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第四話 こんな私にできること
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私立の女子高の美術教師になれた。給料もそれなりにいいし、あとはどこかいい会社に勤めている人と結婚できれば私はこの上なく幸せになれるはずだ。
「蒼井先生。さようなら」
「はい、さようなら」
放課後受け持つクラスの女の子たちが帰っていく。一人を除いて……
「あ、あの、先生。誰かに鞄……隠されて……」
「そう。見つけたら帰りなよ」
川下とかいう女子生徒。下の名前は知らないし、覚えようともしなかった。イジメられているのは前から知っていたけど、私に一体どうしろというのか? とにかく私の人生の邪魔だけはしないでほしい。それにこの川下という生徒。暗いし成績も悪いからどうしても好きになれなかった。
明くる日も川下はイジメられたようで泣きながら職員室に来た。こっちは授業の準備で忙しいのに、本当に嫌になる。
「後ろから蹴られたりします……みんながわたしのこと気持ち悪いって……」
大人の私から見ても、こいつは気持ち悪いと思う。
「しばらく学校に来なければいい話しでしょ? この際だから正直に言います。私はあなたのことが迷惑です」
まるで絶望にでも殺されたかのような表情で川下は私を見る。
「はい……そうします」
言い過ぎたという感覚は私にはなかった。これで迷惑ごとが一つ減ると思うと、かなり気が楽だ。以来川下は学校に来なくなってくれた。進級が危ないと自宅に連絡を入れることもあったが、本心ではどうでもいいことだった。正直退学してほしい。いい加減学年主任の小言が煩いから。
私は受け持つクラスの生徒たちと文化祭の出し物を話し合っていた。
喫茶店。ダンス。はたまたミスコンまで提案してくる子もいたから、私は楽しくて笑っていた。
「あの、蒼井先生」
突然クラスの扉が開いたかと思うと、口うるさい学年主任が立っていた。
「少しお話があるので、職員室まで来ていただけますか?」
「はい、いいですよ」
普段は口うるさいくせに妙にあらたまった態度の学年主任。その表情はどこか険しかった。
職員室へと足を運ぶ私。ほかの教員たちからの突き刺さる視線を感じた。
「君のクラスの不登校の生徒。川下恵美。今朝自殺したと、連絡がありました」
ああ……自殺したんだ。それに下の名前、恵美って名前だったんだ。知らなかった。
「書かれた遺書の中にイジメられていたことと、君に学校へは来るなと言われたと書いてあったらしいんだけど」
私は一気に血の気が引いた……
「ち、違います! 私はしばらく休んだらと提案しただけで……」
とにかく言い訳をしよう。このままでは私の人生が駄目になるのを感じた。
「イジメた生徒を特定しますから、お話しはそれからです!」
「君ねぇ……!」
口うるさい学年主任から怒声を浴びせられた。説教を通り越して私の人格を否定する数々の言葉……
最後に言い渡されたのは処分が決まるまでの謹慎処分だった……
それからは自宅のアパートで酒に溺れていた。電話が鳴るのが怖くて、グラス片手に部屋の隅でうずくまっていた。
そして二日酔いの酷い朝に電話が鳴る。私は震える手で受話器を取る。
「蒼井さん。お話しがありますのでいったん学校まで来ていただけますか?」
電話の相手は口うるさい学年主任。それにしても蒼井さんか。私はもう先生じゃないんだ。
「……わかりました……」
私の人生。川下恵美のせいで台無しだ……
とぼとぼと学校へと向かった。校長室で吐き気を抑えながら処分を聞くことにする。
「とりあえずマスコミも騒いでいないようなので免職の件はなくなりました」
校長の言葉に、心の靄が晴れたかのような気分になる私。しかし、校長もその隣にいる学年主任も蔑んだ目で私を見ていた。
「しかし、教壇に立つことはもうありません。我が校で運営している障害者施設への異動を命じます」
障害者施設? 私は苦労して美大で教員免許を取得して、やっとの思いで私立高校の教師になれたのに、その結果が障害者施設への異動? 全部あいつの……川下恵美の自殺のせいだ……!
自宅のアパートへと帰ると、私は再び酒に溺れた。
もうとにかくボロボロだ……
障害者施設への赴任の日。私は大遅刻したけど気にしなかった。
「あなたお酒臭いけど、大丈夫?」
施設担当の女性が心配そうな面持ちで私を見る。
「平気ですよ」
本当は明け方まで飲んでいたから気分が悪い。
「ご存じかと思いますが、ここには知能や心や体に問題のある少年少女たちが暮らしています。あなたは美術の教師さんなので絵や粘土細工などを担当していいただければと……」
どこか口ごもる担当の女性。当然だろう、私が自分の生徒を自殺に追いやったことを、きっと知っているのだろうから。
「つまりお絵かきですね。いいですよ」
楽な仕事だけどやりがいは感じられない。ほかの職員の人たちも私を見てヒソヒソ話しをしている。
どうぞ好きなだけ私を悪く言えばいい……一人ぼっちで結構だ……
障害者施設の教室。車椅子の子は当然いて、あとは手足のどちらかがない子に知能に問題がある子だった。
「今日からみなさんにお絵かきを教えることになった蒼井夏希といいます」
私は適当に自己紹介をすませると、施設の子たちに一枚ずつ紙を配る。
「さぁ、お絵かきしてください」
私は椅子に座って仮眠することにする。とにかくお酒のせいで気分が悪い……
「せ、せんせい……」
私の服の袖をクイクイと引っ張る子がいるから、私は不機嫌に瞳を開けるしかない。
「こ、これは、か、母さん。会いたい」
赤い髪をした少女が何かを訴えるように私の目の前にいる。お絵かきされた紙にはグチャグチャに描かれた誰かの絵。この子の母親なのだろうか?
「もっとうまく描きなさい」
まるで幼い子供のお絵かき以下の絵。年齢的にこの子は小学校の高学年くらいなはずだ。障害者なので当然な絵の描き方に違いないのだが、それにしても酷すぎる。
「う、うまく描けたら、か、母さん、会える……?」
言葉に発達の遅れがあるこの子。恐らく知的障害もあるんだと思う。
「会える。会えるから、だから頑張って……」
「が、がんばる……」
赤い髪の子は、自分の机へと戻っていく。
休み時間になっても昼休みになっても、赤い髪の子は絵を描き続けていた。
「ほら」
私は昼食で出たおにぎりを赤い髪の子に持っていく。
「あ、ありがとう。おのぎり」
両手でおにぎりを持ち、少しずつ食べる少女。
「お名前。何ていうの?」
別に興味はないが私は訊いてみる。
「な、ななえ……」
ふーん、ななえちゃんか。
「ま、まつり」
まつり? こっちが下の名前? めんどくさくなり私は名簿をめくった。七絵祭里。それがこの子の名前らしい。
「絵、見せてよ」
見せてもらった絵は相変わらずの母親らしき人の絵。グチャグチャだった。
「か、母さん。も、もう会える……?」
私は何も言えず立ち去るしかなかった……
障害者施設での初めての職務が終わったころ、施設担当の女性が私に声をかけてきた。
「あの、蒼井先生」
先生と呼ばれるのがすっかり嫌いになっていたから私は無視するのに。施設担当の女性は気にもせずに話しかけてくる。
「七絵祭里ちゃん。喋ったんですか?」
「喋った……? ええ、喋りましたけど」
「あの子、ここに来てから、ずっと喋らなかったのに……」
涙ぐむ施設担当の女性。
「どうして……その、どうして喋らなかったんですか?」
七絵祭里のことなんてどうでもいいのに私は訊いていた。返ってきた答えは母親からの虐待という答え。ならどうして、あの子は母親に会いたいのだろうか? 理解できずにただ悲しくなった……
外は夏の小雨が降っている。このまま帰ってもどうせすることがないから、私はあの子の家へと歩いていた……
「あの、こんにちは。川下恵美さんの元担任です」
小雨の降る中、家の前でボーっと立っている女性に声をかける。川下恵美の母親だ。
「ああ……そうですか……娘が帰ってくるまでもう少しお待ちいただけますか?」
この人がおかしくなっていることにすぐ気づいた。
「もういませんよ」
