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第4話 やり直しの答え
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街道を歩きながら、俺は何度も振り返った。
東の村は、もう見えない。山の稜線に隠れて、あの静かな畑も、マルクの背中も、すべて視界から消えた。それでも足が止まる。胸の奥で何かが引っかかっている。
「先生」
エリナの声が、俺を現実に引き戻した。
「どうかしましたか」
「いや」
俺は首を横に振った。だが、言葉にならない違和感が消えない。マルクの最後の言葉が、耳の奥で反響していた。
『もし……もし僕が死んだら、この村を守ってもらえますか』
あれは、遺言だったのか。
いや、そんなはずはない。マルクは村で暮らすと決めたんだ。騎士団を退けて、村人に受け入れられて、やり直す道を選んだ。俺が認めた。お前はずっと、俺の誇りだったと、そう伝えたんだ。
だったら、なぜ。
なぜ、あんな顔をしていた。
別れ際のマルクの横顔が、脳裏に焼きついている。笑っていたのに、どこか諦めたような、すべてを受け入れたような——そんな表情だった。
「先生、さっきから何度も後ろを見てますね」
エリナが俺の顔を覗き込んできた。鋭い目だ。この少女は、人の心の動きを見逃さない。
「気になるのか」
「だって、変ですもん。マルクさんと、あんなに良い別れ方したのに」
良い別れ方。
そうだ、あれは良い別れだった。師弟の絆が修復されて、お互いに前を向けた。だから、これでいいはずなんだ。
なのに。
俺は立ち止まった。
フェリクスの顔が浮かぶ。あいつは、一度命じて失敗した任務を、そのまま放置するような甘い王じゃなかった。貧しい村の孤児から、クーデターで王位を奪うまで這い上がった男だ。目的のためなら手段を選ばない。十人の騎士が全滅したと知れば、次は二十人、三十人と送り込むだろう。
マルクは知っていたんじゃないか。
だから、あんな顔をしていたんじゃないか。
「エリナ」
俺は振り返った。
「もし、お前が誰かと別れるとき——もう二度と会えないと分かっていたら、どうする」
「え」
「言い残したことがあったら、伝えるか。それとも、黙って別れるか」
エリナは少し考えてから、答えた。
「伝えます。後悔したくないから」
「そうか」
俺は空を見上げた。雲が流れている。風が、西から東へ吹いている。
あの村へ。
嫌な予感が、確信に変わった。
「先生、まさか」
「戻るぞ」
エリナの言葉を遮って、俺は踵を返した。
「え、でも、王都は」
「フェリクスは逃げない。だが、マルクは」
言葉が途切れた。
何を根拠に、こんなことを言っているのか。ただの胸騒ぎだ。理由なんてない。でも、この感覚は知っている。戦場で何度も経験した。死の匂いだ。
「走るぞ」
俺は駆け出した。エリナが慌てて後を追ってくる。
「待ってください! 先生、何があったんですか!」
答える余裕はなかった。ただ、走った。街道を引き返し、山道を登り、村へと続く獣道を駆け抜けた。息が切れる。足が重い。四十を過ぎた身体は、昔のようには動かない。
それでも、止まれなかった。
頼む。
間に合ってくれ。
樹々の間から、村が見えた。
だが、何かがおかしい。
煙が上がっている。黒い煙だ。家が燃えているのではない。もっと小さな、焚火のような——いや、違う。匂いだ。血の匂いがする。
「先生!」
エリナが叫んだ。
村の入口に、騎士の死体が転がっていた。鎧を着た男が三人。血を流して、動かない。殺されたのではない。気絶しているだけだ。胸が規則的に上下している。だが、何があった。鎧には深い凹みがある。素手で殴りつけられたような跡だ。
俺は村の中心へ走った。
井戸の前に、老婆が座り込んでいた。顔を両手で覆って、肩を震わせている。足元には、こぼれた水桶。湿った土が、朝日を反射している。
「何があった」
俺が声をかけると、老婆は顔を上げた。目が赤い。泣いていたのか。皺だらけの頬に、涙の跡が幾筋も残っている。
