ぼしですね。語り終えた後に心が楽になった自分がいるのもまた事実ですが、一番の目的は……」

神父さんは両手でハンドルを握りながらまた口元を微笑ませる。

「目的は?」

「生きることや病気に苦しみ絶望している方々に、また希望を思い出してほしい。生きる希望を思い出してほしい。私も服役していたころ、何度か自分から命を絶とうとしましたから……」

つまり自殺をしようとしていたんだこの人は……神父さんは遠い目で何かを懐かしむようにフロントガラスの遠い向こう側を見ているようだった。

「神父さんを生きようとさせた希望は何だったの?」

「まだ生きなきゃという思い。それだけです。今の千秋さんもきっとそうでしょ?」

車の窓越しから夏の木々が流れる景色を見つめる私。

「そうだよ」

とだけ答えた。
こんな病気になったけど、今はとにかく生きてみようと思う。私は最後まで気が済むまで生きてやる。だからそれまではさようなら、私の死への絶望。
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