私が言うと、川下恵美の母親の目からボロボロと涙が零れ落ちた。
「違いますよ。帰ってきます。こうやって待ち続けているんですから……恵美が帰ってきたら力いっぱい抱きしめてあげるんです……」
「大丈夫ですか?」
私が肩に手を置くと、川下恵美の母親は激昂した。
「あなたやイジメていた生徒のせいじゃない! そんなに冷静にいられて、あなたこそ大丈夫なの!?」
私も大丈夫じゃないと思う。きっと心の何かが欠落しているのは前からわかっていたけど、ずっと見ないようにしていた。
「見つけたとき、あの子は血だらけだった……! 手首から流れた血だけで、体中血だらけだったのよ……!」
泣き叫ぶ川下恵美の母親。私はとぼとぼとアパートへと帰るしかなかった。
アパートへと帰ると、お酒を流しに捨てた……
後は疲れ果ててベッドに横になった……
明くる日私は障害者施設へと出勤する。
「はい! 今日はみなさんの好きなものを描いてください! 好きな人、好きなもの。何でも結構です!」
私は大きく声を出した。川下恵美を忘れる。いや、紛らわせたいだけだったのに、障害者の子たちは楽しそうに絵を描き始める。
大半が自分の両親や好きな食べ物。車椅子の子は介護士の女性を描いていた。
「よく描けてる。もしかして好きなのかなー?」
私がからかうと車椅子の子は恥ずかしそうに頬を赤らめ笑顔になる。その場にいたみんなも楽しそうに笑い。私も笑った。多分久しぶりに人らしい笑いかたをしたと思う。
「祭里ちゃんは、どんなの描いてるの?」
「お、おのぎり……」
おのぎり。それはおにぎりの絵だった。
「祭里ちゃん。おのぎりじゃない。おにぎり。ほら、言ってみて」
「お、おにぎ、り……」
まずはこの子の遅れた言葉遣いをどうにかしようと思った。
来る日も来る日も私はあきらめずに祭里ちゃんに言葉を教え続けた。
「おはようございます」
「お、おはいございます……」
「こんにちは」
「こ、こんのちは……」
「さようなら」
「さ、さようなら」
だんだんと祭里ちゃんの言葉遣いがよくなっているのが嬉しかった。でも、相変わらず話すのは私だけでほかの子や、ほかの人たちとは話そうとしない。
「夏希先生。お絵かきできたよ!」
明るい笑顔を見せるようになった祭里ちゃん。いつしか私は夏希先生と呼ばれるようになっていた。
「おにぎりの絵? ちゃんと描けたね。偉い!」
私は祭里ちゃんの笑顔を見るのが楽しみになった。祭里ちゃんだけじゃない、この施設の子たちの笑顔に私は救われているのかもしれない。いいことばかりじゃなく辛いこともたくさんあるけど、みんなが私を夏希先生と呼んでくれることが本当に嬉しい。
「さぁ、祭里ちゃん。今日はほかの子たちと遊びましょう」
「うー……」
下を向く祭里ちゃん。
「勇気を出して」
私は祭里ちゃんの背中をそっと押した。
「……どうかお願いします……仲間外れにされませんように……!」
私は小声で必死に祈っていた。
「ま、祭里も、あ、遊んでいい?」
あの子がほかの子に声をかけたのが心から嬉しい。
「いいよ。遊ぼう」
声をかけた子と一緒に積み木遊びを始める祭里ちゃん。私はその光景を見て今にも嬉し涙が出そうになる。
このまま私にとっても、障害のある子たちにとっても幸せで楽しい日々が続けばいいと思ったのに、二年後には施設の閉鎖が決まった。国の支援もあって、子供たちはいい人そうな里親に続々と引き取られていく。最後に残ったのは祭里ちゃんだった。どの里親にも祭里ちゃんは心を開こうとしなかった。
「祭里ちゃん。もう十四歳でしょ? ワガママはいけませんよ」
私が言っても祭里ちゃんは悲しそうにそっぽを向くだけ。
「もうここにはいられない。祭里ちゃんはこれからどうしたいの?」
「祭里……みんなと一緒にいたい。夏希先生とずっと一緒にいたい……」
私にはその言葉を、ワガママを聞いてやれないこともなかった。
「みんなと一緒は無理だけど、先生とはずっと一緒にいようか?」
