1 / 3
生クリーム事件 第1話
しおりを挟む
放課後の校舎は、昼間よりも音がよく響く。
廊下の端で誰かが笑えば、その残響が窓ガラスに跳ね返る。運動部の掛け声は遠くからでも聞こえるし、吹奏楽部のチューニングはいつも少しだけ不安定だ。
その日も、特別なことは何もないはずだった。
十六時三十五分。
僕は靴箱の前で立ち止まり、乱れた上履きを揃えていた。右と左が逆になっているもの、かかとが潰れているもの、半分だけはみ出しているもの。気づいてしまうと直さずにはいられない。
学級委員だから、という理由にしているけれど、本当はただ落ち着かないだけだ。
そのとき、甲高い悲鳴が校舎の奥から跳ねてきた。
「なにこれ……っ!」
反射的に顔を上げる。声はすぐ近く、の靴箱のほうからだ。
数人の生徒がざわつきながら集まっていく。その輪の中心にいたのは、江川陽葵《えがわひまり》だった。
彼女は片手に運動靴を持ち、もう片方の手を空中で止めている。白いものが、べったりと靴の側面に付着していた。
粘り気のある、柔らかそうな塊。床にも少し落ちている。
「誰……?」
江川の声は震えていた。怒りよりも、困惑のほうが強い。
近くにいたのは三人。
一組の中村悠俉《なかむらゆうご》、鮎川拓也《あゆかわたくや》。そして二組の浜井竜臣《はまいたつおみ》。
僕は自然に輪の中へ入った。
「ちょっと見せて」
江川が差し出した靴を受け取る。触れないよう、慎重に底を持つ。白いものは、思ったより厚みがあった。指で押せば簡単に形が崩れそうだ。
「ひどくない? 今日履いて帰るつもりだったのに……」
江川が唇を噛む。
周囲の視線が三人に集まる。偶然とはいえ、その場にいたのは彼らだけだ。
「俺じゃないって」
鮎川が真っ先に口を開いた。面倒ごとが嫌いな顔をしている。
「僕も知らないよ」
中村は冷静に腕を組んでいる。
浜井はというと、なぜかやけに汗をかいていた。
「お、俺も違うって!」
声が裏返る。沈黙が落ちる。
このままでは、ただの言い合いになる。
僕は息を整えた。
「落ち着こう。たぶん、やった人はまだ近くにいる」
全員がこちらを見る。視線を集めるのは慣れている。学級委員という立場は、こういうとき便利だ。
「時間はいつから?」
江川が答える。
「四時間目の体育のときは何もなかった。さっき、帰ろうとして気づいたの」
ならば、犯行は五時間目か六時間目の間。
靴箱は基本的に人の出入りが多い。けれど、放課後直前は意外と死角ができる。
僕は床に落ちた白い塊を見下ろす。
甘い匂いがする気がした。いや、気のせいかもしれない。
「とりあえず、この三人に話を聞こう」
僕が言うと、鮎川が小さく舌打ちした。
「なんで俺たちなんだよ」
「ここにいたから」
単純な理由だ。でも十分だ。
中村はため息をついた。
「合理的ではあるね」
浜井は視線を泳がせている。
江川は靴を抱えたまま立ち尽くしていた。怒るでも泣くでもなく、ただ困っている。
それが妙に胸に刺さる。
「大丈夫。ちゃんと解決する」
思ったより強い声が出た。誰のための言葉か、自分でも分からない。
廊下の窓から西日が差し込み、白い塊がわずかに光った。
形は崩れていない。誰かが意図的に、丁寧に置いたようにも見える。偶然ではない。いたずらにしては、妙に狙いがはっきりしている。
僕は三人を見渡した。
「悪いけど、少しだけ時間をくれ」
逃がさない、という意味を込める。
放課後のざわめきが、遠くで続いている。けれどこの小さな空間だけが、切り取られたように静まり返っていた。
白い痕跡は、まだ乾いていない。それが、やけに生々しく見えた。
靴箱前の空気は、妙に重たかった。
遠くでボールの弾む音がする。階段を駆け下りる足音も聞こえる。けれど、この一角だけが薄い膜に覆われたみたいに、息苦しい。
「順番に聞くよ」
僕は三人を見た。
