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其の伍拾弐
鎌足との最後の対話
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この話は、物語の最初のほうで大海人の心に去来した
であろう記憶なので、章立てとしてはこの番号には
ならないだろうが、今のところは
この章立てで進めることにする。
大海人は中臣連鎌足と最後に
面会した政に携わる者であった。
それを偶然とする者が居るのはさて置いて、
これを必然とすることについても曖昧なままで、
二人の最後の対話をここに記すために筆を進める。
大王が見舞った日から数日経って、
大織の冠位、大臣の職位、それから藤原の氏(姓)が
大王より下賜されたことを報せるために、
大王の命によって大海人は中臣連鎌足の家を訪れた。
中臣連鎌足は、半身だけ床より起き上がって、
その身を真っ直ぐにして通達を聴き終えた後、
躰の力を少し抜いて楽な姿勢を見つけたうえで
一呼吸してから大海人に問いかけた。
「名が先だと思われますか。それとも
形が先だと思われますか」
その問いを受けた大海人は、右手の人差し指を
こめかみに置いて、暫し考えてから
「名が先だと思います」と答えた。
中臣連鎌足がその返答に小さく頷いてから
「どうして、そう思われるのですか」
とさらに問いかけると、大海人は即座に
「それが自然に思えるからです」と答えた。
中臣連鎌足は、大海人のその答えに直截的に
応ずることはせずに「藤の花は一房では頼りないものです」
と言ってから、意味を解しかねている大海人の様子を見て
笑みを零しながら「それが、原、つまり無数に咲いたならば、
さぞかし美しいことでしょう」と続けてから、
「そのうちに藤原によって、祭事と政は
分かたれることでしょう。大皇弟、いや皇太弟と
呼ぶべきでしょうか、貴方にはそれが見えますかな」
と問いかけた。祭事と政が分かたれるという未来予測。
大海人を皇位継承者であるかのごとく、今さらわざと
呼び変えるなどの唐突な中臣連鎌足の発言に
大海人は返答に困った。
その様子を察して中臣連鎌足が「話を変えましょうか」
と言ったので、大海人は静かに頷いてから
「お願い致します」と応えた。
その答えを受けて中臣連鎌足は、
よろしいと言った素振りを見せてから静かに語り始めた。
「人の生命には使い道があります。ですが、
それを安易な運命論で考えてはいけません。
使い道はあくまでも人のために何が出来るか
についてであり、それ以外に私たちには学ぶ道も
天より授けられているからです。
多くの人が誤解していますが、仏法も天より
現世に降ろされて来た古来の神の教えに等しいものです。
仏法は使い道よりも学ぶ道を私たちに
伝えてくれるもので、そればかりではなく、
現世の成り立ちについても解き明かしているものです。
また、経典に込められている念いは、
実際に現世の成り立ちに基づいた念いへと
引き寄せる力も持っています。
生命の使い道と仏の願いを学ぶ道の二つを、
律令によって政を整えたうえで、
この国の政の柱としたいと思い続けて、
私はここまでやって来ました。
藤原の氏名はやがて遠くない未来に
咲き乱れることになるでしょう。
いつかの宴の最中に酔いが回って、
ふとしたことから心を悪に侵食されて、
貴方が槍で敷板を貫いた時のように
乱れることもあるでしょう。
だが、それでもこの氏名は続いていく
だろうと思われます。しかし、まだそのような
未来を手繰り寄せるには、足りないものがあります。
私の子である定恵は、使い道と学ぶ道を
両立せんと願っていましたが、
運悪くこれを果たせずに常世に遷りました。
大皇弟。貴方が大王位を望んでいるのは
よく分かります。ですが、軍事(いくさのこと)
に頼って国をまとめるばかりでなく、
仏法を柱としながらもこの国の古き教えを
今一度呼び起こして、未だ道半ばのこの国の政を
新たなる形に取りまとめるために、
臣下としてではなく一人のこの国の者として、
その御力を発揮して頂くことを願っております」
大海人はその言葉を受けて、
改めて浅はかな思いを優先して大王になることを
願った己を恥じるとともに、
自らが大王となって彼の目指している国の在り方を
実現するという考えに拘らずに、
可能な形で政に携わって、
中臣連鎌足の瞼の裏で咲き乱れているであろう
無数の藤の花のように、
誰もが自由で幸福に生きることが
出来る未来を引き寄せてみたいと思った。
その心を知ってか知らずか、中臣連鎌足は
「大王の意図を受け継いで、さらには
仏法を柱に据えたうえでこの国を創り直すのは、
大皇弟。貴方かも知れません」
と独り言のように言った。
大海人には、その言葉に返す充分な
言葉がなかったので、辛うじて
「そうなったとしたら、それは運命でしょう」と応えた。
中臣連鎌足は最後の日を一人の人、
藤原鎌足として過ごしてから常世に遷った。
であろう記憶なので、章立てとしてはこの番号には
ならないだろうが、今のところは
この章立てで進めることにする。
大海人は中臣連鎌足と最後に
面会した政に携わる者であった。
それを偶然とする者が居るのはさて置いて、
これを必然とすることについても曖昧なままで、
二人の最後の対話をここに記すために筆を進める。
大王が見舞った日から数日経って、
大織の冠位、大臣の職位、それから藤原の氏(姓)が
大王より下賜されたことを報せるために、
大王の命によって大海人は中臣連鎌足の家を訪れた。
中臣連鎌足は、半身だけ床より起き上がって、
その身を真っ直ぐにして通達を聴き終えた後、
躰の力を少し抜いて楽な姿勢を見つけたうえで
一呼吸してから大海人に問いかけた。
「名が先だと思われますか。それとも
形が先だと思われますか」
その問いを受けた大海人は、右手の人差し指を
こめかみに置いて、暫し考えてから
「名が先だと思います」と答えた。
中臣連鎌足がその返答に小さく頷いてから
「どうして、そう思われるのですか」
とさらに問いかけると、大海人は即座に
「それが自然に思えるからです」と答えた。
中臣連鎌足は、大海人のその答えに直截的に
応ずることはせずに「藤の花は一房では頼りないものです」
と言ってから、意味を解しかねている大海人の様子を見て
笑みを零しながら「それが、原、つまり無数に咲いたならば、
さぞかし美しいことでしょう」と続けてから、
「そのうちに藤原によって、祭事と政は
分かたれることでしょう。大皇弟、いや皇太弟と
呼ぶべきでしょうか、貴方にはそれが見えますかな」
と問いかけた。祭事と政が分かたれるという未来予測。
大海人を皇位継承者であるかのごとく、今さらわざと
呼び変えるなどの唐突な中臣連鎌足の発言に
大海人は返答に困った。
その様子を察して中臣連鎌足が「話を変えましょうか」
と言ったので、大海人は静かに頷いてから
「お願い致します」と応えた。
その答えを受けて中臣連鎌足は、
よろしいと言った素振りを見せてから静かに語り始めた。
「人の生命には使い道があります。ですが、
それを安易な運命論で考えてはいけません。
使い道はあくまでも人のために何が出来るか
についてであり、それ以外に私たちには学ぶ道も
天より授けられているからです。
多くの人が誤解していますが、仏法も天より
現世に降ろされて来た古来の神の教えに等しいものです。
仏法は使い道よりも学ぶ道を私たちに
伝えてくれるもので、そればかりではなく、
現世の成り立ちについても解き明かしているものです。
また、経典に込められている念いは、
実際に現世の成り立ちに基づいた念いへと
引き寄せる力も持っています。
生命の使い道と仏の願いを学ぶ道の二つを、
律令によって政を整えたうえで、
この国の政の柱としたいと思い続けて、
私はここまでやって来ました。
藤原の氏名はやがて遠くない未来に
咲き乱れることになるでしょう。
いつかの宴の最中に酔いが回って、
ふとしたことから心を悪に侵食されて、
貴方が槍で敷板を貫いた時のように
乱れることもあるでしょう。
だが、それでもこの氏名は続いていく
だろうと思われます。しかし、まだそのような
未来を手繰り寄せるには、足りないものがあります。
私の子である定恵は、使い道と学ぶ道を
両立せんと願っていましたが、
運悪くこれを果たせずに常世に遷りました。
大皇弟。貴方が大王位を望んでいるのは
よく分かります。ですが、軍事(いくさのこと)
に頼って国をまとめるばかりでなく、
仏法を柱としながらもこの国の古き教えを
今一度呼び起こして、未だ道半ばのこの国の政を
新たなる形に取りまとめるために、
臣下としてではなく一人のこの国の者として、
その御力を発揮して頂くことを願っております」
大海人はその言葉を受けて、
改めて浅はかな思いを優先して大王になることを
願った己を恥じるとともに、
自らが大王となって彼の目指している国の在り方を
実現するという考えに拘らずに、
可能な形で政に携わって、
中臣連鎌足の瞼の裏で咲き乱れているであろう
無数の藤の花のように、
誰もが自由で幸福に生きることが
出来る未来を引き寄せてみたいと思った。
その心を知ってか知らずか、中臣連鎌足は
「大王の意図を受け継いで、さらには
仏法を柱に据えたうえでこの国を創り直すのは、
大皇弟。貴方かも知れません」
と独り言のように言った。
大海人には、その言葉に返す充分な
言葉がなかったので、辛うじて
「そうなったとしたら、それは運命でしょう」と応えた。
中臣連鎌足は最後の日を一人の人、
藤原鎌足として過ごしてから常世に遷った。
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