「あんた、あんたは、あの子の」
「マルクはどこだ」
「畑に。畑に、いる。でも、もう」
老婆の声が途切れた。その先を言えないでいる。喉が詰まったように、何度も口を開閉させている。
俺は畑へ走った。
そこに、マルクがいた。
地面に倒れて、動かない。胸に矢が三本刺さっている。血が、土に染み込んでいた。彼の周囲だけ、土の色が濃い。暗い赤茶色に変わっている。周囲には、騎士が五人倒れている。全員、意識を失っている。マルクは、最後まで戦ったのか。それも、殺さずに。
「マルク!」
俺は駆け寄って、彼の身体を抱き起こした。
まだ、温かい。
だが、その温もりは急速に失われつつあった。触れた手のひらから、命が逃げていくのが分かる。
「せん、せい」
かすれた声が聞こえた。マルクの目が、薄く開いている。焦点が合っていない。俺の顔を探すように、視線が彷徨っている。
「喋るな。今、手当てを」
「もう、いいんです」
マルクは微笑んだ。血が、口の端から流れている。唇が震えている。笑おうとしているのに、顔の筋肉が言うことを聞かないようだ。
「僕は、もう、やり直せました」
「何を言ってる。お前は、これからだろう」
「違います」
マルクは首を横に振った。その動きさえ、辛そうだった。
「僕はもう、十分でした。先生に、認めてもらえた。それだけで、僕は」
「馬鹿野郎」
俺は彼の肩を掴んだ。力を込めすぎたかもしれない。だが、手を緩められなかった。
「お前は、村を守るんじゃなかったのか。ここで暮らすんじゃなかったのか」
「守り、ました」
マルクの視線が、倒れた騎士たちに向いた。
「誰も、殺していません。村の人も、騎士も、誰も……」
ああ、そうか。
お前は、最後まで。
最後の最後まで、俺の言葉を守ったのか。
「せん、せい」
マルクの手が、俺の手に重なった。冷たくなり始めている。指先に力がない。触れているだけで、掴むことさえできないようだ。
「ボク、は、せん、せいの、デシで、よかった」
「俺も、だ」
俺は言った。声が震えていた。喉の奥で何かが引っかかって、うまく言葉にならない。
「お前は、俺の誇りだ。最初から、ずっと」
「嘘、つき」
マルクは笑った。子供のような、無邪気な笑顔だった。血で汚れた顔なのに、どこか清々しい表情だった。
「せん、せいは、いつも、ボクのこと、シンパイ、してた」
「ああ」
「だから、ボク、ウレしかった」
マルクの目が、ゆっくりと閉じていく。まぶたが重そうに、何度か上下する。開けていようとしているのに、もう開けられない。
「せん、せい……あなたは……やさし、い、ウソつきだ……」
言葉が、途切れた。
手の力が、抜けた。
マルクの身体が、静かに傾いた。
「おい」
俺は彼を揺さぶった。
「マルク」
返事はない。
「マルク!」
叫んでも、彼は目を開けなかった。
胸に手を当てる。心臓が、止まっている。
ああ。
また、か。
また、俺は。
「先生」
エリナの声が、遠くで聞こえた。だが、何も見えない。視界が、滲んでいる。マルクの顔が歪んで、二重にも三重にも見える。
マルクの血は、温かかった。生きていた証だった。俺は、それを忘れていた。人の命は、こんなにも簡単に失われる。こんなにも、儚い。教え子の命を、二度も。
なのに、俺は。
なのに、俺はまた。
「すまない」
俺はマルクの額に手を置いた。血で濡れた髪が、指に絡みつく。
「すまない、マルク」
言葉が、止まらなかった。
「俺が、もっと早く来ていれば」
「俺が、お前を守っていれば」
「俺が」
「先生」
エリナが、俺の肩に手を置いた。その手も、震えている。
「先生のせいじゃ、ありません」
「いや」
俺は首を横に振った。
「俺が、あいつに剣を教えた。俺が、あいつを戦いに送り出した。俺が」
「マルクさんは、先生を誇りに思ってました」
エリナの声が、震えている。彼女も、泣いているのか。目元を拭う音が聞こえる。
「最後まで、先生のことを」
「それが、辛いんだ」
俺は言った。
