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人は、声、顔、匂いの順に忘れていくらしい。
そのどれも当てはまらなくて、時々、夜になると泣きぬれている・・・。
その彼が訪れたのは、桃の季節。
防災無線で、熊が出たと知らせがあった夕方だった。
立派な金床雲(かなとこぐも)が空にそびえていて、雷雨が予想された。
自転車で一人旅だという彼は、体格がよく、日に焼けた肌が印象的な、優しげな面立ちで、しかしながら、さすがに熊とは戦えないだろうな、と思った。
自室で作業をしていると、不意にチャイムが鳴り、来客の予定もなかったので、不審に思いながらモニターを見る。
「どちら様ですか?」
「すみません。自転車で旅をしている、内海と言います。
熊が出たと聞いたので、情報を教えていただければと。
パンクしてしまって・・・。この時間、歩いて山を下りられますか?」
あぁ。町の外の人か。
さもありなん、と納得し、玄関先に出る。
夕方にしては熱い空気に、ジワリと首筋に汗が浮いた。
「木下と申します。
役場にはいかれましたか?」
「それが、もう閉まってしまっていて。
熊はさすがに怖いので、泊れるところがあればと思ったのですが。」
「あぁ。去年まで、民宿があったんですが、今は日帰りの温泉が利用できるきりなんです。町まで下りないと、宿はないですね・・・。」
男は、三十歳前後だろうか。自分より、少し若いだろうか。言葉に、落胆の色を隠せないでいるようだった。
それはそうだ。熊と喧嘩になれば、命が危うい。
この町では、近年人的被害はない。しかし、今は時期が悪い。熟した農産物、とりわけ果物を荒らしに、頻繁に熊がうろついているからだ。
どうしようか。悪い人ではなさそうだが・・・。
泊めるとなると、やはり警戒はしなくてはいけないだろう。
たとえ自分が、三十路の冴えない男だったとしても。
私の名前は、木下咲夜(きのした さくや)。
この町は、高校までを過ごした場所だが、今住んでいる家は実家を壊して建て替えた平屋で、本来なら両親が住むはずだった。
両親は健在だが、青森に住む父方の祖母が、介護が必要になり、そちらに移住した。新しくとも、住む人がいないと、家が傷むからと、自分が住まわされることになった。
自分にとっては渡りに船だったので、五年過ごした関東の地を離れ、この町に戻ってきたわけだ。
過疎化が進み、同年代の知り合いは少ないが、近所の人たちにもなじみ、よくしてもらっている。
仕事は小説家。
そこに現れたのが、この内海(うつみ)という男だった。
困ったな、と顔に出てしまったのだろう。内海も困った顔をして、山を下りるのは、危ないですかね、と言った。
「危ないと思います。・・・夜明かしするなら、おつきあいしますよ。うちに泊まってってください。
私は木下咲夜と言います。花が咲くの咲くに、夜です。」
女性らしくて、あまり好きな名前ではない。
「内海景吾(うつみ けいご)です。風景の景に、五に口の、吾。」
「あぁ。あ、ですね。」
「そうです。お詳しいですね。」
職業病です、とも言えずに、苦笑する。
「自転車、高価なものなのでしょう?土間でよければ入れて構いませんよ。パンクは修理できそうですか?」
「修理キットは、自転車旅の必須なのでもっています。ただ、自分で直せるかどうかは、やってみないとわからなくて・・・。あくまで応急処置ですし。自転車屋にも行きたくて。」
「そうですか。それはさぞお困りでしょう。
どうぞ上がってください。詰めた話は中でしましょうか。」
久々の外からの来客に、少し、浮かれていたのだと思う。
内海は、自転車と荷物を玄関の内側、土間の三和土に運び入れると、お邪魔します、とついてきた。
「・・・よかったんですか?見ず知らずの人間、家に上げて。」
「はは。ほかの家は、警戒心強かったですか?」
何件かあたったのでしょう?と問うと、内海は素直に認めた。
