29 / 68
其の弐拾漆
玉倉部邑…その後の動き
しおりを挟む
玉倉部邑に向かった部隊の者たちが続々と戻って来た。
大海人皇子の軍はすでに玉倉部邑に得体の知れない
統率者を配置して、自分たちは為すすべもなく逃げるより
仕方が無かったと戻って来た誰もが口にした。
具体的に何があったのか聞き込みをしようにも、
空から人がやって来たであるとか、
何処からか矢が飛んで来たとしか言わない。
それらの発言を聞いた山部王が、
大海人皇子のことだから、およそ山の民の信じる
神を奉ずる者を味方につけて、大陸は勿論のこと
それよりも西方の奇策を展開してくるに違いない。
ここは一気に攻め込まずにひとまず
大津宮とまでは言わないが、引き返して何処か
手頃な場所に城を構えて籠ったほうが良いのでは
ないだろうか。と言ったので、ここへ来るまでの間
ずっと山部王に対して疑念を抱いていた
蘇我臣果安の中で何かが弾け、剣の柄に手を乗せて
これを握り引き抜くやすぐさま山部王に斬りかかった。
山部王もむざむざ簡単にやられる者ではなく
即座に剣を抜いてこれを防いだが、
その際に足を滑らせて転んでしまった所で
果安の一突きでもって咽喉を突かれて絶命した。
事が終わって傍で呆然としている巨勢臣人に
向かって果安は顔に浴びた返り血を袖口で拭いながら
「なに心配することはない。どうせ偽者だ」
と言い放った。そう言い終わった所へ、
先般大津宮において、山部王が鈴鹿関から
東へ向かったと蘇我臣果安に報告した男が
入って来て、「申し上げます。私が山部王だと
申した者は山辺君安麻呂でした」と報告したので、
果安の心は逃れようのない後悔の念に囚われ、
みずからの生命に対する尊厳を忘失した。
このことによって戦意を失ったかれは、
目の前に横たわる山部王を外へ連れ出すように
命じてから、全軍に大津宮への撤退を命令した。
その際に偶然その場に居合わせた
羽田公矢国(はたのきみやくに)と
大人(うし)の親子は、撤退する準備をする
素振りをしながら、家の者たち百名弱と共に
大海人皇子の陣に参加するべく玉倉部邑へと走った。
玉倉部邑に戻ってから、出雲狛の心は取り返しの
つかないと思えるほどの落胆と激しい後悔に襲われた。
発想は悪くなかったはずなのに悲惨は生まれた。
相手の能力を過小評価していたことや、
この世界を生き延びるために、誰もが何かを信じて
それに執着する。その執着を軸にした思考は、
感覚的惰性による判断に知らずのうちに従うものである。
「二人で一人の…」策を味方が腑に落として
理解出来たと思ったのは過大評価であった。
いや、過大評価ではなく、未来に視点を置くならば
そうではなく妥当な評価であるわけだが、
本当のところは彼らの現在を見落として、
安易な過大評価でもって危険の中へ
放り込んだのである。何たる愚かな過失であろうか。
このような不始末を起こした自分に
生きる価値などあるわけがない。もはや自分は
ここまでである。客観視するならば実に短絡的な
落ち込みかたではあるが、出雲狛の心は自然に
そのように落ちていった。どこまでも落ちる
ばかりであった。もはやここまでと言う思いに
囚われた彼は、腰に差していた短剣をそこより
抜き取って、恭しく両手で捧げ持って一礼をしてから、
短剣を鞘より抜き出し喉元に突き立てた。
そしてゆっくりと目を閉じて突き刺さんと
腕を上げたが、何故か腕が上がらない。
何度か試みてもどうしても上がらないので、
そこで目を開けて手元を見ると、
背後より伸びて来ている誰かの両腕が
出雲狛の両腕をしっかりと摑んでいるのが見えた。
驚き振り返ると大海人皇子の姿がそこにあった。
「思い通りにいかないものだな」と大海人は呟いてから、
出雲狛の手から短剣を奪い去り
そのまま無造作に横へ放り投げてから。
出雲狛の小さな躰を強く抱き締めて包み込んで
「私も同じだ。想いが通じたならば、
私はこんな所でこんな風に居ることはないだろう。
だが、出雲狛よ、そのお蔭で私は、
お前は勿論のこと、多くの者を知ることが出来た。
行いの結果ではなくそれを作り出した
己の無知をしっかりと見つめて、
無知であることを恥じて知ることへと向かうのだ。
それでどうしても知ることへ向かえないと思った時には、
死を選ぶのも道のひとつとしてあるが、
その時には考えることを捨てよ」と言った。
その言葉に打たれた出雲狛は、
ようやく泣き崩れ正気に返り、
大海人皇子の震える両腕と、洩れて聞こえてくる嗚咽を
その小さな背中で感じながら、
やり場のない自らの心をそのままで受け止めた。
そこへ見張りの兵に連れられて、羽田公矢国と
大人の親子とその家の者たち一同が大海人の前に
姿を現わした。二人とその家の者たち一同は
大海人の前に跪きそれからひれ伏して、
全員を代表して矢国がはっきりした声で
「我ら一同は、大海人皇子にお味方致します。
どうぞ我らを存分にお使い下さい」と言った。
大海人はひれ伏している羽田公矢国と大人の
手を取りこれを起こして、家の者一同にも
顔を上げるように命じてから
「羽田公矢国と大人、それから家の者たち一同よ。
この大海人はその申し出を非常に嬉しく有難く思う。
羽田公矢国を北越将軍(きたのこしのいくさのきみ)
に任ずる。ここにある出雲狛と共に
今すぐ北方より大津宮を目指せ」と応えたので、
二人とその家の者たち一同は畏れ入って再びひれ伏した。
大海人皇子の軍はすでに玉倉部邑に得体の知れない
統率者を配置して、自分たちは為すすべもなく逃げるより
仕方が無かったと戻って来た誰もが口にした。
具体的に何があったのか聞き込みをしようにも、
空から人がやって来たであるとか、
何処からか矢が飛んで来たとしか言わない。
それらの発言を聞いた山部王が、
大海人皇子のことだから、およそ山の民の信じる
神を奉ずる者を味方につけて、大陸は勿論のこと
それよりも西方の奇策を展開してくるに違いない。
ここは一気に攻め込まずにひとまず
大津宮とまでは言わないが、引き返して何処か
手頃な場所に城を構えて籠ったほうが良いのでは
ないだろうか。と言ったので、ここへ来るまでの間
ずっと山部王に対して疑念を抱いていた
蘇我臣果安の中で何かが弾け、剣の柄に手を乗せて
これを握り引き抜くやすぐさま山部王に斬りかかった。
山部王もむざむざ簡単にやられる者ではなく
即座に剣を抜いてこれを防いだが、
その際に足を滑らせて転んでしまった所で
果安の一突きでもって咽喉を突かれて絶命した。
事が終わって傍で呆然としている巨勢臣人に
向かって果安は顔に浴びた返り血を袖口で拭いながら
「なに心配することはない。どうせ偽者だ」
と言い放った。そう言い終わった所へ、
先般大津宮において、山部王が鈴鹿関から
東へ向かったと蘇我臣果安に報告した男が
入って来て、「申し上げます。私が山部王だと
申した者は山辺君安麻呂でした」と報告したので、
果安の心は逃れようのない後悔の念に囚われ、
みずからの生命に対する尊厳を忘失した。
このことによって戦意を失ったかれは、
目の前に横たわる山部王を外へ連れ出すように
命じてから、全軍に大津宮への撤退を命令した。
その際に偶然その場に居合わせた
羽田公矢国(はたのきみやくに)と
大人(うし)の親子は、撤退する準備をする
素振りをしながら、家の者たち百名弱と共に
大海人皇子の陣に参加するべく玉倉部邑へと走った。
玉倉部邑に戻ってから、出雲狛の心は取り返しの
つかないと思えるほどの落胆と激しい後悔に襲われた。
発想は悪くなかったはずなのに悲惨は生まれた。
相手の能力を過小評価していたことや、
この世界を生き延びるために、誰もが何かを信じて
それに執着する。その執着を軸にした思考は、
感覚的惰性による判断に知らずのうちに従うものである。
「二人で一人の…」策を味方が腑に落として
理解出来たと思ったのは過大評価であった。
いや、過大評価ではなく、未来に視点を置くならば
そうではなく妥当な評価であるわけだが、
本当のところは彼らの現在を見落として、
安易な過大評価でもって危険の中へ
放り込んだのである。何たる愚かな過失であろうか。
このような不始末を起こした自分に
生きる価値などあるわけがない。もはや自分は
ここまでである。客観視するならば実に短絡的な
落ち込みかたではあるが、出雲狛の心は自然に
そのように落ちていった。どこまでも落ちる
ばかりであった。もはやここまでと言う思いに
囚われた彼は、腰に差していた短剣をそこより
抜き取って、恭しく両手で捧げ持って一礼をしてから、
短剣を鞘より抜き出し喉元に突き立てた。
そしてゆっくりと目を閉じて突き刺さんと
腕を上げたが、何故か腕が上がらない。
何度か試みてもどうしても上がらないので、
そこで目を開けて手元を見ると、
背後より伸びて来ている誰かの両腕が
出雲狛の両腕をしっかりと摑んでいるのが見えた。
驚き振り返ると大海人皇子の姿がそこにあった。
「思い通りにいかないものだな」と大海人は呟いてから、
出雲狛の手から短剣を奪い去り
そのまま無造作に横へ放り投げてから。
出雲狛の小さな躰を強く抱き締めて包み込んで
「私も同じだ。想いが通じたならば、
私はこんな所でこんな風に居ることはないだろう。
だが、出雲狛よ、そのお蔭で私は、
お前は勿論のこと、多くの者を知ることが出来た。
行いの結果ではなくそれを作り出した
己の無知をしっかりと見つめて、
無知であることを恥じて知ることへと向かうのだ。
それでどうしても知ることへ向かえないと思った時には、
死を選ぶのも道のひとつとしてあるが、
その時には考えることを捨てよ」と言った。
その言葉に打たれた出雲狛は、
ようやく泣き崩れ正気に返り、
大海人皇子の震える両腕と、洩れて聞こえてくる嗚咽を
その小さな背中で感じながら、
やり場のない自らの心をそのままで受け止めた。
そこへ見張りの兵に連れられて、羽田公矢国と
大人の親子とその家の者たち一同が大海人の前に
姿を現わした。二人とその家の者たち一同は
大海人の前に跪きそれからひれ伏して、
全員を代表して矢国がはっきりした声で
「我ら一同は、大海人皇子にお味方致します。
どうぞ我らを存分にお使い下さい」と言った。
大海人はひれ伏している羽田公矢国と大人の
手を取りこれを起こして、家の者一同にも
顔を上げるように命じてから
「羽田公矢国と大人、それから家の者たち一同よ。
この大海人はその申し出を非常に嬉しく有難く思う。
羽田公矢国を北越将軍(きたのこしのいくさのきみ)
に任ずる。ここにある出雲狛と共に
今すぐ北方より大津宮を目指せ」と応えたので、
二人とその家の者たち一同は畏れ入って再びひれ伏した。
0
あなたにおすすめの小説
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる