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第一話 涼しい夏の日に出会った
しおりを挟む「よせよ……!」
涼しい風の吹く夏の日だった。目覚ましの音が鳴る前に俺は目を覚ます。いつもどおり嫌な夢を見ていたらしく目覚めは最悪だった。
軽く欠伸をしながら俺は一階へと降りる。
「おはようございます……」
朝の挨拶をしても返ってくる言葉はない。この家に来てから数年。親戚夫婦からは相変わらず無視されていた。この家で俺はただの邪魔ものでしかない。全ては馬鹿な父と俺のせいだから仕方ない。
俺は身支度を整えて学校へ向かう。今年で十五歳。この少し田舎の海沿いの町にある高校に入れただけよかったと思う。施設なんかに入ればいつまでも可哀そうな目で見られるのはごめんだ……少なくとも今よりマシだと信じたい。
「おい、神崎文哉。今日も相変わらず浮かない顔してるね」
後ろから俺の名を呼ぶ声がしたけど、無視して歩き続ける。
「また無視する。悪い癖だよ。いい加減なおしなよ。そんなんだから友達一人いないんだよ」
柳瀬愛名。こいつを無視するのはいつものことだった。白い夏服の似合う金髪の美人。クラスでも人気な柳瀬だけど、こいつに話しかけられるのは哀れまれているみたいで嫌だった。
「それにしても今年の夏は涼しいよねー。波の音もどこか小さく感じるし心地いいと思わない?」
確かに涼しい夏だと思うけど、俺はいつものように柳瀬には何も話さなかった。
「そういえばうちの学校に特別学級できるの知ってた? 昨日見たけど赤髪の凄くかわいい子が転入してくるみたいだよ」
特別学級? どうでもいいからもう話しかけないでくれ……
学校へと着くと俺はいつもどおり自分の席へと座り俯いた。こうしていれば誰ともかかわらずにすむのだが。
「ねぇ、文哉。今日のお昼は一緒に食べよう。購買のパンとジュース私が奢ってあげるから」
もうかかわらないでくれよ。頼むから一人にしてほしい。柳瀬にそう言葉にできない自分が情けなかった。
ホームルームが始まる。冴えない男性教師が話し始める。
「もうご存じの方もいると思いますが、わが校に特別学級が設立されることになりました。知的障害のあるみなさんより少し年下の子が転入してきます。どうか仲良くしてあげるように」
へぇー……特別学級って、そっちのほうのか……
「それから一限目の体育の授業は、かねてから予定されていた体力測定となりました」
クラス中から半ば悲鳴のような声に包まれる。涼しいとはいえ夏は夏。この学校の体力測定はグランドを何周も走らされるらしい。
「……サボるか……」
必然的な答えが俺の口から出た。
ホームルームが終わると、俺はまだ登校したばかりだというのに教室を後にしていた。
学校の正門の前で背伸びする俺。今日はこのまま学校をサボってどうするか考える。
「とりあえずいつものモールにでも行くか」
街外れにはショッピングモールがある。学校が嫌になるといつもそこでサボっていた。
「あ、お兄ちゃんどこいくの? これから授業があるんだよ」
「え?」
後ろを振り向くと白いセーラ服を着た少女が俺を見て満面の笑みを浮かべていた。
「夏希先生とお絵かきの授業があるよ。うまくお絵かきできたら褒めてもらえるんだよ。頭ナデナデ嬉しくなるよ」
サラサラとした長い赤い髪に同じく純粋そうな赤い瞳をした少女。可愛らしい美少女で俺は思わず見惚れてしまう。歳は俺より少し下くらいなのですぐにわかった。それに言動もどこか普通じゃないから。
「特別学級の子?」
どうでもいいことなのにどうしてか訊いてしまう。
少女は小首を傾げて俺を見るとなぜか嬉しそうに笑った。吹いた夏の涼しい風が少女の赤い髪を揺らす。
「さよなら」
俺は一言だけ言うと、学校を後にする。
さっきの子、知的障害者か。なんだか可哀想なだよな……
海沿いの町をただ歩いていた。
ショッピングモールまであと少しといったところ。着いたらとりあえず展望台でまだ少し早いが昼寝でもするつもりだった。
「ルンルンルン。今日はお兄ちゃんとお絵かき嬉しいなー」
驚いて俺は後ろを振り向いた。
「おい……嘘だろ……!」
満面の笑みを浮かべている知的障害者の少女がいた。学校からずっとついてきたらしく、俺は当然のことながら狼狽えた。
「あ……えっと……帰り方わかるか……? その学校への……」
少女は笑みを浮かべながら俺を見つめるだけで答えは返ってこない。
「はぁー……仕方ない……」
俺は少女の手首を掴むと、来た道を戻ることにするのだが。
「やだ!」
少女は俺の手を振り払うと地面に座り込む。
「お絵かき! お絵かき!」
「そんなの学校でやれよ!」
しまった。そう思ったときにはもう遅い。俺が大きな声を出したせいで少女の赤い瞳は涙目へと変わろうとしている。
「わかった! わかったよ! どこでお絵かきしたいんだよ!」
また大きな声を出してしまった俺。本当に馬鹿だ。今度こそ泣かしてしまうのか……?
「お兄ちゃんが行くところ」
まだ涙目だったが。笑みを浮かべなおしてくれた少女にホッと胸をなでおろしていた。
「いいよ……それで満足なら……」
少女は俺に向かって手を伸ばした。
「……手までつなぐのかよ……」
俺も馬鹿じゃない。今度は小声で言った。
少女の手のひら。きっと夏のせいだと思うけど。不思議と温かい何かを感じてしまう……
ショッピングモールへと着く俺たち。平日だから人はあまりいない。
「わぁー!」
モールがそんなに珍しいのか? 俺から手を離すと、知的障害者の少女は走り出して嬉しそうに辺りを見回す。
「そういえば、名前は?」
とりあえず俺は訊いておくことにする。
「うーん……ななえ」
それは名字なのか? それとも下の名前でいいのか?
「いつもはななえって呼ばれてるのか?」
「夏希先生は祭里ちゃんっていうよ。ななえはまだうまく書けないけど、夏希先生はきっとできるって言ってくれるよ」
名字はななえで、下の名前は祭里か。それにしても、この子が学校にいないことはもうバレているに違いない。俺が連れ出したみたいなことになれば、その夏希先生とやらに怒られるのだろうか? そう考えると気が重い。
「お兄ちゃんの名前も教えてよー」
「文哉。神崎文哉」
「ふみや? 文哉!」
俺の気の重さを恐らく知らない祭里は嬉しそうに飛び跳ねた。
それにしても……俺はこいつより年上なのに呼び捨てはどうかと考えてしまう……
「ねぇ、文哉。お絵かきはどこでするの?」
「え?」
見たところこいつは何も持っていない。幸いなことにここはショッピングモール。お絵かきの道具をいくつか買ってやるしかなかった。
モールにある雑貨屋でスケッチブックと色鉛筆を祭里のために購入する。割と高かった。
「これでいいんだろう……」
「わぁー、宝物だ!」
祭里は目をキラキラとさせながら喜んでくれた。それにしても宝物なんて大げさだ。俺も不意に笑みをこぼしてしまう。
そういえば……笑ったのなんていつぶりだろうか……?
「とりあえず展望台でお絵かきな? わかったか?」
「うん! 文哉、ありがとう!」
ちゃんとお礼が言えるならいい子だろ。
とりあえずこのまま展望台へと行こう。そこで祭里がお絵かきを終えたら学校へと戻って……
言い訳でもして怒られよう……
「文哉、文哉。アイス」
雑貨屋の隣はアイス屋だった。
「わかった……アイス……俺も食べたかったんだ……」
俺は本当は食べたくなかった。カップに入ったバニラのアイスを二つ購入して、俺たちは展望台へと向かった。
展望台には誰もいない。俺と祭里の二人だけだった。ここは静かな海を一望できる。一人でぼーっと眺めるのが好きなのだが。誰かと来るのは初めてで少し違和感があった。
空いているベンチに座る俺。祭里も隣に座ってアイスを食べながら、買ったばかりのスケッチブックでお絵かきを始めた。
「お絵かき楽しいか……?」
別にどうだっていいのだが、俺は訊いてしまう。
「楽しいよー、帰ったら夏希先生に見せるのー」
「アイス、美味しいか……?」
「おいしいよー」
「俺のも食べるか?」
「うん!」
何気ないどうでもいい会話。こんなふうに誰かと会話するのは本当に久しぶりだった。なんだか心が落ち着いてくる……
そういえば……ずっと満足に眠れてなかったんだ……いつも寂しかったから……一生ついて回る過去があるから……
いつの間にか眠ってしまったらしく、俺はゆっくりと瞳を開けた。
「ああ……おい……!」
目覚めた瞬間、俺は狼狽えた。展望台から見える空はすっかり夕日のオレンジ色に包まれている。
祭里はというと、俺の膝の上でスヤスヤと眠っている。
「祭里! 起きろ!」
初めてこの子の名前を声に出して呼んだ。
「やだ……」
眠りながらスケッチブックを抱きしめる祭里。
「やだじゃないんだよ! 帰るぞ!」
祭里を起こそうとするが余計に眠るだけだった。
「どんな一日なんだよ……」
俺は眠っている祭里をおんぶするしかない。とにかく学校まで連れて帰らないと。
夜になりかけた海沿いの町を歩く俺。祭里の体は小柄で俺の背中で眠っていることはそれほど苦ではなかった。
「本当のこと話すのか……俺……」
学校サボって知的障害者の少女とショッピングモールにある展望台でお昼寝してこんな時間になりました。はたして信じてもらえるのか? 絶対変な誤解をされて警察に捕まるんじゃないだろうか。そう考えただけで不安だった。
「文哉……今日は楽しかったね……また遊んでね……」
「そうだな」
二度と遊ぶか……! それに遊んだ覚えなんて俺にはない……!
