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第1話 弟子からの死刑宣告
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俺の手は薪を割る動作を覚えている。
斧を振り上げる。頂点で一瞬の静止。息を吐きながら振り下ろす。刃が薪の中心を捉え、乾いた音を立てて真っ二つに割れる。左右に転がった薪を足で寄せ、次の一本を台に乗せる。また振り上げる。また振り下ろす。
この動作を、俺は何千回、何万回と繰り返してきた。
二十年前から、毎日。
夏の日差しが照りつける日も、冬の吹雪が山を覆う日も、春の雨が地面を打つ日も。変わらず、ただ薪を割り続けてきた。
積み上がった薪の山を見る。小屋の裏手に、人の背丈の三倍ほどもある山が三つ。冬が来るたびに燃やしても、また春になれば積み直す。もう三年分はある。いや、五年分かもしれない。一人で暮らすには、明らかに多すぎる量だ。
意味のない作業だと、頭では分かっている。
だが、手を止めるわけにはいかなかった。
手を止めれば、頭が勝手に過去を掘り返し始める。記憶の底に沈めたはずのものが、次々と浮かび上がってくる。それだけは避けたかった。どうしても、避けなければならなかった。
斧を地面に突き立て、額の汗を手の甲で拭う。五月の風が山肌を這い上がってくる。木々の葉が揺れ、さざ波のような音を立てる。遠くで鳥が鳴いている。谷の方から、川の流れる音が微かに聞こえる。
誰の声も届かない。
誰の顔も見えない。
それでいい。それがいい。
俺はそう自分に言い聞かせて、再び斧を握った。
「ユーシさん、いるかい?」
老婆の声が、小屋の前から聞こえた。
手が止まる。斧の柄を握ったまま、俺は小さく息を吐いた。
月に二度、麓の村から食料を届けてくれる婆さんだ。名前はミツ。七十を過ぎているはずだが、この険しい山道を登ってくる足取りは、若者よりもずっと確かだった。村の誰もが「あの婆さんは山羊の生まれ変わりだ」と冗談めかして言うほどに。
「いる」
短く答えて、斧を薪の山に立てかける。小屋の前に回ると、ミツが大きな籠を地面に下ろしているところだった。籠の中には干し肉、塩漬けの野菜、黒パンが数個、それに小さな布袋—おそらく塩か薬草だろう—が入っている。
「相変わらず愛想のない返事だねえ」
ミツは皺だらけの顔で笑った。目尻の皺が深く刻まれ、その奥の瞳は濁っているが、妙に鋭い光を宿している。人を見抜く目だ、と俺は何度も思った。
俺は黙って籠を受け取る。礼を言うべきなのは分かっている。だが言葉が喉の奥で引っかかって、出てこない。ミツは気にした様子もなく、腰に手を当てて山の景色を眺めている。
「いい天気だねえ。こんな日は、麓まで景色が見えるよ」
婆さんが指差す方を見る。確かに、霞がかった遠くに、村の屋根が小さく見えた。畑の緑、教会の尖塔、街道を行く荷馬車らしき点。人々の営みが、遠い世界の出来事のように見える。
「ユーシさん」
ミツが唐突に言った。
「また夜中に叫んでたろう?」
俺の手が、籠の取っ手を握ったまま硬直する。
「……聞こえるはずがない。ここは村から三里は離れている」
「聞こえなくても分かるのさ」
婆さんは俺の顔をじっと見た。
「目の下の隈がひどいよ。いつもより、ね。それに、あんたの手、震えてるじゃないか」
言われて、自分の手を見る。確かに、微かに震えていた。籠の取っ手が、小さく揺れている。
俺は無言で籠を地面に置いた。
「これを飲んで、少しは休みな」
ミツは懐から小瓶を取り出した。蜜蝋で封がされた、親指ほどの大きさの瓶だ。中には褐色の液体が入っている。
「薬草を煎じた安眠薬だよ。村の薬師が作ったやつだ。よく効くからね」
「必要ない」
「頑固だねえ。昔っからそうだ」
ミツは小瓶を俺の手に無理やり押し付けた。節くれだった指が、妙に温かかった。
「あんたがどんな夢を見てるか、私は知らない。知りたいとも思わない。でもね、ユーシさん。眠れない夜が続けば、人は壊れるんだよ」
婆さんの声は静かだったが、どこか諭すような響きがあった。
「あんたはまだ若い。四十そこそこだろう? まだやり直せる歳だ。こんな山に引きこもって、薪ばかり割ってる場合じゃないよ」
「……余計な心配だ」
「そうかい」
ミツは肩をすくめた。それから籠を指差す。
「取っ手が壊れかけてるね。直してくれるかい?」
見ると、確かに籠の取っ手の片方が、編み目から外れかけていた。このまま使えば、次に山を登る途中で壊れるだろう。
俺は無言で小屋に入り、蔦の束を持ってきた。それから籠を手に取り、壊れかけた部分を蔦で巻き直す。指が勝手に動く。こういう作業は、体が覚えていた。
「ありがとうね」
ミツが言った。
「こういうの、あんたは上手だねえ。昔、誰かに教わったのかい?」
「……覚えていない」
嘘だった。覚えている。教えたのは、俺の最初の弟子—リアだった。あの子は手先が器用で、壊れた道具を直すのが得意だった。「先生、こうやるんですよ」と笑いながら、俺に編み方を教えてくれた。
籠をミツに返す。婆さんは嬉しそうに受け取り、何度か揺すって確かめた。
「しっかりしてるね。これなら当分持つよ」