「あいつは、俺を恨んでいいはずなのに。俺を憎んでいいはずなのに。なのに、最後まで」
声が、出なくなった。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。押さえきれない、熱い塊が。喉を焼くような痛みが、全身に広がっていく。
俺は、マルクの身体を抱きしめた。
そして、泣いた。
声を上げて、泣いた。
四十過ぎの男が、弟子の死体を抱いて、子供のように泣いた。
恥も外聞もなかった。ただ、涙が止まらなかった。畑の土に、涙が落ちる。マルクが耕していた土に。
どれくらい、そうしていたのか。
気がつくと、村人たちが周囲に集まっていた。老婆も、若い男も、子供も。みんな、黙って俺を見ていた。誰も何も言わない。ただ、静かに立っている。
若い男が一人、帽子を脱いだ。それを見て、他の男たちも帽子を取った。女たちは、胸の前で手を組んでいる。子供は、母親の服の裾を握りしめて、じっと俺を見ていた。
「すまない」
俺はマルクの身体を、そっと地面に横たえた。
「この子を、埋葬させてもらえないか」
老婆が、頷いた。
「ああ。あの子は、この村の一員だ。ここに、眠らせてあげな」
村人たちが動き出した。誰かが毛布を持ってきて、マルクの身体を覆った。若い男が鍬を持ってきて、墓を掘り始めた。子供が花を摘みに走っていく。誰も、何も言わなかった。ただ、黙々と作業を続けた。
俺は、その様子を見ていた。
エリナが、隣に立っていた。彼女の頬も、涙で濡れている。袖で何度も目元を拭っているが、涙は止まらないようだ。
「先生」
「ああ」
「マルクさんは、本当に、やり直せたんでしょうか」
俺は、少し考えてから答えた。
「分からない」
「分からない、ですか」
「ああ。でも、あいつは最後まで、誰も殺さなかった。村を守って、騎士も生かした。それが、あいつの答えだったんだろう」
「それって、やり直せたってことじゃ」
「違う」
俺は首を横に振った。
「やり直すってのは、過去を消すことじゃない。過去を抱えたまま、前に進むことだ。マルクは、自分が殺した人たちのことを、一生忘れなかっただろう。それでも、もう誰も殺さないと決めて、最後まで貫いた。それが、あいつのやり直しだ」
「じゃあ、成功したんですね」
「そうだな」
俺は空を見上げた。夕日が、西に沈もうとしている。赤い光が、畑を照らしている。マルクが耕していた畑を。
「あいつは、やり遂げたんだ」
墓が、掘り終わった。
村人たちが、マルクの身体を運んだ。毛布に包まれた彼は、まるで眠っているようだった。若い男が二人がかりで抱え上げる。老婆が、その前を歩く。子供たちが、花を撒く。
俺は、墓の前に立った。
何を言えばいい。
何を、伝えればいい。
村人たちが、俺を見ている。待っている。
「マルク」
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、立派な剣士だった。いや、剣士じゃない。お前は、立派な」
言葉が、出てこない。
何と呼べばいい。勇者か。農夫か。それとも。
「お前は、立派な人間だった」
俺は、そう言った。
「俺の、誇りだ」
村人たちが、土をかけ始めた。マルクの姿が、少しずつ見えなくなっていく。毛布が土に覆われていく。白い布が、茶色く染まっていく。
俺は、最後まで見届けた。
そして、墓標の前に膝をついた。
「約束は、守る」
俺は言った。
「この村は、俺が守る。……だが、その前に、果たすべきことがある」
風が、吹いた。
畑の草が、揺れた。
まるで、マルクが答えているようだった。
ありがとうございます。
そんな声が、聞こえた気がした。
夜になった。
村人たちが、俺とエリナに食事を用意してくれた。だが、俺は喉を通らなかった。木
の椀に入った温かいスープが、冷めていく。湯気が立たなくなっても、手をつけられなかった。エリナも、ほとんど手をつけていない。パンを一口齧っただけで、後は膝の上に置いたままだ。
「先生」
老婆が、俺の前に座った。膝を折るのが辛そうだ。腰に手を当てて、ゆっくりと腰を下ろす。
「あんたは、あの子の師匠だったんだね」
「ああ」
「あの子は、よく話してた。師匠のこと」
「何を」
「優しい人だった、って」
老婆は微笑んだ。皺の奥で、目が細くなる。
「強くて、厳しくて、でも誰よりも優しかった、って。あの子は、あんたのことが大好きだったよ」
「俺は」
言葉が、詰まった。
「俺は、何もしてやれなかった」
「いいや」
老婆は首を横に振った。
「あんたは、あの子を認めてやった。それだけで、あの子は救われたんだ」
「でも」
「人は、いつか死ぬ」
老婆は、静かに言った。遠くを見るような目で。
「早いか、遅いかの違いだけだ。大事なのは、どう生きたか。あの子は、最後まで自分の信じた道を歩いた。それで、十分じゃないか」
俺は、何も言えなかった。
老婆は立ち上がって、去っていった。腰を押さえながら、ゆっくりと。その背中が、月明かりに照らされている。
エリナが、俺の隣に座った。
「先生」
「ああ」
「私、分かりました」
「何が」
「強さって、何か」
エリナは、マルクの墓を見つめていた。
「誰も殺さないって、決めることです。どんなに辛くても、どんなに追い詰められても、それを貫くこと。それが、本当の強さなんですね」
「そうかもしれないな」
「でも」
エリナは、俺を見た。
「それって、すごく難しいですよね」
「ああ」
「先生は、できますか」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、やってみる価値はある」
「はい」
エリナは頷いた。
そして、二人で黙って座っていた。
星が、出ていた。
空いっぱいに、無数の星が輝いている。この村には灯りが少ないから、星がよく見える。マルクも、この星を見ていたのだろうか。
翌朝、俺は村を出ることにした。
老婆が、見送りに来てくれた。
「本当に、行ってしまうのかい」
「ああ。やることがある」
「あの子を殺した奴を、探すのかい」
「そうじゃない」
俺は首を横に振った。
「あいつを殺させた奴に、会いに行く」
老婆は、何も言わなかった。ただ、深く頷いた。目を閉じて、祈るように。
「気をつけな」
「ああ」
俺は、マルクの墓に向かった。
墓標の前に、花が供えてあった。村人が置いていったのだろう。野の花だ。小さな白い花と、黄色い花。朝露に濡れて、輝いている。
「マルク」
俺は、墓標に手を置いた。木の表面が、ひんやりとしている。
「行ってくる」
風が、吹いた。
草が、揺れた。
まるで、マルクが見送ってくれているようだった。
俺は、村を後にした。
エリナが、隣を歩いている。彼女は何も言わない。ただ、俺の横を歩いている。
「先生」
「ああ」
「王都まで、どれくらいかかりますか」
「三日だ」
「フェリクスに、会うんですね」
「ああ」
「何を、話すんですか」
「聞きたいことがある」
俺は、前を見据えた。
「なぜ、ここまでしなければならなかったのか」
「もし、納得できない答えだったら」
「分からない」
俺は、腰の剣に手を当てた。
まだ、一度も抜いていない。この剣を、抜く日が来るのか。
来ないことを、祈る。
だが、もし。
もし、フェリクスがマルクと同じ道を辿るなら。
もし、俺の教えが、あいつを壊したのなら。
国を守るために、本当にこれが必要だったのか。
その答えを、俺は聞かなければならない。
その時は。
エリナが、俺の手を握った。
ぎゅっと、力を込めて。
俺は驚いて、彼女を見た。エリナは前を向いたまま、言った。
「行きましょう、先生」
その横顔は、もう泣いていなかった。
迷いもなかった。
ただ、真っ直ぐに前を見ていた。
「ああ」
俺は、彼女の手を握り返した。
「行こう」
二人で、歩き出した。
街道を、王都へ。
フェリクスの元へ。
答えを、求めて。
マルクの死の意味を、確かめるために。
足音が、二つ重なって響いた。
一人じゃない。
もう、一人じゃないんだ。
俺は、歩き続けた。太陽が昇り、影が短くなり、また長くなっていく。その繰り返しの中で、ただ歩いた。
