25時の音楽

倉木元貴

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苦手なもの(第8話)

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 放課後の化学室を出ると、窓の外はすでに茜色に染まっていた。机の上に散らばったノートや歌詞の断片を片付けながら、私はふと鳴沢の横顔を見る。
 彼はまだ何かを考えているようで、眉間に皺を寄せていた。

「……帰ろっか」

 声をかけると、鳴沢は小さく頷いた。
 二人で廊下を歩き、校舎を抜ける。夕方の風が頬を撫で、少し冷たさを含んでいた。

 校門を出て川沿いの道を並んで歩く。沈みかけた太陽が水面に反射し、キラキラと揺れている。
 私はずっと気になっていたことを口にした。

「ねえ、鳴沢。“エクスネク”って名前、どういう意味なの?」

 鳴沢は足を止め、紫がかった空を見上げる。

「……エクスは“過去”、ネクは“未来”。過去と未来の間にある“今”の気持ちを歌にしたいと思って……」

「へえー、そうなんだ」

 胸が少し熱くなった——その瞬間。

「……というのは冗談で。本当は何も思いつかなくて、名前をローマ字にして逆さから読んだだけです……」

 思わず吹き出してしまった。

「何それ──めっちゃ適当じゃん」

「笑われると思って、言いたくなかったのに……」

「名前のローマ字ってことは……KENSUKE だから EKUSNEK? え、そんな単純?」

 鳴沢のために笑うのをやめようかと思ったけど、思ったよりもあっさりで、どうしても堪えられなかった。

「じゃあ、過去と未来ってのは?」

「それは後付けで……適当に……」

「でも、いいんじゃない。過去と未来の間ってことは“今”を歌うってことだし。鳴沢にはぴったりだよ」

 鳴沢は照れたように目を逸らす。

「響きも大事だけど……意味を持って歌っているほうが、より歌える気がするんだ」

 その言葉に、胸が少し痛んだ。
 鳴沢はいつも自分を隠している。クラスではほとんど話さないし、誰かに心を開くこともない。だけど、歌には全部込めている。

「鳴沢はさ、なんで歌を始めたの?」

 しばらく沈黙のあと、鳴沢は言った。

「誰にも言えない気持ちを、声にしてみたかった。文字にすると恥ずかしいけど、歌なら……届くかもしれないと思った」

 私は頷いた。
 わかる気がした。私も中学のとき、書いたポエムを笑われて、それ以来ずっと隠してきた。でも、本当は誰かに読んでほしかった。伝えたかった。

「……それ、すごくわかる! 私も言葉にしたいけどできなくて、ノートに書いて終わってた」

 鳴沢は少し笑った。

「じゃあ、似ているのかも」

 その瞬間、足元の草むらで何かが動いた。

「うわっ!」

 鳴沢が飛び退く。細長い影が地面を走り抜けた。蛇だった。
 私は思わず笑う。

「ただの青大将だよ。田舎じゃ珍しくないって」

 鳴沢は顔を引きつらせ、私の後ろに隠れる。

「……蛇、苦手なんだ」

「意外。こんな田舎に住んでるのに蛇がダメなんて。それに鳴沢って、もっと冷静だと思ってた。ちゃんと“人間らしい”とこもあるんだね」

「冷静じゃないよ。僕はただ……人前で隠しているだけ」

 胸がきゅっと締めつけられる。
 人前では冷静に見える鳴沢が、実は臆病で、不器用で、隠しているものが多い。だからこそ、彼は歌に全てを込めるのだろう。

 青大将が去ったあとも、鳴沢はしばらく落ち着かない様子だった。道端の枝まで蛇に見えるらしい。そんな姿が可笑しくて笑いながらも、どこか切なさを覚える。

「……鳴沢って、ずっと一人だったの?」

 問いかけると、鳴沢は少し間を置いて答えた。

「小学生の頃から、あまり友達はいなかった。話すのが下手で……何を言っても笑われてる気がして。だから黙った」

 その声は、川の流れに溶けていくように小さかった。
 私は立ち止まり、夕焼けに染まる鳴沢の横顔を見る。

「でも、歌は違ったんだね」

 鳴沢は頷いた。

「声なら、誰も僕を見ない。顔も名前も知られない。ただ、届くかもしれないって思えた」

 胸がじんと熱くなる。
 私のポエムも同じだった。誰にも言えなくて、それでも誰かに届いてほしかった。

「……私も、言葉を歌にしたい。鳴沢君──いや、エクスネクの声に、私の言葉を乗せたい」

 風が吹き、川面が揺れる。
 鳴沢はしばらく沈黙したあと、小さく笑った。

「……変わってるな、近藤さん」

「鳴沢だって変わってるでしょ。でも、そういうのが歌になるんだよね」

 その瞬間、私の中で決意が固まった。
 声だけの世界に留まらず、言葉で伝える。歌詞にして鳴沢の声に託す。
 それが、私にできること。

 川沿いの道を、しばらく無言で歩いた。
 でもその沈黙は心地よく、風と水の音が会話みたいに寄り添っていた。

「……近藤さん」

 不意に鳴沢が口を開く。

「もし、近藤さんの言葉を歌にしたら……誰かに届くと思う?」

 私は迷わず答えた。

「届くと思うよ。だって鳴沢の歌、私に届いた。救われた。だから、きっと誰かにも届く。そう信じてる」

 鳴沢は目を伏せ、足を止めた。

「僕はずっと一人で歌ってきた。見ず知らずの誰かに聴いてもらえたら、それだけで十分だった。でも……一緒に作ったら、もっと違うものになるのかもしれない」

 震える声だった。
 私は笑って、もう一度彼の横に並ぶ。

「なるよ。全然違うものになる。鳴沢の声と私の言葉。きっと誰も聴いたことのない歌になるって!」

 鳴沢はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……そうだね。新生エクスネクの誕生だね」

 胸が熱くなる。
 思わず足を止め、彼の顔を見る。

「私、邪魔じゃない?」

「全然。むしろ助かってる。これからもよろしくお願いします」

 沈みかけた太陽は、最後に川を赤く照らしていた。
 風が少し冷たくなり、春の匂いが混じる。
 私は心の中で強く思う。

 ──声だけの世界から、言葉の世界へ。
 これは、私たちの始まりだ。
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