榊医師の非日常

結城 鈴

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榊医師の非日常

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 無事、高校二年に進学し、部活動勧誘会なるイベントの途中だ。自分は陸上部で、短距離をやっている。新入生もちらほら集まってきていて、部長と副部長が説明に当たっていた。そして、それは突然やってきた。
やばい。
土曜の午後、校内に人は残っていないと思う。けれど・・・。
「先輩、オレちょっと抜けて大丈夫ですか?」
横にいた、三浦に声をかけた。緊急事態だ。家に帰りたい。
「どうした?って・・・渡良瀬、顔真っ青だぞ?腹痛か?」
「・・・そんなとこです。」
「トイレ行ってこいトイレ。」
トイレ・・・。行けるもんなら行きたいけど。学校のトイレは暖房便座じゃないし、ウォシュレットもついていない。そんなトイレでは・・・できない。
「すいません。先帰らせてもらっても?」
「あー・・・。じゃぁ部長にはオレから言っとくよ。おまえここのところタイムもあんま良くないんだから、後でちゃんと謝れよ?」
お大事にーと言葉を背に受けて、部室に戻る。大急ぎで着替えを済ませて、校門へとダッシュした。ここから一番近い、理想のトイレは・・・帰り道の途中にあるスーパーのトイレだ。そこまでなんとしても堪えなければ。
 オレ、渡良瀬純也はトイレが苦手だ。特にいじめられた思い出があるわけでもないし、小の方は問題ない。が、問題なのは大きい方だった。ここ数ヶ月悩んでいるのだが、お尻が痛いのだ。便秘をするわけでもないので、一日一二回は泣かされている。かといって、病院は敷居が高いし・・・。家のトイレでゆっくりできる時はいいのだが、外出先となると、苦痛はさらに増す。声も出せないし、長時間籠城するわけにもいかないしで、困るのだ。
トイレトイレ頭の中で唱えながら、とはいえの競歩。走るとお尻に響くのだ。やっとたどり着いたスーパーのトイレは、ありがたくも一階の出入り口の横にある。よし。先客はいない。ドアを開け、温かな便座に座り・・・。しかし、痛みが先立ってしまい、便意が遠のいてしまう。毎日これの繰り返し。シャワーで刺激して、なんとか呼び戻そうとするも、なかなかうまくいかない。そうこうしているうちに、コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。コンコンとノックで返すものの、待っている人だって急ぎに違いない。あきらめて、一旦ズボンを上げ、外に出た。すれ違いざま、待っていたと思われる人とぶつかる。
「おっと。」
クマのような体型のその人は、悠々とトイレに入り、数分後出てきた。
「あれ?さっきの・・・?」
クマは、自分がさっきまでトイレにいたことを覚えていたらしかった。けれど、そうこうしているうちに、また便意の波がやってきたのだ。今度こそここで出したい。
「す、すみません。」
とりあえず謝って、トイレを譲ってもらう。パタンと扉を閉めて、今度こそと力んだ。
「うっぅ~っ。」
あまりにもの激痛に、唇を噛みしめても悲鳴が漏れる。握った拳を腿に置き、背中を丸めて堪える。やっとの事で出し切ると、全身うっすらと嫌な汗をかいていた。だが試練はこれで終わりではない。ウォシュレットのぬるま湯で、尻を洗おうとした時だった。水圧の高さに、またも悲鳴。染みて激痛が走ったのだ。
「っあ!」
慌てて水圧を調節し、しょぼしょぼと尻を洗う。いつもよりも、痛いような気がする。そう思って、紙で尻を拭った時、それは確信に変わった。
「なんだこれっ!?」
鮮血で染まったトイレットペーパーを見て、愕然とする。慌てて便器をのぞき込むと、水が血の色に染まっていた。
「わ・・・。」
慌ててズボンを上げ、流そうとしたその時だった。
「おいおまえ。さっきから大丈夫かよ?」
さっきのクマの声だった。
「あっ・・・いえ。あの・・・なんでもない・・・です。」
しどろもどろになりながらトイレットペーパーを見つめる。尋常じゃない出血に、泣きそうになる。
「おい?何か困ってるんなら言え。店員を呼んできてやるから。」
「いえっ。いいです・・・。」
親切な声だ。しかし返事は消え入りそうに弱々しい。
「いいからここあけてみろ。・・・俺はこれでも医者だ。」
え?お医者さん?
