28 / 33
完敗(第27話)
しおりを挟む
新年まであと1週間とした時、灰色の雲が低く垂れ込めた午後に、莉里が私の家を訪ねてきた。玄関のチャイムが鳴る音は、静まり返った家の中にやけに大きく響いた。
「玲那少し勉強教えて」
厚手のコートにマフラーを巻いた莉里は、冬の冷気をまとったまま立っていた。吐く息が白く、指先は赤くなっている。どこか心愛の影を感じて一瞬ためらったけれど、莉里の切迫した表情に押されて家にあげた。
暖房の効いたリビングに入ると、外との温度差で眼鏡が少し曇る。机の上には参考書とノートが広げられ、鉛筆の音だけが静かに部屋を満たした。
「助かった。玲那がいなければ終わっていた。なんで私の周りには底辺しかいないのか」
冗談めかした口調とは裏腹に、莉里の肩は少し落ちていた。私は苦笑いを浮かべるのが精一杯だった。
「心愛は?」
「最近忙しそうにしているから、声かけづらくて。玲那ごめんね急にきて」
「ううん。私もこの間急に行ったからお互い様だよ」
時計の針が進むにつれて、窓の外の光は少しずつ橙色に染まっていった。莉里は本当に、勉強をしにきていただけだった。黙々と問題を解き、わからないところだけを淡々と聞く。その姿は、いつもよりずっと大人びて見えた。
夕刻、玄関まで見送ると、外はすでに冷たい風が吹いていた。莉里は靴を履き終えたところで、突然立ち止まり、扉の前で背中を向けたまま言った。
「心愛と何があったのか知らないけど、子供じゃないんだからさっさと話し合って」
「莉里……もしかして怒っている?」
「当たり前でしょ。二人の喧嘩に何度巻き込まれたと思ってるの。もうこっちは懲り懲りなの。最後なんだから、楽しく卒業したいよ」
後ろ姿だったけど、莉里が腕で顔を拭う仕草ははっきりとわかった。白い息が一瞬、揺れて消えた。
「それと、心愛のクッキー、机に置いているから食べてね。じゃあ」
ドアが閉まる音が、やけに静かな廊下に残った。
家の中に戻ると、リビングの机の上には、昨日写真に写っていた2色のクッキーが、小さな透明の袋に入れられて置かれていた。淡い焼き色と濃い色のコントラストが、妙に胸に刺さる。
お気に入りのハーブティーを淹れると、湯気とともに草花の香りが広がった。夕食までのわずかな時間、カップを両手で包みながらクッキーを口に運ぶ。甘さが舌に広がるのに、なぜか胸の奥は苦かった。
♢♢♢
次の日。
空は高く澄んでいて、昨日の重さが嘘みたいだった。特に用事もないけど、閉じこもっているのが耐えられなくなって、外に出た。
玄関を出た瞬間、冷たい空気が肺に入り、意識が少しだけはっきりする。視線の先には、自転車に跨った心愛がいた。坂道を漕がずに惰性で降っていたらしく、大きめのジャージが風に揺れている。目が合った瞬間、心愛は急ブレーキをかけ、タイヤが小さく軋んだ。
無言のまま、こちらを見るその表情は読めなかった。
「何の用? 用事があるんでしょ。さっさと行きなよ」
心愛は自転車から降りて、アスファルトを踏みしめながら私の方へ近づく。背中にはテニスラケットが掛けられていて、ストラップが肩に食い込んでいた。
「玲那。話したいこともあるし、一緒に行かない?」
「わかった。暇だしいいよ」
地区の運動公園は、野球場、サッカー場、テニスコートが並ぶ広い場所だ。朝には老人会のゲートボールで賑わうけれど、昼を過ぎると人影はまばらになる。
この日も、13時過ぎだというのに、聞こえるのは風に揺れるネットの音と、遠くを走る車の気配だけだった。コートのフェンス越しに見る空は広く、冬の光が白く反射していた。
「何点先取で勝ちにする?」
ラケットを構えた心愛が、ボールを軽く地面に打ちつけながら言う。乾いた音がコートに響く。
「5点」
「わかった」
最近ほとんど体を動かしていなかったせいで、息はすぐに上がり、足は思うように動かなかった。ボールを追うたびに冷たい空気が喉を刺し、結果は一方的な惨敗だった。
ベンチに倒れ込むように横になると、空がぐるりと視界に広がる。心愛が近づいてきて、冷えたペットボトルの水を差し出した。結露した水滴が指先に冷たい。
「何をそんなに怒ってるの?」
