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第二話 過去の弱さへ
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あの夜、酒に酔った俺の父がいつものように母さんを殴っていたと思った……
だけど、その夜の父の怒りは異常だった。俺はいつものように部屋の隅で震えながら母さんが殴られるのを黙ってみていた。
「どいつもこいつも俺に逆らいやがって!」
いつものように母さんは黙って父に殴られ続けるのだが、血の泡を吹いて動かなくなったのをよく覚えている。
「ちっ死にやがったかアバズレが! 黙って股でも開いてりゃよかったんだ!」
父は酒に酔ってふらつきながら台所から包丁を取った。
「文哉……! 母さん死んだぞ!」
俺は実の父親に包丁で刺されそうになった。寸前のところで逃げれたけど、父は床に足を滑らせて、頭を打ってもがき苦しんでいる……俺の目の前には父の落とした包丁がある……
「……よせよ……!」
相変わらず最悪な目覚めだった……窓の外を見ると空は若干まだ暗く、時計の針は朝の五時を指していた。
「ここにはいられないよな……」
俺はフラフラとしながら起き上がる。祭里と夏希先生はまだ寝ているから、俺は起こさないように夏希先生の家を後にする。
本当はありがとうの一言でも言うべきだったと思う……
ただ呆然と朝の訪れを待つ砂浜を歩いていた……忘れたい過去を少しでも紛らわせるために……
夜の暗さを浴びた海にふと目が行く……
「このままそこに入れば楽になるのかな……? 俺、もうこんなの抱えるの苦しいよ……」
自分でも情けないと思う涙声を出していた……
俺は学校に行くしかなかったから、教室にある自分の席に座っていた。
空が青い夏空になったころ、教室にはほとんど話したことのない生徒たちが入ってくる。俺が教室に一番乗りしていたので、皆が不思議そうにチラチラと俺を見ていた。
「あ! おい! 文哉!」
柳瀬愛名が俺に気づく。
「昨日学校サボったでしょ?! 購買のパン奢るって約束したでしょ!」
相変わらずうるさかった……
頼むから一人にしてほしいのに、愛名は喋り続ける。
「サボってどこに行ってたの? 特別学級の子もいなくなって警察沙汰になったらしいよ!」
元凶が俺だと言えばこいつは黙ってくれる? いや、真実を知ればもっとうるさくなると思う……
「うわぁ、元気のない顔……今日こそ購買のパン奢ってあげるから、元気出しなよ!」
俺の頭にポンと頭を乗せる愛名。頼むから手をどけてくれと心から願ったとき、ホームルームが始まるチャイムの音に救われた。
「私、あんたのこと嫌いじゃないからね」
ホームルームが始まり、授業が始まり終わる。退屈でウトウトしていれば昼休みが訪れた。
「文哉。待ちに待った昼休み! 購買行こう!」
元気そうな笑顔を見せる愛名。昨日は祭里に色々買ってやったから正直金欠だった。
「わかった」
奢ってくれるのは助かる。
「文哉いたよー! 見つけた! 見つけた!」
突然クラスに入ってきた赤い髪の美少女にみんなが目を奪われた。祭里だった。
「あのね夏希先生とサンドイッチ作ってくれたんだよ。文哉と一緒に食べなさいって言われたの!」
祭里は透明なタッパーを俺に見せる。中にはサンドイッチが入っていた。
「食べよう。食べよう。祭里、文哉とお昼食べるー」
嬉しそうな祭里。クラスのみんなは祭里が普通じゃないと気づいた様子でヒソヒソし始めていた。
「文哉ー、食べようよ」
「え……ああ……」
俺は不思議と頷いていた。祭里にはどういうわけか正直になれた。もしかしたら傷つけたくないのかもしれない。
「この子、特別学級の子?」
