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しおりを挟む「おはよう……」
まだ目覚めたとはいいがたい目をこすりながら、あくびをこらえて言った。
「おはよう、海」
「お、おはよう」
お母さんが、まるで少し前の私みたいにもじもじしながら言った。
「寝坊したなぁ? ほら、早く食べちゃいな~。昨日夜更かししたからって、今日は休校になったりしないぞ~?」
「わ、わかってる!」
今朝のごはんは家にあるものをかき集めて作ったらしい。テーブルの上には、ゆであずきがのったトーストに、ほんのり甘くてさわやかな香りがする飲み物がある。
色はさんぴん茶のようだけれど、どうも違う気がする。ごくん、と一口飲んでみる。
「あ、レモンティー」
「そう。今日はレモンティー。あと、北海道産小豆のトースト~」
みーちゃんが、にっと笑ってがぶっとかじった。
「北海道、かぁ……」
「美味しいよ? 北海道」
「ま、まぁ、そうだろうけど」
私もひとかじりしてみる。美味しい。食べなれている気がする味。
「苦手なものとかさ、避けてると寄ってくるよ? 嫌われるのが嫌だから、好かれたくて寄ってくるのかもしれないし、嫌われたからって嫌がらせしに来ているのかもしれない。その辺は、あたしにはよく分かんないけど」
言うと、ごきゅごきゅと喉を鳴らしてレモンティーを飲み干して、
「ごちそうさま! それじゃあ、お先に!」
みーちゃんが、私とお母さんをふたりっきりにした。
「お……お母さん」
「クマ」
「え?」
「クマ、昨日のお友だちが預かってくれてるって」
「あ、あぁ……」
「「あの!」」
あのね、と言おうとした。ぴったり合った〝あの〟がなければ、私はきっと、「ね」まで言えていた。
驚きを宿した目が、目に映る。たぶん、お母さんの目も、同じものを映している。
「なに?」
「お母さんから、言って」
「ああ、うん。あの……、ごめんね。迷惑かけて」
「ううん。いいの」
「わたし、大人になれていないみたい。きっと、親にもなれてない。逃げて、別なところに行こうとして、そのくせ助けてほしくて、甘えたりもして」
「……」
「わたし、ダメな人なの。だけど、たぶん、ダメじゃないって思い込んで、ダメな自分を受け入れられなくて、だから前を上手く見られなかったのかもしれないって。わたしね、これからは、ダメなりに頑張ろうと思うんだ。この前受けた面接、ちょっといい感じかなって思ったんだけど、ダメだった。あれでダメなら全部ダメだって思った。でも、もともとダメなんだから、ダメって言われるのが当たり前なのかもしれない。わたしが抜け出さないといけないのは、そういうダメで満ちた世界なのかもしれないな、って」
「お母さんは、ダメなんかじゃないよ」
「そんなこと――」
「ちょっと、不器用なだけ」
「……?」
「あっ、ヤバっ! そろそろ出ないと遅刻しちゃう!」
「え、そんな時間?」
「お母さん。私、夜、お母さんと話の続きをするの、楽しみにしてるから。だから、お母さんも楽しみにしててね」
お母さんが、ほんの少し恥ずかしそうに笑った。
「それじゃあ、行ってきます!」
「うん。行ってらっしゃい。気をつけてね」
家から私の背中が見えなくなる場所を過ぎるまで、私の青いランドセルは、ひたすらに温かい視線を浴び続けていた。それが本物か幻かは、前を向いていた私には分からない。でも、私は本物だって思っている。だって今朝は、まるで翼を背負っているかのように、体が軽く動いたから。
教室に入る。自分の席を目指す。つばさくんの小さな「おはよう」に、「おはよう」を返す。
「今日は、なんかご機嫌?」
「そう、かな」
「そんな感じがする」
『おーい、海!』
昨日よく聞いた声がした。
「海? え、光って、海って呼んでたっけ?」
「いや、頑なに森川じゃなかった?」
「な、なになに? もしかして、どっちかが告った?」
光くんと関わりがある人たちが、状況を飲み込めずに困惑している。まるで、昨日の私みたい。
「俺がどう呼ぶかなんてどうでもいいんだよ! ってか、海。聞こえてんだろ? ちゃっちゃと来いよ」
「え、ええ、っと?」
来いよ、と言われても。光くんの目の前には、美咲さんと凜々花さんがいて――すごく、行きにくい。
「じゃあ、アレ、コイツに預けてもいい?」
「アレ? 何それ」
美咲さんがきょとん、と首を傾げた。
光くんが預けるもの――そんなもの、クマしかない! 学校に持ってきた? それを渡そうとしている? あんな、くたくたのクマを、美咲さんに?
絶対に、嫌だ!
「だ、ダメ!」
私はこのクラスに来てから一番なんじゃないかと思うくらい機敏に、光くんたちが集まっている凜々花さんの机を目指した。
ふたりとこんなにしっかりと相対するのは久しぶりだ。
ドキドキする。
目の前にあるきょとん、としたふたつの顔から逃げるように、光くんを見て、
「え、えっと?」
「えっと、じゃねえよ」
「あ、アレを、受け取りに来ました」
「おう。持ってきてないけどな」
「……え?」
「いや、持ってくるはずないだろ。学校に。それはあとで渡す」
「待って? なんで光と海の間に貸し借りみたいなことが起きてるの?」
凜々花さんが眉間にしわを寄せて言った。
「細かいことは気にすんな」
「いや、気になるんだけど」
「んなことはどうでもいいんだってば。で、海。言うことあるだろ?」
「え……」
「ちゃんと言ったら、返す約束してやる」
まさか、クマを人質――いや、クマ質か――にとられるとは思っていなかった。
光くんが求めていることは、よく分かる。それをするタイミングを作ってくれたのだろうことも分かる。
でも、こちらにもタイミングってものがある。
心の準備が、少しもできていない。
……できていない?
ちゃんと仲直りしろ、と言われた。しなければならないと思った。思っただけだった。その先を考えることから逃げていた。
私はお母さんと変わらない。私はお母さんと同じ、ダメ人間。
けれど、お母さんは前を向いた。ダメを抜け出すことにした。
私も、抜け出さないと。こんどこそ、置いていかれてしまう。
「あ、あの……美咲さん、凜々花さん」
光くんに、ぽん、と優しく頭を叩かれた。
「えっと」
「呼びなおし」
「うーんと」
「呼びなおせ」
眉間からしわがなくなる。きょとんとしていた顔が、柔らかい微笑みに変わる。
「み、美咲」
「うん」
「り、凜々花」
「なーに?」
「ご、ごめんなさい。私、なんか怖くなって逃げちゃった。それで、その……。話すと長いっていうか、重いっていうか。と、とにかく、いろいろあって、気まずくて、ふたりからも逃げちゃった」
周囲の空気がぽっとあたたかくなった。そんな気がする。
窓から入り込む風――それもあるけれど、それだけじゃない。
直視できない人たちが、優しい熱を放っている。
「なんか、よかった」
「よかっ、た……?」
「また、遊べそうで。わたし、嬉しい」
「……?」
「まぁ、いろいろあるよね。ほんと、生きるのだるい」
「言ってることがまるでオバサンだな」
「あたしまだオバサンじゃないし! 光に言われたくないし!」
もう、戻れないと思っていた。でも、ここに居場所はまだあった。
ううん、違う。光くんが、くたくたのクマが、私をここに導いてくれた。
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