隣には、エリナがいる。
それだけで、少しだけ、前に進める気がした。
東の村は、もう見えない。山の稜線に隠れて、あの静かな畑も、マルクの背中も、すべて視界から消えた。それでも足が止まる。胸の奥で何かが引っかかっている。
「先生」
エリナの声が、俺を現実に引き戻した。
「どうかしましたか」
「いや」
俺は首を横に振った。だが、言葉にならない違和感が消えない。マルクの最後の言葉が、耳の奥で反響していた。
『もし……もし僕が死んだら、この村を守ってもらえますか』
あれは、遺言だったのか。
いや、そんなはずはない。マルクは村で暮らすと決めたんだ。騎士団を退けて、村人に受け入れられて、やり直す道を選んだ。俺が認めた。お前はずっと、俺の誇りだったと、そう伝えたんだ。
だったら、なぜ。
なぜ、あんな顔をしていた。
別れ際のマルクの横顔が、脳裏に焼きついている。笑っていたのに、どこか諦めたような、すべてを受け入れたような——そんな表情だった。
「先生、さっきから何度も後ろを見てますね」
エリナが俺の顔を覗き込んできた。鋭い目だ。この少女は、人の心の動きを見逃さない。
「気になるのか」
「だって、変ですもん。マルクさんと、あんなに良い別れ方したのに」
良い別れ方。
そうだ、あれは良い別れだった。師弟の絆が修復されて、お互いに前を向けた。だから、これでいいはずなんだ。
なのに。
俺は立ち止まった。
フェリクスの顔が浮かぶ。あいつは、一度命じて失敗した任務を、そのまま放置するような甘い王じゃなかった。貧しい村の孤児から、クーデターで王位を奪うまで這い上がった男だ。目的のためなら手段を選ばない。十人の騎士が全滅したと知れば、次は二十人、三十人と送り込むだろう。
マルクは知っていたんじゃないか。
だから、あんな顔をしていたんじゃないか。
「エリナ」
俺は振り返った。
「もし、お前が誰かと別れるとき——もう二度と会えないと分かっていたら、どうする」
「え」
「言い残したことがあったら、伝えるか。それとも、黙って別れるか」
エリナは少し考えてから、答えた。
「伝えます。後悔したくないから」
「そうか」
俺は空を見上げた。雲が流れている。風が、西から東へ吹いている。
あの村へ。
嫌な予感が、確信に変わった。
「先生、まさか」
「戻るぞ」
エリナの言葉を遮って、俺は踵を返した。
「え、でも、王都は」
「フェリクスは逃げない。だが、マルクは」
言葉が途切れた。
何を根拠に、こんなことを言っているのか。ただの胸騒ぎだ。理由なんてない。でも、この感覚は知っている。戦場で何度も経験した。死の匂いだ。
「走るぞ」
俺は駆け出した。エリナが慌てて後を追ってくる。
「待ってください! 先生、何があったんですか!」
答える余裕はなかった。ただ、走った。街道を引き返し、山道を登り、村へと続く獣道を駆け抜けた。息が切れる。足が重い。四十を過ぎた身体は、昔のようには動かない。
それでも、止まれなかった。
頼む。
間に合ってくれ。
樹々の間から、村が見えた。
だが、何かがおかしい。
煙が上がっている。黒い煙だ。家が燃えているのではない。もっと小さな、焚火のような——いや、違う。匂いだ。血の匂いがする。
「先生!」
エリナが叫んだ。
村の入口に、騎士の死体が転がっていた。鎧を着た男が三人。血を流して、動かない。殺されたのではない。気絶しているだけだ。胸が規則的に上下している。だが、何があった。鎧には深い凹みがある。素手で殴りつけられたような跡だ。
俺は村の中心へ走った。
井戸の前に、老婆が座り込んでいた。顔を両手で覆って、肩を震わせている。足元には、こぼれた水桶。湿った土が、朝日を反射している。
「何があった」
俺が声をかけると、老婆は顔を上げた。目が赤い。泣いていたのか。皺だらけの頬に、涙の跡が幾筋も残っている。
「あんた、あんたは、あの子の」
「マルクはどこだ」
「畑に。畑に、いる。でも、もう」
老婆の声が途切れた。その先を言えないでいる。喉が詰まったように、何度も口を開閉させている。
俺は畑へ走った。
そこに、マルクがいた。
地面に倒れて、動かない。胸に矢が三本刺さっている。血が、土に染み込んでいた。彼の周囲だけ、土の色が濃い。暗い赤茶色に変わっている。周囲には、騎士が五人倒れている。全員、意識を失っている。マルクは、最後まで戦ったのか。それも、殺さずに。
「マルク!」
俺は駆け寄って、彼の身体を抱き起こした。
まだ、温かい。
だが、その温もりは急速に失われつつあった。触れた手のひらから、命が逃げていくのが分かる。
「せん、せい」
かすれた声が聞こえた。マルクの目が、薄く開いている。焦点が合っていない。俺の顔を探すように、視線が彷徨っている。
「喋るな。今、手当てを」
「もう、いいんです」
マルクは微笑んだ。血が、口の端から流れている。唇が震えている。笑おうとしているのに、顔の筋肉が言うことを聞かないようだ。
「僕は、もう、やり直せました」
「何を言ってる。お前は、これからだろう」
「違います」
マルクは首を横に振った。その動きさえ、辛そうだった。
「僕はもう、十分でした。先生に、認めてもらえた。それだけで、僕は」
「馬鹿野郎」
俺は彼の肩を掴んだ。力を込めすぎたかもしれない。だが、手を緩められなかった。
「お前は、村を守るんじゃなかったのか。ここで暮らすんじゃなかったのか」
「守り、ました」
マルクの視線が、倒れた騎士たちに向いた。
「誰も、殺していません。村の人も、騎士も、誰も……」
ああ、そうか。
お前は、最後まで。
最後の最後まで、俺の言葉を守ったのか。
「せん、せい」
マルクの手が、俺の手に重なった。冷たくなり始めている。指先に力がない。触れているだけで、掴むことさえできないようだ。
「ボク、は、せん、せいの、デシで、よかった」
「俺も、だ」
俺は言った。声が震えていた。喉の奥で何かが引っかかって、うまく言葉にならない。
「お前は、俺の誇りだ。最初から、ずっと」
「嘘、つき」
マルクは笑った。子供のような、無邪気な笑顔だった。血で汚れた顔なのに、どこか清々しい表情だった。
「せん、せいは、いつも、ボクのこと、シンパイ、してた」
「ああ」
「だから、ボク、ウレしかった」
マルクの目が、ゆっくりと閉じていく。まぶたが重そうに、何度か上下する。開けていようとしているのに、もう開けられない。
「せん、せい……あなたは……やさし、い、ウソつきだ……」
言葉が、途切れた。
手の力が、抜けた。
マルクの身体が、静かに傾いた。
「おい」
俺は彼を揺さぶった。
「マルク」
返事はない。
「マルク!」
叫んでも、彼は目を開けなかった。
胸に手を当てる。心臓が、止まっている。
ああ。
また、か。
また、俺は。
「先生」
エリナの声が、遠くで聞こえた。だが、何も見えない。視界が、滲んでいる。マルクの顔が歪んで、二重にも三重にも見える。
マルクの血は、温かかった。生きていた証だった。俺は、それを忘れていた。人の命は、こんなにも簡単に失われる。こんなにも、儚い。教え子の命を、二度も。
なのに、俺は。
なのに、俺はまた。
「すまない」
俺はマルクの額に手を置いた。血で濡れた髪が、指に絡みつく。
「すまない、マルク」
言葉が、止まらなかった。
「俺が、もっと早く来ていれば」
「俺が、お前を守っていれば」
「俺が」
「先生」
エリナが、俺の肩に手を置いた。その手も、震えている。
「先生のせいじゃ、ありません」
「いや」
俺は首を横に振った。
「俺が、あいつに剣を教えた。俺が、あいつを戦いに送り出した。俺が」
「マルクさんは、先生を誇りに思ってました」
エリナの声が、震えている。彼女も、泣いているのか。目元を拭う音が聞こえる。
「最後まで、先生のことを」
「それが、辛いんだ」
俺は言った。
「あいつは、俺を恨んでいいはずなのに。俺を憎んでいいはずなのに。なのに、最後まで」
声が、出なくなった。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。押さえきれない、熱い塊が。喉を焼くような痛みが、全身に広がっていく。
俺は、マルクの身体を抱きしめた。
そして、泣いた。
声を上げて、泣いた。
四十過ぎの男が、弟子の死体を抱いて、子供のように泣いた。
恥も外聞もなかった。ただ、涙が止まらなかった。畑の土に、涙が落ちる。マルクが耕していた土に。
どれくらい、そうしていたのか。
気がつくと、村人たちが周囲に集まっていた。老婆も、若い男も、子供も。みんな、黙って俺を見ていた。誰も何も言わない。ただ、静かに立っている。
若い男が一人、帽子を脱いだ。それを見て、他の男たちも帽子を取った。女たちは、胸の前で手を組んでいる。子供は、母親の服の裾を握りしめて、じっと俺を見ていた。
「すまない」
俺はマルクの身体を、そっと地面に横たえた。
「この子を、埋葬させてもらえないか」
老婆が、頷いた。
「ああ。あの子は、この村の一員だ。ここに、眠らせてあげな」
村人たちが動き出した。誰かが毛布を持ってきて、マルクの身体を覆った。若い男が鍬を持ってきて、墓を掘り始めた。子供が花を摘みに走っていく。誰も、何も言わなかった。ただ、黙々と作業を続けた。
俺は、その様子を見ていた。
エリナが、隣に立っていた。彼女の頬も、涙で濡れている。袖で何度も目元を拭っているが、涙は止まらないようだ。
「先生」
「ああ」
「マルクさんは、本当に、やり直せたんでしょうか」
俺は、少し考えてから答えた。
「分からない」
「分からない、ですか」
「ああ。でも、あいつは最後まで、誰も殺さなかった。村を守って、騎士も生かした。それが、あいつの答えだったんだろう」
「それって、やり直せたってことじゃ」
「違う」
俺は首を横に振った。
「やり直すってのは、過去を消すことじゃない。過去を抱えたまま、前に進むことだ。マルクは、自分が殺した人たちのことを、一生忘れなかっただろう。それでも、もう誰も殺さないと決めて、最後まで貫いた。それが、あいつのやり直しだ」
「じゃあ、成功したんですね」
「そうだな」
俺は空を見上げた。夕日が、西に沈もうとしている。赤い光が、畑を照らしている。マルクが耕していた畑を。
「あいつは、やり遂げたんだ」
墓が、掘り終わった。
村人たちが、マルクの身体を運んだ。毛布に包まれた彼は、まるで眠っているようだった。若い男が二人がかりで抱え上げる。老婆が、その前を歩く。子供たちが、花を撒く。
俺は、墓の前に立った。
何を言えばいい。
何を、伝えればいい。
村人たちが、俺を見ている。待っている。
「マルク」
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、立派な剣士だった。いや、剣士じゃない。お前は、立派な」
言葉が、出てこない。
何と呼べばいい。勇者か。農夫か。それとも。
「お前は、立派な人間だった」
俺は、そう言った。
「俺の、誇りだ」
村人たちが、土をかけ始めた。マルクの姿が、少しずつ見えなくなっていく。毛布が土に覆われていく。白い布が、茶色く染まっていく。
俺は、最後まで見届けた。
そして、墓標の前に膝をついた。
「約束は、守る」
俺は言った。
「この村は、俺が守る。……だが、その前に、果たすべきことがある」
風が、吹いた。
畑の草が、揺れた。
まるで、マルクが答えているようだった。
ありがとうございます。
そんな声が、聞こえた気がした。
夜になった。
村人たちが、俺とエリナに食事を用意してくれた。だが、俺は喉を通らなかった。木
の椀に入った温かいスープが、冷めていく。湯気が立たなくなっても、手をつけられなかった。エリナも、ほとんど手をつけていない。パンを一口齧っただけで、後は膝の上に置いたままだ。
「先生」
老婆が、俺の前に座った。膝を折るのが辛そうだ。腰に手を当てて、ゆっくりと腰を下ろす。
「あんたは、あの子の師匠だったんだね」
「ああ」
「あの子は、よく話してた。師匠のこと」
「何を」
「優しい人だった、って」
老婆は微笑んだ。皺の奥で、目が細くなる。
「強くて、厳しくて、でも誰よりも優しかった、って。あの子は、あんたのことが大好きだったよ」
「俺は」
言葉が、詰まった。
「俺は、何もしてやれなかった」
「いいや」
老婆は首を横に振った。
「あんたは、あの子を認めてやった。それだけで、あの子は救われたんだ」
「でも」
「人は、いつか死ぬ」
老婆は、静かに言った。遠くを見るような目で。
「早いか、遅いかの違いだけだ。大事なのは、どう生きたか。あの子は、最後まで自分の信じた道を歩いた。それで、十分じゃないか」
俺は、何も言えなかった。
老婆は立ち上がって、去っていった。腰を押さえながら、ゆっくりと。その背中が、月明かりに照らされている。
エリナが、俺の隣に座った。
「先生」
「ああ」
「私、分かりました」
「何が」
「強さって、何か」
エリナは、マルクの墓を見つめていた。
「誰も殺さないって、決めることです。どんなに辛くても、どんなに追い詰められても、それを貫くこと。それが、本当の強さなんですね」
「そうかもしれないな」
「でも」
エリナは、俺を見た。
「それって、すごく難しいですよね」
「ああ」
「先生は、できますか」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、やってみる価値はある」
「はい」
エリナは頷いた。
そして、二人で黙って座っていた。
星が、出ていた。
空いっぱいに、無数の星が輝いている。この村には灯りが少ないから、星がよく見える。マルクも、この星を見ていたのだろうか。
翌朝、俺は村を出ることにした。
老婆が、見送りに来てくれた。
「本当に、行ってしまうのかい」
「ああ。やることがある」
「あの子を殺した奴を、探すのかい」
「そうじゃない」
俺は首を横に振った。
「あいつを殺させた奴に、会いに行く」
老婆は、何も言わなかった。ただ、深く頷いた。目を閉じて、祈るように。
「気をつけな」
「ああ」
俺は、マルクの墓に向かった。
墓標の前に、花が供えてあった。村人が置いていったのだろう。野の花だ。小さな白い花と、黄色い花。朝露に濡れて、輝いている。
「マルク」
俺は、墓標に手を置いた。木の表面が、ひんやりとしている。
「行ってくる」
風が、吹いた。
草が、揺れた。
まるで、マルクが見送ってくれているようだった。
俺は、村を後にした。
エリナが、隣を歩いている。彼女は何も言わない。ただ、俺の横を歩いている。
「先生」
「ああ」
「王都まで、どれくらいかかりますか」
「三日だ」
「フェリクスに、会うんですね」
「ああ」
「何を、話すんですか」
「聞きたいことがある」
俺は、前を見据えた。
「なぜ、ここまでしなければならなかったのか」
「もし、納得できない答えだったら」
「分からない」
俺は、腰の剣に手を当てた。
まだ、一度も抜いていない。この剣を、抜く日が来るのか。
来ないことを、祈る。
だが、もし。
もし、フェリクスがマルクと同じ道を辿るなら。
もし、俺の教えが、あいつを壊したのなら。
国を守るために、本当にこれが必要だったのか。
その答えを、俺は聞かなければならない。
その時は。
エリナが、俺の手を握った。
ぎゅっと、力を込めて。
俺は驚いて、彼女を見た。エリナは前を向いたまま、言った。
「行きましょう、先生」
その横顔は、もう泣いていなかった。
迷いもなかった。
ただ、真っ直ぐに前を見ていた。
「ああ」
俺は、彼女の手を握り返した。
「行こう」
二人で、歩き出した。
街道を、王都へ。
フェリクスの元へ。
答えを、求めて。
マルクの死の意味を、確かめるために。
足音が、二つ重なって響いた。
一人じゃない。
もう、一人じゃないんだ。
俺は、歩き続けた。太陽が昇り、影が短くなり、また長くなっていく。その繰り返しの中で、ただ歩いた。
隣には、エリナがいる。
それだけで、少しだけ、前に進める気がした。
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