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第6話 時を奪われた少女
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城門の兵士は、俺たちを見て顔をしかめた。
夜の帳が降りかけた王都で、追い出されたはずの男が戻ってくるなど、想定外だったのだろう。兵士の一人が槍を構えかけたが、俺が腰の剣に手を添えただけで動きを止めた。
「……通れ」
兵士は吐き捨てるように言った。顔には嫌悪と、わずかな恐怖が混じっている。
エリナが俺の袖を引く。
「先生、本当に行くんですか」
「ああ」
「死ぬかもしれないんですよ」
「だから、お前は外で待っていろ」
エリナは首を横に振った。その目には、諦めの色はない。
「私も行きます。先生の背中、守るって言ったじゃないですか」
俺は答えなかった。ただ、城門をくぐった。
城内は静まり返っていた。昼間は百人を超える人々で溢れていた謁見の間も、今は誰もいない。長い廊下には松明が灯っているが、その炎は風に揺れて、壁に人影のような歪んだ影を作り出している。
エリナが小さく息を吐いた。
「……怖い場所ですね」
「怖がるな」
「怖がってませんよ」
強がりだと分かる。だが、俺は何も言わなかった。エリナの震える声が、かつての弟子たちと重なる。リアも、フェリクスも、マルクも、みな最初は怖がっていた。剣を持つ手が震えていた。
だが、俺は彼らに「強くなれ」と言った。
その結果が、今のこの城だ。
廊下の奥から、足音が聞こえてきた。複数人。鎧の音。兵士だ。
「先生」
エリナが身構える。俺は片手を上げて、彼女を制した。
「待て」
足音が近づいてくる。やがて、曲がり角から三人の兵士が現れた。松明の光に照らされた彼らの顔には、驚きと戸惑いがある。
「お、お前は……」
先頭の兵士が声を震わせた。
「陛下が、追放したはずの……」
「地下牢に行きたい」
俺は静かに言った。
「案内してくれ」
兵士たちは顔を見合わせた。一人が槍を構えたが、手が震えている。
「ふ、ふざけるな。お前に命令される筋合いは……」
俺は一歩、前に出た。
それだけで、兵士たちは後退った。
「地下牢だ」
もう一度、言った。
「案内しろ」
兵士たちは黙った。やがて、先頭の男が項垂れた。
「……ついてこい」
地下への階段は、城の北側にあった。
石造りの階段は湿っていて、苔が生えている。松明の光も届かない暗闇が、下へ下へと続いている。
兵士は階段の入口で立ち止まった。
「ここから先は、俺たちも滅多に入らない」
男の声には恐怖が滲んでいる。
「迷宮だ。一度入ったら、二度と出てこれない者もいる」
「お前たちは、ここで待っていろ」
俺は松明を一本取り、階段を降り始めた。エリナがすぐに後を追ってくる。
「先生、待ってください」
「危険だ」
「だから、一緒に行くんです」
俺は振り返った。エリナの顔は松明の光で赤く染まっている。その目には、迷いがない。
「……好きにしろ」
階段は思ったより長かった。百段を超えても、まだ下が続いている。
空気が重くなってきた。湿気と、何か腐ったような臭いが混じっている。エリナが鼻を押さえた。
「何の匂いですか、これ」
「血だ」
俺は答えた。
「古い血と、腐った肉の匂いだ」
エリナが息を止めた。だが、足は止めなかった。
やがて、階段が終わった。
目の前には、長い廊下が伸びている。壁には無数の扉がある。鉄格子の嵌った扉だ。中からは、何も聞こえない。
「囚人は?」
エリナが囁いた。
「いないんですか」
「いるかもしれない」
俺は松明を掲げた。
「だが、生きているかは分からない」
廊下を進む。扉の一つに近づいて、中を覗いた。
空っぽだった。
床には藁が敷かれているが、誰もいない。次の扉も、その次も同じだった。
「誰もいない……」
エリナが呟いた。
「騎士団長は、嘘をついたんですか」
「いや」
俺は首を振った。
「もっと奥だ」
廊下は途中で二手に分かれていた。
俺は右を選んだ。理由はない。ただ、何となくだ。
エリナが後ろを振り返った。
「先生、戻れますか。ここから」
「分からない」
「……そうですか」
エリナは黙った。だが、足を止めなかった。
廊下はさらに続いている。曲がり角を曲がるたびに、方向感覚が失われていく。上なのか下なのか、東なのか西なのか、もう分からない。
やがて、何かが聞こえてきた。
微かな、呻き声だ。
「先生」
エリナが俺の袖を掴んだ。
「誰かいます」
「ああ」
俺は松明を掲げて、声のする方へ向かった。
廊下の突き当たりに、一つだけ扉があった。他の扉よりも大きく、鉄で補強されている。中からは、確かに人の声が聞こえる。
俺は扉に近づいた。
鉄格子の隙間から、中を覗く。
部屋は狭い。三メートル四方ほどだろうか。床には藁ではなく、石が剥き出しになっている。そして、その石の上に、一人の人間が倒れていた。
女だ。
長い黒髪が床に広がっている。泥と血に塗れた牢獄の中で、その髪だけが、まるで濡れた烏の濡れ羽色のように、不気味なほどの艶を放っていた。
服はボロボロで、所々に血が滲んでいる。手足には鎖が嵌められ、壁に繋がれている。
だが、それだけではない。