「文哉の背中……温かくて優しいね……」
祭里は俺の背中で気持ちよくまた眠り始めた。
「……優しくなんてないよ……」
そうだ。自分でも許されないことをしたんだ……
学校の前まで来ると、俺は祭里をおんぶしたまま凍り付いた。校庭で二台のパトカーの赤色灯が光っているのが見えたから……
「あ! 祭里ちゃん!」
眼鏡を掛けた一人の女性が慌てた様子で駆け寄ってくる。ポニーテールをした教員らしき女性だけど、この学校では見たことがない。
「この子です! 見つかりました!」
眼鏡越しの瞳は涙で滲んでいた。
「君。少しだけお話しいいかな?」
数人の警察官が俺を取り囲む。
「あ……夏希先生だ……!」
祭里も目が覚めたようで俺の背中から飛び降りると、夏希先生とやらに嬉しそうに抱き着いた。
「学校サボるの一度や二度じゃないらしいね。どうしてあの子といるの?」
一人の警察官が俺に質問してくる。夏希先生とやらも祭里を抱きしめながらどこか不安げに俺を見ていた。
「ぶしつけで訊いて悪いけどさぁ、お父さんとのこと知ってるよ」
俺の父親。警察官たちは何が言いたいのか知っている。頭がおかしくなりそうで今にも叫び声を上げそうになる……
「文哉……お絵かきのことどうして言わないの……?」
祭里は持っていたスケッチブックを広げた。へたくそな海の絵が描かれたスケッチブックの一ページ目。
「祭里、もうアイス食べられないの……?」
悲しそうな表情を浮かべる祭里。
「また買ってやるから心配するな」
俺が言ってやれることはそれだけなのに、祭里は安心したように笑顔を見せてくれた。誰にも負けない無垢な笑顔を……
「あのー……少しいいでしょうか……?」
夏希先生とやらが片手を上げて割って入ってきた。
「その、祭里ちゃんも別に何かされた様子はないようですし……」
どういう意味だ。この女教師……!
「文哉。またアイス食べながらお絵かきしよう。今度は文哉がたくさん笑うんだよ」
「ほら、この子も懐いていることみたいですし……事件性はないということで……」
警察官たちに夏希先生は頭を深々と下げる。
「ご迷惑おかけして本当に申し訳ありません!」
警察官たちも半ば呆れた様子でも納得したようだった。
「わかりました。でもそういう子にはきちんとしたケアが必要ですから、今後は目を離さないようにお願いしますね」
「はい! ごもっともです!」
パトカーに乗り去っていく警察官たち。俺と父親とのことをこれ以上訊かれずにすんでよかった。心が安心を覚えていた。
「さてと……祭里ちゃん! 先生がどれだけ心配したかわかっていますか!?」
「夏希先生。祭里、海のお絵かきしたんだよ!」
怒られていることなどそっちのけで、自慢げにまたあのへたくそな海の絵を見せる祭里。
「このスケッチブック。あなたがあげたの?」
「え? ああ……まぁ……」
「そう。ありがとうね。祭里ちゃんもよかったね」
「うん! 宝物だよ!」
祭里は嬉しそうにスケッチブックを抱きしめる。
「お腹空いたでしょ? 先生もお腹ペコペコだからもう帰りましょう。今日の夕食は何の日だっけ?」
「オムライスの日! 文哉と一緒に食べるんだよ!」
「うふふ。いいねそれ。名前文哉君でいいのよね? 夕食、食べていきなさい」
「いや……俺……」
「食べていきなさいよ……! 君がサボったせいもあるんだから……!」
夏希先生。顔には笑みを浮かべていても実は怒っているのがよくわかった。確かに今回のこと、俺のせいでもある。
「じゃあ……お邪魔するということで……」
祭里はとても嬉しそうで、夏希先生も何度か頷いた。それにしてもこの二人は教師と生徒という間柄で一緒に住んでいるようだった。
夏希先生と祭里が住んでいる家。まだ引っ越しの途中のようで、荷物の入ったままのダンボール箱がいくつかあった。
「散らかっていてごめんなさいね。料理ができるまで適当にくつろいでいて」
「ああ……はい……」
ソファに座る俺。誰かの家にお邪魔することなんてほとんどないから緊張してしまう。
「文哉。文哉が家にいる。嬉しいなー」
祭里が俺の隣に座る。俺の顔をそれは嬉しそうに見つめていた。
「ねぇ、文哉。笑ってよ。祭里も笑うから」
突然笑えと言われても俺は困惑してしまう。俺にとっては苦手なことだから……