「ほ、ほんとうに?」
「本当だ。信用していいから、開けろ。」
言われて、恐る恐る扉を開けた。クマがずいと中に入ってくる。
「すごいな。どっちからだ?尿か?尻か?」
「お・・・お尻・・・。」
小さな声で答える。
「痛むのか。切れ痔か?」
「たぶん・・・。」
答えると、クマはたぶんだぁ?とこちらを振り仰いだ。トイレの水も流してしまう。
「こ、こんなになったの初めてで・・・。」
トイレットペーパーに少量の血がついていたことならあれど、便器が染まるほどの出血をしたのは初めてだった。
「オイオイ真っ青じゃねーか。大丈夫じゃねぇな。外のベンチで座ってろ。水持ってきてやるから。」
頷いて、スーパーの外へと転がり出る。ショックのあまり、足下がふらつくのだ。しばらくして、クマは買ってきてくれたのだろう、水のペットボトルをくれた。
「榊だ。近くで、開業医をしてる。専門は肛門科、消化器内科だ。・・・来るか?」
「え?」
榊と名乗ったその医者の意図がわからなかった。今日は土曜日で、診察は終わった時間だろう。だからこそ、ここにこうしているのだろうし。買い物袋にはビールが買い込んである。
「あの・・・病院ってもう終わってますよね?」
「急患随時受け付け。」
来るの?こねーの?とせわしなく聞かれて、つい頷いた。
「よし。車はあっちだ。歩けるか?」
駐車場を指されて頷いた。
「あ、オレ渡良瀬純也です。」
車のドアを閉めたところで、名前を名乗った。榊はふーんと鼻を鳴らすと、滑らかに車を発進させた。車は黒のレガシィだった。
程なくして目指す榊医院に到着した。一階が駐車場になっている四階建ての建物で、二階が診察スペースらしかった。車を降りると、裏口から通される。階段を上ると、消毒液の匂いがした。
「おまえはここで待ってろ。」
待合室のベンチに座るよう促されて、腰を下ろす。お尻の中心が、じくじくと痛かった。ややあって、診察室の方から、榊の声がした。
「おい。こっちだ。診てやるから来い。」
「あ、はい。」
呼ばれて入ってみたものの、どう考えても尻を見せるのだ。今更恥ずかしくなってきた。しかしその恥じらいは、ベッドサイドに置かれた器具を見て、恐怖心へと変わる。敷居の高い肛門科だ。けれどネットでいろいろ調べた。病院の場所は言うまでもなく、どんな風に診察するのかも。どんな器具を入れられるのかも。
「おい。固まってねーで、問診。」
榊は、机の前の椅子に座ると、その前に置かれた椅子に自分を招いた。
「いつから痛いの?」
「三ヶ月くらい・・・前。」
「そんなに放置すんなよ。よく我慢できたな。」
トイレしんどかったろう。呻いてたもんな、とスーパーでの痴態を揶揄される。
「同じところが切れて、治る前にまた傷ついちゃって・・・の繰り返しで・・・。オレもどうしていいかわからなくなっちゃって・・・。」
「市販の薬は使ったか?」
問いかけに、ぷるぷると首を横に振る。痔の薬なんて、頼まれても買えない。
「ふーん。じゃぁ、見るから、ベッド上がって。ズボンを腿まで下げて、こっちに尻向けて膝を抱える。」
ぽんぽん、と榊の要求に、しかしのろのろと応えて、尻を差し出した。ぴち、と榊が手袋をした音がした。いよいよだ。
「指で診察します。力抜いてー。」
痛みを想像してがちがちに緊張していると、榊は指先のジェルを少しだけ中に押し込むようにしながら肛門をマッサージするように撫ではじめた。やがて、ふ、とそこの力が抜ける。榊は見計らったように、指を中に差し込んだ。くるりと回して、すぐ抜かれる。
「機械入れるぞー。」
言うなり、冷たい感覚が尻に当たり・・・後は何も感じなかった。カチャリ、と音がして、中を見ている気配がする。それもつかの間で、すぐに機械も抜け出ていった。ティッシュで尻を拭われる。
「ハイお仕舞い。」
「え?」
「ふふん。俺上手いだろう。麻酔が効いてるうちに、楽になる軟膏入れておいてやるからな。」
