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寝落ち(第18話)
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エッセンラーデンでの打ち上げを終えた帰り道、夜の冷たい空気は、昼の喧騒が嘘のように静かだった。街灯がまばらに照らす住宅街を抜け、私は鳴沢の家へ向かった。晩秋の風が、文化祭の余韻のような淡い興奮を頬に残していく。
玄関の灯りはぽつりと温かく、戸を開けると中から慌ただしい声が聞こえてきた。
「健助、忘れ物ない? 財布はちゃんと入れた?」
「大丈夫だって母さん。ちょっと東京に行ってくるだけだよ」
マリちゃん先生──普段は保健室で見せる落ち着いた顔とは違い、今は完全に“お母さん”の顔だった。散らかった靴箱の前であれこれ気を回す姿に、私は思わず頬をゆるめてしまう。
けれど、その落ち着きのなさが逆に鳴沢を冷静にしているようで、彼の表情には不思議な覚悟が宿っていた。
「鳴沢、頑張ってね」
私が言うと、鳴沢は少し息を吸い、うなずいた。
「ありがとう近藤さん。行ってくるね」
お父さんの運転する車に乗り込み、鳴沢は深く座席に身を預けた。車のテールランプが赤い光の線になって遠ざかっていく。マリちゃん先生と並んでその後ろ姿を見送っていると、ぽつりと小さな声が落ちた。
「──まさか健助がね」
その横顔は、心配と誇らしさが混ざり合って揺れていた。頼りなげで大人しすぎるくらいの鳴沢が、東京で歌のオーディションを受けるなんて、たしかに簡単には信じられないかもしれない。
「マリちゃん先生。鳴沢なら大丈夫だよ。どんな結果になっても、優しく受け入れてあげよ」
「……そうね。玲那ちゃんの言うとおり。玲那ちゃん、会わない間に大人になったね」
「そんなことないよ。でも、鳴沢と一緒に歌を作ってたおかげかな」
ふっと笑い合うと、夜風が二人の間を静かに通り抜けていった。
♢♢♢
その夜。晩ご飯のあと、自室でぼんやりしていると、スマホが震えた。鳴沢からのメッセージだった。
(東京についた)
添えられていた写真には本人は写っていなかったけれど、煌びやかなビルのガラスに光が反射し、都会の温度が画面越しに伝わってくる。ホテルの絨毯、ベッドの白いシーツ、ロビーの自販機の並び──どれも鳴沢にとっては特別な風景なのだろう。
(ホテルのベッドすごいふかふか!)
(飲み物全部飲み放題だって!)
無邪気な言葉に、胸の奥が温かくなる。
(東京いいな~)
(修学旅行以来のホテルのベッドに横になりたい)
(何も考えずに、昼間まで寝ていたいね)
(ベッド最高だよ~)
(飛び込みたい気持ちをどれだけ我慢しているか)
(明日遅刻したら終わりだから、ならないように頑張る)
(絶対遅刻したらダメだよ)
(遅刻しないように、私が朝電話しようか?)