祭里ちゃんは嬉しそうに私を見てくれる。私はこの子の里親であり、先生であることを選んだ。当然の選択であることを信じたい。
海沿いにある田舎町の学校への赴任が決まっている。そこで無理にでも特別学級を設立すれば祭里ちゃんの居場所がちゃんとある。私は絶対に設立してみせる。
施設閉鎖の翌日。夏の暑い日、私はとある場所に足を運んでいた。
「あら、こんにちは。恵美はもうすぐ帰ってきますから」
川下恵美の母親は二年たっても娘の帰りを待っていた。
「ご、ごめんなさい……」
私の口からは謝罪の言葉が出た。まるで子供が口にしそうな謝罪の言葉が……
「その言葉が聞けてよかった……あなた……いい人になったのね……」
どこか悲しく優しい表情を見せながら恵美の母親は言う。
私は自分がいい人だとは思わない。
こんな私にできることをするだけだから……
その夜。施設ではみんなのお別れ会が開かれていた。ジュースやケーキに色んな料理が出て、みんなが喜んでいる。私も一緒になって喜ぶのだけど、もうここでお絵かきの授業ができないと思うと、不思議と笑顔が消えるのだった……とにかく寂しかった……
「みんながお世話になったお絵かきの先生がいます」
障害者の生徒たちがみんな一斉に声を出す。
「夏希先生。ありがとう」
「夏希先生。元気でいてね」
「夏希先生。祭里と仲良く」
私は涙が出そうなくらい嬉しかった……
「夏希先生ー! お絵かき楽しかったです!」
みんなが大きな声を出して言ってくれたから、嬉し涙がボロボロと瞳から零れ落ちるのだった……
……ありがとう……
私と祭里ちゃんは海沿いにある田舎町へと引っ越してきた。真夏だというのに涼しい夏の風が吹いて心地いい場所だった。けど大変だ。越してきた家の掃除や、荷物の整理。赴任先の学校には特別学級の設立のため、校長をとにかく説得するのが大変だった。私は生徒一人を自殺に追いやったクズな美術教師と思われている。
だけど負けない。祭里ちゃんのためでもあるし、恵美への償いでもある。いい先生になりたい。私は夏希先生なのだから。
祭里ちゃんの入学式。私と二人だけの入学式が始まった。
「あなた。七絵祭里さんは、晴れてこの学校の特別学級の生徒となりました。担任はわたくし、蒼井夏希。どうぞこれからも夏希先生と呼んでください」
教壇から私が見える人。それは一つだけの席に座る祭里ちゃん。
「これからは先生と一緒にお絵かきやお勉強をたくさんしようね」
「はーい」
私が笑うと祭里ちゃんも手を上げて笑ってくれた。
私は後悔なんてしない。
こんなにも優しい笑顔がすぐそばにあるのだから。
「蒼井先生。さようなら」
「はい、さようなら」
放課後受け持つクラスの女の子たちが帰っていく。一人を除いて……
「あ、あの、先生。誰かに鞄……隠されて……」
「そう。見つけたら帰りなよ」
川下とかいう女子生徒。下の名前は知らないし、覚えようともしなかった。イジメられているのは前から知っていたけど、私に一体どうしろというのか? とにかく私の人生の邪魔だけはしないでほしい。それにこの川下という生徒。暗いし成績も悪いからどうしても好きになれなかった。
明くる日も川下はイジメられたようで泣きながら職員室に来た。こっちは授業の準備で忙しいのに、本当に嫌になる。
「後ろから蹴られたりします……みんながわたしのこと気持ち悪いって……」
大人の私から見ても、こいつは気持ち悪いと思う。
「しばらく学校に来なければいい話しでしょ? この際だから正直に言います。私はあなたのことが迷惑です」
まるで絶望にでも殺されたかのような表情で川下は私を見る。
「はい……そうします」
言い過ぎたという感覚は私にはなかった。これで迷惑ごとが一つ減ると思うと、かなり気が楽だ。以来川下は学校に来なくなってくれた。進級が危ないと自宅に連絡を入れることもあったが、本心ではどうでもいいことだった。正直退学してほしい。いい加減学年主任の小言が煩いから。
私は受け持つクラスの生徒たちと文化祭の出し物を話し合っていた。