女の背中から、無数の管が伸びている。血管のように細く、半透明な管が、彼女の白い肌に食い込んでいた。壁に埋め込まれた奇妙な装置に繋がっていて、ドクン、ドクンと青白い光を放っている。魔力供給装置だ。
異様だった。
その肌は、地下牢の闇の中でも透けるように白く、傷だらけなのに、どこか陶器の人形めいた作り物のような美しさを保っていた。
まるで、硝子ケースの中に飾られた標本のように。
腐敗することすら許されず、永遠にその姿を留める呪いをかけられているかのように。
顔は見えない。俯いているからだ。
だが、その背中に、俺は見覚えがあった。
「……まさか」
俺の声が震えた。
エリナが俺の顔を見上げた。
「先生?」
「開けろ」
俺は扉を叩いた。
「開けろ!」
鍵はかかっている。鉄の錠前が、扉を固く閉ざしている。
俺は剣に手をかけた。
だが、抜かなかった。
代わりに、松明を床に置き、扉の蝶番を確認した。古い鉄だ。錆びている。
「エリナ、下がれ」
「先生、何を……」
「いいから、下がれ」
俺は扉から三歩下がった。そして、助走をつけて、肩から扉にぶつかった。
鈍い音がした。
扉は開かなかった。
もう一度。
もう一度。
三度目で、蝶番が外れた。扉が内側に倒れ込む。
重い金属音と共に、視界が開けた。
むっとするような甘い腐臭と、冷たい魔力の風が吹き抜ける。
俺は部屋に入った。
鎖の音がした。
倒れていた女が、ゆっくりと顔を上げた。
長い黒髪が揺れ、その隙間から、二つの瞳が俺を捉えた。
その顔を見た瞬間、俺の息が止まった。
心臓が早鐘を打つのを忘れ、全身の血が凍りついたようだった。
そこにいたのは、二十年前の悪夢。
俺が毎晩夢に見た、あの日の少女そのものだった。
「……リア」
掠れた声が、喉から漏れた。
女の目が、わずかに見開かれた。
濁っていた瞳に、一瞬だけ、かつての色が戻る。
「師匠……」
かすれた声だった。
「お前……」
俺は膝をついた。
リアの顔は、痩せ細っていた。頬は窪み、唇は乾いて血が滲んでいる。目の下には隈がある。だが、その目には、まだ光が残っていた。いや、光だけではない。そこには深い絶望と、諦めと、それでもなお消えない何かがあった。
「師匠……どうして、ここに……」
「お前を、助けに来た」
リアが小さく笑った。苦しそうな、それでいて安堵したような笑みだった。
「助けに……来てくれたんですか」
「ああ」
俺は彼女を抱き起こした。
軽い。
あまりにも軽い。
そして、気づいてしまった。この身体の重さは、二十年前と変わっていない。骨格も、身長も、手足の長さも。フェリクスは、彼女の時間を止めていたのだ。生き地獄の中で、永遠に少女のまま。
背筋が凍った。
「フェリクス……」
俺の声が低く唸った。
「何を、したんだ……」
「師匠」
リアが俺の手を掴んだ。その手は、驚くほど冷たかった。
「私を……殺してください」
「何を言っている」
「もう、疲れました」
リアの目から、涙が零れた。
「ずっと、ずっと……苦しかった」
「リア……」
「フェリクスは、私を生かし続けた。何度も死のうとしたけど、死ねなかった」
リアの声が震えている。
「この装置が……私の魔力と、記憶を吸い取っていくんです」
「記憶?」
「はい」
リアが俯いた。
「私の『楽しかった記憶』を、城の結界の燃料にしていたんです」
俺の拳が震えた。
「最初は、師匠との修行の日々が消えました。次に、村での暮らしが。そして、両親の顔も」
リアの涙が床に落ちる。
「今は、もう……何も思い出せません。ただ、暗闇だけが残っています」
リアは虚ろな目で宙を見つめた。
「師匠、私……自分がどんな顔をして笑っていたのかも、もう思い出せないんです。鏡を見るのが怖い。そこにいるのが、誰なのか分からないから」
「……くそ」
「師匠……お願いです。私を、楽にしてください」
「馬鹿なことを言うな」
俺はリアの肩を掴んだ。
「お前を助けに来たんだ。殺すためじゃない」
「でも……」
「諦めるな」
俺は管を掴んだ。引き千切ろうとする。
「先生、待ってください!」
エリナが叫んだ。
「それ、魔力で繋がってます。無理に外したら……」
エリナの言葉が途切れた。
俺は構わず、管を引き千切った。
ブチブチと、肉が裂けるような生々しい音が響く。
青白い光が弾け、リアの身体が激しく痙攣した。
「ああっ、ああああっ!」
彼女の口から、悲鳴とも呼べない空気が漏れる。それは、20年分の痛みが一気に逆流したような、魂の絶叫だった。
「リア!」
俺はリアを抱きしめた。彼女の身体は熱い。異常な熱だ。
だが、その熱さは、さっきまでの陶器のような冷たさとは違う。生きている人間の、血の通った熱さだった。
「師匠……」
「大丈夫だ」
「嘘……です」
リアが微かに笑った。
「師匠は、昔から……嘘が下手です」
「黙れ」
俺は鎖を掴んだ。鉄の鎖だ。太く、硬い。
剣を抜くしかない。
だが、俺は躊躇した。
「エリナ、松明を持ってこい」
エリナが松明を手渡した。俺は鎖の繋ぎ目を照らした。溶接されている。
「……くそ」
俺は立ち上がった。そして、剣の柄に手をかけた。
その瞬間、背後で声がした。
「感動の再会だな」
俺は振り返った。
廊下の奥から、黒い鎧の男が現れた。