「閉鎖的な集落なのは否定しませんよ。私は出戻りなので、受け入れてもらってますが、それでもけっこうかかりましたから。」
「それは・・・苦労なさってそうだ。」
内海の、同情的な言葉を聞き流して、どうぞ、と居間に通す。
「何か飲み物を用意しますね。・・・お腹すいてますか?」
「恥ずかしながら、ペコペコで。」
素直な人だな。
「あと、その、汗臭くてすみません。昼間暑かったから。」
「・・・いいですよ。お風呂と着替え、用意しますね。」
オーバーサイズのTシャツと、確かステテコがあったはず。サイズはどうだろうか。内海は体格がいいから。
頭の中であれこれ準備しながら、とりあえずバスタオルを取りに行く。
「木下さん、あの。上がり込んでおいてなんですが、俺が強盗だったらどうします?」
首をかしげて、内海の言葉を頭の中で繰り返す。
「まぁ、そうですね。仕事が滞るので、困るなぁとか。
高価なものは家の中にはないので、家探しとかはしないでほしいなぁとか。片付けが面倒そうなので。・・・蔵の鍵は、そこの引き出しです。でも、自転車で持ち出せるようなものはないですよ。」
「蔵があるんですか!?」
驚いた風の内海に、きょとんとしてしまう。
「?えぇ。」
このあたりの家は、米をしまうための蔵を持っていることが少なくない。自分にとっては珍しくないが、内海にとっては違ったようだ。
「明るくなったら、見せてもらっても?あぁ、その・・・古いものが好きで。寺とか神社とか回って、写真を撮るのが趣味なんです。それで、旅の記録をSNSで公開したりしてるんです。」
「・・・個人の所有物なので、公開されるのは困りますが、見るだけならいいですよ。」
ちょうどその時、子気味いいメロディーが鳴り響いた。
「お風呂、沸きましたからどうぞ。着替えとタオルは、籠に置いておきますね。サイズ、合うといいんですが。」
内海と自分では、かなりの体格差がある。用意した着替えに不安があった。
こっちです、と連れ立って歩く。
背中越しに、頭のてっぺんを見降ろされる感覚に、懐かしさを覚えた。
内海が風呂に入っている間に、簡単につまみになるようなものを用意する。ぬか床から、近所でいただいた胡瓜と茄子をとりだして、ざっと洗い、食べやすい大きさに切っておく。ペコペコ、と言っていたが、普段肉はあまり食べないので、冷蔵庫には、家の鶏と烏骨鶏からもらった、卵くらいしかない。出汁巻きにでもしようか、と思案する。あとは、残り物のご飯を塩結びにして海苔を巻く。インスタントだが味噌汁を用意した。自分は適当に済ませてしまっていたので、梅酒を炭酸で割る。
座卓に並べたところで、内海が風呂から上がってきた。
着替えのサイズは間に合ったようである。
「あぁ豪華ですね。ありがたい。」
質素なメニューに喜んでくれ、どっしりと床に腰を落ち着かせると、木下さんは、と問うてきた。
「私は済ませたので、どうぞ。食べたりなかったら,ほかに何か用意しますから。」
「十分です。ありがとうございます。いただいても?」
「内海さん、お酒はいけますか?私は梅酒のソーダ割です。」
「手作りですか?」
「梅をたくさんいただいたので、作ってみたんです。」
「いただきます。」
自分の作ったものに、目を輝かせる様が、なんとも庇護欲をそそる。
きっと彼は年下で、年の差はそう・・・あの頃の自分と『彼』と同じくらいで。
忘れられない影が脳裏をかすめ、小さく唇を噛む。
その間にも、内海は漬物や出汁巻きに舌鼓を打ち、お結びを三個平らげ、みそ汁を飲み切るころには、満足そうに目尻が下がっていた。酒の力もあるだろうが、柔らかい表情に、こちらも和む。
「・・・さっきは強盗だなんて物騒なこと言ってすみませんでした。こんなにおいしいご飯が作れるなら、どちらかというと、嫁に欲しいですね。」
「はは。何言ってるんですか。若く見られますけど、きっと私の方が年上だし、ましてや男同士ですよ。」
「年上女房も珍しくはないでしょう。魅力的だって話ですよ。きれいな顔立ちだし、知らない男、ホイホイ家に上げちゃダメでしょう?」
ドキ・・・。
ハッとして、途端に背筋に冷たい汗が流れる。
いや、でも、そんなそぶりは見せなかったじゃないか。
男の体目当てなんてこと、あるだろうか。
いや。自分はそれを経験している・・・。
『そういう関係』はこの世に確かに存在している。
「ふふ。冗談ですよ。少し、酔いが回ったみたいです。」
内海はそう言うが・・・。
もう忘れたい過去がある。忘れたくても忘れられない『彼』がいる。
上書きしてくれるなら、それがたとえ行きずりでも。
酒の勢いでも・・・。
理由なんてどうでもいい気がし始めていた。
ただ、自分の思惑に、内海を利用するのは心苦しい。
どうかこのまま、何事もなく朝になり、内海が旅立っていきますように。
「・・・そろそろ寝ましょうか。客間用意しますよ。」
「俺はここでもいいですよ。屋根があるだけでもありがたい。」
「じゃぁ、せめて枕とタオルケット持ってきますね。」
「たすかります。」
陽気な彼とは裏腹に、作り笑顔で客用の枕とタオルケットを取りに、納戸に向かう。
抱かれたら、この気持ちは上書きされて、『彼』のことは忘れられるのだろうか・・・。
いや。そんなこと、求めるべきじゃない。
居間に戻ると、内海は大きな体を丸めて、寝息を立てていた。そっとタオルケットをかけてやり、エアコンを調節する。傍らに枕を置いて、座卓の食器を下げた。
『彼』が現れなくなって、それでもずっと一人で待った。
いわゆる、自然消滅というやつで、旅好きだった彼は、出て行ったきり帰ってこなくなった。音信不通。どうすればいいかわからず、帰ってくるのを信じて待っていた。
家庭の事情で、引っ越しを余儀なくされるまでは。
明確に、別れを告げられたわけでないのがいけなかったのだろう。
おそらくは、自分だけ未練たらしくずっと彼を思い続けている。
付き合いは、彼の気が向いたときに、期間で言えば五年ほど。当時は若かったこともあり、そんなものかと流されるまま、愛も恋もわからず、ただ体を繋げていた。
そんな自分に、愛想をつかしたのかもしれない。
初めて体をゆるした相手に、ただ執着しているだけかもしれない。
どうしているだろうかと、思わない日はなかった。
旅好きな人だったから、天気予報を見ては思いを馳せる。
地方の特産品のニュースが流れれば、食べたことがあるだろうかと、考えずにはいられない。
そんなだから、テレビもネットニュースも見るのをやめた。
つらくなる一方だ。
だから自分は、そんな思いを糧にして、恋愛小説を書いている。
幸い仕事の方はうまくいっていて、なによりこんな田舎でも問題なく収入が得られるのは、幸せなことだった。
募る思いを反芻し、毎日パソコンに向かう。
時折、彼を覚えている体の奥が疼く・・・。
そればっかりは、自分ではどうしようもなく、慰められないでいた。
誰かに上書きしてほしいような。
彼との思い出を、ずっとこの身に宿したままでいたいような。
複雑な気持ちを、抱えている。
出会いがないのはもちろん、仕方なのないことなのだが、一歩踏み出す気にもなれないでいた。
まるでペットロスだ。
自分はきっと、知らぬ間に彼を愛玩していたのだろう。
思い起こせば・・・いや。いまさらか。
ふーっと長いため息を吐き出して、居間の明かりを常夜灯に切り替えた。
ほのかに、アルコールと、知らない男の匂いがした。
内海の匂いが、『彼』と似ている気がしてしまうのは、もう記憶の中の彼が薄れているからなのだろう。
寝室に入り、内海の匂いを思い出しながら、体をまさぐる。
久しぶりの感覚に、体はすぐに快感を追い始める。しばらくそうして愉しんだ後、手のひらに吐精して、ぐったりと横になった。
遠雷の音が聞こえていた。じきに降り出すだろう。
枕にかけてあったタオルで、青臭い手のひらを拭うと、そのままそれを放り出し、体を丸める。
もぞ、と腰の下に手をやり、秘部をなぞる。乾いたそこは、指の侵入を拒む。持て余した熱をため息で宥めて、寝ようか、とタオルケットを手繰り寄せるころ、外で激しい雨音がし始めた。
そのどれも当てはまらなくて、時々、夜になると泣きぬれている・・・。
その彼が訪れたのは、桃の季節。
防災無線で、熊が出たと知らせがあった夕方だった。
立派な金床雲(かなとこぐも)が空にそびえていて、雷雨が予想された。
自転車で一人旅だという彼は、体格がよく、日に焼けた肌が印象的な、優しげな面立ちで、しかしながら、さすがに熊とは戦えないだろうな、と思った。
自室で作業をしていると、不意にチャイムが鳴り、来客の予定もなかったので、不審に思いながらモニターを見る。
「どちら様ですか?」
「すみません。自転車で旅をしている、内海と言います。
熊が出たと聞いたので、情報を教えていただければと。
パンクしてしまって・・・。この時間、歩いて山を下りられますか?」
あぁ。町の外の人か。
さもありなん、と納得し、玄関先に出る。
夕方にしては熱い空気に、ジワリと首筋に汗が浮いた。
「木下と申します。
役場にはいかれましたか?」
「それが、もう閉まってしまっていて。
熊はさすがに怖いので、泊れるところがあればと思ったのですが。」
「あぁ。去年まで、民宿があったんですが、今は日帰りの温泉が利用できるきりなんです。町まで下りないと、宿はないですね・・・。」
男は、三十歳前後だろうか。自分より、少し若いだろうか。言葉に、落胆の色を隠せないでいるようだった。
それはそうだ。熊と喧嘩になれば、命が危うい。
この町では、近年人的被害はない。しかし、今は時期が悪い。熟した農産物、とりわけ果物を荒らしに、頻繁に熊がうろついているからだ。
どうしようか。悪い人ではなさそうだが・・・。
泊めるとなると、やはり警戒はしなくてはいけないだろう。
たとえ自分が、三十路の冴えない男だったとしても。
私の名前は、木下咲夜(きのした さくや)。
この町は、高校までを過ごした場所だが、今住んでいる家は実家を壊して建て替えた平屋で、本来なら両親が住むはずだった。
両親は健在だが、青森に住む父方の祖母が、介護が必要になり、そちらに移住した。新しくとも、住む人がいないと、家が傷むからと、自分が住まわされることになった。
自分にとっては渡りに船だったので、五年過ごした関東の地を離れ、この町に戻ってきたわけだ。
過疎化が進み、同年代の知り合いは少ないが、近所の人たちにもなじみ、よくしてもらっている。
仕事は小説家。
そこに現れたのが、この内海(うつみ)という男だった。
困ったな、と顔に出てしまったのだろう。内海も困った顔をして、山を下りるのは、危ないですかね、と言った。
「危ないと思います。・・・夜明かしするなら、おつきあいしますよ。うちに泊まってってください。
私は木下咲夜と言います。花が咲くの咲くに、夜です。」
女性らしくて、あまり好きな名前ではない。
「内海景吾(うつみ けいご)です。風景の景に、五に口の、吾。」
「あぁ。あ、ですね。」
「そうです。お詳しいですね。」
職業病です、とも言えずに、苦笑する。
「自転車、高価なものなのでしょう?土間でよければ入れて構いませんよ。パンクは修理できそうですか?」
「修理キットは、自転車旅の必須なのでもっています。ただ、自分で直せるかどうかは、やってみないとわからなくて・・・。あくまで応急処置ですし。自転車屋にも行きたくて。」
「そうですか。それはさぞお困りでしょう。
どうぞ上がってください。詰めた話は中でしましょうか。」
久々の外からの来客に、少し、浮かれていたのだと思う。
内海は、自転車と荷物を玄関の内側、土間の三和土に運び入れると、お邪魔します、とついてきた。
「・・・よかったんですか?見ず知らずの人間、家に上げて。」
「はは。ほかの家は、警戒心強かったですか?」
何件かあたったのでしょう?と問うと、内海は素直に認めた。
「閉鎖的な集落なのは否定しませんよ。私は出戻りなので、受け入れてもらってますが、それでもけっこうかかりましたから。」
「それは・・・苦労なさってそうだ。」
内海の、同情的な言葉を聞き流して、どうぞ、と居間に通す。
「何か飲み物を用意しますね。・・・お腹すいてますか?」
「恥ずかしながら、ペコペコで。」
素直な人だな。
「あと、その、汗臭くてすみません。昼間暑かったから。」
「・・・いいですよ。お風呂と着替え、用意しますね。」
オーバーサイズのTシャツと、確かステテコがあったはず。サイズはどうだろうか。内海は体格がいいから。
頭の中であれこれ準備しながら、とりあえずバスタオルを取りに行く。
「木下さん、あの。上がり込んでおいてなんですが、俺が強盗だったらどうします?」
首をかしげて、内海の言葉を頭の中で繰り返す。
「まぁ、そうですね。仕事が滞るので、困るなぁとか。
高価なものは家の中にはないので、家探しとかはしないでほしいなぁとか。片付けが面倒そうなので。・・・蔵の鍵は、そこの引き出しです。でも、自転車で持ち出せるようなものはないですよ。」
「蔵があるんですか!?」
驚いた風の内海に、きょとんとしてしまう。
「?えぇ。」
このあたりの家は、米をしまうための蔵を持っていることが少なくない。自分にとっては珍しくないが、内海にとっては違ったようだ。
「明るくなったら、見せてもらっても?あぁ、その・・・古いものが好きで。寺とか神社とか回って、写真を撮るのが趣味なんです。それで、旅の記録をSNSで公開したりしてるんです。」
「・・・個人の所有物なので、公開されるのは困りますが、見るだけならいいですよ。」
ちょうどその時、子気味いいメロディーが鳴り響いた。
「お風呂、沸きましたからどうぞ。着替えとタオルは、籠に置いておきますね。サイズ、合うといいんですが。」
内海と自分では、かなりの体格差がある。用意した着替えに不安があった。
こっちです、と連れ立って歩く。
背中越しに、頭のてっぺんを見降ろされる感覚に、懐かしさを覚えた。
内海が風呂に入っている間に、簡単につまみになるようなものを用意する。ぬか床から、近所でいただいた胡瓜と茄子をとりだして、ざっと洗い、食べやすい大きさに切っておく。ペコペコ、と言っていたが、普段肉はあまり食べないので、冷蔵庫には、家の鶏と烏骨鶏からもらった、卵くらいしかない。出汁巻きにでもしようか、と思案する。あとは、残り物のご飯を塩結びにして海苔を巻く。インスタントだが味噌汁を用意した。自分は適当に済ませてしまっていたので、梅酒を炭酸で割る。
座卓に並べたところで、内海が風呂から上がってきた。
着替えのサイズは間に合ったようである。
「あぁ豪華ですね。ありがたい。」
質素なメニューに喜んでくれ、どっしりと床に腰を落ち着かせると、木下さんは、と問うてきた。
「私は済ませたので、どうぞ。食べたりなかったら,ほかに何か用意しますから。」
「十分です。ありがとうございます。いただいても?」
「内海さん、お酒はいけますか?私は梅酒のソーダ割です。」
「手作りですか?」
「梅をたくさんいただいたので、作ってみたんです。」
「いただきます。」
自分の作ったものに、目を輝かせる様が、なんとも庇護欲をそそる。
きっと彼は年下で、年の差はそう・・・あの頃の自分と『彼』と同じくらいで。
忘れられない影が脳裏をかすめ、小さく唇を噛む。
その間にも、内海は漬物や出汁巻きに舌鼓を打ち、お結びを三個平らげ、みそ汁を飲み切るころには、満足そうに目尻が下がっていた。酒の力もあるだろうが、柔らかい表情に、こちらも和む。
「・・・さっきは強盗だなんて物騒なこと言ってすみませんでした。こんなにおいしいご飯が作れるなら、どちらかというと、嫁に欲しいですね。」
「はは。何言ってるんですか。若く見られますけど、きっと私の方が年上だし、ましてや男同士ですよ。」
「年上女房も珍しくはないでしょう。魅力的だって話ですよ。きれいな顔立ちだし、知らない男、ホイホイ家に上げちゃダメでしょう?」
ドキ・・・。
ハッとして、途端に背筋に冷たい汗が流れる。
いや、でも、そんなそぶりは見せなかったじゃないか。