喫茶店。ダンス。はたまたミスコンまで提案してくる子もいたから、私は楽しくて笑っていた。
「あの、蒼井先生」
突然クラスの扉が開いたかと思うと、口うるさい学年主任が立っていた。
「少しお話があるので、職員室まで来ていただけますか?」
「はい、いいですよ」
普段は口うるさいくせに妙にあらたまった態度の学年主任。その表情はどこか険しかった。
職員室へと足を運ぶ私。ほかの教員たちからの突き刺さる視線を感じた。
「君のクラスの不登校の生徒。川下恵美。今朝自殺したと、連絡がありました」
ああ……自殺したんだ。それに下の名前、恵美って名前だったんだ。知らなかった。
「書かれた遺書の中にイジメられていたことと、君に学校へは来るなと言われたと書いてあったらしいんだけど」
私は一気に血の気が引いた……
「ち、違います! 私はしばらく休んだらと提案しただけで……」
とにかく言い訳をしよう。このままでは私の人生が駄目になるのを感じた。
「イジメた生徒を特定しますから、お話しはそれからです!」
「君ねぇ……!」
口うるさい学年主任から怒声を浴びせられた。説教を通り越して私の人格を否定する数々の言葉……
最後に言い渡されたのは処分が決まるまでの謹慎処分だった……
それからは自宅のアパートで酒に溺れていた。電話が鳴るのが怖くて、グラス片手に部屋の隅でうずくまっていた。
そして二日酔いの酷い朝に電話が鳴る。私は震える手で受話器を取る。
「蒼井さん。お話しがありますのでいったん学校まで来ていただけますか?」
電話の相手は口うるさい学年主任。それにしても蒼井さんか。私はもう先生じゃないんだ。
「……わかりました……」
私の人生。川下恵美のせいで台無しだ……
とぼとぼと学校へと向かった。校長室で吐き気を抑えながら処分を聞くことにする。
「とりあえずマスコミも騒いでいないようなので免職の件はなくなりました」
校長の言葉に、心の靄が晴れたかのような気分になる私。しかし、校長もその隣にいる学年主任も蔑んだ目で私を見ていた。
「しかし、教壇に立つことはもうありません。我が校で運営している障害者施設への異動を命じます」
障害者施設? 私は苦労して美大で教員免許を取得して、やっとの思いで私立高校の教師になれたのに、その結果が障害者施設への異動? 全部あいつの……川下恵美の自殺のせいだ……!
自宅のアパートへと帰ると、私は再び酒に溺れた。
もうとにかくボロボロだ……
障害者施設への赴任の日。私は大遅刻したけど気にしなかった。
「あなたお酒臭いけど、大丈夫?」
施設担当の女性が心配そうな面持ちで私を見る。
「平気ですよ」
本当は明け方まで飲んでいたから気分が悪い。
「ご存じかと思いますが、ここには知能や心や体に問題のある少年少女たちが暮らしています。あなたは美術の教師さんなので絵や粘土細工などを担当していいただければと……」
どこか口ごもる担当の女性。当然だろう、私が自分の生徒を自殺に追いやったことを、きっと知っているのだろうから。
「つまりお絵かきですね。いいですよ」
楽な仕事だけどやりがいは感じられない。ほかの職員の人たちも私を見てヒソヒソ話しをしている。
どうぞ好きなだけ私を悪く言えばいい……一人ぼっちで結構だ……
障害者施設の教室。車椅子の子は当然いて、あとは手足のどちらかがない子に知能に問題がある子だった。
「今日からみなさんにお絵かきを教えることになった蒼井夏希といいます」
私は適当に自己紹介をすませると、施設の子たちに一枚ずつ紙を配る。
「さぁ、お絵かきしてください」
私は椅子に座って仮眠することにする。とにかくお酒のせいで気分が悪い……
「せ、せんせい……」
私の服の袖をクイクイと引っ張る子がいるから、私は不機嫌に瞳を開けるしかない。
「こ、これは、か、母さん。会いたい」
赤い髪をした少女が何かを訴えるように私の目の前にいる。お絵かきされた紙にはグチャグチャに描かれた誰かの絵。この子の母親なのだろうか?