それから、ミツは帰り支度を始めた。腰の袋を整え、杖を手に取る。
「ああ、そうそう」
婆さんは何でもないように、背中を向けたまま言った。
「麓で変な噂があってね」
俺の背筋が、わずかに硬くなる。
「勇者マルクが追われてるんだって」
マルク。
その名前を聞いた瞬間、記憶が一気に溢れ出そうになった。俺は奥歯を噛みしめて、それを押さえ込む。
「国王陛下の命令らしいよ。裏切り者だって話だ。可哀想にねえ、あんなに国のために戦ったのに」
ミツの声は同情に満ちていた。だが俺には、その言葉が妙に遠く聞こえた。
マルク。
貴族の三男坊で、真面目で、いつも唇を噛みながら剣を振っていた少年。俺が教えた五人の弟子の中で、最も優しい心を持っていた。
「村の連中は噂してるよ。『勇者が裏切るなんて、よっぽどのことがあったんだろう』ってね。まあ、私らには分からない話だけどさ」
婆さんは一度、俺を振り返った。
「ユーシさんは、どう思う?」
俺は何も答えなかった。答えられなかった。
「…俺には関係ない」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも嘘だと分かるほど空虚だった。
「そうかい」
ミツは俺の顔をじっと見た。その目は、もう笑っていなかった。
「あんたがそう言うなら、そうなんだろうね」
婆さんは踵を返し、山道を下り始めた。杖をつく音が、規則正しく響く。その背中を見送りながら、俺は小瓶を握りしめていた。
関係ない。
そう自分に言い聞かせた。
だが、心臓は早鐘を打っていた。
夕暮れが山を染める頃、俺は小屋の中で一人、木を削っていた。
暖炉の前に座り込み、膝の上にナイフと木片を置く。ナイフの刃を木肌に当て、薄く削ぐ。白い削りくずが、ひらひらと膝の上に落ちる。
手の中にあるのは、少女の形をした人形だった。
頭部、胴体、手足。大まかな形は出来ている。だが顔の部分は、まだ荒削りのままだ。目も鼻も口も、ぼんやりとした線でしかない。
何年、削り続けているだろう。
五年か。十年か。もっとか。
数えるのをやめて久しい。
完成させるつもりはない。完成させたら、それで終わってしまう気がした。この人形を完成させることは、彼女の死を認めることだ。それだけは、できなかった。
暖炉の火が小さく揺れている。薪が爆ぜる音が、静寂を破る。
ナイフを動かす手が止まる。
人形の顔を見つめる。まだ何も刻まれていない、のっぺらぼうの顔。
だが俺には見える。そこに浮かぶはずだった笑顔が。明るくて、無邪気で、どこまでも純粋な笑顔が。
『先生! 見てください! 今日は一人で魔物を倒しました!』
リアの声が、耳の奥で蘇る。
『私、強くなったでしょう? 先生みたいに、強く!』
俺は目を閉じた。
違う。
お前に教えるべきだったのは、強さじゃなかった。
剣の振り方じゃなかった。
敵の倒し方じゃなかった。
教えるべきだったのは—
ナイフを置き、人形を棚に戻す。その隣には、同じように削りかけの人形が五つ並んでいる。どれも未完成だ。どれも同じ少女の形をしている。
俺は床に寝転がり、目を閉じた。
眠るべきではない。夢を見るから。あの夢を。
だが疲労は容赦なく、意識を暗闇の底へと引きずり込んでいく。
雨が降っている。
激しい雨だ。視界が霞んでいる。
足元は泥だ。泥と血が混ざり合い、ぬかるんでいる。一歩踏み出すたびに、足が沈む。
周囲には魔物の死骸が転がっている。巨大な狼。三つ首の蛇。翼の折れた竜。そして、人間の死骸も。鎧を着た兵士たちが、無造作に地面に横たわっている。
戦場だ。
地獄のような戦場だ。
その中心に、少女が立っていた。
「先生!」
リアだ。
十五歳の、俺の最初の弟子だ。
泥まみれの顔で、剣を振り上げている。刃には血が滴っている。彼女の体中が、返り血で赤く染まっている。
「私、やりました! 魔物を倒しました!」
彼女は笑っていた。
誇らしげに。
まるで褒められるのを待つ子供のように。
俺は叫ぼうとする。
「リア、そこを動くな—」
だが声が出ない。
喉が締め付けられたように、空気が漏れるだけだ。
少女の背後から、影が迫る。
巨大な爪が、雨の中から現れる。
リアの背中を、貫く。
音がした。
鈍い、肉を裂く音。
骨が砕ける音。
少女の目が、見開かれる。
口が開く。だが声は出ない。
剣が、手から滑り落ちる。
彼女の体が宙を舞う。まるで人形のように、軽々と。
そして、泥の中に落ちる。
雨が血を洗い流していく。
彼女の目は、まだ俺を見ていた。
まだ笑っていた。
「先生……」
掠れた声が、雨音の中で聞こえる。
「私……強く……なれました……か……?」
俺は叫ぶ。
叫び続ける。
だが声は届かない。
リアの目から光が消えていく。
笑顔が、ゆっくりと消えていく。
そして—
目が覚めた。
暗闇の中、自分の荒い呼吸だけが聞こえる。
心臓が激しく打っている。シャツが汗で張り付いている。手が震えている。
窓の外を見る。まだ暗い。夜明けまで、まだ時間がある。
俺は起き上がり、暖炉の前に座った。火は消えかけている。灰の中で、最後の薪が赤く燻っている。
薪をくべようとして、手が止まる。
リアの声が、まだ耳に残っている。
「強くなれましたか」