「えへー」
祭里の曇りない無垢な笑顔を見せる。俺はぎこちない笑みを見せるしかなかった。
「あら、二人ともいい笑顔じゃない」
料理の支度をしながら夏希先生が言う。余計なお世話だと照れくさくなるが、俺には一つ気がかりなことがあった。夏希先生は俺の過去を知ったうえで接しているのだろうか? もしも知っていれば無理しなくていいと俺は思った。
三人で食卓を囲む。夏希先生のオムライスはとても美味しい。
「祭里、明日もオムライスがいい!」
「ダーメ。明日はカレーの日でしょ?」
「カレーも楽しみ!」
口元にケチャップをつけながらはしゃぐ祭里。夏希先生はティッシュで優しくふき取る。
「はいはい。食べ物を食べるときはどうするんだっけ?」
「えーとね。慌てずゆっくり食べる!」
「そう。よく言えました」
楽しそうに食事を続ける二人を俺は見つめてしまう。とても温かくて優しいものがそこにはあったから……どこか羨ましく感じた……
「この子と暮らすようになってから毎日がこんな感じ。騒がしくてごめんなさい」
「い、いえ……なんだか楽しいです……」
事実俺は楽しかった。祭里と夏希先生の騒がしい姿を見ているだけで楽しく感じた。
誰かと食事するって、こんなに楽しかったんだ。知らなかった……
食事を終えた頃にはすっかりいい時間になったいた。
「お風呂に入ったらもう寝なさい。二階に空いてる部屋があるから」
「え? あの、俺、泊まるんですか?」
「そうよ。もう夜も遅いから。お風呂、最初は祭里ちゃんと私が入るね。この子一人じゃシャンプーできないの」
苦笑いを浮かべながら夏希先生は祭里とお風呂場へと消えていく。
「なんていうか……」
とても平和で楽しい暮らしを実感していた。俺が知っている暮らしなんて、親戚夫婦からは厄介者扱いされて無視される暮らし……全てはアルコール依存症だった父親のせいだ……
祭里と夏希先生がお風呂から上がると、先生はドライヤー片手に祭里を追いかけまわしていた。
「こら! 祭里ちゃん! 髪の毛ちゃんと乾かさないとだめでしょう!」
「やだー、このまま寝る」
笑いながら部屋を駆け回る祭里。追いかける夏希先生もどこか楽しそうだった。
「ごめんね。お風呂入ってきて」
祭里を羽交い締めにした夏希先生に言われ、俺はお風呂場へと向かう。
湯船に浸かると不思議と気分が落ち着いた。こんな風に落ち着くのはいつぶりだろうか?
俺にはきっと初めてのことだった……
お風呂から上がり、二階へと上がると夏希先生が布団を敷いてくれていた。
「お湯加減どうだった?」
にっこりと笑う夏希先生に俺は頷くしかなかった。
「また暗い顔してるけど、どうかしたの?」
「あ、あの先生……俺がしたこと……知ってるんですか……?」
黙っていればいいことなのかもしれないのに、俺は訊いていた。
「知ってる。でも先生は、どうしてもあなたが悪いとは思えないの」
それが優しい言葉でも俺は苛まれるしかなかった。
「文哉。一緒に寝よう」
祭里が枕片手に入ってくる。
「ダーメ! 祭里ちゃんは女の子! 文哉君は男の子だから緊張しちゃうの! イケない関係は許しません!」
祭里は訳が分からず小首を傾げるが、俺は恥ずかしくて下を向いてしまう。
イケない関係ってなんだよ……
「今夜はいつものように先生と一緒に寝ましょう!」
「うー……イジワル……嫌い……」
「先生はイジワルではありません」
祭里の手を取る夏希先生は、どこか祭里の扱いを知っているようだった。
「さぁ、寝る前はなんて言うのかな?」
「えーとね……おやすみなさい」
「え……あ……」
おやすみなさい。ごく当たり前なそんな言葉使ったことがない。
「文哉君」
「お、おやすみなさい……」
初めて使った言葉だった……
「うん! おやすみなさい」
部屋から出ていく夏希先生と祭里。俺は布団へと横になる。
「……楽しい一日だったな……」
不意にそんな言葉が口から出てしまう……
最後に楽しいと思えた日はいつだった……?
小さい頃から虐待されていたから、俺にそんな日はなかったんだ……
今夜もきっとあの頃の夢を見るんだ……
誰も救ってくれない過去の夢を……
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