男の体目当てなんてこと、あるだろうか。
いや。自分はそれを経験している・・・。
『そういう関係』はこの世に確かに存在している。
「ふふ。冗談ですよ。少し、酔いが回ったみたいです。」
内海はそう言うが・・・。
もう忘れたい過去がある。忘れたくても忘れられない『彼』がいる。
上書きしてくれるなら、それがたとえ行きずりでも。
酒の勢いでも・・・。
理由なんてどうでもいい気がし始めていた。
ただ、自分の思惑に、内海を利用するのは心苦しい。
どうかこのまま、何事もなく朝になり、内海が旅立っていきますように。
「・・・そろそろ寝ましょうか。客間用意しますよ。」
「俺はここでもいいですよ。屋根があるだけでもありがたい。」
「じゃぁ、せめて枕とタオルケット持ってきますね。」
「たすかります。」
陽気な彼とは裏腹に、作り笑顔で客用の枕とタオルケットを取りに、納戸に向かう。
抱かれたら、この気持ちは上書きされて、『彼』のことは忘れられるのだろうか・・・。
いや。そんなこと、求めるべきじゃない。
居間に戻ると、内海は大きな体を丸めて、寝息を立てていた。そっとタオルケットをかけてやり、エアコンを調節する。傍らに枕を置いて、座卓の食器を下げた。
『彼』が現れなくなって、それでもずっと一人で待った。
いわゆる、自然消滅というやつで、旅好きだった彼は、出て行ったきり帰ってこなくなった。音信不通。どうすればいいかわからず、帰ってくるのを信じて待っていた。
家庭の事情で、引っ越しを余儀なくされるまでは。
明確に、別れを告げられたわけでないのがいけなかったのだろう。
おそらくは、自分だけ未練たらしくずっと彼を思い続けている。
付き合いは、彼の気が向いたときに、期間で言えば五年ほど。当時は若かったこともあり、そんなものかと流されるまま、愛も恋もわからず、ただ体を繋げていた。
そんな自分に、愛想をつかしたのかもしれない。
初めて体をゆるした相手に、ただ執着しているだけかもしれない。
どうしているだろうかと、思わない日はなかった。
旅好きな人だったから、天気予報を見ては思いを馳せる。
地方の特産品のニュースが流れれば、食べたことがあるだろうかと、考えずにはいられない。
そんなだから、テレビもネットニュースも見るのをやめた。
つらくなる一方だ。
だから自分は、そんな思いを糧にして、恋愛小説を書いている。
幸い仕事の方はうまくいっていて、なによりこんな田舎でも問題なく収入が得られるのは、幸せなことだった。
募る思いを反芻し、毎日パソコンに向かう。
時折、彼を覚えている体の奥が疼く・・・。
そればっかりは、自分ではどうしようもなく、慰められないでいた。
誰かに上書きしてほしいような。
彼との思い出を、ずっとこの身に宿したままでいたいような。
複雑な気持ちを、抱えている。
出会いがないのはもちろん、仕方なのないことなのだが、一歩踏み出す気にもなれないでいた。
まるでペットロスだ。
自分はきっと、知らぬ間に彼を愛玩していたのだろう。
思い起こせば・・・いや。いまさらか。
ふーっと長いため息を吐き出して、居間の明かりを常夜灯に切り替えた。
ほのかに、アルコールと、知らない男の匂いがした。
内海の匂いが、『彼』と似ている気がしてしまうのは、もう記憶の中の彼が薄れているからなのだろう。
寝室に入り、内海の匂いを思い出しながら、体をまさぐる。
久しぶりの感覚に、体はすぐに快感を追い始める。しばらくそうして愉しんだ後、手のひらに吐精して、ぐったりと横になった。
遠雷の音が聞こえていた。じきに降り出すだろう。
枕にかけてあったタオルで、青臭い手のひらを拭うと、そのままそれを放り出し、体を丸める。
もぞ、と腰の下に手をやり、秘部をなぞる。乾いたそこは、指の侵入を拒む。持て余した熱をため息で宥めて、寝ようか、とタオルケットを手繰り寄せるころ、外で激しい雨音がし始めた。
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