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18 闘技場の係員

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 月明かりが少ない夜だったが、デミダン地区に入った途端、まばゆい光にオリヴィエは目を細めた。通りを歩く人々の頭上に、ロープに吊されたランタンがいくつも見える。
 ロープは向かい側とこちら側の建物を行き交うように括られ、闘技場に向かってずっと続いていた。通りに並んでいる出店を見たミーシャが呟く。
「警部、おなかすいてませんか?」
「ない。君はひとりで食べてきたらどうだ?」
 結局、翌日の夕方、オリヴィエは闘技場に行くところをミーシャに見つかり、一緒に行くことになってしまった。
 出店には様々な身分の者が買い物をしたり飲食したりしている。
 それを見て、楽しそうだなと思う余裕はオリヴィエにはない。闘技場の高い壁に開いた窓の煌々とした灯りを見て人々の流れの中を縫って歩いて行く。ミーシャは慌ててその後を追った。

 闘技場の入り口は混雑していた。
 高い石壁の手前にコイン売り場の窓口があった。その窓口の上には、本日出場する戦士の木札がずらりと並んでいる。
 人々はその木札を眺め、それぞれ賭けたい戦士のコインを買って、闘技場へと入っていく。
 その混乱が収まるのを待って、オリヴィエたちは動き出した。場内から開始のアナウンスが聞こえてくる。歓声と激しい音楽で大きな建物ごと揺れているようだった。
  オリヴィエは静かに窓口の前に立った。先ほどまで手際よく賭け主を捌いていた男は、不思議そうに窓の内側からオリヴィエを見上げた。
「おにいさん、もう試合は始まったよ」
「ああ、知っている。この仕事はだいぶ長いのか?」
「……おにいさんはここは初めてだな。その後ろのおにいさんは見かけたことがある」
 オリヴィエに見つめられて、ミーシャは気まずそうに笑った。
「警部、この方はもともと闘技場に出場していた戦士で、ミーコ・デ・ロッシ様です」
 ロッシは満足げに頷く。
「俺は何度もタイトルを獲ったんだ」
 オリヴィエは尋ねた。
「いまはコイン捌きが仕事か?」
「俺の本業は会計士だぞ。ここを担当していたラーザが急に辞めやがった。それで代わりが見つからず、責任者に泣きつかれた俺が代行してやってるのさ。金を預かる仕事だからな。なかなか次が見つからねえ」
「ラーザは金を持ち出したか?」
「いや、あいつはそこんとこは真面目だった。手はつけられてねえ。ただ、最近ちょっと体調が悪そうだったと聞いた」
「それでラーザはどこに住んでいるんだ?」
「……警部、もう帰りませんか?」
 そこは闘技場の内側の壁に囲まれているところだったが、暗がりからオリヴィエとミーシャを見つめている複数の視線がある。
「大丈夫だ。いまわたしの財布の中身は空だ。昨日使ってしまった」
「空だと困ります!」
 話していると、ふたりの前に体格の良い男たちが五人現れた。ロッシは叫ぶ。
「けんかは外でやってくれ」
 オリヴィエはミーシャの前に立った。闘技場界隈のデミダン地区は、警察の管轄ではないので、管轄の王宮警備隊からの要請がない限りは逮捕ができない。いまの段階では銃も使えない。
「おにいさんたちは警察の方かな?」
「君たちは?」
「俺たちはバーランド組合のものだ」
「……バーリーの手下か」
 面倒だな、と思った隙に、一人がオリヴィエ目がけて向かってきた。
 オリヴィエは素早くかわして短刀を取り出す。ミーシャに期待はできない、そう考えてオリヴィエは叫んだ。
「ミーシャ、王宮警備隊を呼べ!」
 すぐにミーシャはロッシにベルを鳴らすように言う。しかしロッシは新聞を広げたまま動こうとはしない。オリヴィエは一人をかわし、二人目の男と刀を打ち合って後方に飛ばされた。
「警部!」