薬棚から、榊が白い小さなチューブを手に取った。キャップを外して、尻に挿入されるが、感覚がない。
「麻酔・・・?」
「健康な尻にはいらないが、傷ついてるからな。痛いと可哀想だろう?」
終わったんだから、もう泣くな、と目尻を拭われて、始めて涙を浮かべていたことを知った。
「カルテ作るから、少し待っててくれ。あぁ。そこの紙に必要事項記入しておいてくれ。」
「保険証・・・。」
「あるんなら次回でいい。」
「あ・・・はい。」
榊の物言いは、簡素だ。ぶっきらぼうと言ってもいい。だが、そんな榊の容貌や口調なんかどうでもよかった。あの指が魅力的だ。手袋越しだったとはいえ、一つも痛みを感じさせることなく診察を終えた。その手技に惚れ惚れとしてしまったのだ。
「診察時間内に来れば、今度はおまえにも見せてやるから。」
「なにをですか?」
「おまえの肛門がどうなってるか。今は便利なものがあってな。デジタル肛門鏡ってやつで、撮影ができるんだ。今日、どこから出血したのかも見せてやれる。薬はとりあえず一週間分。終わったら必ずまた診せに来ること。いいな?」
こく、と頷いていた。三ヶ月以上も煩ったのだ。一週間で治るはずがない。そう思ってのことだった。

 「渡良瀬、最近調子良いな。」
とは100メートルを走りきったところで、ストップウォッチを持った三浦先輩だ。調子がいいのは、足ではなく、尻なのだが、そんなことは口が裂けても言えない。
 そう。榊医院で渡された薬を使い始めてから、尻の調子がすこぶるいいのだ。痛みはもうほとんどないし、出血もない。明日が約束の土曜日だが、再診を悩むほどだった。でも・・・と思う。親身になって診てくれた。優しかったように思うのだ。榊先生は、外見からかけ離れた、とても繊細な診察をしてくれた。あの指が、忘れられなかった。痛くない時だったら、どんな感じなんだろう。お尻に指を入れられることが楽しみだなんて、それこそ口が裂けても、だけれど。なんとなく、病院をすっぽかす気にはなれなかった。
「何物思いに耽ってるの。」
三浦が、タイムを記録しながら話しかけてくる。
「そう言えばおまえさ、先週部活の勧誘の時途中で抜けたじゃん?大丈夫だった?」
「だ、大丈夫です。っていうか、戻れなくてすみませんでした。先輩こそ部長に何か言われませんでした?」
「言われた。けど・・・体調不良じゃしょうがないよな。」
ぽんぽん、と肩を叩かれる。三浦は良くこうして、隙あらば体を触ってきた。気がある・・・気がしてならない。自慢ではないが、自分は男女とも老若男女問わずもてる方だ。けれど、できれば、若い女の子とだけお付き合いしたい。男と付き合うことなど、考えたくもなかった。
「はは。すみません。気をつけます。」
愛想笑いで返して、スタート地点に戻った。

 土曜の午前中。診察時間ギリギリを見計らって、榊医院を訪れた。できれば、学校の誰にも気付かれたくないからだ。
待合室に患者はなく、受付に行くと、事務の美人な女性が、初めてですか、と尋ねてきた。先週のいきさつをかいつまんで話すと、少々お待ちくださいね、とベンチを勧められた。
最近、痛みがないおかげで、椅子もトイレも怖くなくなってきていた。それでも、そっと座って、受付の奥に引っ込んだ女性を目で追う。すると、奥にちらりとクマの姿が見えた。榊先生だ。慌てて目を伏せるも、視線がかち合った気がする。
しばらくして、女性がカウンターに戻ってきた。
「渡良瀬さんですね。確認が取れました。今日、保険証はお持ちですか。先週の分のお会計もお願いしますので、やや高額になりますけれど。」
財布の中を思い起こして、大丈夫と頷く。
「では中へどうぞ。」
廊下を進むと、診察室の前の廊下に、看護師が一人立っていて、こちらですと手を上げていた。ここまで来て、はたと気が付いた。もしかしなくても、お尻、看護師さんも見るんだ!