強く。
俺が教えたのは、強さだった。
剣の振り方。魔物の倒し方。敵を殺す技術。
それだけを教えた。
生き残る方法を教えなかった。
逃げる勇気を教えなかった。
弱さを認める強さを教えなかった。
それが間違いだったと気づいたのは、彼女が死んでからだった。
遅すぎた。
何もかも、遅すぎた。
俺は顔を両手で覆った。
泣くことすらできなかった。涙は、二十年前に枯れ果てていた。
翌日の午後、客が来た。
俺は薪割りを再開していた。昨夜の悪夢を振り払うように、何度も何度も斧を振り下ろした。
一本。また一本。さらに一本。
汗が流れる。筋肉が悲鳴を上げる。だが手を止めない。止められない。
リアの顔が、脳裏をよぎる。
フェリクスの顔が、よぎる。
マルクの顔が、よぎる。
他の弟子たちの顔が、次々と—
「ユーシ殿」
背後から、声がかかった。
男の声だ。低く、抑揚がない。感情の読めない声。
俺は斧を振り下ろす動作を止め、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、黒いローブを纏った男だった。
フードで顔の半分が隠れている。だが、その立ち姿から多くのことが読み取れた。訓練を積んだ兵士だ。それも、相当な手練だ。足の運び、重心の置き方、腰に下げた剣の位置。全てが、実戦を経験した者特有の構えを示していた。
「何の用だ」
俺は短く尋ねた。斧は握ったままだ。
「国王陛下からの使いだ」
男は懐から巻物を取り出した。封蝋には、王家の紋章が刻まれている。金色の獅子と剣。フェリクスの紋章だ。
「国王陛下より、ユーシ殿に命令がある」
男の声は事務的だった。
「勇者マルクを始末せよ、と」
俺は斧を地面に突き立てた。刃が土に深く食い込む。
「断る」
「即答か」
男は笑った。嘲るような、それでいてどこか感心したような笑いだった。
「陛下は言っておられた。『師は強さを教えてくれた。その教えに背く者は、師自らが正すべきだ』とな」
フェリクス。
あの少年の顔が浮かぶ。
痩せていて、目だけがぎらぎらと光っていた孤児の少年。拾った時、彼は飢えて倒れかけていた。それでも、差し出したパンを受け取る前に、「強くなれますか?」と尋ねてきた。
「フェリクスが……そう言ったのか」
「陛下は、師の教えを実践しておられる。弱者を守るために、強者が支配する。それこそが秩序だと。そして、その秩序を乱す者—たとえそれが勇者であろうとも—粛清されるべきだと」
男の言葉が、一つ一つ胸に突き刺さる。
「違う」
俺は呟いた。
「何が違う?」
「俺が教えたのは……そんなことじゃない」
「では何を教えた?」
男が一歩、前に出る。その動きに、俺の体が反応する。二十年のブランクなど、ないかのように。
「強さだろう? 力だろう? 『弱者を守るには、強くなければならない』—陛下から何度も聞いた言葉だ。陛下はそれを体現している。師の理想を、な」
男の手が、剣の柄にかかる。
その瞬間—
俺の手が、斧の柄を掴んだまま、わずかに動いた。
それだけだった。
ただ、ほんの数センチ、斧を引いただけ。
だが次の瞬間、男の足元にあった薪が、真っ二つに割れて転がった。
いや、割れたのではない。
切れたのだ。
まるで見えない刃が走ったかのように、断面は滑らかだった。
男の頬に、一筋の赤い線が現れる。
血が、一滴、地面に落ちる。
男は動かない。いや、動けない。
俺は斧を握ったまま、男を見てもいなかった。視線は地面に向けられたままだ。
それなのに。
それなのに、男の頬は切れていた。
飛んできた木片が、かすめたのだ。音速を超える速度で放たれた、ただの木片が。
「……っ」
男の額に、冷や汗が浮かぶ。
今の一瞬で、理解したのだろう。
目の前にいる男が、どれほどの化物か。
どれほどの、人間離れした存在か。
男は一歩、後ずさった。それから、もう一歩。
「……陛下に、お伝えする」
声が震えていた。
「ユーシ殿は、命令を拒否されたと」
男は踵を返し、森の中へと走り去った。足音が、どんどん遠ざかっていく。
俺は一人、その場に立ち尽くした。
風が吹く。木々が揺れる。鳥が鳴く。
地面に落ちた巻物を拾い上げる。
封を切り、中を読む。
『元師ユーシへ。勇者マルクは国家反逆罪により、死刑を宣告された。貴殿には、かつての弟子として、自らの手で始末する名誉を与える。期日は十日後。王城にて首を献上せよ。国王フェリクス』
文面は簡潔で、冷たい。
だが、その行間に、あの少年の声が聞こえる気がした。
『先生、見ていてください。僕は強くなりました』
『僕は、先生の教えを守っています』
『だから、認めてください』
俺は巻物を握りつぶした。
紙が皺になり、インクが手に染みる。
小屋に戻る。
壁にかけてあった剣帯を手に取る。
二十年、触れていなかった。
革は乾いてひび割れ、金具は錆びていた。だが、剣そのものは—
布を解く。
一枚、また一枚。
最後の布を取り去ると、剣が現れた。
刃は、輝きを失っていない。
刃こぼれ一つない。
俺が封印した日と同じ、完璧な切れ味を保っている。
鞘から抜く。
剣が、月明かりを反射する。
白銀の輝き。冷たく、美しく、そして残酷な輝き。
この刃で、俺は何人殺してきた?