「……別に」
「鳴沢君から大体の話は聞いたけど、私まで避けられる覚えはないんだけど」
「そんなんじゃないって」
「じゃあ何! 何でそんなに怒ってるの! 話してくれなきゃわかんないでしょ!」
心愛の声が、公園の静けさを切り裂いた。いつも落ち着いているはずの彼女の目は揺れていて、唇は強く結ばれていた。感情を剥き出しにする心愛を前に、私は言葉を失った。
「何で黙ってるの? 何か言ってよ!」
「……ご、ごめん」
「何に謝っているの! 理由を聞かせてくれないと、私もどうしていいかわからない!」
心愛の目から涙がこぼれ落ちる。太陽みたいに明るかったその存在が、今はひどく脆く見えた。
「ごめん……ごめん、心愛」
「だから、何についての謝罪なの!」
「ごめん…私が悪いの……鳴沢のことも、全部私が悪いの……」
声が震え、頬を伝う温かさで、自分も泣いているのだと気づいた。
「心愛は、そんなことしないってわかっているのに……楽しそうに心愛と話している鳴沢見てたら、どうしていいのかわからなくなっちゃった……」
心愛は、何も言わずに私を抱きしめた。コート越しに伝わる体温が、冷え切った体にじんわりと広がる。
「玲那って、いっつも考えすぎだよ。鳴沢君なんて私にまだ敬語だよ。莉里とはまともに話せないし。笹川と話す時だって、いつも縮こまっているんだよ。玲那以外とは、まともに話すらできない鳴沢君だよ。そんなことあるわけないじゃん。あと、私にだけ、妙に距離をとっているんだよ」
「え……? 距離?」
「そう。話はしてくれるんだけど、線を引かれているというか。距離を詰めようとしたら、これ以上近づかないで、みたいな?」
その様子は、容易に想像できた。私も最初、鳴沢とは同じ距離感だったから。胸の奥に、懐かしさと可笑しさが同時に込み上げた。
「心愛、距離詰めすぎて鳴沢に拒否られてるんだね」
「は⁉︎ そんなんじゃないし! 仲良いし! 今回だって、私がどれだけ根回ししたか。でも……鳴沢君もちょっと心配……」
心愛はベンチに腰を下ろし、冷たい空気の中で頭を抱えた。冬の日差しが、二人の影を長くコートに落としていた。
「玲那少し勉強教えて」
厚手のコートにマフラーを巻いた莉里は、冬の冷気をまとったまま立っていた。吐く息が白く、指先は赤くなっている。どこか心愛の影を感じて一瞬ためらったけれど、莉里の切迫した表情に押されて家にあげた。
暖房の効いたリビングに入ると、外との温度差で眼鏡が少し曇る。机の上には参考書とノートが広げられ、鉛筆の音だけが静かに部屋を満たした。
「助かった。玲那がいなければ終わっていた。なんで私の周りには底辺しかいないのか」
冗談めかした口調とは裏腹に、莉里の肩は少し落ちていた。私は苦笑いを浮かべるのが精一杯だった。
「心愛は?」
「最近忙しそうにしているから、声かけづらくて。玲那ごめんね急にきて」
「ううん。私もこの間急に行ったからお互い様だよ」
時計の針が進むにつれて、窓の外の光は少しずつ橙色に染まっていった。莉里は本当に、勉強をしにきていただけだった。黙々と問題を解き、わからないところだけを淡々と聞く。その姿は、いつもよりずっと大人びて見えた。
夕刻、玄関まで見送ると、外はすでに冷たい風が吹いていた。莉里は靴を履き終えたところで、突然立ち止まり、扉の前で背中を向けたまま言った。
「心愛と何があったのか知らないけど、子供じゃないんだからさっさと話し合って」
「莉里……もしかして怒っている?」
「当たり前でしょ。二人の喧嘩に何度巻き込まれたと思ってるの。もうこっちは懲り懲りなの。最後なんだから、楽しく卒業したいよ」
後ろ姿だったけど、莉里が腕で顔を拭う仕草ははっきりとわかった。白い息が一瞬、揺れて消えた。
「それと、心愛のクッキー、机に置いているから食べてね。じゃあ」
ドアが閉まる音が、やけに静かな廊下に残った。
家の中に戻ると、リビングの机の上には、昨日写真に写っていた2色のクッキーが、小さな透明の袋に入れられて置かれていた。淡い焼き色と濃い色のコントラストが、妙に胸に刺さる。