 滑らない靴を履いてきたのだが、足が宙に浮いた。オリヴィエは固い地面に打ち付けられる衝撃を予測したが、後ろから何者かに抱き留められた。白銀のマントが視界に入った途端、オリヴィエの両足が地面に着いた。
「お怪我はありませんか?」
 両手を掴んだ相手を見上げると、白地に金色の刺繍がされた服装の人物が立っていた。
 頭には銀色の冑をつけている。オリヴィエが見慣れた王宮警備隊の制服だが、なぜか既視感が襲う。
「王宮警備隊だ!」
 バーランド組合と名乗った男たちは一瞬ざわついたが、隊員が一人なのを見ると同時に襲いかかってきた。隊員はオリヴィエの腕を下ろし、持っていた短刀を奪って真ん中の男に投げる。相手の太股にナイフが深く刺さり、男が倒れた際、隣の男も勢いよく転んだ。隊員は三人目のみぞおちに拳を突き入れ倒し、その男を踏み台にして残りの二人を片付けた。ロッシは慌てたようにベルを鳴らす。すぐに数人の王宮警備隊の隊員が集まってきた。
「何事ですか?」
 五人をたちどころに片付けた隊員は説明した。
「バーランド組合と名乗る男たちが、こちらの方々を襲おうとしていました」
「君ひとりで片付けたのか? カーティス様に報告しなくては」
 王宮警備隊の隊員が五人を運んで行くのを見届けて、オリヴィエはロッシの元に戻った。
 ロッシはオリヴィエの後ろに立つ王宮警備隊の隊員を見上げて、ため息をついた。
「俺は新聞読んでいてあんたたちの様子が見えなかったんだよ。見えてたら、ちゃんと王宮警備隊を呼ぼうとしたんだ」
「……ここはバーリーの手下がうろうろしているのか?」
「ああ。やつら最近行くところがないらしいんで。あんたたちのせいだろ」
「最近エリガレーテと似たような色街ができたと聞いたが」
「聞いたことないねえ……偽情報じゃねえか?」
 話していると、後ろからミーシャが弱々しい声を上げた。
「早く本部へ戻りましょう。この人から叱られました」
 オリヴィエは残っていた王宮警備隊の隊員を見つめた。背が高く、すっきりとした立ち姿がとても美しい。しかし、戦士崩れのような五人のごろつきを一瞬で片付けてしまうとは、相当武術の訓練を積んでいるに違いない。
 視線をミーシャに戻して、オリヴィエは言った。
「君はひとりで帰れ。わたしはこれからラーザの家に行く」
 周りのため息を無視してオリヴィエはロッシに尋ねた。
「ロッシ、ラーザはどこに住んでいる?」
「カスデラの花屋敷ってところです。美人の婆がたくさんいるところですよ」
「わかった。それにしても君は代行でコイン捌きをしていると聞いたが、手際が良すぎる」
 ロッシの代わりに王宮警備隊の隊員が答える。
「賭博です」
「……君は本業が会計士なのに賭博をしているのか? わたしの管轄で、現行犯で見つけたら逮捕だぞ。気をつけろ」
 闘技場は揺れ動き、歓声が絶えなかったが、オリヴィエは見る気にはなれなかった。ミーシャに見たかったら残れと言って、カスデラへ向かおうとした。
 そこに闘技場の入り口から慌てたような足音が響いて、先ほどの隊員たちが戻ってきた。
 彼らはオリヴィエたちと一緒にいる隊員に向かってやって来た。オリヴィエは緊張して、思わず側にいた隊員をかばった。
「何事だ?」
 やって来た隊員たちが丁重に頭を下げた。
「カーティス様が公爵にお礼をと」
 オリヴィエとミーシャが同時にその主を見上げた。彼は冑を脱いだ。
「見回りの人数が少なかったので警備が手薄なのではないかと思い、勝手に制服を借りました。今日は非公式でやって来たので、これ以上は構わないでください」
 穏やかだが有無を言わせない口調に、それ以上は誰も何も言えない。オリヴィエは、顔を覆う宝石がついたビロードの仮面をぼんやりと見上げた。
 その仮面の向こうで、彼は少し笑ったような気がした。ミーシャはオリヴィエの服の袖を少し引っ張った。
「警部、帰りましょう」
 たしかに公爵相手だとなにかと面倒だ。オリヴィエは頷いて闘技場を出た。
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