愛名が訊いてくる。その表情はどこか険しかった。
「まぁ、訊かなくてもわかるけど。まさかこんな壊れた子とできてるの?」
「なんだよ、その言いかた」
明らかに愛名には悪意があった。
「サンドイッチ。一緒に食べませんかー」
愛名の悪意など知りもせずに、祭里は無垢な笑みを浮かべている。
「え? なに? 食べるわけないじゃん」
「夏希先生と私が作ったからおいしいですよー」
「こいつ! ヘラヘラ笑うな!」
祭里の持ったタッパーを床に叩きつける愛名。俺は驚くだけで何もできなかった……
「ご、ごめんなさい……」
赤い目に涙を浮かべる祭里。ただ泣くにしては様子がおかしい。
俺にはどこか怯えているように感じた時だった……
「ごめんなさい! 母さんごめんなさい! いやぁぁー!!」
床にうずくまり泣き出す祭里は奇声を上げた。クラス中が騒然とし、愛名は呆然と祭里を見ている。
「祭里! おい! どうした?! 大丈夫か?!」
俺が祭里の両肩を掴み落ち着かせようとするが……
「ひろう、ひろう……ひろって食べる……!」
床に落ちたぐちゃぐちゃになったサンドイッチを食べようとする祭里。
「バカ! こんなの食べなくていいんだよ!」
「怒らないで……! 怒らないで……! いやだ! いやだ!」
どうすればいいのかわからずに俺は途方に暮れるしかなかった。
「祭里ちゃん!」
祭里の奇声を聞きつけてくれたらしく、夏希先生がクラスに入ってくる。
「文哉君! どいて!」
俺は言われるがまま祭里の両肩から手を放す。
「ほら、祭里ちゃん、もう大丈夫だよ。先生がいるからね」
夏希先生は、祭里を抱きしめる。
「いやぁぁー! やー!!」
奇声をあげるのをやめない祭里。
「よし、先生と一緒にサンドイッチまた作ろう。お家でテレビ見ながら一緒に食べようね」
祭里の背中を優しくさする夏希先生。
「動物さんがいっぱい出てくるテレビ好きだよね」
祭里はとにかくいっぱい泣いて叫んでいた。愛名に目をやると、自分の震えた手の爪を噛みながら狼狽えているようだった。俺も愛名と同じ。違うとするなら途方に暮れて立ちすくんでいるということだ……周りは騒然としている……
「うん、うん。今はたくさん泣こう。先生、ずっとそばにいるから」
俺たちとは違って、夏希先生は周りの目など気にもせず祭里を慰め続けていた。
俺と夏希先生は保健室に来ていた。祭里は泣き疲れてベッドで眠っている。
「ごめんなさいね。驚いたでしょ。私と暮らすようになってからは、あんなことはあまりなかったんだけどなぁー……どうしてだろう……」
どこか疲れた表情を夏希先生は見せていた。
「いや、あいつが悪いし……」
あいつ。このことを引き起こした張本人である愛名は気分が悪いと早退していた。謝りの一言もないのに俺は腹が立っていた。
「この子。父親が誰だかわからないの。母親と古いアパートでずっと二人で暮らしていたらしいけど、ネグレクトされていて、初めて会ったときは言葉も遅れていて、酷い状態だった……」
ネグレクト、つまりは虐待。俺と同じだったんだ……
祭里の寝顔を見つめ自分と重ねてしまっていた……
「それより文哉君。朝起きたらいないから心配したのよ。多分学校にはいると思って……」
うるさい……
「お前に何がわかんだよ! 俺は物心ついた時から父親に殴られていたんだよ! 母親は愛想笑いするだけで、何の力にもなってくれなかった! こんな心の傷、消したいと願っても一生消えないんだよ!」
怒りにまかせて叫んでいた。心の弱さを叫んでいた。誰にもわかってもらえないと信じて疑ってこなかったから……
「心配はさせて……お願いよ……! 私は罪と向き合いたいの……! あなたたちを助けるためにいると信じてる……」
心配? 罪? 助ける? この人何言ってんだ……?