魔物か? 百か? 二百か?
人間は?
数えるのをやめた数。
この刃で、俺は何人守れた?
弟子たちか?
いや。
守れなかった。
リアは死んだ。
フェリクスは狂った。
マルクは逃げた。
他の弟子たちも、それぞれの道で迷っている。
剣を構える。
体が覚えている。
二十年のブランクなど、ないかのように。
筋肉が、骨が、神経が、全てが剣を握る形を記憶している。
だが、手が震えている。
この剣を、もう一度握ることの意味。
この剣を、もう一度帯びることの重さ。
それが、今になって分かる。
剣を鞘に収め、腰に帯びる。
革帯を締める。
嫌な馴染み方をする。
二十年経っても、体が人殺しの道具の重さを覚えていた。
小屋の中を見回す。
二十年暮らした場所だ。
だが、何一つ愛着のあるものはない。
暖炉も、寝床も、棚に並んだ未完成の人形たちも。
ただ一つ、手に取ったのは、昨日削っていた人形だけだった。
それを懐に入れる。
扉に手をかける。
鍵はかけない。
戻らない覚悟だった。
いや、戻る資格がない。
扉を開け、外に出る。
夜明け前の空が、少しずつ白んでいく。
東の空に、赤い光が滲み始めている。
新しい一日の始まりだ。
だが俺にとっては、終わりの始まりかもしれない。
山道を下り始める。
足音だけが、静寂を破る。
どこへ行くのか、まだ分からない。
マルクを殺すためか。
フェリクスを止めるためか。
それとも、ただ自分が何を教えたのか、確かめるためか。
答えは出ない。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
もう、山には戻れない。
戻る場所は、どこにもない。
風が吹く。
木々が揺れる。
鳥が鳴く。
世界は、俺がいなくても回り続ける。
それでいい。
俺はただ、歩き続けるだけだ。
贖罪のために。
それとも、破滅のために。
どちらでもいい。
山道の途中で、俺は一度だけ振り返った。
小屋が見える。
煙突から煙は上がっていない。
窓は閉ざされている。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
俺は再び前を向き、歩き出した。
足を進めるたびに、小屋が遠ざかっていく。
二十年の隠遁が、一歩ずつ過去になっていく。
どれだけ歩いただろう。
空が完全に明るくなった頃、麓の村が見えてきた。
朝靄の中、煙突から煙が上がり始めている。鶏の鳴き声が聞こえる。子供の笑い声が、風に乗って届く。
人々の営みが始まる音だ。
生きている音だ。
村の入口で、ミツが立っていた。
まるで俺が来ることを、最初から知っていたかのように。
「やっぱり降りてきたね」
婆さんは笑った。
「行くのかい? マルクのところへ」
「……分からない」
正直に答えた。
「あんたらしい答えだ」
ミツは懐から、小さな布包みを取り出した。
「旅の支度はしてないだろう。これを持っていきな」
中には干し肉とパン、それに水筒が入っていた。
「……なぜ」
「あんたが山を降りる日が来るって、ずっと思ってたのさ」
婆さんは俺の手に包みを押し付けた。
「人間は、そう簡単には死ねないもんだよ。生きてる限り、どこかで足掻こうとする。それが人間ってもんさ」
ミツは俺の目をまっすぐ見た。
「ユーシさん。あんたがどんな過去を背負ってるか、私は知らない。知りたいとも思わない。でもね、一つだけ言わせておくれ」
婆さんの声は、どこまでも優しかった。
「生きてる限り、やり直せるんだよ。……たとえ、泥にまみれてもね。何度でもね。たとえどんな過ちを犯しても、生きてさえいれば、もう一度やり直せる」
俺は何も言えなかった。
言葉が、喉の奥で詰まっていた。
ミツは手を振り、村へと戻っていった。
その背中を見送る。
小さくて、曲がっていて、それでも力強い背中だった。
俺は包みを背嚢に入れ、村を抜けた。
街道に出る。
久しぶりに見る、平らな道だ。
太陽が昇り始める。
影が長く伸びる。
俺の影が、地面に黒く落ちる。
二十年ぶりに見る、自分の影だった。
俺は歩き続ける。
どこへ向かうのか、まだ分からない。
ただ、足は勝手に前に進む。
まるで、何かに引き寄せられるように。
まるで、運命に導かれるように。
街道の先に、小さな町が見える。
人の声が聞こえる。
笑い声、怒鳴り声、物売りの声、馬のいななき。
生きている音だ。
俺は、その音の中へと踏み込んでいく。
二十年ぶりに。
人の世界へ。
そこで何が待っているのか、分からない。
だが、もう引き返せない。
引き返す場所は、どこにもない。
前に進むしかない。
たとえその先に何が待っていようとも。
たとえそれが、地獄であろうとも。
俺は歩き続ける。
優しい師と呼ばれた男の、贖罪の旅が始まる。
斧を振り上げる。頂点で一瞬の静止。息を吐きながら振り下ろす。刃が薪の中心を捉え、乾いた音を立てて真っ二つに割れる。左右に転がった薪を足で寄せ、次の一本を台に乗せる。また振り上げる。また振り下ろす。
この動作を、俺は何千回、何万回と繰り返してきた。