かーっと顔が赤くなり、動悸がしてきた。誘導されるまま、榊の座る椅子の前に座ったが、顔が上げられない。
「おい?顔が赤いようだけど・・・どうした?」
聞かれて、ちら、と看護師に目をやる。榊はそれで気が付いてくれたらしい。
「馬場さん、悪いがちょっと準備だけして下がっててくれないかな。多感なお年頃なんだ。」
「あっ。ハイわかりました。」
馬場さんと呼ばれた看護師は、せわしなく動き回ると、すーっとどこかに姿を消した。ほっと、胸をなで下ろす。
「すみません。」
「緊張したか。」
榊の声に、こく、と頷いた。
「で、その後どうだ。」
「はいっ。すごく調子良いです。薬を忘れちゃうと違和感が出るけど・・・。」
「忘れるほど調子良いか。良かったな。さて、じゃぁ今日は約束のもの見せてやる。この間と同じに、尻をこっちに向けて丸くなって。」
言われるがまま、しかし、二度目だ。榊の手は痛みを与える手じゃない。そんな安心感があって、ベッドにすんなり上ることができた。ズボンを下げると、榊がタオルを掛けて、前を隠してくれた。
「さて、じゃぁまた指からだな。」
きゅ、と目を閉じて、その時を待つ。榊は、前と同じようにゼリーを使って、肛門を開いた。
「ふ。」
異物感に、声が漏れてしまったが、痛みはなく、その異物感もすぐに消えた。ただ、前回よりも少し触診が長い気がしたが。
「ここだ。痛くないか?」
「は・・・はい。」
答えると、榊の指が抜けて出ていった。
「じゃぁ、次はデジタル肛門鏡入れるから。麻酔が効いてる。怖がらなくていいからな。」
こく、と頷くのと、それが差し込まれるののどちらが早かったか。異物感も痛みもなく、妙な視線を感じながら、抜いてくれる時を待つ。それは程なく抜けて出ていった。
「着衣直していいぞ。今モニターに出してやる。」
いそいそと、服を直して、指し示されたモニターを見た。そこには、ゼリーでてらてらと光る蕾が映っていた。思わず赤面して目を反らす。が、すぐにその映像は、ピンク色になった。
「ここだ。先週出血したところ。」
ボールペンの先で、箇所を指し示してくれる。そこは確かに他のところと違って、傷ついていた。
「痛くないのに・・・治ってない・・・?」
無意識に呟くと、榊はそうだ、と頷いた。
「もう一週間薬が必要だな。口の中と同じで、治りは早いが、こじらすとこうなる。まぁ、若いから次の診察で様子見て、薬を変えていこう。」
そうか。自分はまたここに来るのか。ボールペンを白衣の胸ポケットにしまうその指先の整えられた爪が目に入った。
「先生、爪、綺麗ですね。」
「三日に一度は手入れしてるからな。万が一患者を傷つけたらことだからな。」
「ですよね。」
はは、と乾いた笑いがこぼれた。医療従事者が、ましてや、触診をする肛門科の医師の爪が長くてどうする、だ。
「よし。今日はお仕舞い。帰りに軟膏もらってくの忘れないようにな。あ・・・おまえ飯は?」
「は?」
思い出したように首をかしげる榊に、こちらが首をかしげてしまった。
「ご飯なら、帰って食べますよ。たぶん。」
お尻の診察のあとで、今のところ食欲はない。
「たぶんだぁ?あのな。痔に一番悪いのは、便秘と下痢なの。それをしないためには、規則正しい食生活が重要なの!おまえ、うちで飯食って帰れ。」
「な、なんでですか!」
抵抗すると、榊はやれやれと溜息した。
「土曜のこんな時間に診察に来て、財布にはそこそこの金を入れてる。かといって、筋肉のつき具合を見ると、なんかの部活にはいってるんだろうから、バイトした金じゃない。ってことは、親の金だ。そしてその親は金の使途についておまえにとやかく言わない。そんな親が、昼飯用意して待ってるか?どうせ忙しい共働きかなんかなんだろ。」
図星を指されて、言葉に詰まった。野菜不足のコンビニ生活は認めよう。だから、自分の内臓はこの若さで、便秘と下痢を繰り返してしまうのか。指摘されて始めて気が付いた。
「先生が作ってくれるんですか?」
「買い出しに行ってからだ。あぁ・・・おまえと初めて会ったスーパーに、俺の好きなビールが置いてあるんだ。土曜の昼の診察が終わったら、つまみと酒を買って、日曜はだらだら過ごす。これが俺の休日の過ごし方なの。」