騎士団長だ。
そして、その後ろには十人を超える兵士たちが並んでいる。
「よく来たな、老いぼれ」
騎士団長が剣を抜いた。
「待っていたぞ」
俺は剣に手をかけたまま、動かなかった。
「罠か」
「当然だ」
男は一歩、前に出た。
「お前が来ると分かっていた。陛下は甘い。お前を殺さなかったからな」
「フェリクスは……このことを知っているのか」
「さあな」
男が笑った。
「知っているかもしれないし、知らないかもしれない」
男の目が、リアに向けられた。
「この女は、陛下の宝物だ。だが、陛下は最近、この女のことを忘れているようだった」
「何?」
「陛下にとって、もう過去のものなんだよ。だから、俺が始末してやろうと思っていた」
騎士団長が剣を構えた。
「だが、お前が来た。好都合だ。お前もろとも、ここで消してやる」
「エリナ」
俺は低く言った。
「リアを頼む」
「でも……」
「いいから」
エリナが黙って、リアの傍に膝をついた。
俺は騎士団長と向き合った。
「お前一人で、俺たちを相手にするつもりか」
男が嘲笑った。
「いい度胸だ」
俺は答えなかった。
剣に手をかけたまま、構えた。だが、抜かない。
「抜かないのか?」
「必要ない」
「舐めるな!」
騎士団長が斬りかかってきた。速い。
俺は横に飛び退いた。刃が壁を削り、石の破片が飛び散る。
「動きは悪くないな」
男が舌打ちした。
「だが、いつまで持つかな」
背後から、兵士たちが迫ってくる。
俺は後退りながら、彼らの攻撃を躱した。槍が俺の頬を掠める。服が裂ける。
「先生!」
エリナの叫び声。
「黙って見ていろ」
俺は兵士の一人の槍を掴み、引き寄せた。
手首を返す。骨が外れる音がして、男が倒れ込んでくる。俺はその身体を盾にして、別の兵士の剣を受け流し、同時に蹴りを放った。
三人が一度に吹き飛ぶ。だが、多勢に無勢だ。息つく暇もなく、次の一撃が迫る。
「やるじゃないか」
騎士団長が再び斬りかかってきた。
俺は腕で受け止めた。刃が皮膚を裂く。血が飛ぶ。
「馬鹿が」
男が笑った。
「剣を抜けば済むものを」
「必要ないと言った」
「強情だな」
男が剣を引いて、再び振り下ろした。
今度は避けきれなかった。
刃が肩を喰らう。肉が裂け、熱い痛みが走る。骨まで届く嫌な感触。
「ぐっ……」
「どうした。もう限界か」
騎士団長が追撃してくる。
俺は後退った。背中が壁にぶつかる。
逃げ場がない。
「終わりだ」
男が剣を振り上げた。
その瞬間、エリナが動いた。
リアを庇うように、身体を張った。
「エリナ!」
「やめて!」
エリナが両手を広げた。
「リアさんには、もう何もしないで!」
「邪魔だ、ガキが!」
騎士団長の剣が、エリナに向かって振り下ろされた。
その軌道が、スローモーションのように見えた。
俺の視界が、真っ赤に染まる……ことはなかった。
逆に、冷えていく。
感情が凍りつき、ただ一つの結論だけが残る。
『こいつは、生かしておけない』
俺の手が、剣の柄を握った。
抜く。
刹那、世界から音が消えた。
キィン、という高い金属音だけが、遅れて鼓膜を叩く。
空気が裂け、衝撃波が走る。
騎士団長の剣が、真ん中から綺麗に両断され、天井に突き刺さった。
男の目が、驚愕に見開かれている。
「な……に……」
俺は、流れるような動作で剣を横に薙いだ。
刃が肉を断つ感触すらない。あまりにも鋭利な一撃。
騎士団長の身体が、上下にずれた。
上半身がゆっくりと滑り落ち、ドサリと床に落ちる。
一拍おいて、血の噴水が上がった。
血が噴き出した。
兵士たちが悲鳴を上げて逃げ出した。
俺は剣を構えたまま、立っていた。
エリナが呆然と俺を見上げている。
「先生……」
「怪我は」
「あ、ありません……」
エリナの声が震えている。
「先生……今の……」
俺は剣を見た。
刃に血が滲んでいる。
「……終わった」
俺は剣を鞘に納めた。
「行くぞ」
「はい……」
エリナがリアを支えた。俺もリアの反対側に回り、肩を貸した。
「師匠……」
「喋るな」
「でも……」
「いいから、黙っていろ」
俺たちは部屋を出た。
階段を上る。
リアの身体は重かった。いや、重いというより、力が入っていない。まるで、生きる気力を失ったように。
エリナが何度も足を滑らせた。その度に、俺がリアごと支えた。
「すみません……」
「謝るな」
階段を上りきったとき、城内は騒然としていた。
兵士たちが走り回り、誰かが鐘を鳴らしている。
「侵入者だ!」
「騎士団長が殺された!」
叫び声が響く。
俺は謁見の間を抜けて、城門へ向かった。
門番が槍を構えたが、俺の顔を見て震え上がった。
「ひ……」
男が槍を落として逃げ出した。
俺は城門をくぐった。
王都の外は、闇に包まれていた。
月が雲に隠れていて、星の光も弱い。
俺は街道を外れて、森の中に入った。
木々の間を縫うように歩く。エリナが後ろで何度も転びそうになったが、俺は止まらなかった。
やがて、小さな泉が見えてきた。
俺はリアを泉の傍に降ろした。そして、水を汲んで彼女の唇を濡らした。
「飲め」
リアが微かに喉を動かした。
「……ありがとう、ございます」
エリナが泉の水で顔を洗った。そして、リアの顔を見た。
「この方が……師匠の、最初の弟子ですか」
「ああ」
