救済のシノア

天倉永久

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第五話 壊れていた私へ

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それは肌寒い明け方だった。たどり着いた修道院の火は消え、周囲には煙が少しだけ立ち込めている。セラフィムは去った後で、死んだリルと同じ白い布地の服を着た死体が何体もある。

「大丈夫だよ・・・・・・リルは同じ場所にいるから・・・・・・」

口元から少しだけ笑みが漏れてしまう。本当は悲しいと思うべきなのに・・・・・・

「どうして笑うの・・・・・・?」

不意に私に声をかける人物がいた。死体だらけで気づかなかったが、焼け跡の修道院の石段に座る一人の黒髪の少女が私に向かって小首を傾げていた。リルと同じ白い布地の服を着た修道女。

「人が殺されて、たくさんは焼け死んでいった・・・・・・あなたはこんな虐殺をどうして笑うの・・・・・・?」

少し笑った私がよほど気に入らない様子で、黒髪の少女の瞳からは涙が溢れていた。

「リルと同じ場所にいるから」

私はただ思っていることを口にした。死んでいったいい人々は、リルがいる温かい世界で暮らしているのだと信じている。

「リル・・・・・・? それは疫病街に向かったリルのこと?」

黒髪の修道女は、石段から立ち上がり、私に詰め寄る。

「リルは生きてる?」

その問いに、私は動揺するしかない。

「疫病にかかってない? 怪我はしていない?」

心配そうに私の両肩を持って問う黒髪の少女。真実を告げるしかなかった・・・・・・それは私なりに・・・・・・

「安楽死の薬を自分から飲んで死んだ・・・・・・疫病街の人々が、リルを信じてそうしたように・・・・・・」

黒髪の修道女は、無気力に私の両肩から手を離す。

「そう・・・・・・とても優しい子だから・・・・・・」

大粒の涙を流す黒髪の子。

「あなたは・・・・・・リルの何なの・・・・・・?」

「私は・・・・・・」

この子に訊かれるまで深く考えたことがなかった。リルにとって、私は何だったのか? 友達? 恋人? それともただ一緒にいただけ? 違う・・・・・・リルにとって私は・・・・・・

「大切な人でありたい・・・・・・リルにとって私は大切な人・・・・・・名前はシノア・・・・・・」

黒髪の修道女は「そう」と一言告げると、悲しそうに俯いた。

「ソーニャよ・・・・・・私の名前・・・・・・」

黒髪のこの子の名前はソーニャ。リルから聞いたことのある名前だ。確か孤児だったリルの世話係。

「リルの世話係だった人。ソーニャは、私の知らないリルをたくさん知っている」

不謹慎だと心のどこかではちゃんとわかっているのに、私は絶対にそんな気分ではないソーニャに明るく接してしまう。

「孤児だったリルはいつもどんなだった? 子供の頃のリルはどんな性格? 何が好きで、いつも何をしていた?」

言葉が止まらない。私はきっと笑顔の表情でソーニャが知るリルのことを訊いている。訊いていると思ったのに・・・・・・

「あなた・・・・・・シノアは壊れているのね・・・・・・」

「壊れてる? そう、知ってるよ・・・・・私はいつも壊れてる・・・・・・」

大粒の涙が何度も私の瞳から零れ落ちていた・・・・・・自分では笑顔を作っているのに、まるで心の隅で誰かが泣き叫ぶかのように私は泣いていた・・・・・・
母。スラム街。廃ホテルでの忌まわしい過去。マリス。セラフィム。セリア。疫病街。そしてリル。私という一人の弱者を壊すには十分すぎると思えた・・・・・・

「壊れているから、リルが薬を飲んで自殺しても・・・・・・」

私はリルが薄暗い草原に倒れた時、一滴の涙も流さなかった・・・・・・
あのとき、愛していたから好きにさせた・・・・・・それでも結局は私が壊れていただけ・・・・・・

「苦しむ誰かがいれば、苦しむ誰かを救済するのが私たちの使命です。どうか恐れずに私の手をとってください・・・・・・」

悲しそうに私を見つめているソーニャは、恐らくこの焼けた修道院の言葉を口にしながら、私に手を差し伸べる・・・・・・

「助けてあげるシノア・・・・・・壊れた心を救済させて・・・・・・ここには、もう私しかいないから・・・・・・」

自分が壊れていることが苦しいことなんだと、ソーニャに手を差し伸べられて初めて分かった・・・・・・

「・・・・・・一人にして・・・・・・」

「シノアには救済が必要よ・・・・・・」

私はフラフラと、歩き出すしかない。
焼けた修道院。リルの言っていた海風とやらのおかげで、周囲に立ち込める煙は、私とリルが歩いてきた草原へと運ばれていく。ここで殺された人々を、草原へと送るように穏やかだった。

「いつかは空に帰れるよ」

私は目に見えないものを見送った。ふと気が付く、自分の目の前に古い石段があることを。どこに続く石段かと思い、不思議に一度だけ小首を傾げると、私は石段を降りるしかない。

古い石段を降りた先、そこは白い砂の世界かと思った。けど、すぐ目の前には、蒼い世界が広がっていた。まるで大きな湖。

「・・・・・・海・・・・・・これが海・・・・・・」

口元を微笑ませながら、私は初めて目にする海の姿に見入ってしまう。自然と私は白い砂の上に座り、いつまでも海の姿を自分の瞳に映していたい。波という心地いい音も、いつまでも聞いていたかった。

