アヒルの箱庭

倉木元貴

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第3話

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 午前の活動が終わり、子どもたちが中庭で遊び始めた頃。
 凛は一人、施設の裏手にある小さな物置の前に立っていた。
 掃除当番の続きで使った雑巾を干しに来ただけなのに、胸の奥がざわついている。

 ――ここ、すこし冷たいね。

 声が囁く。
 凛はアヒルを抱きしめ、物置の扉を開けた。
 中は薄暗く、古い木の匂いが漂っている。
 雑巾を干すだけの場所なのに、凛はいつもここに来ると胸がざわついた。

 理由はわからない。
 けれど、どこか懐かしいような、怖いような感覚が胸の奥に沈んでいる。

 ――大丈夫。ぼくがいるよ。

 声が触れた瞬間、ざわつきはすっと消えた。
 凛は息を吐き、アヒルの白い頭を撫でる。

 木彫りのはずなのに、指先に触れる感触はどこか柔らかい。
 木目のざらつきではなく、皮膚のような、温度を持った表面。

 「……あれ?」

 凛は思わず呟いた。
 いつも温かいとは思っていた。
 けれど今日は、いつもより“生きている”ような温度を感じる。

 胸の奥がひゅっと縮む。
 けれど、その不安はすぐに声に溶かされた。

 ――気のせいだよ。
 ――ぼくは、ずっとここにいるだけ。

 凛は小さく頷いた。
 そうだ、気のせい。
 アヒルはただの木彫りで、ずっと自分のそばにいてくれるだけ。

 雑巾を干し終え、物置の扉を閉める。
 その瞬間、背後から子どもたちの笑い声が聞こえた。

「凛お姉ちゃーん!」

 振り返ると、年下の女の子が駆け寄ってきた。
 凛は微笑もうとしたが、胸の奥が少しだけざわつく。

「どうしたの?」

「これ見て! 四つ葉のクローバー!」

 女の子は小さな手のひらを広げ、緑色の葉を見せた。
 凛はしゃがみ込み、優しくその手を包む。

「すごいね……きれい」

「でしょ! 凛お姉ちゃんにもあげる!」

 差し出されたクローバーを受け取った瞬間、凛の胸の奥にひやりとした感覚が走った。
 アヒルを抱く腕が、無意識に強張る。

「……ありがとう」

 声が少し震えた。
 女の子は気づかず、嬉しそうに笑って走り去っていく。

 凛はクローバーを見つめた。
 緑色の葉が、朝の光を受けてきらきらと輝いている。
 その美しさに胸が温かくなるはずなのに、なぜか胸の奥がざわつく。

 ――いらないなら、捨ててもいいよ。

 声が囁いた。
 凛は息を呑む。

「……どうして?」

 思わず呟いた。
 声は優しいまま続ける。

 ――ぼくがいるから。
 ――ほかのものはいらないよ。

 胸の奥がじんわりと温かくなる。
 その温かさに、凛はすがるようにアヒルを抱きしめた。

「……うん」

 クローバーをどうするか迷いながら、凛はゆっくりと立ち上がる。
 そのとき、ふと気づいた。

 アヒルの白さが、いつもより濃く見える。
 光を吸い込むように、白が深く沈んでいる。

 「……こんな色だったっけ」

 呟いた声は風に溶けた。
 アヒルは何も言わない。
 ただ、温かい。

 凛はその温度に安心しながらも、胸の奥に小さな違和感が残っていた。

 ――気にしなくていいよ。

 声が囁く。
 その瞬間、違和感は薄れていく。

 けれど、完全には消えなかった。
 胸の奥に、白い影のようなものが静かに沈んでいく。

 凛はアヒルを抱きしめ、ゆっくりと中庭を歩き出した。
 子どもたちの笑い声が遠くで響いている。
 その明るさが、どこか自分とは別の世界のものに感じられた。

 ――ぼくがいるよ。
 ――ずっと、そばにいる。

 声が優しく触れるたび、凛の世界は少しずつ狭くなっていく。
 そのことに、凛はまだ気づいていなかった。

 中庭を抜け、凛は施設の裏手にある古いベンチに腰を下ろした。
 潮風が頬を撫で、遠くで波が砕ける音が聞こえる。
 けれどその音は、凛にとって“外の世界”のものだった。
 自分とは関係のない、遠い場所の響き。

 アヒルを抱きしめると、胸の奥にじんわりと温度が広がる。
 その温度が、世界との境界線を曖昧にしていく。

 ――ここにいるよ。

 声が囁く。
 凛は小さく頷いた。

「……うん。わかってる」

 返事をした瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
 まるで、声が自分の内側を整えてくれるような感覚。

 けれどそのとき、ふと気づいた。

 アヒルの表面が、ほんのわずかに“呼吸”しているように見えたのだ。

 「……え?」

 目を凝らす。
 白い表面が、光の加減で揺れているだけかもしれない。
 けれど凛には、それがまるで生き物のように見えた。

 胸の奥がひゅっと縮む。
 けれど、その不安はすぐに声に溶かされた。

 ――気のせいだよ。
 ――ぼくは、ずっと同じだよ。

 凛は息を吐き、アヒルを撫でた。
 指先に触れる感触は、やはり木のはずなのに柔らかい。
 温度は人肌に近く、抱きしめると胸の奥がじんわりと満たされる。

 「……変じゃないよね」

 呟いた声は風に溶けた。
 アヒルは何も言わない。
 ただ、温かい。

 凛はその温度に安心しながらも、胸の奥に小さな違和感が残っていた。

 ――気にしなくていいよ。

 声が囁く。
 その瞬間、違和感は薄れていく。

 けれど完全には消えなかった。
 胸の奥に、白い影のようなものが静かに沈んでいく。

 ベンチの向こうから、子どもたちの笑い声が聞こえた。
 凛はそちらを見た。
 年下の子どもたちが、砂場で山を作ったり、走り回ったりしている。

 その光景は、凛にとってどこか“眩しすぎる”ものだった。
 自分がそこに混ざる姿が想像できない。
 笑い声の輪の中に入ると、何かが壊れてしまう気がした。

 ――ぼくがいるよ。
 ――ひとりじゃない。

 声が触れるたび、凛の世界は少しずつ狭くなっていく。
 そのことに、凛はまだ気づいていなかった。

 ふと、視線を感じた。
 顔を上げると、園長が中庭の入口に立っていた。
 穏やかな笑みを浮かべ、凛を見つめている。

 その目は優しい。
 けれど、どこか“観察者”のような冷たさがあった。

「凛ちゃん、ここにいたんだね」

 園長がゆっくりと歩み寄ってくる。
 凛はアヒルを抱きしめたまま、小さく頷いた。

「……はい」

「アヒルさん、今日もご機嫌そうだ」

 園長の視線がアヒルに向けられた瞬間、凛の腕が反射的に強張った。
 アヒルを抱く力が、無意識に強くなる。

「……触らないでください」

 自分でも驚くほど強い声が出た。
 園長は一瞬だけ目を細めたが、すぐに柔らかい笑みを取り戻した。

「触らないよ。大切なものなんだろう?」

 その言葉は優しい。
 けれど凛には、その優しさがどこか“試すような”響きを持って聞こえた。

 ――気にしなくていい。

 声が囁く。
 凛はその声にすがるように、アヒルを抱きしめた。

「……はい。大切です」

「そうか。大切なものがあるのは、いいことだよ」

 園長はそう言って微笑んだ。
 その笑みは柔らかいのに、どこか底が見えない。

 凛は視線を逸らし、アヒルの白い頭を撫でた。
 その温度が、胸の奥のざわつきを静かに溶かしていく。

 園長はしばらく凛を見つめていたが、やがてゆっくりと背を向けた。
 その背中が遠ざかるにつれ、凛の胸の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていく。

 ――大丈夫。
 ――ぼくがいる。

 声が優しく触れる。
 凛は目を閉じ、静かに息を吐いた。

 その瞬間、アヒルの表面がほんのわずかに脈打ったように感じた。

 「……え?」

 凛は目を開け、アヒルを見つめた。
 白い表面は静かで、何の変化もない。
 ただ、温かい。

 ――気のせいだよ。

 声が囁く。
 凛は小さく頷いた。

「……うん。気のせい」

 そう言いながらも、胸の奥に沈んだ違和感は完全には消えなかった。
 それは、白い影のように静かに沈み、凛の心の奥底で形を変えながら広がっていく。

 凛はアヒルを抱きしめ、ゆっくりと立ち上がった。
 中庭の光が、アヒルの白さを淡く照らす。
 その白さは、どこか“漂白された何か”のように見えた。

 けれど凛は、その意味を考えようとはしなかった。
 考えてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。

 ――ぼくがいるよ。
 ――ずっと、そばにいる。

 声が優しく触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。
 その扉の向こうに何があるのか、凛はまだ知らなかった。
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