俺は頷いた。
「リアだ」
「リア……さん」
エリナがリアの手を握った。
「大丈夫ですか」
「……ええ」
リアが微かに微笑んだ。
「あなたは……?」
「エリナです。先生の、新しい弟子です」
「そう……」
リアの目が、俺を見た。
「師匠……また、弟子を取ったんですね」
「ああ」
「良かった……」
リアが目を閉じた。
「師匠は、もう……独りじゃないんですね」
俺は何も答えられなかった。
ただ、リアの手を握った。
その手は、まだ冷たかった。
夜が明けるまで、俺たちは泉の傍にいた。
リアは眠っている。呼吸は浅いが、少しずつ安定してきている。
エリナは焚火の番をしていた。時折、木の枝をくべて、炎を保っている。
「先生」
エリナが口を開いた。
「あの騎士団長を殺したとき……先生の目、怖かったです」
「……そうか」
「でも」
エリナが俺を見た。
「あれが、先生の本当の強さなんですね」
「違う」
俺は首を振った。
「あれは、弱さだ」
「弱さ?」
「ああ」
俺は焚火を見た。
「俺は、怒りに任せて剣を抜いた」
「でも、私を守るために……」
「それでも、弱さだ」
俺は立ち上がった。
「強さというのは、剣を抜かないことだ」
「でも、先生」
エリナが立ち上がった。
「誰かを守るために剣を抜くのは、間違いじゃないと思います」
「だが……」
「マルクさんも、リアさんを守るために戦ったんです」
エリナの目には、涙が浮かんでいた。
「だから、先生が私を守るために剣を抜いたのは、間違いじゃないです」
俺は黙った。
エリナの言葉が、胸に刺さる。
「……ありがとう」
「え?」
「お前が、いてくれて良かった」
エリナが驚いた顔をした。そして、泣き笑いのような表情になった。
「……先生、それ、ずるいです」
「そうか」
「はい」
エリナが袖で目を拭った。
「私、もっと強くなります」
「ああ」
「だから、先生も……もう、独りで背負わないでください」
俺は頷いた。
空が白み始めていた。
新しい朝が、来ようとしている。
リアが目を覚ましたのは、日が昇ってからだった。
「……ここは」
「森だ」
俺は答えた。
「王都から離れた」
「そう……」
リアが身体を起こそうとした。だが、すぐに力が抜けた。
「無理をするな」
リアは眩しそうに空を見上げた。
「空……青いんですね」
「ああ」
「私……本当に、外に出たんですね」
リアの声が震えた。
「夢じゃ……ないんですね」
「夢じゃない」
俺は彼女の手を握った。
「お前はもう、自由だ」
リアの目から涙が溢れた。
「師匠……ありがとうございます」
「礼を言うのは早い」
俺は言った。
「お前を最初に助けようとしたのは、俺じゃない」
リアが顔を上げた。
「……マルク、ですね」
「覚えているか」
「はい……」
リアが目を閉じた。
「記憶のほとんどは消えました。でも、あの子の涙だけは、消えなかった」
涙が、リアの頬を伝う。
「地下牢で私を見つけた時、泣いていました。『こんなの間違ってる』って」
「マルクは……」
「自分の命よりも、私の尊厳を守ろうとしてくれた」
リアが俺を見た。
「師匠、あの子は……マルクは、どうなったんですか」
俺は黙った。
言わなければならない。
「マルクは……死んだ」
リアが息を呑んだ。
「フェリクスに追われ、最後まで戦って……死んだ」
リアが顔を覆った。
「私の、せいで……」
「違う」
俺は彼女の手を取った。
「マルクは自分の意志で、お前を救おうとした」
「でも……」
「誰のせいでもない」
俺は言った。
「悪いのは、フェリクスだ」
リアが俯いた。
「師匠……私、ずっと……師匠を、恨んでいました」
「……」
「あの日、師匠が来なかったら、私は死ななくて済んだ」
リアの声が震えている。
「でも、師匠は私を見捨てた」
「そうだ」
俺は頷いた。
「俺は、お前を見捨てた」
「だから、恨んでました」
リアが涙を流した。
「でも……今、師匠が私を助けに来てくれた」
「……」
「だから、もう……恨めません」
リアが俺の手を握り返した。
「師匠、ありがとうございます」
俺は何も言えなかった。
ただ、リアの手を握り返した。
昼過ぎ、俺たちは森を出た。
街道に戻る。王都からは遠く離れていたが、まだ油断はできない。
「どこへ行くんですか」
エリナが聞いた。
「マルクの村だ」
「でも、あそこは……」
「フェリクスが襲ってくる」
俺は頷いた。
「だが、俺は約束した。あの村を守ると」
「先生一人で、どうやって」
「分からない」
俺は答えた。
「だが、やるしかない」
エリナが黙った。
リアが俺の背中で呟いた。
「師匠……本当に、変わりましたね」
「そうか」
「昔の師匠なら、フェリクスと戦っていました」
「……」
「でも、今の師匠は……守ろうとしている」
リアが微かに笑った。
「私、嬉しいです」
俺は答えなかった。
ただ、前を向いて歩き続けた。
空は青く、風は冷たかった。
まだ、終わりではない。
これから、本当の戦いが始まる。
ふと、俺は振り返った。
遠く、王都の方角から、黒い鳥の群れが飛び立っていた。
いや、鳥ではない。
飛竜だ。
十、二十……いや、もっとか。
フェリクスは本気だ。
騎士団長を殺された報復として、あるいはリアを奪還するために、国中の戦力を向けてくるだろう。