なんか自堕落な生活・・・。
「先生の有意義な休みを邪魔しちゃ悪いんで、帰ります。」
「そうか?時間がないなら、焼きそばくらいならすぐできるぞ。」
「先生それ・・・野菜は?」
「もやしとキャベツだ。」
キャベツは胃腸にいいんだぞ。と榊が笑っている。つられて笑ってしまったものの、どうしていいかわからなかった。一人で食べる昼食は、焼きそばより野菜の少ない、カップ麵とかおにぎりとかだ。かといって、会ってまだ二度目の榊に甘えるのはなんだか気まずい。しかも相手は、肛門科のお医者様だ。
「・・・悩んでるならついてこい。オムライスは好きか?」
「オムライス、ですか?」
「近くにいい洋食屋がある。ランチタイムに間に合うだろうから、連れてってやるよ。」
焼きそばからぽんっと洋食屋に昇格した昼食。しかし、財布の中身は診察代と薬代でほとんど残っていない。
「オムライス、好きだけど・・・。」
言い淀むと、察したのか榊が苦笑した。
「高校生の財布の中身くらいわかる。ご馳走してやるから付き合え。」
「・・・いいんですか?」
榊には、尻も、尻の中も見せた仲だけど・・・。患者と医者の一線って、そんな簡単に越えていいのだろうか。
「俺が一人で食いたくない気分なんだ。ついてこい。」
榊は言い切ると、白衣を脱いで、無造作に椅子の背にかけた。

 評判のオムライスは、ランチタイムで千二百八十円。ちょっとだけ贅沢な昼食を甘えてしまっていた。榊はカツカレーを食べている。どちらもボリューム満点だ。
「あの・・・先生?」
「なんだ。・・・っていうか榊だ。」
榊と呼べと言うことだろうか。無理だと思った。
「先生って呼んじゃ駄目ですか?」
「・・・駄目じゃねぇけど・・・。飯が不味くなる。」
カレーを食べる榊に、何となく察して、苦笑した。
「先生・・・いつも患者さんここに連れてきたりしてるんですか?」
気になっていたことだ。オムライスのデミグラスソースをスプーンの先に掬って舐める。少し苦い。
「まさか。患者を連れて来たりしない。」
「え?じゃぁなんで?」
頭の中は疑問符でいっぱいだ。てっきり、看護師や患者を誘っているものと思い込んでいたからだ。だが、榊は嫌そうに眉を顰めた。
「おまえなぁ。普通に考えろ?そんなことするわけがないだろう。」
榊は断言するが、じゃぁこの状況は何?だ。それが顔に出たのだろう。
「おまえは、俺が拾った患者だからな。ちゃんと面倒見るつもりなの。まだガキだしな。」
拾った患者?
「・・・医者って言うのは普段は受け身なの。緊急事態でもない限りは、病院で待ってるところに患者が来る。治っても治らなくても、いずれは来なくなる。そういうもんなの。でも、おまえは違う。俺がスーパーで拾ってきたの。だから、なんつーか・・・責任感が違うって言うか・・・。難しい感覚だけどな。おまえには治す意思があるし、ちゃんとしてやりたい。」
そうか・・・。オレ拾われたのか。榊の言い分では、今の状況は彼にとって非日常ということになる。
「先生・・・。なんか、ありがとう。」
「よせよせ。それより、飯は足りるか?」
食べ盛りだろう、と榊がメニューを見始める。デザートのページだ。
「甘いもんでも食うか?」
「もう、お腹いっぱいです。」
正確には、お腹というか、胸がいっぱいだった。榊が自分のことを少し特別に考えているだろうことがわかるからだ。それが嬉しかった。

 処方された薬が終わって、次の土曜。待合室に誰もいないのを確認して、受付に診察券を出す。すると、榊がまた、さりげなく人払いをした。
「調子はどうだ。」
「もう、トイレは全然痛くないです。毎日すごく楽です。」
榊は目を細めて笑うと、ベッドを指さした。
「診るから。」
それだけで、ズボンを下げてベッドに上る自分がいた。慣れたものだ。その股間を隠すように、榊がタオルを掛けてくれる。そして、先週そうだったように、また手袋をはめた手で、肛門に触れた。麻酔のゼリーの冷たさに、一瞬体が竦む。その呼吸が、ふーっと抜けた頃を見計らって、榊の指は中を診始めた。
「・・・うん。傷はほとんど治ってる。弱い薬に変えて良いだろう。この薬は一ヶ月分出せるから、次に会うのは一月後だな。」