「ねぇ? 海の向こうにはなにがある?」

問いかける私。独り言。話し相手は私・・・・・・

「そこは悲しいことなんて一欠片も存在しない世界。差別も何もない。みんなが平等で優しく生きている世界」

思わず笑ってしまう私。みんなが平等に生きる世界を想像しただけで、自分もその世界で生きたいと願ってしまう。

「体も売る必要もない? 酷い男はいない? おいしいものをお腹いっぱいに食べられる?」

「そこではシノアは働かなくていいし、酷い男もいない。温かくておいしい食事がいつも食べられる」

「リルと一緒にその世界で暮らせるかな?」

私は一言「暮らせるよ」と自分に答えればよかった。それなのに

「リル・・・・・・リルとはそこで・・・・・・」

言葉に詰まり、自分に何も答えることができない。ただ嘘をつけばいいのに、どうしてもできない・・・・・・

「海は綺麗だね・・・・・・」

私は悲しげに綺麗な海を見つめているに違いない。ゆっくりと白い砂の上から立ち上がると、私は海に向かって歩き出す。
目の前に波という現象が、行ったり来たりして、変わらずに心地いい音を出していた。私は海の中に入る・・・・・・冷たい水が私の足を覆う・・・・・・

「大丈夫。寂しくない。私は一人でいいよ」

小首を傾げながら、私はどこまでも続く海の向こうに笑って見せる。リルと出会う前に戻っただけだ。一人で生きていたころと同じようにすればいい・・・・・・ただそれだけのこと・・・・・・

「海の水はまだ冷たいよ? 何してるの?」

私が後ろを振り向くと、ソーニャがいた。

「リルが死んで、また一人になったことを悲しんでいた。いけない?」

答える私にソーニャは少しだけ微笑みを見せる。

「一人が嫌なら好きなだけこの修道院にいればいい。焼けてしまったけれど、まだ雨露はしのげるから」

海から焼けた修道院を見る私。石造りのおかげで倒壊はまぬがれている。確かに雨露は気にしなくてすみそうで、行く当てのない私は助かる。だけど、ソーニャには告げなければいけないことがある。

「私は・・・・・・私は、スラムの売春婦で、いつも男相手に体を売っていた・・・・・・ごくたまに私みたいな女が好きな、同じ女の客もいた・・・・・・食べるためにはきっと何でもしたと思う・・・・・・そしてある夜・・・・・・私を襲おうとしたセラフィムの男を殺した・・・・・・だからスラムから逃げた・・・・・・」

セラフィムという言葉を耳にしたソーニャは、一度だけ不安そうな表情を見せるがそれだけだった・・・・・・
後は真剣に聞いてくれた。リルとの出会い。疫病街。そしてセリアによる安楽死。リルが疫病街の人々に安楽死の薬を渡したこと・・・・・・

「そう・・・・・・リルは救えないと知っていた・・・・・・あの子のことだから、疫病街の人たちを救えないと、知っていたんだよ・・・・・・シノア・・・・・・」

海から波という音がする中、ソーニャは、私の知らないリルのことを語ってくれた・・・・・・

「孤児の頃から、いつもお腹を空かせている子だった・・・・・・焼けたての白いパンを、いつも心待ちにしている子・・・・・・優しいリル・・・・・・」

私の知らないリルが一つ・・・・・・リルがお腹を空かせている姿など見たことがない・・・・・・

「でも、あの子は孤児・・・・・・だから私はリルに冷たくした・・・・・・親のいない子は罪だから・・・・・・私は些細なことでも冷たくしていた・・・・・・」

親がいない・・・・・・? それは私も同じ・・・・・・父の顔は知らない・・・・・・母親は生きていると思うが、長いことあっていない。

「親がいないと罪なの?」

「罪だよ・・・・・・ここでは罪になる・・・・・・」

「どうして?」

「愛情を知らずに生きる証だから・・・・・・これは天使様の教え・・・・・・リルは生まれた時から破っていた・・・・・・」

ソーニャの言葉に私は無表情に俯き、波という現象を見続けるしかない。

「・・・・・・愛情なら、リルが教えてくれた・・・・・・リルに愛情がなければ、疫病街の人々と、一人で向き合おうだなんて思わない・・・・・・救えない命だと知りながら、リルは愛情を絶やさなかった・・・・・・」

リルの行動を知らないソーニャに、私は俯きながら言う。

「私にとって、生きている親は多分、母親だけ・・・・・・シノアは死んだ娼婦の名前・・・・・・私の母は死んだ娼婦の名前を、喜んで私に名付けた・・・・・・」

俯くのをやめ、私はソーニャを見る。私と目が合うと、ソーニャは気まずそうに視線を逸らした。死んだ娼婦の名を名乗る私を哀れに思っているのか? それとも汚れている私を蔑んでいるのか? きっとそのどちらかだと私は思う。

「ゆっくりしていって・・・・・・私はみんなの見送りがあるから・・・・・・」

白い砂の大地から去っていくソーニャ。私は再びどこまでも続く海の向こうを見る。

「私に救われて・・・・・・幸せに思う人はいるのかな・・・・・・?」

焼けた修道院へと戻った私。あるものを探すために建物の中に入ると、そこは酷いありさまで、装飾品は黒く焼け焦げ、煙の臭いがまだ微かにしていた。
今私がいるのは集会場のような場所なのだろうか? 中央には少し灰色に焼けた大きな天使の像があり、まるで見守られているかのような感覚を私に錯覚させた。