「急ぐぞ」
俺は足を速めた。
もう、時間は残されていない。
夜の帳が降りかけた王都で、追い出されたはずの男が戻ってくるなど、想定外だったのだろう。兵士の一人が槍を構えかけたが、俺が腰の剣に手を添えただけで動きを止めた。
「……通れ」
兵士は吐き捨てるように言った。顔には嫌悪と、わずかな恐怖が混じっている。
エリナが俺の袖を引く。
「先生、本当に行くんですか」
「ああ」
「死ぬかもしれないんですよ」
「だから、お前は外で待っていろ」
エリナは首を横に振った。その目には、諦めの色はない。
「私も行きます。先生の背中、守るって言ったじゃないですか」
俺は答えなかった。ただ、城門をくぐった。
城内は静まり返っていた。昼間は百人を超える人々で溢れていた謁見の間も、今は誰もいない。長い廊下には松明が灯っているが、その炎は風に揺れて、壁に人影のような歪んだ影を作り出している。
エリナが小さく息を吐いた。
「……怖い場所ですね」
「怖がるな」
「怖がってませんよ」
強がりだと分かる。だが、俺は何も言わなかった。エリナの震える声が、かつての弟子たちと重なる。リアも、フェリクスも、マルクも、みな最初は怖がっていた。剣を持つ手が震えていた。
だが、俺は彼らに「強くなれ」と言った。
その結果が、今のこの城だ。
廊下の奥から、足音が聞こえてきた。複数人。鎧の音。兵士だ。
「先生」
エリナが身構える。俺は片手を上げて、彼女を制した。
「待て」
足音が近づいてくる。やがて、曲がり角から三人の兵士が現れた。松明の光に照らされた彼らの顔には、驚きと戸惑いがある。
「お、お前は……」
先頭の兵士が声を震わせた。
「陛下が、追放したはずの……」
「地下牢に行きたい」
俺は静かに言った。
「案内してくれ」
兵士たちは顔を見合わせた。一人が槍を構えたが、手が震えている。
「ふ、ふざけるな。お前に命令される筋合いは……」
俺は一歩、前に出た。
それだけで、兵士たちは後退った。
「地下牢だ」
もう一度、言った。
「案内しろ」
兵士たちは黙った。やがて、先頭の男が項垂れた。
「……ついてこい」
地下への階段は、城の北側にあった。
石造りの階段は湿っていて、苔が生えている。松明の光も届かない暗闇が、下へ下へと続いている。
兵士は階段の入口で立ち止まった。
「ここから先は、俺たちも滅多に入らない」
男の声には恐怖が滲んでいる。
「迷宮だ。一度入ったら、二度と出てこれない者もいる」
「お前たちは、ここで待っていろ」
俺は松明を一本取り、階段を降り始めた。エリナがすぐに後を追ってくる。
「先生、待ってください」
「危険だ」
「だから、一緒に行くんです」
俺は振り返った。エリナの顔は松明の光で赤く染まっている。その目には、迷いがない。
「……好きにしろ」
階段は思ったより長かった。百段を超えても、まだ下が続いている。
空気が重くなってきた。湿気と、何か腐ったような臭いが混じっている。エリナが鼻を押さえた。
「何の匂いですか、これ」
「血だ」
俺は答えた。
「古い血と、腐った肉の匂いだ」
エリナが息を止めた。だが、足は止めなかった。
やがて、階段が終わった。
目の前には、長い廊下が伸びている。壁には無数の扉がある。鉄格子の嵌った扉だ。中からは、何も聞こえない。
「囚人は?」
エリナが囁いた。
「いないんですか」
「いるかもしれない」
俺は松明を掲げた。
「だが、生きているかは分からない」
廊下を進む。扉の一つに近づいて、中を覗いた。
空っぽだった。
床には藁が敷かれているが、誰もいない。次の扉も、その次も同じだった。
「誰もいない……」
エリナが呟いた。
「騎士団長は、嘘をついたんですか」
「いや」
俺は首を振った。
「もっと奥だ」
廊下は途中で二手に分かれていた。
俺は右を選んだ。理由はない。ただ、何となくだ。
エリナが後ろを振り返った。
「先生、戻れますか。ここから」
「分からない」
「……そうですか」
エリナは黙った。だが、足を止めなかった。
廊下はさらに続いている。曲がり角を曲がるたびに、方向感覚が失われていく。上なのか下なのか、東なのか西なのか、もう分からない。
やがて、何かが聞こえてきた。
微かな、呻き声だ。
「先生」
エリナが俺の袖を掴んだ。
「誰かいます」
「ああ」
俺は松明を掲げて、声のする方へ向かった。
廊下の突き当たりに、一つだけ扉があった。他の扉よりも大きく、鉄で補強されている。中からは、確かに人の声が聞こえる。
俺は扉に近づいた。
鉄格子の隙間から、中を覗く。
部屋は狭い。三メートル四方ほどだろうか。床には藁ではなく、石が剥き出しになっている。そして、その石の上に、一人の人間が倒れていた。
女だ。
長い黒髪が床に広がっている。泥と血に塗れた牢獄の中で、その髪だけが、まるで濡れた烏の濡れ羽色のように、不気味なほどの艶を放っていた。
服はボロボロで、所々に血が滲んでいる。手足には鎖が嵌められ、壁に繋がれている。
だが、それだけではない。
女の背中から、無数の管が伸びている。血管のように細く、半透明な管が、彼女の白い肌に食い込んでいた。壁に埋め込まれた奇妙な装置に繋がっていて、ドクン、ドクンと青白い光を放っている。魔力供給装置だ。