「えっ・・・。」
「なんだ。不満か?こんなところ、一週おきに通いたくなんかなかったろうに。」
そうだろうか。確かに最初は恥ずかしかったが。今はそうでもない。なにより、榊の指は優しいのだ。痛みはなく、ぬるぬるとそこを開かれることにも慣れてしまっていた。
「先生、来週も来ちゃ駄目?」
「出血でもしない限りは来なくていいぞ。・・・まぁ飯くらいなら付き合ってやってもいいがな。」
榊は口の端を上げて笑った。その優しげな笑みに、思わず破顔した。
「本当?」
「あぁ。でもその前に・・・。今日はもうちょっと奥まで診るぞ。いいか、絶対覚えるなよ?」
そう言うと、榊の指は感覚のない蕾に潜った。奥まで、と言った通り、いつもより深く入ってきた指は、中でくいっと直腸を押した。
「ふぁっ・・・。」
あまりにも急に訪れた、痺れるような刺激に、声が漏れる。慌てて両手で口を塞いだ。榊の指は、撫でるようにそこにふれている。その間中、味わったことのない感覚が、下腹を駆け巡った。
「痛くないな。」
問われて、こくこくと頷く。
「まぁ若いから当然ちゃ当然だな。健康健康。・・・おいおい、泣くほど良かったか?」
良かった?今の感覚が?言われて、目尻にたまった涙を拭い、着衣を整えようとした。が、そこで思わぬ事態に遭遇してしまう。股間が大変なことになっていたのだ。慌てて手でそこを隠したが、遅かった。
「・・・純也、スゲー敏感。トイレは突き当たりだ。いいか。はまるんじゃねーぞ。」
純也、と名前で呼ばれたことにも驚いたが、榊は何事もなかったように、タオルを畳み、カルテに向かっている。股間が冷たい空気に触れて、ひくりと脈打った。
「せ、せんせいなにこれっ?」
「何これって、正常な反応だ。気にすることはない。辛いだろう?出して来ちまえ。」
中心は熱を持って、とくとくと疼いている。でも、時間が経てば収まりそうだった。恥ずかしかったが、無理やりズボンを上げると、少し前屈みになりながら、榊の前の椅子に座った。
「あの・・・さっきのあれ、なんですか?」
「あぁ。前立腺の状態を見たの。学校で習ったろう?男の泣き所だよ。」
「それって、すねじゃぁ・・・。」
「それは弁慶の泣き所。馬鹿かおまえは。」
うっと言葉に詰まる。確かに、走ることには長けていても、勉強は今ひとつだ。保健体育の授業は半分寝ながら聞いている。
「あ、そうだ。先生あのね。オレ、陸上部なんだけど。調子良くなってから、すごくタイムが良くなって!先生のおかげです!」
「そうか。良かったな。」
榊はカルテから目を上げると、嬉しそうに微笑んだ。
「今日も飯付き合うか?」
「・・・いいんですか?」
「俺が誘ってるんだ。」
嬉しくて、股間が大変なことになっているのを、忘れて笑っていた。すると、榊が、それを鋭く指摘する。
「それ、なんとかしてからだな。」
かーっと耳まで赤くなったのがわかって、俯いた。

 土曜の午後。早くも葉桜になったグラウンドでストレッチをしていると、三浦がやってきた。
「渡良瀬、また自己ベスト更新したな。すごいじゃん。」
ノートをパラパラとめくる三浦は、自分のことのように嬉しげだ。それに思わずはにかみ笑いを浮かべてしまう。榊医院に通ってから、ほぼ毎週のように記録は伸びていた。そう、普通だったら土曜の午後は部活の時間。授業が終わったら弁当を食べて、夕方まで平日とは別メニューをする日なのだ。
つまりは、自分にとっても榊と過ごした時間は、非日常ということになる。これが普通、と言い聞かせても、どこか淋しい気がするのは否めなかった。どうしてこんな気持ちになるのだろう。答えは単純だ。榊が少し優しくて、自分を少しだけ特別に扱ったせいだ。その非日常が、自分はとても、嬉しかったのだ。傷を癒やしてくれた魔法の薬は、あと一週間分。来週には一月ぶりに榊に会えるのだった。それを心待ちにしながらも、部活を休む理由を探さなくてはいけない後ろ暗さと引き替えで。当然、肛門科に通うためなんて、声を大にして言えるはずもなく。
「なんか考え事?」
三浦は、隣に腰を下ろすと、優しい声音で聞いてきた。