「まず中村。さっき何してた?」
中村悠俉は、腕に抱えていた紙束を軽く持ち上げた。
「ポスター剥がし。地学部の観測会、もう終わってるから。生徒会に頼まれてさ」
たしかに紙は丸められている。テープの跡も残っていた。
「五時間目と六時間目の間も?」
「教室にいたよ。鮎川も一緒」
視線が鮎川に向く。
「まあな。面談があってさ、終わってから戻ってた」
鮎川拓也はポケットに手を突っ込んだまま答える。投げやりだが、目は逸らしていない。
「浜井は?」
浜井竜臣がびくりと肩を揺らした。
「お、俺は……六時間目、体育だったから。少し早めに体育館行った」
「何時ごろ?」
「……十分前くらい?」
曖昧だ。
しかも、彼はやけに落ち着きがない。額の汗を何度も拭っている。
「なんでそんなに汗かいてる?」
「べ、別に!」
声がひっくり返る。
疑いの視線が自然と集まる。
江川が小さく言った。
「さっき、甘い匂いしなかった?」
全員が床を見る。白い塊はまだ形を保っている。
鮎川が眉をひそめた。
「……するか? 俺、わかんね」
「僕も特には」
中村は首を振る。
浜井は一瞬だけ、視線を逸らした。
「俺、さっきパン食ってたから……それかも」
空気が一瞬で固まる。
「パン?」
「クリームパン」
やっぱり、と誰かが小さく呟いた。
「だから違うって! 捨てるくらいなら自分で食べる!」
必死だ。だが、タイミングが悪すぎる。
僕はしゃがみ込み、床に落ちた小さな欠片を見つめた。
柔らかい。粘度がある。時間はそれほど経っていないはずだ。
「四時間目のときは何もなかったんだよね」
江川が頷く。
「うん。体育終わって、そのまま教室戻ったし」
ならば、犯行時間はかなり絞られる。
五時間目か、六時間目の間。
この三人のうち、少なくとも一人はその時間にここへ来ている。
もしくは——。
「監視カメラ、あったっけ」
鮎川が天井を見上げる。
ない。あるのは職員室前だけだ。
「……とにかく、整理しよう」
僕は立ち上がった。
「五時間目と六時間目の間、ここに来た人は?」
三人は顔を見合わせる。
「俺は来てない」
「僕も」
「俺もだって!」
全員否定。当然だ。
江川が俯く。
「なんで私だけ……」
その言葉が、思ったよりも刺さった。
狙われた。偶然ではない。白い塊は、ただ投げつけられた感じではなかった。丁寧に、置かれていた。
僕は無意識に、隣の靴を揃えていた。少しだけ前に出ていたつま先を、奥へ押し込む。
視界の端で、中村がそれに気づいた気がした。
「学級委員」
鮎川が言う。
「どうすんの?」
全員の視線が、また集まる。決めなければならない。
「今日は解散しない」
静かに言った。
「放課後、もう少しだけ話を聞く。時間は取らせない」
浜井が青ざめる。
「まだやるのかよ……」
「ちゃんと整理したいだけだ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
西日がさらに傾く。影が長く伸びる。白い痕跡は、まだ消えていない。乾く前に、答えを出さなければならない。
「……わかった」
中村が頷いた。鮎川も肩をすくめる。浜井は渋々という顔だ。
江川が僕を見た。
「ありがとう」
その一言で、胸の奥がざわつく。
ありがとう、と言われる資格があるのか。そんな考えを振り払う。
「とりあえず靴は洗おう。水道、空いてるはず」
僕は靴を受け取り、歩き出した。
背後で、三人の足音が続く。放課後の光の中、白い塊は少しずつ形を崩し始めていた。
事件は、まだ始まったばかりだ。
廊下の端で誰かが笑えば、その残響が窓ガラスに跳ね返る。運動部の掛け声は遠くからでも聞こえるし、吹奏楽部のチューニングはいつも少しだけ不安定だ。
その日も、特別なことは何もないはずだった。
十六時三十五分。