異様だった。
その肌は、地下牢の闇の中でも透けるように白く、傷だらけなのに、どこか陶器の人形めいた作り物のような美しさを保っていた。
まるで、硝子ケースの中に飾られた標本のように。
腐敗することすら許されず、永遠にその姿を留める呪いをかけられているかのように。
顔は見えない。俯いているからだ。
だが、その背中に、俺は見覚えがあった。
「……まさか」
俺の声が震えた。
エリナが俺の顔を見上げた。
「先生?」
「開けろ」
俺は扉を叩いた。
「開けろ!」
鍵はかかっている。鉄の錠前が、扉を固く閉ざしている。
俺は剣に手をかけた。
だが、抜かなかった。
代わりに、松明を床に置き、扉の蝶番を確認した。古い鉄だ。錆びている。
「エリナ、下がれ」
「先生、何を……」
「いいから、下がれ」
俺は扉から三歩下がった。そして、助走をつけて、肩から扉にぶつかった。
鈍い音がした。
扉は開かなかった。
もう一度。
もう一度。
三度目で、蝶番が外れた。扉が内側に倒れ込む。
重い金属音と共に、視界が開けた。
むっとするような甘い腐臭と、冷たい魔力の風が吹き抜ける。
俺は部屋に入った。
鎖の音がした。
倒れていた女が、ゆっくりと顔を上げた。
長い黒髪が揺れ、その隙間から、二つの瞳が俺を捉えた。
その顔を見た瞬間、俺の息が止まった。
心臓が早鐘を打つのを忘れ、全身の血が凍りついたようだった。
そこにいたのは、二十年前の悪夢。
俺が毎晩夢に見た、あの日の少女そのものだった。
「……リア」
掠れた声が、喉から漏れた。
女の目が、わずかに見開かれた。
濁っていた瞳に、一瞬だけ、かつての色が戻る。
「師匠……」
かすれた声だった。
「お前……」
俺は膝をついた。
リアの顔は、痩せ細っていた。頬は窪み、唇は乾いて血が滲んでいる。目の下には隈がある。だが、その目には、まだ光が残っていた。いや、光だけではない。そこには深い絶望と、諦めと、それでもなお消えない何かがあった。
「師匠……どうして、ここに……」
「お前を、助けに来た」
リアが小さく笑った。苦しそうな、それでいて安堵したような笑みだった。
「助けに……来てくれたんですか」
「ああ」
俺は彼女を抱き起こした。
軽い。
あまりにも軽い。
そして、気づいてしまった。この身体の重さは、二十年前と変わっていない。骨格も、身長も、手足の長さも。フェリクスは、彼女の時間を止めていたのだ。生き地獄の中で、永遠に少女のまま。
背筋が凍った。
「フェリクス……」
俺の声が低く唸った。
「何を、したんだ……」
「師匠」
リアが俺の手を掴んだ。その手は、驚くほど冷たかった。
「私を……殺してください」
「何を言っている」
「もう、疲れました」
リアの目から、涙が零れた。
「ずっと、ずっと……苦しかった」
「リア……」
「フェリクスは、私を生かし続けた。何度も死のうとしたけど、死ねなかった」
リアの声が震えている。
「この装置が……私の魔力と、記憶を吸い取っていくんです」
「記憶?」
「はい」
リアが俯いた。
「私の『楽しかった記憶』を、城の結界の燃料にしていたんです」
俺の拳が震えた。
「最初は、師匠との修行の日々が消えました。次に、村での暮らしが。そして、両親の顔も」
リアの涙が床に落ちる。
「今は、もう……何も思い出せません。ただ、暗闇だけが残っています」
リアは虚ろな目で宙を見つめた。
「師匠、私……自分がどんな顔をして笑っていたのかも、もう思い出せないんです。鏡を見るのが怖い。そこにいるのが、誰なのか分からないから」
「……くそ」
「師匠……お願いです。私を、楽にしてください」
「馬鹿なことを言うな」
俺はリアの肩を掴んだ。
「お前を助けに来たんだ。殺すためじゃない」
「でも……」
「諦めるな」
俺は管を掴んだ。引き千切ろうとする。
「先生、待ってください!」
エリナが叫んだ。
「それ、魔力で繋がってます。無理に外したら……」
エリナの言葉が途切れた。
俺は構わず、管を引き千切った。
ブチブチと、肉が裂けるような生々しい音が響く。
青白い光が弾け、リアの身体が激しく痙攣した。
「ああっ、ああああっ!」
彼女の口から、悲鳴とも呼べない空気が漏れる。それは、20年分の痛みが一気に逆流したような、魂の絶叫だった。
「リア!」
俺はリアを抱きしめた。彼女の身体は熱い。異常な熱だ。
だが、その熱さは、さっきまでの陶器のような冷たさとは違う。生きている人間の、血の通った熱さだった。
「師匠……」
「大丈夫だ」
「嘘……です」
リアが微かに笑った。
「師匠は、昔から……嘘が下手です」
「黙れ」
俺は鎖を掴んだ。鉄の鎖だ。太く、硬い。
剣を抜くしかない。
だが、俺は躊躇した。
「エリナ、松明を持ってこい」
エリナが松明を手渡した。俺は鎖の繋ぎ目を照らした。溶接されている。
「……くそ」
俺は立ち上がった。そして、剣の柄に手をかけた。
その瞬間、背後で声がした。
「感動の再会だな」
俺は振り返った。
廊下の奥から、黒い鎧の男が現れた。
騎士団長だ。
そして、その後ろには十人を超える兵士たちが並んでいる。
「よく来たな、老いぼれ」
騎士団長が剣を抜いた。
「待っていたぞ」
俺は剣に手をかけたまま、動かなかった。
「罠か」
