25時の音楽

倉木元貴

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完敗(第27話)

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 新年まであと1週間とした時、灰色の雲が低く垂れ込めた午後に、莉里が私の家を訪ねてきた。玄関のチャイムが鳴る音は、静まり返った家の中にやけに大きく響いた。

「玲那少し勉強教えて」

 厚手のコートにマフラーを巻いた莉里は、冬の冷気をまとったまま立っていた。吐く息が白く、指先は赤くなっている。どこか心愛の影を感じて一瞬ためらったけれど、莉里の切迫した表情に押されて家にあげた。

 暖房の効いたリビングに入ると、外との温度差で眼鏡が少し曇る。机の上には参考書とノートが広げられ、鉛筆の音だけが静かに部屋を満たした。

「助かった。玲那がいなければ終わっていた。なんで私の周りには底辺しかいないのか」

 冗談めかした口調とは裏腹に、莉里の肩は少し落ちていた。私は苦笑いを浮かべるのが精一杯だった。

「心愛は?」

「最近忙しそうにしているから、声かけづらくて。玲那ごめんね急にきて」

「ううん。私もこの間急に行ったからお互い様だよ」

 時計の針が進むにつれて、窓の外の光は少しずつ橙色に染まっていった。莉里は本当に、勉強をしにきていただけだった。黙々と問題を解き、わからないところだけを淡々と聞く。その姿は、いつもよりずっと大人びて見えた。

 夕刻、玄関まで見送ると、外はすでに冷たい風が吹いていた。莉里は靴を履き終えたところで、突然立ち止まり、扉の前で背中を向けたまま言った。

「心愛と何があったのか知らないけど、子供じゃないんだからさっさと話し合って」

「莉里……もしかして怒っている?」

「当たり前でしょ。二人の喧嘩に何度巻き込まれたと思ってるの。もうこっちは懲り懲りなの。最後なんだから、楽しく卒業したいよ」

 後ろ姿だったけど、莉里が腕で顔を拭う仕草ははっきりとわかった。白い息が一瞬、揺れて消えた。

「それと、心愛のクッキー、机に置いているから食べてね。じゃあ」

 ドアが閉まる音が、やけに静かな廊下に残った。

 家の中に戻ると、リビングの机の上には、昨日写真に写っていた2色のクッキーが、小さな透明の袋に入れられて置かれていた。淡い焼き色と濃い色のコントラストが、妙に胸に刺さる。

 お気に入りのハーブティーを淹れると、湯気とともに草花の香りが広がった。夕食までのわずかな時間、カップを両手で包みながらクッキーを口に運ぶ。甘さが舌に広がるのに、なぜか胸の奥は苦かった。

 ♢♢♢

 次の日。
 空は高く澄んでいて、昨日の重さが嘘みたいだった。特に用事もないけど、閉じこもっているのが耐えられなくなって、外に出た。

 玄関を出た瞬間、冷たい空気が肺に入り、意識が少しだけはっきりする。視線の先には、自転車に跨った心愛がいた。坂道を漕がずに惰性で降っていたらしく、大きめのジャージが風に揺れている。目が合った瞬間、心愛は急ブレーキをかけ、タイヤが小さく軋んだ。

 無言のまま、こちらを見るその表情は読めなかった。

「何の用? 用事があるんでしょ。さっさと行きなよ」

 心愛は自転車から降りて、アスファルトを踏みしめながら私の方へ近づく。背中にはテニスラケットが掛けられていて、ストラップが肩に食い込んでいた。

「玲那。話したいこともあるし、一緒に行かない?」

「わかった。暇だしいいよ」

 地区の運動公園は、野球場、サッカー場、テニスコートが並ぶ広い場所だ。朝には老人会のゲートボールで賑わうけれど、昼を過ぎると人影はまばらになる。

 この日も、13時過ぎだというのに、聞こえるのは風に揺れるネットの音と、遠くを走る車の気配だけだった。コートのフェンス越しに見る空は広く、冬の光が白く反射していた。

「何点先取で勝ちにする?」

 ラケットを構えた心愛が、ボールを軽く地面に打ちつけながら言う。乾いた音がコートに響く。

「5点」

「わかった」

 最近ほとんど体を動かしていなかったせいで、息はすぐに上がり、足は思うように動かなかった。ボールを追うたびに冷たい空気が喉を刺し、結果は一方的な惨敗だった。

 ベンチに倒れ込むように横になると、空がぐるりと視界に広がる。心愛が近づいてきて、冷えたペットボトルの水を差し出した。結露した水滴が指先に冷たい。

「何をそんなに怒ってるの?」

「……別に」

「鳴沢君から大体の話は聞いたけど、私まで避けられる覚えはないんだけど」

「そんなんじゃないって」

「じゃあ何! 何でそんなに怒ってるの! 話してくれなきゃわかんないでしょ!」

 心愛の声が、公園の静けさを切り裂いた。いつも落ち着いているはずの彼女の目は揺れていて、唇は強く結ばれていた。感情を剥き出しにする心愛を前に、私は言葉を失った。

「何で黙ってるの? 何か言ってよ!」

「……ご、ごめん」

「何に謝っているの! 理由を聞かせてくれないと、私もどうしていいかわからない!」

 心愛の目から涙がこぼれ落ちる。太陽みたいに明るかったその存在が、今はひどく脆く見えた。

「ごめん……ごめん、心愛」

「だから、何についての謝罪なの!」

「ごめん…私が悪いの……鳴沢のことも、全部私が悪いの……」

 声が震え、頬を伝う温かさで、自分も泣いているのだと気づいた。

「心愛は、そんなことしないってわかっているのに……楽しそうに心愛と話している鳴沢見てたら、どうしていいのかわからなくなっちゃった……」

 心愛は、何も言わずに私を抱きしめた。コート越しに伝わる体温が、冷え切った体にじんわりと広がる。

「玲那って、いっつも考えすぎだよ。鳴沢君なんて私にまだ敬語だよ。莉里とはまともに話せないし。笹川と話す時だって、いつも縮こまっているんだよ。玲那以外とは、まともに話すらできない鳴沢君だよ。そんなことあるわけないじゃん。あと、私にだけ、妙に距離をとっているんだよ」

「え……? 距離?」

「そう。話はしてくれるんだけど、線を引かれているというか。距離を詰めようとしたら、これ以上近づかないで、みたいな?」

 その様子は、容易に想像できた。私も最初、鳴沢とは同じ距離感だったから。胸の奥に、懐かしさと可笑しさが同時に込み上げた。

「心愛、距離詰めすぎて鳴沢に拒否られてるんだね」

「は⁉︎ そんなんじゃないし! 仲良いし! 今回だって、私がどれだけ根回ししたか。でも……鳴沢君もちょっと心配……」

 心愛はベンチに腰を下ろし、冷たい空気の中で頭を抱えた。冬の日差しが、二人の影を長くコートに落としていた。
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