(大丈夫ですよ)
(文化祭後の休で疲れていますから、ゆっくり休んでください)
(もし遅刻してオーディションに行けなくても笑って受け入れてください)
(わかった。明日頑張ってね)
その瞬間、くまのスタンプが返ってきた。小さな茶色いクマが親指を立てている。今まで文字しか返さなかった鳴沢が、スタンプを……。
スマホを持つ手がじんわり熱くなる。
鳴沢と、ほんの少し距離が縮まったのかな。
そう思うと、嬉しさと緊張がぶつかり合い、布団に入ってからも心臓がずっとうるさかった。
♢♢♢
朝。カーテンの隙間から淡い光が差し込むころ、私のスマホはひとつだけ通知を灯していた。
(行ってきます)
短いけれど、そこには決意の影がにじんでいた。
慌てて返信する。
(頑張って)
送ったあと、しばらく画面を見つめていたけれど、既読はつかない。もう会場に向かっているのだろう。
その日の時間は、異様に遅かった。
勉強机に向かっても、ノートの上の文字が頭に入らない。問題集を開いても、風でページがめくれていくような感覚だけが残る。胸の奥はずっとそわそわして、目の前の空気まで落ち着かない。
夕方、家のチャイムが鳴くと、玄関にいたのはマリちゃん先生だった。
「……玲那ちゃん、一緒に待たせてもらってもいい?」
私はうなずき、温かいお茶を出した。二人でリビングに座りながら、スマホを何度も確認した。秒針の音がやけに大きい。
そして──マリちゃん先生のスマホが震えた。
(終わったよ)
(疲れた)
「お疲れ様!」
マリちゃん先生はすぐに返信し、深く息を吐いた。
私がそのメッセージに既読をつけると、まるでそれを待っていたかのように、私のスマホも震えた。
(やっと終わった)
(長かった)
(オーディションって、あんなにも緊張するんだね)
(中学の時の面接を思い出したよ)
画面いっぱいに広がる鳴沢の言葉。
彼の声まで聞こえてきそうで、私は思わず笑ってしまった。
隣を見ると、マリちゃん先生が悔しそうに唇を尖らせながらも、ぽたりと涙を落としていた。
「……ずるい……私より玲那ちゃんの方が文章多い……!」
けれど、その涙は誇らしさの色で光っていた。
♢♢♢
鳴沢が帰ってきたのは、次の日の夜だった。
制服のまま下校する生徒が通る時間ではないのに、写真には夜の校舎が黒いシルエットで写されていて、そこに一言だけ。
(ただいま)
私の指は反射的にメッセージを打っていた。
(おかえり!)
本当は走って鳴沢の家まで行きたかった。
でも、マリちゃん先生に「今日は寝かせてあげなさい」と優しく止められた。
その夜、いくつかメッセージを送ってみたけれど、返信はなかった。
疲れて寝てしまったのだろう。
何も言わなくても、頑張ったことは伝わってきた。
そして月曜日。
答え合わせをするまでもなく、私の予想は当たった。
──鳴沢の顔を見た瞬間に、すべてがわかったのだ。
玄関の灯りはぽつりと温かく、戸を開けると中から慌ただしい声が聞こえてきた。
「健助、忘れ物ない? 財布はちゃんと入れた?」
「大丈夫だって母さん。ちょっと東京に行ってくるだけだよ」
マリちゃん先生──普段は保健室で見せる落ち着いた顔とは違い、今は完全に“お母さん”の顔だった。散らかった靴箱の前であれこれ気を回す姿に、私は思わず頬をゆるめてしまう。
けれど、その落ち着きのなさが逆に鳴沢を冷静にしているようで、彼の表情には不思議な覚悟が宿っていた。
「鳴沢、頑張ってね」
私が言うと、鳴沢は少し息を吸い、うなずいた。
「ありがとう近藤さん。行ってくるね」
お父さんの運転する車に乗り込み、鳴沢は深く座席に身を預けた。車のテールランプが赤い光の線になって遠ざかっていく。マリちゃん先生と並んでその後ろ姿を見送っていると、ぽつりと小さな声が落ちた。
「──まさか健助がね」
その横顔は、心配と誇らしさが混ざり合って揺れていた。頼りなげで大人しすぎるくらいの鳴沢が、東京で歌のオーディションを受けるなんて、たしかに簡単には信じられないかもしれない。
「マリちゃん先生。鳴沢なら大丈夫だよ。どんな結果になっても、優しく受け入れてあげよ」
「……そうね。玲那ちゃんの言うとおり。玲那ちゃん、会わない間に大人になったね」
「そんなことないよ。でも、鳴沢と一緒に歌を作ってたおかげかな」
ふっと笑い合うと、夜風が二人の間を静かに通り抜けていった。
♢♢♢
その夜。晩ご飯のあと、自室でぼんやりしていると、スマホが震えた。鳴沢からのメッセージだった。
(東京についた)
添えられていた写真には本人は写っていなかったけれど、煌びやかなビルのガラスに光が反射し、都会の温度が画面越しに伝わってくる。ホテルの絨毯、ベッドの白いシーツ、ロビーの自販機の並び──どれも鳴沢にとっては特別な風景なのだろう。
(ホテルのベッドすごいふかふか!)