「もっとうまく描きなさい」
まるで幼い子供のお絵かき以下の絵。年齢的にこの子は小学校の高学年くらいなはずだ。障害者なので当然な絵の描き方に違いないのだが、それにしても酷すぎる。
「う、うまく描けたら、か、母さん、会える……?」
言葉に発達の遅れがあるこの子。恐らく知的障害もあるんだと思う。
「会える。会えるから、だから頑張って……」
「が、がんばる……」
赤い髪の子は、自分の机へと戻っていく。
休み時間になっても昼休みになっても、赤い髪の子は絵を描き続けていた。
「ほら」
私は昼食で出たおにぎりを赤い髪の子に持っていく。
「あ、ありがとう。おのぎり」
両手でおにぎりを持ち、少しずつ食べる少女。
「お名前。何ていうの?」
別に興味はないが私は訊いてみる。
「な、ななえ……」
ふーん、ななえちゃんか。
「ま、まつり」
まつり? こっちが下の名前? めんどくさくなり私は名簿をめくった。七絵祭里。それがこの子の名前らしい。
「絵、見せてよ」
見せてもらった絵は相変わらずの母親らしき人の絵。グチャグチャだった。
「か、母さん。も、もう会える……?」
私は何も言えず立ち去るしかなかった……
障害者施設での初めての職務が終わったころ、施設担当の女性が私に声をかけてきた。
「あの、蒼井先生」
先生と呼ばれるのがすっかり嫌いになっていたから私は無視するのに。施設担当の女性は気にもせずに話しかけてくる。
「七絵祭里ちゃん。喋ったんですか?」
「喋った……? ええ、喋りましたけど」
「あの子、ここに来てから、ずっと喋らなかったのに……」
涙ぐむ施設担当の女性。
「どうして……その、どうして喋らなかったんですか?」
七絵祭里のことなんてどうでもいいのに私は訊いていた。返ってきた答えは母親からの虐待という答え。ならどうして、あの子は母親に会いたいのだろうか? 理解できずにただ悲しくなった……
外は夏の小雨が降っている。このまま帰ってもどうせすることがないから、私はあの子の家へと歩いていた……
「あの、こんにちは。川下恵美さんの元担任です」
小雨の降る中、家の前でボーっと立っている女性に声をかける。川下恵美の母親だ。
「ああ……そうですか……娘が帰ってくるまでもう少しお待ちいただけますか?」
この人がおかしくなっていることにすぐ気づいた。
「もういませんよ」
私が言うと、川下恵美の母親の目からボロボロと涙が零れ落ちた。
「違いますよ。帰ってきます。こうやって待ち続けているんですから……恵美が帰ってきたら力いっぱい抱きしめてあげるんです……」
「大丈夫ですか?」
私が肩に手を置くと、川下恵美の母親は激昂した。
「あなたやイジメていた生徒のせいじゃない! そんなに冷静にいられて、あなたこそ大丈夫なの!?」
私も大丈夫じゃないと思う。きっと心の何かが欠落しているのは前からわかっていたけど、ずっと見ないようにしていた。
「見つけたとき、あの子は血だらけだった……! 手首から流れた血だけで、体中血だらけだったのよ……!」
泣き叫ぶ川下恵美の母親。私はとぼとぼとアパートへと帰るしかなかった。
アパートへと帰ると、お酒を流しに捨てた……
後は疲れ果ててベッドに横になった……
明くる日私は障害者施設へと出勤する。
「はい! 今日はみなさんの好きなものを描いてください! 好きな人、好きなもの。何でも結構です!」
私は大きく声を出した。川下恵美を忘れる。いや、紛らわせたいだけだったのに、障害者の子たちは楽しそうに絵を描き始める。
大半が自分の両親や好きな食べ物。車椅子の子は介護士の女性を描いていた。
「よく描けてる。もしかして好きなのかなー?」
私がからかうと車椅子の子は恥ずかしそうに頬を赤らめ笑顔になる。その場にいたみんなも楽しそうに笑い。私も笑った。多分久しぶりに人らしい笑いかたをしたと思う。
「祭里ちゃんは、どんなの描いてるの?」
「お、おのぎり……」
おのぎり。それはおにぎりの絵だった。
「祭里ちゃん。おのぎりじゃない。おにぎり。ほら、言ってみて」
「お、おにぎ、り……」
まずはこの子の遅れた言葉遣いをどうにかしようと思った。
来る日も来る日も私はあきらめずに祭里ちゃんに言葉を教え続けた。
「おはようございます」
「お、おはいございます……」
「こんにちは」
「こ、こんのちは……」
「さようなら」
「さ、さようなら」
だんだんと祭里ちゃんの言葉遣いがよくなっているのが嬉しかった。でも、相変わらず話すのは私だけでほかの子や、ほかの人たちとは話そうとしない。
