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朝になり、寝室で目を覚まして、昨夜のことを思い出す。
自分は、誰を思ってあんなことを・・・。
合わせる顔もないが。内海はまだこの家にいるだろうか。
朝早くに発っていても、おかしくはない。
彼は『行きずり』だ。
居間に行くと、彼の姿はなく、丁寧にたたまれたタオルケットがあり、その上に枕がちょこんと乗せてあった。そのまま玄関の方へ向かう。すると、内海は自転車のタイヤ相手に、なにやら四苦八苦していた。
「おはようございます。」
広い背中に、後ろから声をかける。この時間、土間はまだ涼しいが、内海の背中には汗の染みができていた。いつからそうしているのか。
「あぁ。おはようございます。起こしてしまいましたか?」
「いえ。いつもの時間ですよ。
どうですか?」
自転車の具合を問うと、内海は首を左右に振った。
「そうですか。昨夜考えたんですけど、隣の家の人が、軽トラを持っているので、乗せてもらって町まで下りるのはいかがでしょう?自転車屋さんがありますから、見てもらうといいですよ。」
伝えると、内海はほっとした表情になり、よかった、と呟いた。
「愛着があるので、どうしてもコイツで帰りたかったんです。旅費がないわけじゃないけど、置いて帰るなんてできないから・・・。」
言われて、ハッとした。
そうか。内海がここに自転車を置いて帰ったら、いつかまた、取りに来るんじゃないか。
余計なことを言っただろうか。
そんなことはない。自分の提案は、内海にとって最良で、現に内海は喜んでいる。
自分の下心など、ついぞ知らないのだ。
「じゃぁそれで。隣のおじさんの都合、聞いてみますよ。」
玄関に置かれた電話の受話器を取り、電話帳を見ながら電話する。用事があれば、歩いていける距離だから、電話することはめったにないのだ。
結局、あてにしていた軽トラは、農作業で夕方まで使うので、その後なら町まで送れる、と返答があった。
「時間ができちゃいましたね。神社が好きなら・・・そうだな・・・ないこともないけれど。熊が出たばかりですから、あまり山の奥にはいかないほうがいいかと。
代わりに、蔵の中を見ていきますか?」
提案に、内海は嬉しそうにうなずいた。それと同時に、くう、と腹が鳴った。
まずは朝ご飯ですね、と台所へ踵を返した。
「夕方行く自転車屋さんの場所と・・・今夜も泊りになるだろうから、ホテルを押さえて・・・。」
ぶつぶつと独り言しながらプランを練っている内海の姿に、また『彼』を見てしまう。
どこか似ている。
似ていると思わせたいのは、きっと自分の願望や欲望で。
一人きりでいたことが、よほど堪えているのだと痛感した。
もちろん、こんな過疎の町にも、結婚適齢期の女性はいて、見合いの話もあったりはするのだが、なにしろ自分は男に抱かれたことのある体だ。とてもじゃないが、そこに目をつぶって女性を娶る気にはなれなかった。
汚い、とは思っていないが、穢れというよりは、罪の意識が強かった。医学的にも、なにか感染があるかもしれないという思いも、否めなかったし。
当時の自分は若かった。相手は一人だったけれど、『彼』の相手が一人だったかは知らないのだ。
歳月を経て、何かの病が発症した兆候はないが、家族を作るとなれば、話は別だ。相手にも、生まれてくるであろう子供にも、申し訳ない。
だから、いつかこの体を望んでくれる人がいたら・・・。
望むことが許されるのなら、それは男がよかった。
「木下さん?」
びく、と肩が揺れる。
「あ、すみません。何か考え事を?」
「いえ・・・。蔵ですよね。しばらく開けていないので、埃っぽいかも。マスクをしていきましょうか。」
「やっぱり、何か上の空でしたね。お礼がしたいので、ここの住所と、できれば連絡先・・・SNSのアカウントがあれば教えてほしくて。旅の記録を、あなたにも見てほしくて。」
「えっ?あ・・・あぁ。」
どうやら自分は、長い間耽っていたようで。かぁっと顔が熱くなる。
「すみません。・・・えっと・・・あぁじゃぁ仕事の名刺持ってきますね。」
立ち上がり、居間の隅の引き出しから、紙片を取り出す。
「どうぞ。」
「ありがとう。今登録しても?」
そう言いながら、スマホを取り出す。頷くと、電話番号を登録したのか、テーブルに置いたままだった自分のスマホの着信が鳴り響いた。
「俺です。登録してもらえますか?」
「・・・もちろん。」
もちろん?
なんで今自分はほっとした?
これで、あの時のように、『音信不通』にはならないからか?いつでも声が聴けるから?
「あと、これ・・・これが俺のアカウントです。相互フォローは少ないので・・・あ、そうです、それ。あ、木下さんって、小説家なんですね。へぇ・・・じゃぁ先生だ。」
SNSのアカウントのプロフィールを見て、内海が言う。
「はは。そんな、大したものじゃないよ。食べていくのがやっとだもの。」
「食べていけるなら十分すごいって知ってますよ。」
しばらくそうして、お互いの情報を交換し合って・・・つながった気になった。
まるで、首輪がつけられたかのような安心感に、ふーっと長く吐息する。
嬉しい。
新しいつながりに、気持ちが上がる。
「内海さん、今は休暇中なんですか?」
「えぇ。そんなところです。タブレットさえあればどこでもできるので・・・。いい時代ですよね。」
濁された?
でも、深追いもおかしいな。
そうですね、と相槌を打って、蔵の鍵を引き出しから持ち出した。
鶏の小屋に餌をやって、代わりに卵をもらう。午前中は、蔵の中を見て過ごし、午後は昼食を食べてから、縁側でゆっくりお茶。庭には小鳥用の餌台があり、時々雀がやってきていた。
そういえば・・・。
「内海さん、ヘルメットのステッカー・・・それは千鳥、ですか?」
「そうです。うちの家紋なんですけど、気に入っているので、まぁトレードマークみたいな。」
「へぇ。かわいいですね。」
可愛い、というと内海は少しはにかんで、色で、意味が違うみたいです、と続けた。
「あまり詳しくないので、今度調べておきますね。」
今度?
思わず首をかしげる。
「あの・・・。内海さん、失礼かもしれないんですが、聞いていいですか?」
すると今度は、内海が首を傾げた。
「はい?なんでしょう。」
「あの・・・。だいぶ遠くからいらしているのを知ってしまったので・・・。また、この町に?」
旅しに来るのかと問うと、内海は意味ありげに口角を上げた。
「旅、と言えばそうですが・・・。どちらかと言えば、友人に会いに、でしょう?」
「・・・友人?」
「木下さんとは、いろいろ話した仲ですし、とても親切にしていただきましたし。知人、というよりは友人に近いかと。
嫌ですか?」
「・・・いや・・・じゃないです。」
じわ、と瞳が潤む。こぼさないように、小指で目じりをぬぐう。
「その・・・。年が近い友達がいなかったので、嬉しいです。この辺りは、過疎なので、高齢の方ばかりで。」
「それは良かった。でも、欲を言うと、嫁に欲しいと言ったのも、冗談ではないんですよ。」
男同士のほうが気楽なんです。
そう言って苦笑した内海は、なんだか少し自虐的に見えた。
夕方、隣のおじさんに事情を説明して、軽トラに自転車と荷物を積み込んだ内海は、別れ際、硬く手を握ると、山を下りて行った。
自転車で旅をしているというだけあって、手のひらの皮が厚く、しっとりと熱かった。
きっともう来ない。
内海のことを忘れるのに、今度はどれくらいかかるのだろう。
人様に言えないようなことは、何もなかった。
けれど確かに、何かが繋がった。
それが何か、自分でもまだよくわからない。
内海のアカウントを、日に何度か追うようになって、一週間。そろそろ帰宅してもいいころだな、と思っていると、今回の旅の記録はこれで終わりです、とあり、そのあとに「昨夜のことが忘れられない」と閉め括られていた。
普通に読めば、夜、何かあったのだろうと思うだろう。
しかし・・・いや・・・たぶんこれは暗号だ。
思い上がりじゃないだろう?