(飲み物全部飲み放題だって!)
無邪気な言葉に、胸の奥が温かくなる。
(東京いいな~)
(修学旅行以来のホテルのベッドに横になりたい)
(何も考えずに、昼間まで寝ていたいね)
(ベッド最高だよ~)
(飛び込みたい気持ちをどれだけ我慢しているか)
(明日遅刻したら終わりだから、ならないように頑張る)
(絶対遅刻したらダメだよ)
(遅刻しないように、私が朝電話しようか?)
(大丈夫ですよ)
(文化祭後の休で疲れていますから、ゆっくり休んでください)
(もし遅刻してオーディションに行けなくても笑って受け入れてください)
(わかった。明日頑張ってね)
その瞬間、くまのスタンプが返ってきた。小さな茶色いクマが親指を立てている。今まで文字しか返さなかった鳴沢が、スタンプを……。
スマホを持つ手がじんわり熱くなる。
鳴沢と、ほんの少し距離が縮まったのかな。
そう思うと、嬉しさと緊張がぶつかり合い、布団に入ってからも心臓がずっとうるさかった。
♢♢♢
朝。カーテンの隙間から淡い光が差し込むころ、私のスマホはひとつだけ通知を灯していた。
(行ってきます)
短いけれど、そこには決意の影がにじんでいた。
慌てて返信する。
(頑張って)
送ったあと、しばらく画面を見つめていたけれど、既読はつかない。もう会場に向かっているのだろう。
その日の時間は、異様に遅かった。
勉強机に向かっても、ノートの上の文字が頭に入らない。問題集を開いても、風でページがめくれていくような感覚だけが残る。胸の奥はずっとそわそわして、目の前の空気まで落ち着かない。
夕方、家のチャイムが鳴くと、玄関にいたのはマリちゃん先生だった。
「……玲那ちゃん、一緒に待たせてもらってもいい?」
私はうなずき、温かいお茶を出した。二人でリビングに座りながら、スマホを何度も確認した。秒針の音がやけに大きい。
そして──マリちゃん先生のスマホが震えた。
(終わったよ)
(疲れた)
「お疲れ様!」
マリちゃん先生はすぐに返信し、深く息を吐いた。
私がそのメッセージに既読をつけると、まるでそれを待っていたかのように、私のスマホも震えた。
(やっと終わった)
(長かった)
(オーディションって、あんなにも緊張するんだね)
(中学の時の面接を思い出したよ)
画面いっぱいに広がる鳴沢の言葉。
彼の声まで聞こえてきそうで、私は思わず笑ってしまった。
隣を見ると、マリちゃん先生が悔しそうに唇を尖らせながらも、ぽたりと涙を落としていた。
「……ずるい……私より玲那ちゃんの方が文章多い……!」
けれど、その涙は誇らしさの色で光っていた。
♢♢♢
鳴沢が帰ってきたのは、次の日の夜だった。
制服のまま下校する生徒が通る時間ではないのに、写真には夜の校舎が黒いシルエットで写されていて、そこに一言だけ。
(ただいま)
私の指は反射的にメッセージを打っていた。
(おかえり!)
本当は走って鳴沢の家まで行きたかった。
でも、マリちゃん先生に「今日は寝かせてあげなさい」と優しく止められた。
その夜、いくつかメッセージを送ってみたけれど、返信はなかった。
疲れて寝てしまったのだろう。
何も言わなくても、頑張ったことは伝わってきた。
そして月曜日。
答え合わせをするまでもなく、私の予想は当たった。
──鳴沢の顔を見た瞬間に、すべてがわかったのだ。
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