二十年前から、毎日。
夏の日差しが照りつける日も、冬の吹雪が山を覆う日も、春の雨が地面を打つ日も。変わらず、ただ薪を割り続けてきた。
積み上がった薪の山を見る。小屋の裏手に、人の背丈の三倍ほどもある山が三つ。冬が来るたびに燃やしても、また春になれば積み直す。もう三年分はある。いや、五年分かもしれない。一人で暮らすには、明らかに多すぎる量だ。
意味のない作業だと、頭では分かっている。
だが、手を止めるわけにはいかなかった。
手を止めれば、頭が勝手に過去を掘り返し始める。記憶の底に沈めたはずのものが、次々と浮かび上がってくる。それだけは避けたかった。どうしても、避けなければならなかった。
斧を地面に突き立て、額の汗を手の甲で拭う。五月の風が山肌を這い上がってくる。木々の葉が揺れ、さざ波のような音を立てる。遠くで鳥が鳴いている。谷の方から、川の流れる音が微かに聞こえる。
誰の声も届かない。
誰の顔も見えない。
それでいい。それがいい。
俺はそう自分に言い聞かせて、再び斧を握った。
「ユーシさん、いるかい?」
老婆の声が、小屋の前から聞こえた。
手が止まる。斧の柄を握ったまま、俺は小さく息を吐いた。
月に二度、麓の村から食料を届けてくれる婆さんだ。名前はミツ。七十を過ぎているはずだが、この険しい山道を登ってくる足取りは、若者よりもずっと確かだった。村の誰もが「あの婆さんは山羊の生まれ変わりだ」と冗談めかして言うほどに。
「いる」
短く答えて、斧を薪の山に立てかける。小屋の前に回ると、ミツが大きな籠を地面に下ろしているところだった。籠の中には干し肉、塩漬けの野菜、黒パンが数個、それに小さな布袋—おそらく塩か薬草だろう—が入っている。
「相変わらず愛想のない返事だねえ」
ミツは皺だらけの顔で笑った。目尻の皺が深く刻まれ、その奥の瞳は濁っているが、妙に鋭い光を宿している。人を見抜く目だ、と俺は何度も思った。
俺は黙って籠を受け取る。礼を言うべきなのは分かっている。だが言葉が喉の奥で引っかかって、出てこない。ミツは気にした様子もなく、腰に手を当てて山の景色を眺めている。
「いい天気だねえ。こんな日は、麓まで景色が見えるよ」
婆さんが指差す方を見る。確かに、霞がかった遠くに、村の屋根が小さく見えた。畑の緑、教会の尖塔、街道を行く荷馬車らしき点。人々の営みが、遠い世界の出来事のように見える。
「ユーシさん」
ミツが唐突に言った。
「また夜中に叫んでたろう?」
俺の手が、籠の取っ手を握ったまま硬直する。
「……聞こえるはずがない。ここは村から三里は離れている」
「聞こえなくても分かるのさ」
婆さんは俺の顔をじっと見た。
「目の下の隈がひどいよ。いつもより、ね。それに、あんたの手、震えてるじゃないか」
言われて、自分の手を見る。確かに、微かに震えていた。籠の取っ手が、小さく揺れている。
俺は無言で籠を地面に置いた。
「これを飲んで、少しは休みな」
ミツは懐から小瓶を取り出した。蜜蝋で封がされた、親指ほどの大きさの瓶だ。中には褐色の液体が入っている。
「薬草を煎じた安眠薬だよ。村の薬師が作ったやつだ。よく効くからね」
「必要ない」
「頑固だねえ。昔っからそうだ」
ミツは小瓶を俺の手に無理やり押し付けた。節くれだった指が、妙に温かかった。
「あんたがどんな夢を見てるか、私は知らない。知りたいとも思わない。でもね、ユーシさん。眠れない夜が続けば、人は壊れるんだよ」
婆さんの声は静かだったが、どこか諭すような響きがあった。
「あんたはまだ若い。四十そこそこだろう? まだやり直せる歳だ。こんな山に引きこもって、薪ばかり割ってる場合じゃないよ」
「……余計な心配だ」
「そうかい」
ミツは肩をすくめた。それから籠を指差す。
「取っ手が壊れかけてるね。直してくれるかい?」
見ると、確かに籠の取っ手の片方が、編み目から外れかけていた。このまま使えば、次に山を登る途中で壊れるだろう。
俺は無言で小屋に入り、蔦の束を持ってきた。それから籠を手に取り、壊れかけた部分を蔦で巻き直す。指が勝手に動く。こういう作業は、体が覚えていた。
「ありがとうね」
ミツが言った。
「こういうの、あんたは上手だねえ。昔、誰かに教わったのかい?」
「……覚えていない」
嘘だった。覚えている。教えたのは、俺の最初の弟子—リアだった。あの子は手先が器用で、壊れた道具を直すのが得意だった。「先生、こうやるんですよ」と笑いながら、俺に編み方を教えてくれた。
籠をミツに返す。婆さんは嬉しそうに受け取り、何度か揺すって確かめた。
「しっかりしてるね。これなら当分持つよ」
それから、ミツは帰り支度を始めた。腰の袋を整え、杖を手に取る。
「ああ、そうそう」
婆さんは何でもないように、背中を向けたまま言った。
「麓で変な噂があってね」
俺の背筋が、わずかに硬くなる。
「勇者マルクが追われてるんだって」
マルク。
その名前を聞いた瞬間、記憶が一気に溢れ出そうになった。俺は奥歯を噛みしめて、それを押さえ込む。
「国王陛下の命令らしいよ。裏切り者だって話だ。可哀想にねえ、あんなに国のために戦ったのに」
ミツの声は同情に満ちていた。だが俺には、その言葉が妙に遠く聞こえた。
マルク。
貴族の三男坊で、真面目で、いつも唇を噛みながら剣を振っていた少年。俺が教えた五人の弟子の中で、最も優しい心を持っていた。
「村の連中は噂してるよ。『勇者が裏切るなんて、よっぽどのことがあったんだろう』ってね。まあ、私らには分からない話だけどさ」
婆さんは一度、俺を振り返った。
「ユーシさんは、どう思う?」
俺は何も答えなかった。答えられなかった。
「…俺には関係ない」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも嘘だと分かるほど空虚だった。
「そうかい」
ミツは俺の顔をじっと見た。その目は、もう笑っていなかった。
「あんたがそう言うなら、そうなんだろうね」
婆さんは踵を返し、山道を下り始めた。杖をつく音が、規則正しく響く。その背中を見送りながら、俺は小瓶を握りしめていた。
関係ない。
そう自分に言い聞かせた。
だが、心臓は早鐘を打っていた。
夕暮れが山を染める頃、俺は小屋の中で一人、木を削っていた。
暖炉の前に座り込み、膝の上にナイフと木片を置く。ナイフの刃を木肌に当て、薄く削ぐ。白い削りくずが、ひらひらと膝の上に落ちる。
手の中にあるのは、少女の形をした人形だった。
頭部、胴体、手足。大まかな形は出来ている。だが顔の部分は、まだ荒削りのままだ。目も鼻も口も、ぼんやりとした線でしかない。
何年、削り続けているだろう。
五年か。十年か。もっとか。
数えるのをやめて久しい。
完成させるつもりはない。完成させたら、それで終わってしまう気がした。この人形を完成させることは、彼女の死を認めることだ。それだけは、できなかった。
暖炉の火が小さく揺れている。薪が爆ぜる音が、静寂を破る。
ナイフを動かす手が止まる。
人形の顔を見つめる。まだ何も刻まれていない、のっぺらぼうの顔。
だが俺には見える。そこに浮かぶはずだった笑顔が。明るくて、無邪気で、どこまでも純粋な笑顔が。
『先生! 見てください! 今日は一人で魔物を倒しました!』
リアの声が、耳の奥で蘇る。
『私、強くなったでしょう? 先生みたいに、強く!』
俺は目を閉じた。
違う。
お前に教えるべきだったのは、強さじゃなかった。
剣の振り方じゃなかった。
敵の倒し方じゃなかった。
教えるべきだったのは—
ナイフを置き、人形を棚に戻す。その隣には、同じように削りかけの人形が五つ並んでいる。どれも未完成だ。どれも同じ少女の形をしている。
俺は床に寝転がり、目を閉じた。
眠るべきではない。夢を見るから。あの夢を。
だが疲労は容赦なく、意識を暗闇の底へと引きずり込んでいく。
雨が降っている。
激しい雨だ。視界が霞んでいる。
足元は泥だ。泥と血が混ざり合い、ぬかるんでいる。一歩踏み出すたびに、足が沈む。
周囲には魔物の死骸が転がっている。巨大な狼。三つ首の蛇。翼の折れた竜。そして、人間の死骸も。鎧を着た兵士たちが、無造作に地面に横たわっている。
戦場だ。
地獄のような戦場だ。
その中心に、少女が立っていた。
「先生!」
リアだ。
十五歳の、俺の最初の弟子だ。
泥まみれの顔で、剣を振り上げている。刃には血が滴っている。彼女の体中が、返り血で赤く染まっている。
「私、やりました! 魔物を倒しました!」
彼女は笑っていた。
誇らしげに。
まるで褒められるのを待つ子供のように。
俺は叫ぼうとする。
「リア、そこを動くな—」
だが声が出ない。
喉が締め付けられたように、空気が漏れるだけだ。
少女の背後から、影が迫る。
巨大な爪が、雨の中から現れる。
リアの背中を、貫く。
音がした。
鈍い、肉を裂く音。
骨が砕ける音。
少女の目が、見開かれる。
口が開く。だが声は出ない。
剣が、手から滑り落ちる。
彼女の体が宙を舞う。まるで人形のように、軽々と。
そして、泥の中に落ちる。
雨が血を洗い流していく。
彼女の目は、まだ俺を見ていた。
まだ笑っていた。
「先生……」
掠れた声が、雨音の中で聞こえる。
「私……強く……なれました……か……?」
俺は叫ぶ。
叫び続ける。
だが声は届かない。
リアの目から光が消えていく。
笑顔が、ゆっくりと消えていく。
そして—
目が覚めた。
暗闇の中、自分の荒い呼吸だけが聞こえる。
心臓が激しく打っている。シャツが汗で張り付いている。手が震えている。
窓の外を見る。まだ暗い。夜明けまで、まだ時間がある。
俺は起き上がり、暖炉の前に座った。火は消えかけている。灰の中で、最後の薪が赤く燻っている。
薪をくべようとして、手が止まる。
リアの声が、まだ耳に残っている。
「強くなれましたか」
強く。
俺が教えたのは、強さだった。
剣の振り方。魔物の倒し方。敵を殺す技術。
それだけを教えた。
生き残る方法を教えなかった。
逃げる勇気を教えなかった。
弱さを認める強さを教えなかった。
それが間違いだったと気づいたのは、彼女が死んでからだった。
遅すぎた。
何もかも、遅すぎた。
俺は顔を両手で覆った。
泣くことすらできなかった。涙は、二十年前に枯れ果てていた。
翌日の午後、客が来た。
俺は薪割りを再開していた。昨夜の悪夢を振り払うように、何度も何度も斧を振り下ろした。
一本。また一本。さらに一本。
汗が流れる。筋肉が悲鳴を上げる。だが手を止めない。止められない。
リアの顔が、脳裏をよぎる。
フェリクスの顔が、よぎる。
マルクの顔が、よぎる。
他の弟子たちの顔が、次々と—
「ユーシ殿」
背後から、声がかかった。
男の声だ。低く、抑揚がない。感情の読めない声。
俺は斧を振り下ろす動作を止め、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、黒いローブを纏った男だった。
フードで顔の半分が隠れている。だが、その立ち姿から多くのことが読み取れた。訓練を積んだ兵士だ。それも、相当な手練だ。足の運び、重心の置き方、腰に下げた剣の位置。全てが、実戦を経験した者特有の構えを示していた。
「何の用だ」
俺は短く尋ねた。斧は握ったままだ。
「国王陛下からの使いだ」
男は懐から巻物を取り出した。封蝋には、王家の紋章が刻まれている。金色の獅子と剣。フェリクスの紋章だ。
「国王陛下より、ユーシ殿に命令がある」
男の声は事務的だった。
「勇者マルクを始末せよ、と」
俺は斧を地面に突き立てた。刃が土に深く食い込む。
「断る」
「即答か」
男は笑った。嘲るような、それでいてどこか感心したような笑いだった。
「陛下は言っておられた。『師は強さを教えてくれた。その教えに背く者は、師自らが正すべきだ』とな」
フェリクス。
あの少年の顔が浮かぶ。
痩せていて、目だけがぎらぎらと光っていた孤児の少年。拾った時、彼は飢えて倒れかけていた。それでも、差し出したパンを受け取る前に、「強くなれますか?」と尋ねてきた。
「フェリクスが……そう言ったのか」
「陛下は、師の教えを実践しておられる。弱者を守るために、強者が支配する。それこそが秩序だと。そして、その秩序を乱す者—たとえそれが勇者であろうとも—粛清されるべきだと」
男の言葉が、一つ一つ胸に突き刺さる。
「違う」
俺は呟いた。
「何が違う?」
「俺が教えたのは……そんなことじゃない」
「では何を教えた?」
男が一歩、前に出る。その動きに、俺の体が反応する。二十年のブランクなど、ないかのように。
「強さだろう? 力だろう? 『弱者を守るには、強くなければならない』—陛下から何度も聞いた言葉だ。陛下はそれを体現している。師の理想を、な」
男の手が、剣の柄にかかる。
その瞬間—
俺の手が、斧の柄を掴んだまま、わずかに動いた。
それだけだった。
ただ、ほんの数センチ、斧を引いただけ。
だが次の瞬間、男の足元にあった薪が、真っ二つに割れて転がった。
いや、割れたのではない。
切れたのだ。
まるで見えない刃が走ったかのように、断面は滑らかだった。
男の頬に、一筋の赤い線が現れる。
血が、一滴、地面に落ちる。
男は動かない。いや、動けない。
俺は斧を握ったまま、男を見てもいなかった。視線は地面に向けられたままだ。
それなのに。
それなのに、男の頬は切れていた。
飛んできた木片が、かすめたのだ。音速を超える速度で放たれた、ただの木片が。
「……っ」
男の額に、冷や汗が浮かぶ。
今の一瞬で、理解したのだろう。
目の前にいる男が、どれほどの化物か。
どれほどの、人間離れした存在か。
男は一歩、後ずさった。それから、もう一歩。
「……陛下に、お伝えする」
声が震えていた。
「ユーシ殿は、命令を拒否されたと」
男は踵を返し、森の中へと走り去った。足音が、どんどん遠ざかっていく。
俺は一人、その場に立ち尽くした。
風が吹く。木々が揺れる。鳥が鳴く。
地面に落ちた巻物を拾い上げる。
封を切り、中を読む。
『元師ユーシへ。勇者マルクは国家反逆罪により、死刑を宣告された。貴殿には、かつての弟子として、自らの手で始末する名誉を与える。期日は十日後。王城にて首を献上せよ。国王フェリクス』
文面は簡潔で、冷たい。
だが、その行間に、あの少年の声が聞こえる気がした。
『先生、見ていてください。僕は強くなりました』
『僕は、先生の教えを守っています』
『だから、認めてください』
俺は巻物を握りつぶした。
紙が皺になり、インクが手に染みる。
小屋に戻る。
壁にかけてあった剣帯を手に取る。
二十年、触れていなかった。
革は乾いてひび割れ、金具は錆びていた。だが、剣そのものは—
布を解く。
一枚、また一枚。
最後の布を取り去ると、剣が現れた。
刃は、輝きを失っていない。
刃こぼれ一つない。
俺が封印した日と同じ、完璧な切れ味を保っている。
鞘から抜く。
剣が、月明かりを反射する。
白銀の輝き。冷たく、美しく、そして残酷な輝き。
この刃で、俺は何人殺してきた?
魔物か? 百か? 二百か?
人間は?
数えるのをやめた数。
この刃で、俺は何人守れた?
弟子たちか?
いや。
守れなかった。
リアは死んだ。
フェリクスは狂った。
マルクは逃げた。
他の弟子たちも、それぞれの道で迷っている。
剣を構える。
体が覚えている。
二十年のブランクなど、ないかのように。
筋肉が、骨が、神経が、全てが剣を握る形を記憶している。
だが、手が震えている。
この剣を、もう一度握ることの意味。
この剣を、もう一度帯びることの重さ。
それが、今になって分かる。
剣を鞘に収め、腰に帯びる。
革帯を締める。
嫌な馴染み方をする。
二十年経っても、体が人殺しの道具の重さを覚えていた。
小屋の中を見回す。
二十年暮らした場所だ。
だが、何一つ愛着のあるものはない。
暖炉も、寝床も、棚に並んだ未完成の人形たちも。
ただ一つ、手に取ったのは、昨日削っていた人形だけだった。
それを懐に入れる。
扉に手をかける。
鍵はかけない。
戻らない覚悟だった。
いや、戻る資格がない。
扉を開け、外に出る。
夜明け前の空が、少しずつ白んでいく。
東の空に、赤い光が滲み始めている。
新しい一日の始まりだ。
だが俺にとっては、終わりの始まりかもしれない。
山道を下り始める。
足音だけが、静寂を破る。
どこへ行くのか、まだ分からない。
マルクを殺すためか。
フェリクスを止めるためか。
それとも、ただ自分が何を教えたのか、確かめるためか。
答えは出ない。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
もう、山には戻れない。
戻る場所は、どこにもない。
風が吹く。
木々が揺れる。
鳥が鳴く。
世界は、俺がいなくても回り続ける。
それでいい。
俺はただ、歩き続けるだけだ。
贖罪のために。
それとも、破滅のために。
どちらでもいい。
山道の途中で、俺は一度だけ振り返った。
小屋が見える。
煙突から煙は上がっていない。
窓は閉ざされている。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
俺は再び前を向き、歩き出した。
足を進めるたびに、小屋が遠ざかっていく。
二十年の隠遁が、一歩ずつ過去になっていく。
どれだけ歩いただろう。
空が完全に明るくなった頃、麓の村が見えてきた。
朝靄の中、煙突から煙が上がり始めている。鶏の鳴き声が聞こえる。子供の笑い声が、風に乗って届く。
人々の営みが始まる音だ。
生きている音だ。
村の入口で、ミツが立っていた。
まるで俺が来ることを、最初から知っていたかのように。
「やっぱり降りてきたね」
婆さんは笑った。
「行くのかい? マルクのところへ」
「……分からない」
正直に答えた。
「あんたらしい答えだ」
ミツは懐から、小さな布包みを取り出した。
「旅の支度はしてないだろう。これを持っていきな」
中には干し肉とパン、それに水筒が入っていた。
「……なぜ」
「あんたが山を降りる日が来るって、ずっと思ってたのさ」
婆さんは俺の手に包みを押し付けた。
「人間は、そう簡単には死ねないもんだよ。生きてる限り、どこかで足掻こうとする。それが人間ってもんさ」
ミツは俺の目をまっすぐ見た。
「ユーシさん。あんたがどんな過去を背負ってるか、私は知らない。知りたいとも思わない。でもね、一つだけ言わせておくれ」
婆さんの声は、どこまでも優しかった。
「生きてる限り、やり直せるんだよ。……たとえ、泥にまみれてもね。何度でもね。たとえどんな過ちを犯しても、生きてさえいれば、もう一度やり直せる」
俺は何も言えなかった。
言葉が、喉の奥で詰まっていた。
ミツは手を振り、村へと戻っていった。
その背中を見送る。
小さくて、曲がっていて、それでも力強い背中だった。
俺は包みを背嚢に入れ、村を抜けた。
街道に出る。
久しぶりに見る、平らな道だ。
太陽が昇り始める。
影が長く伸びる。
俺の影が、地面に黒く落ちる。
二十年ぶりに見る、自分の影だった。
俺は歩き続ける。
どこへ向かうのか、まだ分からない。
ただ、足は勝手に前に進む。
まるで、何かに引き寄せられるように。
まるで、運命に導かれるように。
街道の先に、小さな町が見える。
人の声が聞こえる。
笑い声、怒鳴り声、物売りの声、馬のいななき。
生きている音だ。
俺は、その音の中へと踏み込んでいく。
二十年ぶりに。
人の世界へ。
そこで何が待っているのか、分からない。
だが、もう引き返せない。
引き返す場所は、どこにもない。
前に進むしかない。
たとえその先に何が待っていようとも。
たとえそれが、地獄であろうとも。
俺は歩き続ける。
優しい師と呼ばれた男の、贖罪の旅が始まる。
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