「あるものを探しているだけです。私が今からやることを、気にしないでください・・・・・・」

私は焼けた修道院の中を歩き回る。一部屋ずつ、私が探すあるものがないか確かめていく。
最初の一部屋は、修道女たちが寝起きする場所らしく、焼かれたベッドが無数に並んでいる。その片隅に、少しだけ焼けた箱があった。私が探しているものだと確信し、私が箱を開けると、そこにはリルやソーニャが着ていた、白い布地の服が綺麗にたたまれた状態で、置いてあった。

「これを探していた」

私は自然と笑顔になり、今着ている黒いドレスを脱ぐと、白い布地の服へと着替える。

「これでリルみたいになれるかな? 忘れたい過去は消えてなくなる・・・・・・?」

リルと同じ服。ここの修道女の服を着ても、忘れたい過去は私の中で消えない・・・・・・いつまでも存在するかのように、胸の中に残っている・・・・・・

『・・・・・・好きにさせろよ・・・・・・』

男の声が頭に響く・・・・・・

「もう私から消えて! 過去が嫌いだから!」

私は両手で頭を抱え、叫んでいた。リルと同じ白い服を着ても結局は何も変わらないことを、思い知らされるだけだった・・・・・・

そこは修道院の広場。ソーニャが無残に殺された修道女たちを一人ずつ、引きずりながら集めている。私はその光景を、ぼんやりと眺めていた。

「シノア・・・・・・?」

ソーニャは私の姿に気が付くと、少し驚いた様子で、目を若干に見開いて見せた。それは当然の反応だと私は思う。スラム街の娼婦が、自分と同じ白い修道女の服を着ている。私は自分でも場違いな服を着ているという認識があった。

「洗礼を受けていないと、駄目。ここの修道女にはなれない」

生き残った修道女は自分一人だというのに、ソーニャは教えを守る気でいるようだった。

「汚い娼婦なのは、自分でもよく知っている・・・・・・それでも今は誰かを救いたいと思っている・・・・・・」

「救う? シノアに誰が救えるの? それは病気で苦しむ人? それとも貧困にあえぐ人?」

自分でも、こんな私に誰が救えるかわからない。私はリルのように優しくて綺麗な心なんて決して持ち合わせていない。

「私は報われなくていいから・・・・・・違う生き方をしたい・・・・・・ソーニャが私を嫌いでもいいから・・・・・・」

この思いがソーニャに届かなくてもいい。私は一人でも誰かを救う行いする・・・・・・

「私たちのような修道女の生き方も報われない。それが知りたいのなら、どうか手伝って・・・・・・」

それは修道女たちの死体を運べということだった・・・・・・これがいい行いか悪い行いなのか私にはわからない。

「怖かった・・・・・・それとも痛かった・・・・・・最後には誰かを思い出した・・・・・・?」

私は言葉を発することがなくなった修道女たちを引きずりながら、一人一人に訊いていた・・・・・・

「あなたたちは、リルを知っている? 私はリルとキスしたよ・・・・・・それは柔らかい唇だった・・・・・・」

「シノア。やめなさい」

ソーニャのやめなさいという言葉は、私には届かない。今は血だらけの死体を運んでいる・・・・・・ほとんど偽物の修道女である私には、初めての行いが剣や銃で殺された死体を修道院の広場に運ぶことで半ば混乱していた。

「最初は私からリルにキスした・・・・・・二回目はリルからのキス・・・・・・」

草原で死んだままのリルを想像するだけで、壊れている心が、ボロボロになりそうだった・・・・・・

「リルは草原で、眠るように死んでいる・・・・・・まだ、どこにも埋葬されていない・・・・・・」

修道女たちの死体を広場に運び終えた私たち。私は呆然としていた・・・・・・
リルは草原で、一人寂しくいる・・・・・・

「それなら、この子たちの見送りが終わったら、死んだリルを見送りにいこう・・・・・・」

ソーニャはそう言うと、修道女の死体一つ一つに、白いシーツをかけていく。
この子たちの見送りが終われば、私はリルを見送りにいける。だからソーニャを手伝う。私が修道女の死体にシーツをかけようとしたとき、ある臭いが鼻をかすめる。

「これが見送りか・・・・・・」

シーツには強いお酒が染み込ませてあった。鼻をかすめた臭いの正体だ。

「・・・・・・天使様の加護があります・・・・・・それは旅立つ新しい世界でも同じです・・・・・・」

ソーニャは祈りの言葉を捧げながら、マッチを擦ると、修道女の死体に落としていく。マッチを一本点ければ、シーツに落とし、また一本点ければシーツに落とす。その行為を繰り返していく。

「・・・・・・新しい世界で何をしますか・・・・・・? どんな人になりますか・・・・・・? どうか私が知っているあなたたちでいてください・・・・・・」

ソーニャは広場で燃える修道女たちを、とても悲しそうに見つめている・・・・・・ソーニャからしてみれば、とても仲のいい子もいたはずだ・・・・・・

「さようならがない世界で・・・・・・また出会いましょう・・・・・・」

ソーニャは泣き崩れる。殺された修道女たちは燃えて、灰になるのを待っているかのように青空へと向かい、自然と吹いた風は草原へと向かう。

「次は、リル。リルが埋葬される番・・・・・・」

私は灰となり、風によって草原に運ばれた修道女たちを見送りながら言う。しかし、ソーニャは泣いてばかりで、その場を動こうとしない。

「・・・・・・このまま泣いていて・・・・・・」

ソーニャをそっとしといてあげたい。それだけだ・・・・・・

青空が夕日に変わろうとする間の中で、草原を小走りに歩く私。

「リルに見せてあげよう」

死んだリルを見つけると、自然と口元から笑みがこぼれる。

「見てよ、リル。今はリルと同じ白い服を着ている」

私は両手を広げ、眠るように死んでいるリルに今の姿を見せる。返ってくる答えなどないと知りながら、着ている白い修道女の服を自慢げに見せていた。

「黒いドレスはもう着ない。私の振り向きたくない過去の象徴だから・・・・・・」

望んでもいないのに、私の瞳からは涙が溢れ出る。壊れているから、流れる涙が何のことか、理解できない・・・・・・
答えが返ってくることもなく、何も届かなくてもリルに伝えるしかない。

「私はリルじゃない。それでもリルのように生きたいと・・・・・・今は思う・・・・・・」

まだ見ぬ誰かを救いたいから、黒いドレスを捨てて、リルと同じ修道女の服を着ている。それなのにリルは何も答えてくれない。死んでいるから当然だと心の表面は理解できているのに、裏側はリルが思う私の印象を知りたくて、居ても立っても居られない。死んでいても、裏側の私はリルの言葉とその声が聞きたくて仕方ない・・・・・・

「・・・・・・私は寂しいのかな・・・・・・?」

リルの死体の前で私は一人ひざまずいた・・・・・・もう二度と、リルの声は聞けない・・・・・・二度と私に語り掛けることも、キスだってしてくれない・・・・・・

「見送ってあげよう、シノア」

ゆっくりと後ろを向くと、ソーニャが立っていた。

「リルを新しい世界に旅立たせてあげるの。そこへは私とシノアがいつかはいく世界。だから寂しがることなんてない」

青空が夕日に変わろうとしている草原で、ソーニャは悲しげに微笑んで見せた。

「ソーニャも曖昧なんでしょ・・・・・・? あるかどうかもわからない世界。誰も見たことがない世界だから・・・・・・」

俯くソーニャ。その瞳からは今にも大粒の涙が零れ落ちそうだった。

「それでも今は信じたい・・・・・・信じてあげたいの・・・・・・死んでいったみんなが、どこかで生きていると信じたい・・・・・・」

ソーニャは瞳から零れ落ちそうな涙を拭うと、リルに白いシーツをかける。

「燃やすんだね」

私が一言いうと、ソーニャは何の躊躇いもなくマッチを擦り、火を着け、それをシーツの上に落とす・・・・・・燃えていくリルを、私は見守るしかない・・・・・・

「リル・・・・・・私のリル・・・・・・また会えるよね・・・・・・?」

どこかでまた出会える。何の根拠もない理想が私の中で生まれる・・・・・・
草原は夕日の光に照らされ、燃えていくリルを祝福するかのように、ほんの少しだけ、涼しい風が吹いた・・・・・・

「シノア・・・・・・さぁ、帰ろう・・・・・・」

ソーニャが私に手を差し出す。私はその手を握った。ソーニャの手を握らなければ、リルのことをいつまでも考えそうで、今より自分がおかしくなると思った・・・・・・

「お腹空いてるでしょ? 缶詰なら、燃えてないと思うから」

疫病街を出てから何も口にしていない。確かに空腹だった。

「野菜やお肉の缶詰。それに果物の缶詰もあるはず。好きなものをシノアに選ばせてあげる」

ソーニャは私からリルのことを考えないようにしてくれている。ソーニャも苦しいはずなのに、私に優しさを向けてくれたのがわかった。
嬉しいことなのに・・・・・・私は・・・・・・それでもリルの優しさが忘れられない。

「ソーニャ・・・・・・後ろを振り向きたい・・・・・・」

「絶対にいけない」

「リルが、燃えている・・・・・・」

私が訴えてもソーニャは「そう」と一言口にするだけだった。
ソーニャに手を引っ張られながら、私は修道院へと戻される。ソーニャは火事の被害が少ない修道院の部屋へと、私を案内してくれた。

「物置だけど、ここがあまり燃えなくて幸いだった」

そう言うとソーニャは物置にある棚を物色し始める。私も何か使えるものがないかと、辺りを見回すと、古びたランプが忘れ去られたかのように床の隅に置かれていた。私はランプを手に取り、かぶっていた煤を手で払う。

「シノア。お手柄だね」

ランプを見つけた私にソーニャは笑いかけてくれた。私もつられて、口元から笑みを零す。

「こっちも見つけたよ」

ソーニャはかごいっぱいの缶詰を床に置く。

「寄付された缶詰。修道院長が何かあったときのために取っておいてくれたんだ」

少なくともしばらくは飢えることのない量の缶詰だ。

「今夜の夕食。好きなのを選んで。シノアがここにきたちょっとした・・・・・・」

ソーニャは口を閉ざし、喋るのをやめてしまう。
ちょっとしたお祝い。ソーニャはそう言葉にしたかったんだと思う。きっとセラフィムに殺された修道女たちと、自ら命を絶ったリルのことを思ったに違いない。だから不謹慎だと感じたのかもしれない。