お気に入りのハーブティーを淹れると、湯気とともに草花の香りが広がった。夕食までのわずかな時間、カップを両手で包みながらクッキーを口に運ぶ。甘さが舌に広がるのに、なぜか胸の奥は苦かった。
♢♢♢
次の日。
空は高く澄んでいて、昨日の重さが嘘みたいだった。特に用事もないけど、閉じこもっているのが耐えられなくなって、外に出た。
玄関を出た瞬間、冷たい空気が肺に入り、意識が少しだけはっきりする。視線の先には、自転車に跨った心愛がいた。坂道を漕がずに惰性で降っていたらしく、大きめのジャージが風に揺れている。目が合った瞬間、心愛は急ブレーキをかけ、タイヤが小さく軋んだ。
無言のまま、こちらを見るその表情は読めなかった。
「何の用? 用事があるんでしょ。さっさと行きなよ」
心愛は自転車から降りて、アスファルトを踏みしめながら私の方へ近づく。背中にはテニスラケットが掛けられていて、ストラップが肩に食い込んでいた。
「玲那。話したいこともあるし、一緒に行かない?」
「わかった。暇だしいいよ」
地区の運動公園は、野球場、サッカー場、テニスコートが並ぶ広い場所だ。朝には老人会のゲートボールで賑わうけれど、昼を過ぎると人影はまばらになる。
この日も、13時過ぎだというのに、聞こえるのは風に揺れるネットの音と、遠くを走る車の気配だけだった。コートのフェンス越しに見る空は広く、冬の光が白く反射していた。
「何点先取で勝ちにする?」
ラケットを構えた心愛が、ボールを軽く地面に打ちつけながら言う。乾いた音がコートに響く。
「5点」
「わかった」
最近ほとんど体を動かしていなかったせいで、息はすぐに上がり、足は思うように動かなかった。ボールを追うたびに冷たい空気が喉を刺し、結果は一方的な惨敗だった。
ベンチに倒れ込むように横になると、空がぐるりと視界に広がる。心愛が近づいてきて、冷えたペットボトルの水を差し出した。結露した水滴が指先に冷たい。
「何をそんなに怒ってるの?」
「……別に」
「鳴沢君から大体の話は聞いたけど、私まで避けられる覚えはないんだけど」
「そんなんじゃないって」
「じゃあ何! 何でそんなに怒ってるの! 話してくれなきゃわかんないでしょ!」
心愛の声が、公園の静けさを切り裂いた。いつも落ち着いているはずの彼女の目は揺れていて、唇は強く結ばれていた。感情を剥き出しにする心愛を前に、私は言葉を失った。
「何で黙ってるの? 何か言ってよ!」
「……ご、ごめん」
「何に謝っているの! 理由を聞かせてくれないと、私もどうしていいかわからない!」
心愛の目から涙がこぼれ落ちる。太陽みたいに明るかったその存在が、今はひどく脆く見えた。
「ごめん……ごめん、心愛」
「だから、何についての謝罪なの!」
「ごめん…私が悪いの……鳴沢のことも、全部私が悪いの……」
声が震え、頬を伝う温かさで、自分も泣いているのだと気づいた。
「心愛は、そんなことしないってわかっているのに……楽しそうに心愛と話している鳴沢見てたら、どうしていいのかわからなくなっちゃった……」
心愛は、何も言わずに私を抱きしめた。コート越しに伝わる体温が、冷え切った体にじんわりと広がる。
「玲那って、いっつも考えすぎだよ。鳴沢君なんて私にまだ敬語だよ。莉里とはまともに話せないし。笹川と話す時だって、いつも縮こまっているんだよ。玲那以外とは、まともに話すらできない鳴沢君だよ。そんなことあるわけないじゃん。あと、私にだけ、妙に距離をとっているんだよ」
「え……? 距離?」
「そう。話はしてくれるんだけど、線を引かれているというか。距離を詰めようとしたら、これ以上近づかないで、みたいな?」
その様子は、容易に想像できた。私も最初、鳴沢とは同じ距離感だったから。胸の奥に、懐かしさと可笑しさが同時に込み上げた。
「心愛、距離詰めすぎて鳴沢に拒否られてるんだね」
「は⁉︎ そんなんじゃないし! 仲良いし! 今回だって、私がどれだけ根回ししたか。でも……鳴沢君もちょっと心配……」
心愛はベンチに腰を下ろし、冷たい空気の中で頭を抱えた。冬の日差しが、二人の影を長くコートに落としていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる