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19 カスデラの花屋敷

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 闘技場の外に出るとオリヴィエはほっと息をついた。
 頭に響く殺気だった歓声や怒号は、もう聞こえてこない。
 明るくにぎやかな通りが目の前にある。
「さっきの公爵ですが、警部が知っている人ですか?」
「いや……」
 公爵は何人もいるものではない。公爵が顔を見せず、名乗らないのに本人へ誰なのかと聞くのは憚られた。オリヴィエには思い当たる節があるが、単純に結びつけていいものかどうか。
「非公式で賭け事しに来たんですかね」
「暇なのだろう」
 ミーシャは公爵は強かったですね、と言いながら後をついてくる。オリヴィエは闘技場近くのカスデラ地区に入ると、公爵へ礼を言いそびれたことを思い出した。

 カスデラは貧しい家が並んでいたが、通りにはランタンが吊されてにぎやかだった。
 ミーシャは客引きに花屋敷の場所を尋ねた。客引きは警察という言葉に舌打ちした後、先の方に見える煌々とした明るい建物を指さした。

 そこは女性たちで溢れていた。
 オリヴィエは花屋敷という名称で多少いかがわしさを感じていたのだが、まったく違っていた。いくつもの施設が複合している場所だった。食堂、商店、塾、診療所の看板が見えた。
 中から女性たちの明るい笑い声が聞こえてくる。入り口から覗くと、女性たちが共同で仕事をしている様子が見えた。オリヴィエを見た女性が、問いかける。
「何かご用でしょうか?」
 そして、オリヴィエを見つめて大きな声で叫んだ。
「みんな見て!」
 すると女性たちが集まってきた。
「こんなきれいなひと初めて見たわ」
「みんな、みんな、すごい美人が来たわよ!」
 オリヴィエはミーシャを押しだそうとしたが、それより前に白い服の袖が目の前を過った。
「みなさん落ち着いて」
 入り口に、王宮警備隊の隊員が立ちはだかった。集まった女性たちは面白くなさそうに、王宮警備隊がなんの用なの、と口々に言い放った。オリヴィエは目の前を塞いだ白いマントを見つめた。ミーシャが「仮面の公爵ついてきてたんですね」と囁く。彼は入り口を占有し、女性たちに尋ねた。
「ラーザさんはいますか?」
 ひとりの女性が答える。
「いるけど、まともに話なんかできやしないよ」
「あいつはへんな薬に足突っ込んで抜けられなくなったんだ」
「いいやつだったんだよ。家賃代わりに、ここの維持費を毎月くれてさ」
 ラーザに対して同じような言葉が飛び交った。
「連れてきてくれるか?」
 公爵が目の前にいる女性に紙幣を手渡すと、別の女性が車椅子に乗った男性を連れてきた。 
「ラーザさん、お客さんだよ」
 オリヴィエは顔を上げた男性の目に、おびえた光を見た。
「客?」
 そう言って、焦点をこちらに合わせて顔色を変えた。
「ああ……また来たのか! 来ないでくれ!」
 ラーザはオリヴィエたちに向かって恐怖の叫び声を上げた。
 オリヴィエは、ラーザがおびえて近くの女性にすがりつく様子を見て、誰が自分を襲わせたのか、聞き出すことは難しそうだと判断した。
「わかった。どうもありがとう」
 マントの背中越しにそう告げる。女性たちの残念そうな声が聞こえなくなってから、公爵が追いついてきたのがわかった。ミーシャが礼を言う。
「仮面の公爵、ありがとうございました」
「いいえ、警察の方のお手伝いができて嬉しいです」
「あの女性たちが突進してたら、警部が怪我していましたよ」
「もし女豹がそのようなことをしでかしたら、わたしが始末します」
「あはは、それ何ですか?」
 頭の痛くなる会話にオリヴィエは耳を塞いだ。
 
 闘技場に戻り、帰る道すがらに出店を見ながら歩いていると、三人は出店の店主からいろいろ声をかけられた。
 小物が並んでいる店で婦人用の美しい簪や櫛に目が行くと、出店の店主が話しかけてきた。
「おにいさん、これはロレーヌから買い付けたばかりのものだよ。本物の白金だ。好きな女性の贈り物にどうだい」
 勧められた櫛を手に持つと、それはひんやりとしてちょうど手のひらにおさまった。
 ミーシャは別の出店から肉巻きの包みを買って、警部も入りますかと聞いてくる。
 オリヴィエは首を振って手に持ったものを店主に返した。
 闘技場周辺の熱気は魔力がかかっているかのようだったが、それは長く続かなかった。
 やがてデミダン地区を抜けると、オリヴィエは公爵に礼を述べた。
「わたしと彼は警察本部へ戻ります。ここまでご協力いただき感謝します」
 公爵は冑を脱いで、頷いた。
「わかりました。下町は危ない場所がありますので、今後あのような場所にはひとりで行かないでください」
 その言葉に、オリヴィエは息を呑んだ。
 遠い昔、言われた言葉に似ている。
 オリヴィエは仮面の主を見つめた。彼は続けた。
「わたしはこの制服を戻しに行かなければ怒られますので、失礼します」
 ミーシャは、公爵でも怒られるんですね、と言ってオリヴィエを促した。
 王宮警備隊の制服は、遠くからでもそれとわかるように白い制服になったと聞いた。
 彼が遠ざかって行くと、急に灯りが消えたかのように寂しくなった。
「ほんとうに酔狂なお方ですね。俺、警部を送る駄賃をもらったんで、送りますね」
 
 だから君は買い食いができたのか。
 君は何のためにわたしについて来たのだ?
 盾にもならない。

 オリヴィエは出かかった言葉をのみ込んだ。
「君に送ってもらわなくてもいい。帰れ。帰らないと今日の行動、減点するぞ」
 駄賃と減点の間で揺れていたミーシャは、じゃあ俺帰りますと言って姿を消した。
 オリヴィエは上着のポケットに手を入れて歩き始めた。右手の先に、紙で包んだものがあたって取り出す。いつからあったのか、ジョールが何か入れておいたのか不審に思って紙包みを開くと、さきほど出店で見た白金の櫛が出てきた。手のひらにひんやりと収まったそれをオリヴィエは強く握りしめた。

 酔狂すぎる……

 落ち着かない気持ちを抱えたまま、オリヴィエは大通りを歩き始めた。
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