それでも、どうすることもできずに、見て見ぬふりをした。
それから初雪の季節になり、自分のことなど、内海は覚えていないだろうと思っていたころだった。
季節の変わり目もあってか、秋はひどい精神状態だった。鬱々とする中で、けれども執筆作業は待ってくれず、いつにもまして暗い話を書いてしまった。未練たらしい男の話。いつもはすんなりハッピーエンドにできるのに、今回はそれに苦戦して、何度も書き直しを迫られた。
自分の持ち味は、いつも幸せな最後が待っているからである。
友達だって、言ってくれたじゃないか。
また来るって・・・。
なのにこの仕打ちはない。
いつ来るとも、約束したわけではない。
待つのは得意な方かもしれない。
だけど・・・。
電話の一本もかける勇気のない自分に、内海を責めることはできなかった。
あいたい・・・。
仕事を持っていると言っていた。
SNSは更新されている。
最近は旅には出ておらず、出先の食べ物やなんかの写真がアップされている。忙しいのだろう。忙しいのがわかるから、まだいい。生きているかどうかもわからないような状況じゃないから。
住所はわかっている。いっそこちらから行ってみる?
いや。そんなの迷惑だろう。
迷惑なんだろう。
だから内海は来ない。
そんな日々が流れていき、冬のある日。
玄関のチャイムが鳴った。
勢いあまって転びそうになりながら裸足で土間に降りると、整えられた髪が目を引いた。
内海だ。
「あ・・・。はは・・・。内海さん、またパンクしちゃいましたか?」
「いいえ。今回は車で来たので。
あなたと旅がしたくて、車、買っちゃいました。驚かせたくて内緒にしてたんです。免許取りたてなので、不安かもしれないけど。
助手席に乗ってくれますか?」
面食らって、内海の背後を見ると、蔵の前のスペースに、キャリアで自転車を積んだ黒っぽい車。
「すごい。あれから、免許を取ったの?仕事をしながら?
車だって・・・そんなに簡単に買えないだろうに。」
「中古ですけど、きれいですよ。事故歴ないのを探すのに手間取っちゃって。アウトバック。いい車です。」
興奮気味に話す内海に、サプライズ成功だよ、と笑う。
リアガラスには、内海のトレードマークの千鳥のステッカーが、きっちりと貼ってあった。ナンバーからしても、内海の持ち物だというのは、疑いようもなかった。
この辺は、車も免許も必須だから、もちろん自分も持っているし、だからこそ、その苦労は身に染みてわかっている。しかし内海のそれは、自分のために買ったものだという。それがどういう気持ちから来るものなのか、はかりかねたが、いかんせん外は寒い。
「・・・まぁ、あがりなよ。・・・今夜は降るかもしれないから、自転車は三和土に降ろしておくといい。」
「ありがとうございます。」
「あぁそうだ。来るって思ってなかったから、食料の買い出しに行かなきゃ。車、出してくれる?」
知らず言葉が弾む。
嬉しい。嬉しい。
「もちろん。それと・・・あとこれもらってくれますか?」
差し出されたのは、スペアキーだった。
「いや、だめだよ。こんな大事なもの。それに、万一の時困るでしょう?」
「大丈夫。木下さんのことは、信用しているし・・・。
実は俺、ここに移住しようかと思っていて。」
開いた口が塞がらない。
「そ・・・れは決めたことなの?」
「今回は、家探しも兼ねてます。」
難しいと思うなぁ・・・。
閉鎖的な町。空き家はあるかもしれないが、相当手を加えないと住めないだろうし、土地や家の持ち主が得体の知れない人間に譲るとは思えない。ここに住むのは簡単なことじゃない。それをどう伝えたらいいか。
「そもそもさ・・・どうしてここに住みたいの?」
「俺、ずっと海沿いばかり旅してて、山は今回初めてだったんです。木下さんに会えて、ここいいなって。」
そんな安直な。
嬉しいよ?嬉しいけれど、現実はそんなに甘くはない。
しばらく思案した結果、妙案を思いついた。
「ねぇ。しばらくうちに仮住まいするのは?春になっても気が変わらなかったら、役場に相談して、空き家をリフォームできないか相談してみようよ。」
内海は、うーんと唸ったが、じゃぁそれでお願いします。と笑った。
自分は、誰を思ってあんなことを・・・。
合わせる顔もないが。内海はまだこの家にいるだろうか。
朝早くに発っていても、おかしくはない。
彼は『行きずり』だ。
居間に行くと、彼の姿はなく、丁寧にたたまれたタオルケットがあり、その上に枕がちょこんと乗せてあった。そのまま玄関の方へ向かう。すると、内海は自転車のタイヤ相手に、なにやら四苦八苦していた。
「おはようございます。」
広い背中に、後ろから声をかける。この時間、土間はまだ涼しいが、内海の背中には汗の染みができていた。いつからそうしているのか。
「あぁ。おはようございます。起こしてしまいましたか?」
「いえ。いつもの時間ですよ。
どうですか?」
自転車の具合を問うと、内海は首を左右に振った。
「そうですか。昨夜考えたんですけど、隣の家の人が、軽トラを持っているので、乗せてもらって町まで下りるのはいかがでしょう?自転車屋さんがありますから、見てもらうといいですよ。」
伝えると、内海はほっとした表情になり、よかった、と呟いた。
「愛着があるので、どうしてもコイツで帰りたかったんです。旅費がないわけじゃないけど、置いて帰るなんてできないから・・・。」
言われて、ハッとした。
そうか。内海がここに自転車を置いて帰ったら、いつかまた、取りに来るんじゃないか。
余計なことを言っただろうか。
そんなことはない。自分の提案は、内海にとって最良で、現に内海は喜んでいる。
自分の下心など、ついぞ知らないのだ。
「じゃぁそれで。隣のおじさんの都合、聞いてみますよ。」
玄関に置かれた電話の受話器を取り、電話帳を見ながら電話する。用事があれば、歩いていける距離だから、電話することはめったにないのだ。
結局、あてにしていた軽トラは、農作業で夕方まで使うので、その後なら町まで送れる、と返答があった。
「時間ができちゃいましたね。神社が好きなら・・・そうだな・・・ないこともないけれど。熊が出たばかりですから、あまり山の奥にはいかないほうがいいかと。
代わりに、蔵の中を見ていきますか?」
提案に、内海は嬉しそうにうなずいた。それと同時に、くう、と腹が鳴った。
まずは朝ご飯ですね、と台所へ踵を返した。
「夕方行く自転車屋さんの場所と・・・今夜も泊りになるだろうから、ホテルを押さえて・・・。」
ぶつぶつと独り言しながらプランを練っている内海の姿に、また『彼』を見てしまう。
どこか似ている。
似ていると思わせたいのは、きっと自分の願望や欲望で。
一人きりでいたことが、よほど堪えているのだと痛感した。
もちろん、こんな過疎の町にも、結婚適齢期の女性はいて、見合いの話もあったりはするのだが、なにしろ自分は男に抱かれたことのある体だ。とてもじゃないが、そこに目をつぶって女性を娶る気にはなれなかった。
汚い、とは思っていないが、穢れというよりは、罪の意識が強かった。医学的にも、なにか感染があるかもしれないという思いも、否めなかったし。
当時の自分は若かった。相手は一人だったけれど、『彼』の相手が一人だったかは知らないのだ。
歳月を経て、何かの病が発症した兆候はないが、家族を作るとなれば、話は別だ。相手にも、生まれてくるであろう子供にも、申し訳ない。
だから、いつかこの体を望んでくれる人がいたら・・・。
望むことが許されるのなら、それは男がよかった。
「木下さん?」
びく、と肩が揺れる。
「あ、すみません。何か考え事を?」
「いえ・・・。蔵ですよね。しばらく開けていないので、埃っぽいかも。マスクをしていきましょうか。」
「やっぱり、何か上の空でしたね。お礼がしたいので、ここの住所と、できれば連絡先・・・SNSのアカウントがあれば教えてほしくて。旅の記録を、あなたにも見てほしくて。」
「えっ?あ・・・あぁ。」
どうやら自分は、長い間耽っていたようで。かぁっと顔が熱くなる。
「すみません。・・・えっと・・・あぁじゃぁ仕事の名刺持ってきますね。」
立ち上がり、居間の隅の引き出しから、紙片を取り出す。
「どうぞ。」
「ありがとう。今登録しても?」
そう言いながら、スマホを取り出す。頷くと、電話番号を登録したのか、テーブルに置いたままだった自分のスマホの着信が鳴り響いた。
「俺です。登録してもらえますか?」
「・・・もちろん。」
もちろん?