「俺みたいなやつ、どうやったら助けられるんだよ!?」
「文哉……怒るのはいけませんよ……」
祭里が目を覚ました。自然と俺は作り笑いを浮かべてしまう。どうしてか? 自然と怒りが引いていた……
「自分が傷つくだけって、夏希先生が教えてくれたんだよ」
「祭里ちゃん。起きたねー。お腹空いてる?」
「うん。お腹空いた」
空腹そうな祭里。お昼のサンドイッチはあんなことになったし当然か。
「文哉君もお腹空いてるよね?」
訊いてくる夏希先生。俺は朝から何も食べていなことに気がつくと、酷く空腹だった。
「前から先生が気になっていたお店があります。それは海沿いにある古いレストランです。今から三人で行くことにします。いいですか?」
「はーい!」
祭里は元気よく両手を上げて返事をする。
「文哉君。一緒に行こう」
夏希先生は俺に笑ってくれた。先ほど俺が怒声を上げたことなど許すかのような優しい笑みで。
「行こうよ。文哉」
祭里も笑ってくれる。俺はこの子にどこか特別な感情でも……
「……行くよ……」
俺が言うと二人は嬉しそうに喜んでくれた……こんな俺が一緒にいることにどうして喜んでくれるのだろう……? 俺にはわからなかった……
海沿いにある古いレストラン。ここは高いと有名で地元の人は滅多に訪れない。
「う、嘘でしょ、この値段……!」
夏希先生はメニューを見ながら驚愕しているようだった。
「先生……ほかの店にする? ここ本当に高いよ……」
「いえ、いえ、今日は先生の奢りだから! 遠慮なんてしなくていいの!」
夏希先生は明らかに無理をしているようだった。
「祭里、オムライスがいい!」
「それは昨日食べたでしょう。今日はカレーの日です。だから三人でカレーを食べましょう」
カレー。古いレストランのメニューには海鮮カレーとあるが、やはりというか値段は高かった。
海鮮カレーは値段の通りかなり美味しかった。祭里も俺も夢中で食べていたが、夏希先生の表情は浮かないものだった。
食べ終わった後、祭里は窓から見える海を見ていた。
「海は綺麗だねー」
祭里は笑う。俺も不思議と笑った。
「お散歩にでも行く?」
「行くー!」
「よし、三人で砂浜お散歩しよう!」
砂浜か……
今朝、少し自殺を考えてしまったことが、嫌でも頭によぎった……
涼しい夏の風が吹く静かな砂浜。
「綺麗で静かな場所よね。祭里ちゃんといつまでも暮らせる場所をって選んでここに越してきた。間違ってないって信じたいな……」
静かに波打つ海を見つめる夏希先生。
「俺は過去が暗いからかな? 初めてこの海を見ても何とも思わなかった……」
「それなら今からでも明るくしよう。文哉君には私たちがいる。きっとこの海が綺麗だって思える日が来る。三人で楽しい日々を生きるのも悪くないでしょ?」
三人で楽しい日々か……
「確かに悪くないですね」
俺が海を見つめた時だった。
「海ー! 泳ぐよー!」
祭里は制服を着たまま海の中へと走り出す。
「あ! 祭里ちゃん! いけませんよ!」
叫ぶ夏希先生。
「俺、捕まえてきます」
俺は海の中へと入る祭里を追いかけた。少し冷たい海の水。
「まだ冷たいねー、もっと夏になればいいのになー」
祭里は、はしゃいでいた。着ているセーラー服が濡れるのも構わずに海の浅瀬を走り回っていた。
「どうしてもっと夏になればいいんだ?」
どういうわけか俺は訊いてしまう。少し気になったのかもしれない。
「祭里の母さんは夏が好きだからー!」
「祭里はお母さんのこと好きなのか……?」
「うん! 大好き!」
自分を虐待していた母親が大好き? 俺には理解できなかった。
俺の母さんは俺と同じでいつも父に殴られて最後には殺された……無力で弱かった俺の母さん……もう会えないとわかっていても不思議と悲しくなかった……
「どうして? お前、殴られたりしたんだろ?」
海の浅瀬にて俺は祭里に訊いていた。祭里はどこか不思議そうに俺を見つめると、小首を傾げた。
「だって祭里の母さんだもん」
「何だよそれ……」
俺は気でも狂ったのか……? 目からは涙がボロボロと出てしまう……
「俺……俺は自分の父親……刺し殺して……いつも心が暗くて……死んじまいたいのに、それができなくて……」
心の弱さを祭里にさらけ出していた……
祭里は優しく無垢な笑みを浮かべながら俺を見ている……
「文哉は祭里と一緒にいよう。だから泣かなくていいんだよ」
それは祭里の優しい言葉だった。
優しさにて、俺は祭里を愛そうと思う……
救われた気がして、心の暗さが少しだけ消えた気がしたから……
自分から死んで楽になるのはやめることにする……
ただ涙を拭って、俺は祭里を見つめていた……
だけど、その夜の父の怒りは異常だった。俺はいつものように部屋の隅で震えながら母さんが殴られるのを黙ってみていた。
「どいつもこいつも俺に逆らいやがって!」
いつものように母さんは黙って父に殴られ続けるのだが、血の泡を吹いて動かなくなったのをよく覚えている。
「ちっ死にやがったかアバズレが! 黙って股でも開いてりゃよかったんだ!」
父は酒に酔ってふらつきながら台所から包丁を取った。
「文哉……! 母さん死んだぞ!」
俺は実の父親に包丁で刺されそうになった。寸前のところで逃げれたけど、父は床に足を滑らせて、頭を打ってもがき苦しんでいる……俺の目の前には父の落とした包丁がある……
「……よせよ……!」
相変わらず最悪な目覚めだった……窓の外を見ると空は若干まだ暗く、時計の針は朝の五時を指していた。
「ここにはいられないよな……」
俺はフラフラとしながら起き上がる。祭里と夏希先生はまだ寝ているから、俺は起こさないように夏希先生の家を後にする。
本当はありがとうの一言でも言うべきだったと思う……
ただ呆然と朝の訪れを待つ砂浜を歩いていた……忘れたい過去を少しでも紛らわせるために……
夜の暗さを浴びた海にふと目が行く……
「このままそこに入れば楽になるのかな……? 俺、もうこんなの抱えるの苦しいよ……」
自分でも情けないと思う涙声を出していた……
俺は学校に行くしかなかったから、教室にある自分の席に座っていた。
空が青い夏空になったころ、教室にはほとんど話したことのない生徒たちが入ってくる。俺が教室に一番乗りしていたので、皆が不思議そうにチラチラと俺を見ていた。
「あ! おい! 文哉!」
柳瀬愛名が俺に気づく。
「昨日学校サボったでしょ?! 購買のパン奢るって約束したでしょ!」
相変わらずうるさかった……
頼むから一人にしてほしいのに、愛名は喋り続ける。
「サボってどこに行ってたの? 特別学級の子もいなくなって警察沙汰になったらしいよ!」
元凶が俺だと言えばこいつは黙ってくれる? いや、真実を知ればもっとうるさくなると思う……
「うわぁ、元気のない顔……今日こそ購買のパン奢ってあげるから、元気出しなよ!」
俺の頭にポンと頭を乗せる愛名。頼むから手をどけてくれと心から願ったとき、ホームルームが始まるチャイムの音に救われた。
「私、あんたのこと嫌いじゃないからね」
ホームルームが始まり、授業が始まり終わる。退屈でウトウトしていれば昼休みが訪れた。
「文哉。待ちに待った昼休み! 購買行こう!」
元気そうな笑顔を見せる愛名。昨日は祭里に色々買ってやったから正直金欠だった。
「わかった」
奢ってくれるのは助かる。
「文哉いたよー! 見つけた! 見つけた!」
突然クラスに入ってきた赤い髪の美少女にみんなが目を奪われた。祭里だった。
「あのね夏希先生とサンドイッチ作ってくれたんだよ。文哉と一緒に食べなさいって言われたの!」
祭里は透明なタッパーを俺に見せる。中にはサンドイッチが入っていた。
「食べよう。食べよう。祭里、文哉とお昼食べるー」
嬉しそうな祭里。クラスのみんなは祭里が普通じゃないと気づいた様子でヒソヒソし始めていた。
「文哉ー、食べようよ」
「え……ああ……」
俺は不思議と頷いていた。祭里にはどういうわけか正直になれた。もしかしたら傷つけたくないのかもしれない。
「この子、特別学級の子?」
愛名が訊いてくる。その表情はどこか険しかった。
「まぁ、訊かなくてもわかるけど。まさかこんな壊れた子とできてるの?」
「なんだよ、その言いかた」
明らかに愛名には悪意があった。
「サンドイッチ。一緒に食べませんかー」
愛名の悪意など知りもせずに、祭里は無垢な笑みを浮かべている。
「え? なに? 食べるわけないじゃん」
「夏希先生と私が作ったからおいしいですよー」
「こいつ! ヘラヘラ笑うな!」
祭里の持ったタッパーを床に叩きつける愛名。俺は驚くだけで何もできなかった……
「ご、ごめんなさい……」
赤い目に涙を浮かべる祭里。ただ泣くにしては様子がおかしい。
俺にはどこか怯えているように感じた時だった……
「ごめんなさい! 母さんごめんなさい! いやぁぁー!!」
床にうずくまり泣き出す祭里は奇声を上げた。クラス中が騒然とし、愛名は呆然と祭里を見ている。
「祭里! おい! どうした?! 大丈夫か?!」
俺が祭里の両肩を掴み落ち着かせようとするが……
「ひろう、ひろう……ひろって食べる……!」
床に落ちたぐちゃぐちゃになったサンドイッチを食べようとする祭里。
「バカ! こんなの食べなくていいんだよ!」
「怒らないで……! 怒らないで……! いやだ! いやだ!」
どうすればいいのかわからずに俺は途方に暮れるしかなかった。
「祭里ちゃん!」
祭里の奇声を聞きつけてくれたらしく、夏希先生がクラスに入ってくる。
「文哉君! どいて!」
俺は言われるがまま祭里の両肩から手を放す。
「ほら、祭里ちゃん、もう大丈夫だよ。先生がいるからね」
夏希先生は、祭里を抱きしめる。
「いやぁぁー! やー!!」
奇声をあげるのをやめない祭里。
「よし、先生と一緒にサンドイッチまた作ろう。お家でテレビ見ながら一緒に食べようね」
祭里の背中を優しくさする夏希先生。
「動物さんがいっぱい出てくるテレビ好きだよね」
祭里はとにかくいっぱい泣いて叫んでいた。愛名に目をやると、自分の震えた手の爪を噛みながら狼狽えているようだった。俺も愛名と同じ。違うとするなら途方に暮れて立ちすくんでいるということだ……周りは騒然としている……
「うん、うん。今はたくさん泣こう。先生、ずっとそばにいるから」
俺たちとは違って、夏希先生は周りの目など気にもせず祭里を慰め続けていた。
俺と夏希先生は保健室に来ていた。祭里は泣き疲れてベッドで眠っている。
「ごめんなさいね。驚いたでしょ。私と暮らすようになってからは、あんなことはあまりなかったんだけどなぁー……どうしてだろう……」
どこか疲れた表情を夏希先生は見せていた。
「いや、あいつが悪いし……」
あいつ。このことを引き起こした張本人である愛名は気分が悪いと早退していた。謝りの一言もないのに俺は腹が立っていた。
「この子。父親が誰だかわからないの。母親と古いアパートでずっと二人で暮らしていたらしいけど、ネグレクトされていて、初めて会ったときは言葉も遅れていて、酷い状態だった……」
ネグレクト、つまりは虐待。俺と同じだったんだ……
祭里の寝顔を見つめ自分と重ねてしまっていた……
「それより文哉君。朝起きたらいないから心配したのよ。多分学校にはいると思って……」
うるさい……
「お前に何がわかんだよ! 俺は物心ついた時から父親に殴られていたんだよ! 母親は愛想笑いするだけで、何の力にもなってくれなかった! こんな心の傷、消したいと願っても一生消えないんだよ!」
怒りにまかせて叫んでいた。心の弱さを叫んでいた。誰にもわかってもらえないと信じて疑ってこなかったから……
「心配はさせて……お願いよ……! 私は罪と向き合いたいの……! あなたたちを助けるためにいると信じてる……」
心配? 罪? 助ける? この人何言ってんだ……?