「当然だ」
男は一歩、前に出た。
「お前が来ると分かっていた。陛下は甘い。お前を殺さなかったからな」
「フェリクスは……このことを知っているのか」
「さあな」
男が笑った。
「知っているかもしれないし、知らないかもしれない」
男の目が、リアに向けられた。
「この女は、陛下の宝物だ。だが、陛下は最近、この女のことを忘れているようだった」
「何?」
「陛下にとって、もう過去のものなんだよ。だから、俺が始末してやろうと思っていた」
騎士団長が剣を構えた。
「だが、お前が来た。好都合だ。お前もろとも、ここで消してやる」
「エリナ」
俺は低く言った。
「リアを頼む」
「でも……」
「いいから」
エリナが黙って、リアの傍に膝をついた。
俺は騎士団長と向き合った。
「お前一人で、俺たちを相手にするつもりか」
男が嘲笑った。
「いい度胸だ」
俺は答えなかった。
剣に手をかけたまま、構えた。だが、抜かない。
「抜かないのか?」
「必要ない」
「舐めるな!」
騎士団長が斬りかかってきた。速い。
俺は横に飛び退いた。刃が壁を削り、石の破片が飛び散る。
「動きは悪くないな」
男が舌打ちした。
「だが、いつまで持つかな」
背後から、兵士たちが迫ってくる。
俺は後退りながら、彼らの攻撃を躱した。槍が俺の頬を掠める。服が裂ける。
「先生!」
エリナの叫び声。
「黙って見ていろ」
俺は兵士の一人の槍を掴み、引き寄せた。
手首を返す。骨が外れる音がして、男が倒れ込んでくる。俺はその身体を盾にして、別の兵士の剣を受け流し、同時に蹴りを放った。
三人が一度に吹き飛ぶ。だが、多勢に無勢だ。息つく暇もなく、次の一撃が迫る。
「やるじゃないか」
騎士団長が再び斬りかかってきた。
俺は腕で受け止めた。刃が皮膚を裂く。血が飛ぶ。
「馬鹿が」
男が笑った。
「剣を抜けば済むものを」
「必要ないと言った」
「強情だな」
男が剣を引いて、再び振り下ろした。
今度は避けきれなかった。
刃が肩を喰らう。肉が裂け、熱い痛みが走る。骨まで届く嫌な感触。
「ぐっ……」
「どうした。もう限界か」
騎士団長が追撃してくる。
俺は後退った。背中が壁にぶつかる。
逃げ場がない。
「終わりだ」
男が剣を振り上げた。
その瞬間、エリナが動いた。
リアを庇うように、身体を張った。
「エリナ!」
「やめて!」
エリナが両手を広げた。
「リアさんには、もう何もしないで!」
「邪魔だ、ガキが!」
騎士団長の剣が、エリナに向かって振り下ろされた。
その軌道が、スローモーションのように見えた。
俺の視界が、真っ赤に染まる……ことはなかった。
逆に、冷えていく。
感情が凍りつき、ただ一つの結論だけが残る。
『こいつは、生かしておけない』
俺の手が、剣の柄を握った。
抜く。
刹那、世界から音が消えた。
キィン、という高い金属音だけが、遅れて鼓膜を叩く。
空気が裂け、衝撃波が走る。
騎士団長の剣が、真ん中から綺麗に両断され、天井に突き刺さった。
男の目が、驚愕に見開かれている。
「な……に……」
俺は、流れるような動作で剣を横に薙いだ。
刃が肉を断つ感触すらない。あまりにも鋭利な一撃。
騎士団長の身体が、上下にずれた。
上半身がゆっくりと滑り落ち、ドサリと床に落ちる。
一拍おいて、血の噴水が上がった。
血が噴き出した。
兵士たちが悲鳴を上げて逃げ出した。
俺は剣を構えたまま、立っていた。
エリナが呆然と俺を見上げている。
「先生……」
「怪我は」
「あ、ありません……」
エリナの声が震えている。
「先生……今の……」
俺は剣を見た。
刃に血が滲んでいる。
「……終わった」
俺は剣を鞘に納めた。
「行くぞ」
「はい……」
エリナがリアを支えた。俺もリアの反対側に回り、肩を貸した。
「師匠……」
「喋るな」
「でも……」
「いいから、黙っていろ」
俺たちは部屋を出た。
階段を上る。
リアの身体は重かった。いや、重いというより、力が入っていない。まるで、生きる気力を失ったように。
エリナが何度も足を滑らせた。その度に、俺がリアごと支えた。
「すみません……」
「謝るな」
階段を上りきったとき、城内は騒然としていた。
兵士たちが走り回り、誰かが鐘を鳴らしている。
「侵入者だ!」
「騎士団長が殺された!」
叫び声が響く。
俺は謁見の間を抜けて、城門へ向かった。
門番が槍を構えたが、俺の顔を見て震え上がった。
「ひ……」
男が槍を落として逃げ出した。
俺は城門をくぐった。
王都の外は、闇に包まれていた。
月が雲に隠れていて、星の光も弱い。
俺は街道を外れて、森の中に入った。
木々の間を縫うように歩く。エリナが後ろで何度も転びそうになったが、俺は止まらなかった。
やがて、小さな泉が見えてきた。
俺はリアを泉の傍に降ろした。そして、水を汲んで彼女の唇を濡らした。
「飲め」
リアが微かに喉を動かした。
「……ありがとう、ございます」
エリナが泉の水で顔を洗った。そして、リアの顔を見た。
「この方が……師匠の、最初の弟子ですか」
「ああ」
俺は頷いた。
「リアだ」
「リア……さん」
エリナがリアの手を握った。
「大丈夫ですか」
「……ええ」
リアが微かに微笑んだ。
「あなたは……?」
「エリナです。先生の、新しい弟子です」