なんで今自分はほっとした?
これで、あの時のように、『音信不通』にはならないからか?いつでも声が聴けるから?
「あと、これ・・・これが俺のアカウントです。相互フォローは少ないので・・・あ、そうです、それ。あ、木下さんって、小説家なんですね。へぇ・・・じゃぁ先生だ。」
SNSのアカウントのプロフィールを見て、内海が言う。
「はは。そんな、大したものじゃないよ。食べていくのがやっとだもの。」
「食べていけるなら十分すごいって知ってますよ。」
しばらくそうして、お互いの情報を交換し合って・・・つながった気になった。
まるで、首輪がつけられたかのような安心感に、ふーっと長く吐息する。
嬉しい。
新しいつながりに、気持ちが上がる。
「内海さん、今は休暇中なんですか?」
「えぇ。そんなところです。タブレットさえあればどこでもできるので・・・。いい時代ですよね。」
濁された?
でも、深追いもおかしいな。
そうですね、と相槌を打って、蔵の鍵を引き出しから持ち出した。
鶏の小屋に餌をやって、代わりに卵をもらう。午前中は、蔵の中を見て過ごし、午後は昼食を食べてから、縁側でゆっくりお茶。庭には小鳥用の餌台があり、時々雀がやってきていた。
そういえば・・・。
「内海さん、ヘルメットのステッカー・・・それは千鳥、ですか?」
「そうです。うちの家紋なんですけど、気に入っているので、まぁトレードマークみたいな。」
「へぇ。かわいいですね。」
可愛い、というと内海は少しはにかんで、色で、意味が違うみたいです、と続けた。
「あまり詳しくないので、今度調べておきますね。」
今度?
思わず首をかしげる。
「あの・・・。内海さん、失礼かもしれないんですが、聞いていいですか?」
すると今度は、内海が首を傾げた。
「はい?なんでしょう。」
「あの・・・。だいぶ遠くからいらしているのを知ってしまったので・・・。また、この町に?」
旅しに来るのかと問うと、内海は意味ありげに口角を上げた。
「旅、と言えばそうですが・・・。どちらかと言えば、友人に会いに、でしょう?」
「・・・友人?」
「木下さんとは、いろいろ話した仲ですし、とても親切にしていただきましたし。知人、というよりは友人に近いかと。
嫌ですか?」
「・・・いや・・・じゃないです。」
じわ、と瞳が潤む。こぼさないように、小指で目じりをぬぐう。
「その・・・。年が近い友達がいなかったので、嬉しいです。この辺りは、過疎なので、高齢の方ばかりで。」
「それは良かった。でも、欲を言うと、嫁に欲しいと言ったのも、冗談ではないんですよ。」
男同士のほうが気楽なんです。
そう言って苦笑した内海は、なんだか少し自虐的に見えた。
夕方、隣のおじさんに事情を説明して、軽トラに自転車と荷物を積み込んだ内海は、別れ際、硬く手を握ると、山を下りて行った。
自転車で旅をしているというだけあって、手のひらの皮が厚く、しっとりと熱かった。
きっともう来ない。
内海のことを忘れるのに、今度はどれくらいかかるのだろう。
人様に言えないようなことは、何もなかった。
けれど確かに、何かが繋がった。
それが何か、自分でもまだよくわからない。
内海のアカウントを、日に何度か追うようになって、一週間。そろそろ帰宅してもいいころだな、と思っていると、今回の旅の記録はこれで終わりです、とあり、そのあとに「昨夜のことが忘れられない」と閉め括られていた。
普通に読めば、夜、何かあったのだろうと思うだろう。
しかし・・・いや・・・たぶんこれは暗号だ。
思い上がりじゃないだろう?
それでも、どうすることもできずに、見て見ぬふりをした。
それから初雪の季節になり、自分のことなど、内海は覚えていないだろうと思っていたころだった。
季節の変わり目もあってか、秋はひどい精神状態だった。鬱々とする中で、けれども執筆作業は待ってくれず、いつにもまして暗い話を書いてしまった。未練たらしい男の話。いつもはすんなりハッピーエンドにできるのに、今回はそれに苦戦して、何度も書き直しを迫られた。
自分の持ち味は、いつも幸せな最後が待っているからである。
友達だって、言ってくれたじゃないか。
また来るって・・・。
なのにこの仕打ちはない。
いつ来るとも、約束したわけではない。
待つのは得意な方かもしれない。
だけど・・・。
電話の一本もかける勇気のない自分に、内海を責めることはできなかった。
あいたい・・・。
仕事を持っていると言っていた。
SNSは更新されている。
最近は旅には出ておらず、出先の食べ物やなんかの写真がアップされている。忙しいのだろう。忙しいのがわかるから、まだいい。生きているかどうかもわからないような状況じゃないから。
住所はわかっている。いっそこちらから行ってみる?
いや。そんなの迷惑だろう。
迷惑なんだろう。
だから内海は来ない。
そんな日々が流れていき、冬のある日。
玄関のチャイムが鳴った。
勢いあまって転びそうになりながら裸足で土間に降りると、整えられた髪が目を引いた。
内海だ。
「あ・・・。はは・・・。内海さん、またパンクしちゃいましたか?」
「いいえ。今回は車で来たので。
あなたと旅がしたくて、車、買っちゃいました。驚かせたくて内緒にしてたんです。免許取りたてなので、不安かもしれないけど。
助手席に乗ってくれますか?」
面食らって、内海の背後を見ると、蔵の前のスペースに、キャリアで自転車を積んだ黒っぽい車。
「すごい。あれから、免許を取ったの?仕事をしながら?
車だって・・・そんなに簡単に買えないだろうに。」
「中古ですけど、きれいですよ。事故歴ないのを探すのに手間取っちゃって。アウトバック。いい車です。」
興奮気味に話す内海に、サプライズ成功だよ、と笑う。
リアガラスには、内海のトレードマークの千鳥のステッカーが、きっちりと貼ってあった。ナンバーからしても、内海の持ち物だというのは、疑いようもなかった。
この辺は、車も免許も必須だから、もちろん自分も持っているし、だからこそ、その苦労は身に染みてわかっている。しかし内海のそれは、自分のために買ったものだという。それがどういう気持ちから来るものなのか、はかりかねたが、いかんせん外は寒い。
「・・・まぁ、あがりなよ。・・・今夜は降るかもしれないから、自転車は三和土に降ろしておくといい。」
「ありがとうございます。」
「あぁそうだ。来るって思ってなかったから、食料の買い出しに行かなきゃ。車、出してくれる?」
知らず言葉が弾む。
嬉しい。嬉しい。
「もちろん。それと・・・あとこれもらってくれますか?」
差し出されたのは、スペアキーだった。
「いや、だめだよ。こんな大事なもの。それに、万一の時困るでしょう?」
「大丈夫。木下さんのことは、信用しているし・・・。
実は俺、ここに移住しようかと思っていて。」
開いた口が塞がらない。
「そ・・・れは決めたことなの?」
「今回は、家探しも兼ねてます。」
難しいと思うなぁ・・・。
閉鎖的な町。空き家はあるかもしれないが、相当手を加えないと住めないだろうし、土地や家の持ち主が得体の知れない人間に譲るとは思えない。ここに住むのは簡単なことじゃない。それをどう伝えたらいいか。
「そもそもさ・・・どうしてここに住みたいの?」
「俺、ずっと海沿いばかり旅してて、山は今回初めてだったんです。木下さんに会えて、ここいいなって。」
そんな安直な。
嬉しいよ?嬉しいけれど、現実はそんなに甘くはない。
しばらく思案した結果、妙案を思いついた。
「ねぇ。しばらくうちに仮住まいするのは?春になっても気が変わらなかったら、役場に相談して、空き家をリフォームできないか相談してみようよ。」
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