僕は靴箱の前で立ち止まり、乱れた上履きを揃えていた。右と左が逆になっているもの、かかとが潰れているもの、半分だけはみ出しているもの。気づいてしまうと直さずにはいられない。
学級委員だから、という理由にしているけれど、本当はただ落ち着かないだけだ。
そのとき、甲高い悲鳴が校舎の奥から跳ねてきた。
「なにこれ……っ!」
反射的に顔を上げる。声はすぐ近く、の靴箱のほうからだ。
数人の生徒がざわつきながら集まっていく。その輪の中心にいたのは、江川陽葵《えがわひまり》だった。
彼女は片手に運動靴を持ち、もう片方の手を空中で止めている。白いものが、べったりと靴の側面に付着していた。
粘り気のある、柔らかそうな塊。床にも少し落ちている。
「誰……?」
江川の声は震えていた。怒りよりも、困惑のほうが強い。
近くにいたのは三人。
一組の中村悠俉《なかむらゆうご》、鮎川拓也《あゆかわたくや》。そして二組の浜井竜臣《はまいたつおみ》。
僕は自然に輪の中へ入った。
「ちょっと見せて」
江川が差し出した靴を受け取る。触れないよう、慎重に底を持つ。白いものは、思ったより厚みがあった。指で押せば簡単に形が崩れそうだ。
「ひどくない? 今日履いて帰るつもりだったのに……」
江川が唇を噛む。
周囲の視線が三人に集まる。偶然とはいえ、その場にいたのは彼らだけだ。
「俺じゃないって」
鮎川が真っ先に口を開いた。面倒ごとが嫌いな顔をしている。
「僕も知らないよ」
中村は冷静に腕を組んでいる。
浜井はというと、なぜかやけに汗をかいていた。
「お、俺も違うって!」
声が裏返る。沈黙が落ちる。
このままでは、ただの言い合いになる。
僕は息を整えた。
「落ち着こう。たぶん、やった人はまだ近くにいる」
全員がこちらを見る。視線を集めるのは慣れている。学級委員という立場は、こういうとき便利だ。
「時間はいつから?」
江川が答える。
「四時間目の体育のときは何もなかった。さっき、帰ろうとして気づいたの」
ならば、犯行は五時間目か六時間目の間。
靴箱は基本的に人の出入りが多い。けれど、放課後直前は意外と死角ができる。
僕は床に落ちた白い塊を見下ろす。
甘い匂いがする気がした。いや、気のせいかもしれない。
「とりあえず、この三人に話を聞こう」
僕が言うと、鮎川が小さく舌打ちした。
「なんで俺たちなんだよ」
「ここにいたから」
単純な理由だ。でも十分だ。
中村はため息をついた。
「合理的ではあるね」
浜井は視線を泳がせている。
江川は靴を抱えたまま立ち尽くしていた。怒るでも泣くでもなく、ただ困っている。
それが妙に胸に刺さる。
「大丈夫。ちゃんと解決する」
思ったより強い声が出た。誰のための言葉か、自分でも分からない。
廊下の窓から西日が差し込み、白い塊がわずかに光った。
形は崩れていない。誰かが意図的に、丁寧に置いたようにも見える。偶然ではない。いたずらにしては、妙に狙いがはっきりしている。
僕は三人を見渡した。
「悪いけど、少しだけ時間をくれ」
逃がさない、という意味を込める。
放課後のざわめきが、遠くで続いている。けれどこの小さな空間だけが、切り取られたように静まり返っていた。
白い痕跡は、まだ乾いていない。それが、やけに生々しく見えた。
靴箱前の空気は、妙に重たかった。
遠くでボールの弾む音がする。階段を駆け下りる足音も聞こえる。けれど、この一角だけが薄い膜に覆われたみたいに、息苦しい。
「順番に聞くよ」
僕は三人を見た。
「まず中村。さっき何してた?」
中村悠俉は、腕に抱えていた紙束を軽く持ち上げた。
「ポスター剥がし。地学部の観測会、もう終わってるから。生徒会に頼まれてさ」
たしかに紙は丸められている。テープの跡も残っていた。
「五時間目と六時間目の間も?」
「教室にいたよ。鮎川も一緒」
視線が鮎川に向く。
「まあな。面談があってさ、終わってから戻ってた」