「そう……」
リアの目が、俺を見た。
「師匠……また、弟子を取ったんですね」
「ああ」
「良かった……」
リアが目を閉じた。
「師匠は、もう……独りじゃないんですね」
俺は何も答えられなかった。
ただ、リアの手を握った。
その手は、まだ冷たかった。
夜が明けるまで、俺たちは泉の傍にいた。
リアは眠っている。呼吸は浅いが、少しずつ安定してきている。
エリナは焚火の番をしていた。時折、木の枝をくべて、炎を保っている。
「先生」
エリナが口を開いた。
「あの騎士団長を殺したとき……先生の目、怖かったです」
「……そうか」
「でも」
エリナが俺を見た。
「あれが、先生の本当の強さなんですね」
「違う」
俺は首を振った。
「あれは、弱さだ」
「弱さ?」
「ああ」
俺は焚火を見た。
「俺は、怒りに任せて剣を抜いた」
「でも、私を守るために……」
「それでも、弱さだ」
俺は立ち上がった。
「強さというのは、剣を抜かないことだ」
「でも、先生」
エリナが立ち上がった。
「誰かを守るために剣を抜くのは、間違いじゃないと思います」
「だが……」
「マルクさんも、リアさんを守るために戦ったんです」
エリナの目には、涙が浮かんでいた。
「だから、先生が私を守るために剣を抜いたのは、間違いじゃないです」
俺は黙った。
エリナの言葉が、胸に刺さる。
「……ありがとう」
「え?」
「お前が、いてくれて良かった」
エリナが驚いた顔をした。そして、泣き笑いのような表情になった。
「……先生、それ、ずるいです」
「そうか」
「はい」
エリナが袖で目を拭った。
「私、もっと強くなります」
「ああ」
「だから、先生も……もう、独りで背負わないでください」
俺は頷いた。
空が白み始めていた。
新しい朝が、来ようとしている。
リアが目を覚ましたのは、日が昇ってからだった。
「……ここは」
「森だ」
俺は答えた。
「王都から離れた」
「そう……」
リアが身体を起こそうとした。だが、すぐに力が抜けた。
「無理をするな」
リアは眩しそうに空を見上げた。
「空……青いんですね」
「ああ」
「私……本当に、外に出たんですね」
リアの声が震えた。
「夢じゃ……ないんですね」
「夢じゃない」
俺は彼女の手を握った。
「お前はもう、自由だ」
リアの目から涙が溢れた。
「師匠……ありがとうございます」
「礼を言うのは早い」
俺は言った。
「お前を最初に助けようとしたのは、俺じゃない」
リアが顔を上げた。
「……マルク、ですね」
「覚えているか」
「はい……」
リアが目を閉じた。
「記憶のほとんどは消えました。でも、あの子の涙だけは、消えなかった」
涙が、リアの頬を伝う。
「地下牢で私を見つけた時、泣いていました。『こんなの間違ってる』って」
「マルクは……」
「自分の命よりも、私の尊厳を守ろうとしてくれた」
リアが俺を見た。
「師匠、あの子は……マルクは、どうなったんですか」
俺は黙った。
言わなければならない。
「マルクは……死んだ」
リアが息を呑んだ。
「フェリクスに追われ、最後まで戦って……死んだ」
リアが顔を覆った。
「私の、せいで……」
「違う」
俺は彼女の手を取った。
「マルクは自分の意志で、お前を救おうとした」
「でも……」
「誰のせいでもない」
俺は言った。
「悪いのは、フェリクスだ」
リアが俯いた。
「師匠……私、ずっと……師匠を、恨んでいました」
「……」
「あの日、師匠が来なかったら、私は死ななくて済んだ」
リアの声が震えている。
「でも、師匠は私を見捨てた」
「そうだ」
俺は頷いた。
「俺は、お前を見捨てた」
「だから、恨んでました」
リアが涙を流した。
「でも……今、師匠が私を助けに来てくれた」
「……」
「だから、もう……恨めません」
リアが俺の手を握り返した。
「師匠、ありがとうございます」
俺は何も言えなかった。
ただ、リアの手を握り返した。
昼過ぎ、俺たちは森を出た。
街道に戻る。王都からは遠く離れていたが、まだ油断はできない。
「どこへ行くんですか」
エリナが聞いた。
「マルクの村だ」
「でも、あそこは……」
「フェリクスが襲ってくる」
俺は頷いた。
「だが、俺は約束した。あの村を守ると」
「先生一人で、どうやって」
「分からない」
俺は答えた。
「だが、やるしかない」
エリナが黙った。
リアが俺の背中で呟いた。
「師匠……本当に、変わりましたね」
「そうか」
「昔の師匠なら、フェリクスと戦っていました」
「……」
「でも、今の師匠は……守ろうとしている」
リアが微かに笑った。
「私、嬉しいです」
俺は答えなかった。
ただ、前を向いて歩き続けた。
空は青く、風は冷たかった。
まだ、終わりではない。
これから、本当の戦いが始まる。
ふと、俺は振り返った。
遠く、王都の方角から、黒い鳥の群れが飛び立っていた。
いや、鳥ではない。
飛竜だ。
十、二十……いや、もっとか。
フェリクスは本気だ。
騎士団長を殺された報復として、あるいはリアを奪還するために、国中の戦力を向けてくるだろう。
「急ぐぞ」
俺は足を速めた。
もう、時間は残されていない。
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