「俺みたいなやつ、どうやったら助けられるんだよ!?」
「文哉……怒るのはいけませんよ……」
祭里が目を覚ました。自然と俺は作り笑いを浮かべてしまう。どうしてか? 自然と怒りが引いていた……
「自分が傷つくだけって、夏希先生が教えてくれたんだよ」
「祭里ちゃん。起きたねー。お腹空いてる?」
「うん。お腹空いた」
空腹そうな祭里。お昼のサンドイッチはあんなことになったし当然か。
「文哉君もお腹空いてるよね?」
訊いてくる夏希先生。俺は朝から何も食べていなことに気がつくと、酷く空腹だった。
「前から先生が気になっていたお店があります。それは海沿いにある古いレストランです。今から三人で行くことにします。いいですか?」
「はーい!」
祭里は元気よく両手を上げて返事をする。
「文哉君。一緒に行こう」
夏希先生は俺に笑ってくれた。先ほど俺が怒声を上げたことなど許すかのような優しい笑みで。
「行こうよ。文哉」
祭里も笑ってくれる。俺はこの子にどこか特別な感情でも……
「……行くよ……」
俺が言うと二人は嬉しそうに喜んでくれた……こんな俺が一緒にいることにどうして喜んでくれるのだろう……? 俺にはわからなかった……
海沿いにある古いレストラン。ここは高いと有名で地元の人は滅多に訪れない。
「う、嘘でしょ、この値段……!」
夏希先生はメニューを見ながら驚愕しているようだった。
「先生……ほかの店にする? ここ本当に高いよ……」
「いえ、いえ、今日は先生の奢りだから! 遠慮なんてしなくていいの!」
夏希先生は明らかに無理をしているようだった。
「祭里、オムライスがいい!」
「それは昨日食べたでしょう。今日はカレーの日です。だから三人でカレーを食べましょう」
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食べ終わった後、祭里は窓から見える海を見ていた。
「海は綺麗だねー」
祭里は笑う。俺も不思議と笑った。
「お散歩にでも行く?」
「行くー!」
「よし、三人で砂浜お散歩しよう!」
砂浜か……
今朝、少し自殺を考えてしまったことが、嫌でも頭によぎった……
涼しい夏の風が吹く静かな砂浜。
「綺麗で静かな場所よね。祭里ちゃんといつまでも暮らせる場所をって選んでここに越してきた。間違ってないって信じたいな……」
静かに波打つ海を見つめる夏希先生。
「俺は過去が暗いからかな? 初めてこの海を見ても何とも思わなかった……」
「それなら今からでも明るくしよう。文哉君には私たちがいる。きっとこの海が綺麗だって思える日が来る。三人で楽しい日々を生きるのも悪くないでしょ?」
三人で楽しい日々か……
「確かに悪くないですね」
俺が海を見つめた時だった。
「海ー! 泳ぐよー!」
祭里は制服を着たまま海の中へと走り出す。
「あ! 祭里ちゃん! いけませんよ!」
叫ぶ夏希先生。
「俺、捕まえてきます」
俺は海の中へと入る祭里を追いかけた。少し冷たい海の水。
「まだ冷たいねー、もっと夏になればいいのになー」
祭里は、はしゃいでいた。着ているセーラー服が濡れるのも構わずに海の浅瀬を走り回っていた。
「どうしてもっと夏になればいいんだ?」
どういうわけか俺は訊いてしまう。少し気になったのかもしれない。
「祭里の母さんは夏が好きだからー!」
「祭里はお母さんのこと好きなのか……?」
「うん! 大好き!」
自分を虐待していた母親が大好き? 俺には理解できなかった。
俺の母さんは俺と同じでいつも父に殴られて最後には殺された……無力で弱かった俺の母さん……もう会えないとわかっていても不思議と悲しくなかった……
「どうして? お前、殴られたりしたんだろ?」
海の浅瀬にて俺は祭里に訊いていた。祭里はどこか不思議そうに俺を見つめると、小首を傾げた。
「だって祭里の母さんだもん」
「何だよそれ……」
俺は気でも狂ったのか……? 目からは涙がボロボロと出てしまう……
「俺……俺は自分の父親……刺し殺して……いつも心が暗くて……死んじまいたいのに、それができなくて……」
心の弱さを祭里にさらけ出していた……
祭里は優しく無垢な笑みを浮かべながら俺を見ている……
「文哉は祭里と一緒にいよう。だから泣かなくていいんだよ」
それは祭里の優しい言葉だった。
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