鮎川拓也はポケットに手を突っ込んだまま答える。投げやりだが、目は逸らしていない。
「浜井は?」
浜井竜臣がびくりと肩を揺らした。
「お、俺は……六時間目、体育だったから。少し早めに体育館行った」
「何時ごろ?」
「……十分前くらい?」
曖昧だ。
しかも、彼はやけに落ち着きがない。額の汗を何度も拭っている。
「なんでそんなに汗かいてる?」
「べ、別に!」
声がひっくり返る。
疑いの視線が自然と集まる。
江川が小さく言った。
「さっき、甘い匂いしなかった?」
全員が床を見る。白い塊はまだ形を保っている。
鮎川が眉をひそめた。
「……するか? 俺、わかんね」
「僕も特には」
中村は首を振る。
浜井は一瞬だけ、視線を逸らした。
「俺、さっきパン食ってたから……それかも」
空気が一瞬で固まる。
「パン?」
「クリームパン」
やっぱり、と誰かが小さく呟いた。
「だから違うって! 捨てるくらいなら自分で食べる!」
必死だ。だが、タイミングが悪すぎる。
僕はしゃがみ込み、床に落ちた小さな欠片を見つめた。
柔らかい。粘度がある。時間はそれほど経っていないはずだ。
「四時間目のときは何もなかったんだよね」
江川が頷く。
「うん。体育終わって、そのまま教室戻ったし」
ならば、犯行時間はかなり絞られる。
五時間目か、六時間目の間。
この三人のうち、少なくとも一人はその時間にここへ来ている。
もしくは——。
「監視カメラ、あったっけ」
鮎川が天井を見上げる。
ない。あるのは職員室前だけだ。
「……とにかく、整理しよう」
僕は立ち上がった。
「五時間目と六時間目の間、ここに来た人は?」
三人は顔を見合わせる。
「俺は来てない」
「僕も」
「俺もだって!」
全員否定。当然だ。
江川が俯く。
「なんで私だけ……」
その言葉が、思ったよりも刺さった。
狙われた。偶然ではない。白い塊は、ただ投げつけられた感じではなかった。丁寧に、置かれていた。
僕は無意識に、隣の靴を揃えていた。少しだけ前に出ていたつま先を、奥へ押し込む。
視界の端で、中村がそれに気づいた気がした。
「学級委員」
鮎川が言う。
「どうすんの?」
全員の視線が、また集まる。決めなければならない。
「今日は解散しない」
静かに言った。
「放課後、もう少しだけ話を聞く。時間は取らせない」
浜井が青ざめる。
「まだやるのかよ……」
「ちゃんと整理したいだけだ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
西日がさらに傾く。影が長く伸びる。白い痕跡は、まだ消えていない。乾く前に、答えを出さなければならない。
「……わかった」
中村が頷いた。鮎川も肩をすくめる。浜井は渋々という顔だ。
江川が僕を見た。
「ありがとう」
その一言で、胸の奥がざわつく。
ありがとう、と言われる資格があるのか。そんな考えを振り払う。
「とりあえず靴は洗おう。水道、空いてるはず」
僕は靴を受け取り、歩き出した。
背後で、三人の足音が続く。放課後の光の中、白い塊は少しずつ形を崩し始めていた。
事件は、まだ始まったばかりだ。
1
あなたにおすすめの小説
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―
MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」
「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」
失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。
46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる