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見たくないもの(第26話)
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家に帰ろうかと迷いながら歩いていると、ふと胸の奥がざわついた。
——エッセンラーデン。
食べた分のお金を、まだ払っていない。
私は踵を返し、家の前を通り越して坂道を上った。
夕暮れの空は薄紫に染まり、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めている。
朝が早いエッセンラーデンは、閉まるのも早い。夕方の十七時にはシャッターが下りる。
スマホで時刻を確認する。
十七時四分。
——間に合わない。
そう思ったのに、胸の奥で別の感情がうずいた。
もし、心愛がまだいるなら。閉店後なら、かえって都合がいいかもしれない。
しかし、店の明かりは消えていなかった。
ガラス越しに見えたのは、閉店後の静かな店内で、心愛と鳴沢が向かい合って笑っている姿だった。
ショーケースの中は空になり、清掃途中の床が白く光っている。その中で二人の声だけが、楽しげに弾んでいた。
入る勇気がなかったわけじゃない。
心愛に限って、私を蔑ろにするはずがない。
それでも、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、息が浅くなる。
——その輪の中に、私はいない。
私はエッセンラーデンに背を向け、坂を駆け下りた。
足音がやけに大きく響き、夕方の冷たい風が頬を撫でる。
途中、明かりのついた莉里の家が視界に入った。
特に用事はなかった。ただ、ひとりで帰るのが辛かった。
私は呼び鈴を押した。
「今日は来客が多いな。で、そんな顔してどうしたの?」
机に向かっていた莉里が、振り返って言う。
蛍光灯の下、ノートと参考書が広がっていた。
「別に……なんでもない……」
「心愛から話は聞いてない?」
「話? って何?」
「新作のお菓子食べようって話」
「そんなの聞いていない」
胸の奥が、静かに沈んだ。
心愛はいつも試食に私を選んでくれていた。
それすらなくなったということは——。
考えたくなくても、頭の中で嫌なことばかり考えてしまった。
「私もさ、店の方に顔出すから、久しぶりに食べようって、心愛が言ってくれたの。どんなお菓子なのか聞いてないけど、楽しみだよね」
「……うん」
勉強の邪魔をしたくなくて、私は笑ったふりをした。
本当は、どうして私は誘われなかったのか。
その理由ばかりが頭の中で膨らんで、胸が苦しかった。
「莉里。勉強の邪魔してごめん。そろそろ私は帰るね」
「うん。そこまでだけど、気をつけてね」
「ありがとう」
外に出ると、夜の気配が濃くなっていた。
家に着くころ、スマホが震えた。
(玲那、新しいお菓子作ってみたから、明日食べにおいで)
画面を見た瞬間、胸が痛んだ。
きっと莉里に言われて、慌てて送ったんだ。
本当は私じゃなくてもよかったのに。
(いや。行かない)
すぐに返事が来る。
(なんで?)
(今回はクッキーだよ?)
(玲那、クッキー好きだよね)
画面いっぱいに並ぶメッセージが、逆に苦しかった。
私はスマホを伏せ、マナーモードに切り替えた。
♢♢♢
次の日。
朝の光がカーテン越しに差し込む中、スマホを見ると、心愛からのメッセージと着信が何件も残っていた。
返さなきゃいけないと分かっているのに、指が動かない。
しばらくして、今度は莉里から。
(心愛の店でクッキー食べてるよ。玲那もおいで)
添付された写真には、オレンジと緑のクッキーが並んでいた。
色鮮やかなはずなのに、なぜか冷たく見えた。
今まで一度も、心愛のお菓子を美味しくなさそうだと思ったことはなかったのに。
ベッドに横になり、天井を見つめていると、家の呼び鈴が鳴った。
インターフォンの画面には、莉里と心愛が並んで立っている。
「玲那。クッキー持ってきたよ。一緒に食べよう」
私は息を殺した。
居ることはバレているだろうけど、居留守を使えばいい。
そう思って、呼び鈴の音量を一番小さくして、部屋に籠る。
何度も鳴る微かな音が、逆に耳に残った。
勉強しようとしても、文字が頭に入らない。
ふと視界に入ったのは、一冊のノート。
鳴沢と一緒に作った、作詞ノートだった。
ページをめくるたび、インクの匂いと一緒に、思い出が蘇る。
笑いながら言い合ったこと。
私の歌詞に、鳴沢が音を重ねてくれたこと。
——あの頃は、楽しかった。
思い出すほど、胸が痛くなる。
ノートを閉じ、無理やり参考書を開いた。
♢♢♢
いつの間にか、呼び鈴の音は消えていた。
集中できたからじゃない。
心愛が、諦めたのだ。
少しだけ、清々した。
それでも、胸の奥にぽっかり穴が開いたままだ。
勉強は相変わらず進まない。
モヤモヤが膨らんで、全部投げ出したくなる。
どこかへ逃げ出したかった。
行くあてもなく彷徨いたかった。
現実を捨てたかった。
それでも思い知らされる。
私が、間違ったことをしているということを。
謝れば済むのかもしれない。
でも、私の中の何かが、それを拒んでいる。
どこかで「私は悪くない」と思い込んでいる自分がいる。
そんな自分が、嫌だった。
後悔の二文字が頭をよぎる。
——でも、もう遅い。
心のどこかで、そう諦めてしまっている自分も、確かにいた。
学校が始まるまではまだ時間はある。それまでに、心の整理だけはしておこう。そう思った。
——エッセンラーデン。
食べた分のお金を、まだ払っていない。
私は踵を返し、家の前を通り越して坂道を上った。
夕暮れの空は薄紫に染まり、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めている。
朝が早いエッセンラーデンは、閉まるのも早い。夕方の十七時にはシャッターが下りる。
スマホで時刻を確認する。
十七時四分。
——間に合わない。
そう思ったのに、胸の奥で別の感情がうずいた。
もし、心愛がまだいるなら。閉店後なら、かえって都合がいいかもしれない。
しかし、店の明かりは消えていなかった。
ガラス越しに見えたのは、閉店後の静かな店内で、心愛と鳴沢が向かい合って笑っている姿だった。
ショーケースの中は空になり、清掃途中の床が白く光っている。その中で二人の声だけが、楽しげに弾んでいた。
入る勇気がなかったわけじゃない。
心愛に限って、私を蔑ろにするはずがない。
それでも、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、息が浅くなる。
——その輪の中に、私はいない。
私はエッセンラーデンに背を向け、坂を駆け下りた。
足音がやけに大きく響き、夕方の冷たい風が頬を撫でる。
途中、明かりのついた莉里の家が視界に入った。
特に用事はなかった。ただ、ひとりで帰るのが辛かった。
私は呼び鈴を押した。
「今日は来客が多いな。で、そんな顔してどうしたの?」
机に向かっていた莉里が、振り返って言う。
蛍光灯の下、ノートと参考書が広がっていた。
「別に……なんでもない……」
「心愛から話は聞いてない?」
「話? って何?」
「新作のお菓子食べようって話」
「そんなの聞いていない」
胸の奥が、静かに沈んだ。
心愛はいつも試食に私を選んでくれていた。
それすらなくなったということは——。
考えたくなくても、頭の中で嫌なことばかり考えてしまった。
「私もさ、店の方に顔出すから、久しぶりに食べようって、心愛が言ってくれたの。どんなお菓子なのか聞いてないけど、楽しみだよね」
「……うん」
勉強の邪魔をしたくなくて、私は笑ったふりをした。
本当は、どうして私は誘われなかったのか。
その理由ばかりが頭の中で膨らんで、胸が苦しかった。
「莉里。勉強の邪魔してごめん。そろそろ私は帰るね」
「うん。そこまでだけど、気をつけてね」
「ありがとう」
外に出ると、夜の気配が濃くなっていた。
家に着くころ、スマホが震えた。
(玲那、新しいお菓子作ってみたから、明日食べにおいで)
画面を見た瞬間、胸が痛んだ。
きっと莉里に言われて、慌てて送ったんだ。
本当は私じゃなくてもよかったのに。
(いや。行かない)
すぐに返事が来る。
(なんで?)
(今回はクッキーだよ?)
(玲那、クッキー好きだよね)
画面いっぱいに並ぶメッセージが、逆に苦しかった。
私はスマホを伏せ、マナーモードに切り替えた。
♢♢♢
次の日。
朝の光がカーテン越しに差し込む中、スマホを見ると、心愛からのメッセージと着信が何件も残っていた。
返さなきゃいけないと分かっているのに、指が動かない。
しばらくして、今度は莉里から。
(心愛の店でクッキー食べてるよ。玲那もおいで)
添付された写真には、オレンジと緑のクッキーが並んでいた。
色鮮やかなはずなのに、なぜか冷たく見えた。
今まで一度も、心愛のお菓子を美味しくなさそうだと思ったことはなかったのに。
ベッドに横になり、天井を見つめていると、家の呼び鈴が鳴った。
インターフォンの画面には、莉里と心愛が並んで立っている。
「玲那。クッキー持ってきたよ。一緒に食べよう」
私は息を殺した。
居ることはバレているだろうけど、居留守を使えばいい。
そう思って、呼び鈴の音量を一番小さくして、部屋に籠る。
何度も鳴る微かな音が、逆に耳に残った。
勉強しようとしても、文字が頭に入らない。
ふと視界に入ったのは、一冊のノート。
鳴沢と一緒に作った、作詞ノートだった。
ページをめくるたび、インクの匂いと一緒に、思い出が蘇る。
笑いながら言い合ったこと。
私の歌詞に、鳴沢が音を重ねてくれたこと。
——あの頃は、楽しかった。
思い出すほど、胸が痛くなる。
ノートを閉じ、無理やり参考書を開いた。
♢♢♢
いつの間にか、呼び鈴の音は消えていた。
集中できたからじゃない。
心愛が、諦めたのだ。
少しだけ、清々した。
それでも、胸の奥にぽっかり穴が開いたままだ。
勉強は相変わらず進まない。
モヤモヤが膨らんで、全部投げ出したくなる。
どこかへ逃げ出したかった。
行くあてもなく彷徨いたかった。
現実を捨てたかった。
それでも思い知らされる。
私が、間違ったことをしているということを。
謝れば済むのかもしれない。
でも、私の中の何かが、それを拒んでいる。
どこかで「私は悪くない」と思い込んでいる自分がいる。
そんな自分が、嫌だった。
後悔の二文字が頭をよぎる。
——でも、もう遅い。
心のどこかで、そう諦めてしまっている自分も、確かにいた。
学校が始まるまではまだ時間はある。それまでに、心の整理だけはしておこう。そう思った。
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