「これにする。ありがとうソーニャ」

私は缶詰を適当に選んで手に取る。中身は何かの果物のようで、赤い木の実の絵が缶詰には描かれている。

「ど、どういたしまして・・・・・・遠慮はしなくていいから・・・・・・」

ソーニャは物置の隅に座ると、それ以上なにも私に口を開こうとせず、ただ静かに祈りの言葉らしきものをブツブツと唱え始めた。
私は床に座り、一人缶詰を食べ始める。

私にとって修道院での初めての夜。見つけたランプが大いに役立っていた。温かそうな光が周囲を照らし、ソーニャも落ち着いた表情でランプの光を見つめている。

「今夜はランプを点けたままにしよう。暗闇だと、あの子たちの姿が浮かびそうだから」

どこか遠い目でランプの光を見つめながら話すソーニャ。

「幻覚を見てしまいそうで怖いの。いいでしょ?」

「いいよ。ソーニャが決めればいい」

私とソーニャは物置にあった少し埃臭いシーツに二人で包まると、ただランプの光だけを見つめていた。

「やっぱりだめ・・・・・・どうしても考える・・・・・・殺された子たちや、リルのことも・・・・・・」

シーツの中でソーニャの手が震えているのを私は感じた。私はその手を握ってあげる。今私ができることはそれしかない。

「セラフィムがここを襲った理由・・・・・・わかる・・・・・・?」

金持ちがセラフィムに命令を下し、男たちは今頃スラム街の女たちに好き放題しているはずだ。全ては金と女。それだけだと私は思う。このことをソーニャに告げれば、彼女は激高するか、泣いてしまう。私は数回首を横に振るしかない。ソーニャには知らない真実にしておくのがいいと思った。

「そう。シノアは知らない・・・・・・」

私は何も知らない。それがソーニャのため・・・・・・

「私たちには考えもつかない生活をしている富裕層の人たちが手下のセラフィムを、お金を使って雇っている。富裕層の人たちは、神を信じて生きている。神が自分たちを選び、裕福にしたと信じて幸せに生きている」

ソーニャは語ってくれた。この修道院がどうして襲われたか知っているように。

「私たちは・・・・・・私は・・・・・・神様の僕である天使様に仕えている。天使様に仕える私たちは、富裕層の人たちにとって信じられない存在。天使様を信じるのが許せないから、だから・・・・・・みんな殺された・・・・・・」

信じる存在が違うという理由だけだった。たったそれだけの理由で、争うことなど知らない人たちが、無残にも殺された。

「これからはシノアと二人だけね・・・・・・ここで二人で暮らしましょう・・・・・・いつまでも二人で・・・・・・」

ランプの光が照らす中で、ソーニャは私の体に寄り添うと、そのまま小さな寝息を立てはじめる。

「おやすみなさい・・・・・・いい夢を見て・・・・・・」

私はソーニャの頬にキスすると、ゆっくりと瞳を閉じる・・・・・・

目を覚ましたのは、少し肌寒い明け方のことだった。一緒に寄り添って眠ったはずのソーニャの姿が隣にない。
私はフラフラとしながら立ち上がると、ソーニャの姿を探す。

「ソーニャ」

焼けた修道院の廊下で彼女の名を口にするが返事はなく、ソーニャはおろか、当然のことながら誰の気配もなかった。
私は修道院の外へと出る。明け方の薄暗い光が差す空の下で私はソーニャを探す。そこは初めて足を運ぶ場所だった。セラフィムによって壊された天使の像が何体もある。どれも薄暗い空の下で悲しんでいると私に錯覚を覚えさせた。
ふと前に目をやると奥に道が続いているのを見つける。ソーニャがいるのではないかと、私は道を歩くと、そこには手つかずの広い土壌が存在していた。

「ここにはみんなで花を植えるはずだった。救いを求める人たちに少しでも希望を持たせる花を植えるはずだったのに・・・・・・」

私はソーニャを見つけた。ただ手つかずの土壌を空しそうに見つめているようだった。

「種ならたくさんあったし、みんなも嬉しそうに賛成していた。私には、さっきまでの出来事みたいに感じる・・・・・・おかしいかな・・・・・・?」

私は無表情にソーニャを見つめていた。このまま悲しみに暮れていても何も生まれないと感じてしまう。

「今日は花を植えよう。誰かに希望を持たせる花を。だから私の知らないソーニャの笑顔を見せて」

私が笑みを浮かべると、ソーニャは笑ってくれた。とても素敵な笑みを私に見せてくれた。

「種はたくさんある。植えよう」

手つかずの土壌で、私たちは土を掘り、花の種を植えた。どんな色の花になるか。それはソーニャも知らなかった。
少し遅い朝食。しばしの休息だった。私たちはお互いに野菜の缶詰を選び、食べ始める。

「缶詰って、思ったより味気ない。やっぱり手料理がいい」

「私が知っている温かい食事よりいい。スラムのレストランでいつも食べた卵の料理は、厨房にいた人がいつも欠伸をして作ってた。それはどうでもいい卵の料理で、味は最低。今食べている野菜の缶詰のほうがずっとおいしい」

「今度パイを作ってあげる。イチゴがたくさん入ったおいしいパイをシノアに食べさせてあげる」

イチゴは知っているが、パイというものを私は知らなかった。けれどいつか食べられるのがとても楽しみに思えた。

「うん。食べたい」

私は目を細めて、笑顔になる。いつになるかわからないが、イチゴのパイが待ち遠しい。

「さぁ、また種を植えよう」

私たちは缶詰を食べ終わり、再び花の種を植え始める。広い土壌に私とソーニャの二人で作業している。途方もない作業だったが、不思議と気分がよかった。

「やっぱり・・・・・・生き残りがいると思った・・・・・・」

それは聞き覚えのある声で、私の背筋を凍らせる。私が声のするほうに目をやると・・・・・・

「シノア・・・・・・?」

彼女は、血だらけの彼女は、私がいることに気が付くと、少し驚いた様子で目を見開く。黒い娼婦のドレスから、リルやソーニャと同じ修道女の服を着ているからなのだろうか?

「リルもどこかにいるの・・・・・・?」

血だらけのセリアは微かに笑う。再会するなんて夢にも思わなかったし、反乱を起こされて殺されたとばかり思っていた。しかし、セリアが握る返り血のついた折れた剣が、何人も殺して自力で逃げ出したのを物語っているかのようだった。

「死んだよ。自分で死んだ。セリアたちがそうさせた」

私が答えると、セリアは咳き込みながら笑う。

「・・・・・・そ、空に逝けた・・・・・・羨ましいけど・・・・・・私にはまだ・・・・・・怖い思いのほうが強い・・・・・・」

セリアは吐血し、その場に倒れこむ。私は当然の報いだと思った。セリアは散々人を殺し、死んだ人々を娯楽のように笑い続けたセラフィムの女。だから無様な死が相応しいはずだ。私は心の底からそう思うのに・・・・・・
私がスラム街から出た理由も、疫病街の人々が死んだ理由も、そして愛するリルが死んだ理由も、全てはセリアが悪いのに・・・・・・

「血を吐いて」

私はセリアの背中を察すっていた。セリアは苦しそうに血を吐き続ける。

「助からないよ。血が壊れる病気にかかっている。見守るしかない病気・・・・・・」

ソーニャは哀れむような表情を浮かべセリアを見ていた。

「それなら、見守ってあげよう」

生きていてはいけないセリア。でもどうせ死ぬのなら見守ってあげようと思った。

「・・・・・・最後を見ていてくれるの・・・・・・?」

セリアは笑う。息苦しそうに私を笑うと、気絶した。

「リルのことを知っていた。誰なの?」

訊いてくるソーニャに私はセリアが誰でどんなことをしたのか全てを話した。
セラフィム。疫病街の人々をリルを使って安楽死させた。リルが自ら命を絶った理由の一つを作り出したのがセリアだと。
ソーニャの気絶したセリアを哀れむ表情は、許せない誰かを見る表情へと変わる。

「この子を見守るの? 最後まで?」

ソーニャに私は一度だけ頷いて見せる。

「どうして?」

訊かれる私には、自分なりの答えがある。

「一人で死ぬのは寂しいことだから」

私は気絶しているセリアを、修道院へと運ぼうとする。セリアが小柄なおかげで、腕の細い私でもなんとか背中に担ぐことができた。

「シノア。この子は・・・・・・出血が酷いからゆっくり運びましょう」

ソーニャも手を貸してくれた。セリアを修道院へと運び終えた頃には、私とソーニャの白い布地の服はセリアの血によって真っ赤に染まっていた。私たちはセリアをベッドの上へと寝かせる。天井には大きな穴が空いた火事の被害が大きい部屋だったが、誰かを寝かせるベッドがあっただけでもよかった。

「・・・・・・ここは寒いよ・・・・・・暗いし、怖い・・・・・・どうして誰も扉を開けてくれないの・・・・・・?」

セリアは魘されていた。確か幼い頃寒村にいた女性に助けられたと話していたのを思い出す。その頃の悪夢に魘されているのだろうか・・・・・・?

「傷を縫うから、服を脱がせてあげて」

針と糸を持ったソーニャに言われ、私はセリアの服を脱がせる。彼女の色白の美しい体は、無残にも鋭い刃物で無造作にいくつも斬られていた。それは血が壊れる病気とやらになるのも無理はないと思えるほどに・・・・・・惨い傷跡をソーニャは慣れた手つきで縫っていく。

「気絶してくれてよかった。意識があったら、痛くて暴れていたでしょうね」

「わ、私は・・・・・・手伝うことはある・・・・・・?」

声が震えてしまう私。傷を縫われるセリアの姿が痛そうで正直見ていられない。

「井戸から水を汲んできて。あと、私たちの替えの服と、この子の服もお願い」

私の心境を察してくれたのか? ソーニャは私をこの部屋から出る算段をつけてくれた。

井戸で水を汲む私。セリアの最後を見守ると言っておきながら、部屋を後にした自分がただ無様に思えて仕方ない。

「私にできるのかな・・・・・・?」

やはりスラムの娼婦がお似合いなのかと、考えずにはいられない。セリアの血が付いた私の修道女の服。洗礼とやらを受けていない私には似合わないのだろうか・・・・・・?

「違う。きっと似合うようになる。リルのようにならないと」

私は誓うように自分に言い聞かせ、物置で替えの服を探す。棚の上に数着あった修道女の服。私はすぐに新しいのに着替えると、ソーニャの分の一着を手に取る。あとはセリアの着替えだ。何かいいのはないのかと、棚の上をもう一度見ると、隅のほうに丁寧にたたまれた白いネグリジェを見つけた。
私は、ソーニャとセリアのいる部屋へと戻る。

「ソーニャ・・・・・・?」

ソーニャは・・・・・・彼女は少しだけ意識の戻ったセリアの首に両手を伸ばしていた。セリアは何度も朦朧と瞬きを繰り返し、ただソーニャを見ているようだった。

「どうせ血が病んでいる・・・・・・だから首を絞めていい・・・・・・?」

朦朧としたセリアに、静かな憎しみを込めてソーニャは訊く。

「それが幸せなら・・・・・・いいよ・・・・・・薄い味のスープをありがとう・・・・・・寒い夜に私を温めてくれて、とても嬉しかった・・・・・・」

弱々しく笑みを浮かべるセリアは、ソーニャを誰かと勘違いしていた。きっと寒村で幼いセリアを助けた女性を、ソーニャと勘違いしているようだった。

「きっと傷になるよ・・・・・・いつまでもソーニャの傷になって、自分をおかしくさせる」

憎しみによる殺意とは、自分を壊すものだと私は勝手にそう思った。

「そうよね。私が殺すことはない。この子には生きている間、苦しんでほしい。苦しんで、最後には冷たい世界に旅立つの・・・・・・誰もいない冷たい世界に・・・・・・」

ソーニャはセリアの首を絞めようとしていた両手をどける。

「水で血を拭いたら、包帯を巻きましょう。まだ生きていてほしいから」

ソーニャに言われるがまま私はセリアの縫われた傷口を、水に濡れた布で丁寧に拭いてく。痛がったセリアの意識は徐々に戻り、私とソーニャのおこないを不思議そうに見ていた。

「私の命を伸ばすことに意味があると思うの?」

セリアは訊いてくる。

「今はとにかく生きて。最後の日は、私がそばにいるから」

自分の命が消える話をしたというのに、セリアは一度だけクスっと笑って見せた。

「一人で死ぬのは確かに寂しい。シノアにはお礼を言わないと・・・・・・」

食い入るように私を見つめるセリア。その蒼い瞳は底知れぬ狂気に溢れているように感じさせる。それは何人もの人を殺し、不幸にしてきた証なのだろうか?
縫われた傷口を拭き終わると、ソーニャは丁寧にセリアの傷口に包帯を巻いていく。私も見様見真似にセリアの腕にある傷口に包帯を巻いた。

「その子は上手に巻くけど、シノアはお粗末ね」

可笑しそうに笑みを浮かべるセリア。誰かの腕に包帯を巻くのなんて初めてだった。だから上手いはずがない。

「これを着て」

私は物置で見つけた白いネグリジェをセリアに差し出す。

「着させてよ。傷口も痛いし、少しだけ甘えてもいいでしょ? 私のシノアになら・・・・・・」

蒼い瞳をうっとりとさせるセリア。やはりセラフィムにいたときと性格は何も変わらない。自分と同じ女に屈折した思いを寄せる。それがセリアという存在に過ぎない。

「あなたは子供じゃない。自分で着なさい」

セリアがセラフィムだということを知っているソーニャ。セラフィムだから何人もの人を殺してきたのも知っているはずだ。

「私がシノアに甘えているのに・・・・・・殺してあげようか・・・・・・?」

セリアはソーニャに静かな殺意を口にするが、途端に頭を抱え込んで何かを悩んでいるかのようだ。

「違う・・・・・・瀕死の状態にまで首を絞めて、最後には命乞いさせてあげる。命乞いした女の血は違う。首を少し斬りつけただけで、とても綺麗な赤い血が流れ出るの・・・・・・それは、それは綺麗な光景だよ」

不敵に笑うセリア。ソーニャに攻撃的なのは明らかだが。ソーニャは屈することなくセリアを睨みつける。

「あなたの血は壊れている。人を殺せる力なんて残っていないくらいに弱っている。きっとすぐに熱が出て苦しみがあなたを待っている。わかる? あなたは悲惨な死に方をするのよ?」

セリアにはお似合いの死に方だと私は思ってしまう。

「死ぬんだね、セリア」

言葉が口に出てしまう私。セリアのことは嫌いで憎しみの存在でしかない。それでも血が壊れる病気で死ぬことが可哀そうに思えてしまう。

「自分で着るから、そんな目で見ないで」

セリアは体中の切り傷を痛がりながらも、白いネグリジェを着てくれる。

「たくさんの人を殺した。襲った街にいた美しい女の子も、散々好きにして飽きたら殺していた。だからお似合いの最後かもしれない。怖いけどシノアが見守ってくれるなら・・・・・・」

セリアは私に笑みを浮かべる。悲観など感じさせない笑みで、最後が近いのを受け入れたかのようだった。

その夜。セリアは苦しみだす。高熱を出して息をするのも苦しそうで、私の手を力なく握っていた。

「セリア。苦しい? 水はいる?」

訊く私だが、セリアは苦しむだけで何の答えも返せない状態だった。

「これに効く薬はない。お医者様にも治せない病気だから・・・・・・だから、手を握り続けてあげるしかない。苦しみも少しは楽になるかもしれない」

ソーニャは告げる。私は苦しむセリアの手を握り続けるしかない。無力なことしかできない駄目な修道女。

「・・・・・・シ・・・・・・ノア・・・・・・ど、どこ・・・・・・? そばにいて・・・・・・」

「ここにいるよ、セリア。私はここにいる」

私はセリアの手を強く握る。聞こえているかどうかもわからないのに、私は他愛もないことをセリアに訊いていた。

「セリアが助けられた寒村はどんなとこだった? 雪という少しだけ凍った雨が降るのは本当?」

雪を知らない私。それはスラムの客。顔も覚えていない誰かに少し凍った雨だと教えられていた。

「薪を集めて、火を起こせば寒くても暖かい村になると思う。きっと毎日に活気があって、美味しいものを食べられて、夜には暖炉の火で温かく眠れる」

寒村がどんなものかも知らない私は、セリアのために私が思う寒村の理想を言葉にするしかない。

「この子は、寒村にいたの?」

ソーニャが訊いてくる。セリアのことを冷たくこの子と言って名前で呼ぶ気にもなれないらしい。

「疫病街にある屋敷で話してくれた。幼い頃そこで女性に助けられたって・・・・・・」

セリアの過去の一部分を私は話した。ソーニャは浮かない表情で、苦しむセリアを見る。

「ここからずっと遠い先の草原の向こうに寒村があったけど。もう十年も前に飢餓に陥って、村の人たちは全滅している」

きっとその場所が、セリアの助けられた寒村に違いない。私の暖かな理想は、暗いものへと変わる。

「セリア。元気になったら、一緒に行こう。セリアの寒村で、暖かいひと時を過ごそう。焚火を囲んで、私とセリアで楽しい話をするの」

セリアが元気になれる日なんてない。そんなことはわかっていた。ソーニャは呆れた顔で私を見ているに違いない。それでも私には、心なしかセリアが少しだけ笑ってくれた気がした。

日の光が眩しいと感じ、私は目を覚ますのを拒んでいる。

「シノア。ずっと握ってくれていたの? いい子ね」

誰かが私の頭を力無い手で撫でていた。撫でられるのが心地よく感じてしまう私。誰かに頭を撫でられたのはいつぶりだろう?

「うふふ・・・・・・」

優しい笑い声。リルなの? 私がゆっくりと目を開けると、目の前には一瞬だけ長い金色の髪をした少女の姿が浮かぶが。違うとすぐにわかった。目の前には目覚めた私を優しそうに笑うセリアがいる。どうやら私はセリアの手を握りながら、彼女のベッドの上に顔をうずめて眠ってしまったらしい。

「よく眠っていたね。今日も可愛いよ」

「セリア。大丈夫なの?」

一度だけ頷いて見せるセリア。昨夜と違い調子がよさそうな姿に私は安堵した。

「今日はいい天気だね」

セリアは天井に空いた大きな穴から澄み渡る青空を見上げる。

「波の音も静かで気持ちよさそう」

落ち着き払い穏やかに青空を見上げ続けるセリア。そこにいるのは無慈悲なセラフィムのセリアではなく、二人といない美しい一人の少女だった。

「海まで行きたい?」

私が訊くと、セリアは握ったままの私の手を力無く握る。私はセリアを立たせると、肩を貸してあげた。部屋の隅で眠るソーニャを起こさないように私たちは、修道院の階段を降りた先にある海へと向かった。
暖かい季節の始まりを感じさせるような雲一つない青空の下で、私とセリアは海を見つめている。

「綺麗な水だね。自分が死んでしまうことなんて忘れそうになるくらい綺麗・・・・・・」

セリアはまるで気でも抜けたかのように、安心しているのか? 彼女特有の異常性はどこかに消え去ったかのように思えた。

「一緒に座ってシノア。少しだけ寄り添わせて・・・・・・」

私たちは白い砂の上に座る。セリアは私の胸のあたりに頭を預けると、まるでか弱い少女のように寄り添った。

「数えきれない人を殺してきた・・・・・・初めて無抵抗な人を殺したとき、その人が死んでいくさまがどこか美しくて、いつまでも笑っていた・・・・・・両手が血で染まることなんてどうでもよかったのに・・・・・・よかったのに・・・・・・どうして今はこんなに悲しく思えるの・・・・・・? 酷いことをしてきた感覚が消えない・・・・・・殺してきた人々が、私の耳元で悲鳴を上げている・・・・・・」

セリアの一粒の涙が、私の手の甲に落ちる。

「きっともう悪いセリアじゃないんだよ。セリアは人の痛みがわかる優しいセリアになれたんだよ」

何の確証もなかったが、私はそう信じている。

「セリアはもう誰も傷つけなくていい。だから最後まで私と一緒に、優しい日々を過ごそう」

優しくなったセリアを、私は見捨てる気はない。

「ありがとう、シノア・・・・・・ありがとう・・・・・・ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」

セリアの私への謝罪の言葉の意味は・・・・・・きっとリルを失う原因を作り出したことへのものだろう。私は今のセリアを恨む気になんてなれない・・・・・・

「謝らないで」

私はセリアの頬に口づけをする。最初は驚いた様子のセリアだが、次の瞬間には涙ながらに微笑んでくれた。

「私は、いい人になれたんだね・・・・・・いい自分で死ねる・・・・・・だから怖くない・・・・・・」

美しく優しいセリア。リルと同じで私が愛する人。
暖かい日だった。セリアが私に看取られて死んだのは。ゆっくりと眠ろうとする子供のように穏やかな死だった。
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