「夏希先生。お絵かきできたよ!」
明るい笑顔を見せるようになった祭里ちゃん。いつしか私は夏希先生と呼ばれるようになっていた。
「おにぎりの絵? ちゃんと描けたね。偉い!」
私は祭里ちゃんの笑顔を見るのが楽しみになった。祭里ちゃんだけじゃない、この施設の子たちの笑顔に私は救われているのかもしれない。いいことばかりじゃなく辛いこともたくさんあるけど、みんなが私を夏希先生と呼んでくれることが本当に嬉しい。
「さぁ、祭里ちゃん。今日はほかの子たちと遊びましょう」
「うー……」
下を向く祭里ちゃん。
「勇気を出して」
私は祭里ちゃんの背中をそっと押した。
「……どうかお願いします……仲間外れにされませんように……!」
私は小声で必死に祈っていた。
「ま、祭里も、あ、遊んでいい?」
あの子がほかの子に声をかけたのが心から嬉しい。
「いいよ。遊ぼう」
声をかけた子と一緒に積み木遊びを始める祭里ちゃん。私はその光景を見て今にも嬉し涙が出そうになる。
このまま私にとっても、障害のある子たちにとっても幸せで楽しい日々が続けばいいと思ったのに、二年後には施設の閉鎖が決まった。国の支援もあって、子供たちはいい人そうな里親に続々と引き取られていく。最後に残ったのは祭里ちゃんだった。どの里親にも祭里ちゃんは心を開こうとしなかった。
「祭里ちゃん。もう十四歳でしょ? ワガママはいけませんよ」
私が言っても祭里ちゃんは悲しそうにそっぽを向くだけ。
「もうここにはいられない。祭里ちゃんはこれからどうしたいの?」
「祭里……みんなと一緒にいたい。夏希先生とずっと一緒にいたい……」
私にはその言葉を、ワガママを聞いてやれないこともなかった。
「みんなと一緒は無理だけど、先生とはずっと一緒にいようか?」
祭里ちゃんは嬉しそうに私を見てくれる。私はこの子の里親であり、先生であることを選んだ。当然の選択であることを信じたい。
海沿いにある田舎町の学校への赴任が決まっている。そこで無理にでも特別学級を設立すれば祭里ちゃんの居場所がちゃんとある。私は絶対に設立してみせる。
施設閉鎖の翌日。夏の暑い日、私はとある場所に足を運んでいた。
「あら、こんにちは。恵美はもうすぐ帰ってきますから」
川下恵美の母親は二年たっても娘の帰りを待っていた。
「ご、ごめんなさい……」
私の口からは謝罪の言葉が出た。まるで子供が口にしそうな謝罪の言葉が……
「その言葉が聞けてよかった……あなた……いい人になったのね……」
どこか悲しく優しい表情を見せながら恵美の母親は言う。
私は自分がいい人だとは思わない。
こんな私にできることをするだけだから……
その夜。施設ではみんなのお別れ会が開かれていた。ジュースやケーキに色んな料理が出て、みんなが喜んでいる。私も一緒になって喜ぶのだけど、もうここでお絵かきの授業ができないと思うと、不思議と笑顔が消えるのだった……とにかく寂しかった……
「みんながお世話になったお絵かきの先生がいます」
障害者の生徒たちがみんな一斉に声を出す。
「夏希先生。ありがとう」
「夏希先生。元気でいてね」
「夏希先生。祭里と仲良く」
私は涙が出そうなくらい嬉しかった……
「夏希先生ー! お絵かき楽しかったです!」
みんなが大きな声を出して言ってくれたから、嬉し涙がボロボロと瞳から零れ落ちるのだった……
……ありがとう……
私と祭里ちゃんは海沿いにある田舎町へと引っ越してきた。真夏だというのに涼しい夏の風が吹いて心地いい場所だった。けど大変だ。越してきた家の掃除や、荷物の整理。赴任先の学校には特別学級の設立のため、校長をとにかく説得するのが大変だった。私は生徒一人を自殺に追いやったクズな美術教師と思われている。
だけど負けない。祭里ちゃんのためでもあるし、恵美への償いでもある。いい先生になりたい。私は夏希先生なのだから。
祭里ちゃんの入学式。私と二人だけの入学式が始まった。
「あなた。七絵祭里さんは、晴れてこの学校の特別学級の生徒となりました。担任はわたくし、蒼井夏希。どうぞこれからも夏希先生と呼んでください」
教壇から私が見える人。それは一つだけの席に座る祭里ちゃん。
「これからは先生と一緒にお絵かきやお勉強をたくさんしようね」
「はーい」
私が笑うと祭里ちゃんも手を上げて笑ってくれた。
私は後悔なんてしない。
こんなにも優しい笑顔がすぐそばにあるのだから。
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