「えっと・・・。いえ。なんでもないんですけど・・・。」
来週部活をサボる言い訳を考えていました、とも言えず、ごにょごにょと誤魔化した。
「そう?そういえばさ。タイム上がりだしたのって、今年度からだよね。冬休み当たりは絶不調だったじゃん。なにかあった?」
ぎくりと顔が強ばった。
「・・・普通に寒かったからじゃないですか?オレ、寒さに弱くて。」
嘘は言ってない。実際、榊にも冬場は調子を悪くする患者が多いと聞いていた。
「そう?新入生も入ったし、いいところ見せられて良かったな。」
「そうですかね・・・。」
はは、と笑って流す。いい先輩なのだが、どうもこの三浦は好きになれなかった。なんというか、妙に馴れ馴れしいというか。そんなところがあるのだ。リレーや駅伝をしているわけじゃない。短距離は個人だ。そこが魅力的なのに、こうして絡まれるのが苦手だった。
「ね、渡良瀬。終わってからでいいんだけど、ちょっと話いいかな?」
「え?今じゃ駄目ですか?」
「・・・うん。できれば。」
悩んだが、頷いた。
 そして、日も落ちた帰り道。駅までを歩きながら、三浦が口を開いた。
「ね、渡良瀬。どこか悪かったの?・・・この先の、榊医院の近くで、おまえのこと見たって、クラスの友達に聞いたんだけど。」
え?
思わず、目を見開いて固まってしまった。
「あ。やっぱりそうなんだ?」
三浦は、ニヤニヤと笑っている。
「もしかして、人に言えないような恥ずかしい病気だったりして?」
言い方に、知られているのだと悟った。すーっと体が冷えていくのを感じて、足が止まる。
「ほんとに?」
そう聞かれても、頷くことなどできるはずもなく。アスファルトに視線をすがらせて、三浦の興味がそれるのを祈った。
だが、それは虚しい祈りだった。それどころか、とんでもないことを言いだしたのだ。
「渡良瀬、原因って何?」
「えっ?」
原因は、単なるお腹の不調だ。だが三浦はそうは思っていないようだった。それが何なのかはかれずにいると、三浦が小さく首をかしげた。
「男・・・ってこと、ある?」
「は?」
尻の不調の原因が、男??
ぽかんと口を開いてしまった。
「えっと?話が見えないんですけど・・・。」
「あれ?なんだ。違うの?じゃぁさ、あらためてお願いがあるんだけど。あ、ちょっとまって、もすぐ駅だからそこで聞いて。」
三浦の声音が、意地悪そうなそれから変わったことに気が付いた。甘く媚びるような声だ。三浦は、駅前のロータリーの中心にある噴水の前まで、自分の袖を引いて歩くと、少し溜めてから口を開いた。
「付き合って欲しいんだけど。」
「は?」
「渡良瀬、男、駄目?」
そこまで言われて、ようやく気が付いた。三浦が何を言っているのかに。
「だっ・・・だだだ、駄目です!ダメダメ!」
「えっ?嘘。ホントに?」
両手を前に突き出して、ぶんぶん振った。
「ホントに!」
ホモだと思われていたのか。というか、三浦がホモなのか!
狙われていた。だからあんなに馴れ馴れしかったのか。ことの顛末に気が付いて、自分は違うと釈明する。でも、三浦は信じてくれなかった。
「だって、部活サボって、おっさん相手にエンコウみたいなことしてたでしょう?見たって言うやつがいるんだから!そんなことするくらいなら、俺と付き合おうよ!」
まさか、榊と食事に行った時のことを言っているのだろうか。
それも違う。いかがわしいことなんかでは決してない。けれど、それを三浦に言うのは嫌だった。榊とのささやかな思い出は秘密にしておきたかったからだ。
「と、とにかくオレ違うんで!そういうの無理なんで!」
断ると、三浦はがっくりと項垂れた。
「嘘だぁ。・・・っていうかジンクス嘘だったじゃん・・・。」
「ジンクス?」
三浦が一つ頷いた。
「この噴水の前で告ると、うまく行くって。」
「それって、男女の場合じゃ。」
「違うの!男と男の場合の話!」
三浦はここが、ホモの間で密かに有名なスポットであることを一気にまくし立てると、じゃぁね、と駅に向かって歩き出した。取り残されて、唖然としてしまったが、とにかく帰らなければと、大きな溜息をついた。

 薬がなくなって一週間。本当なら、先週部活を休んで榊医院に行くはずだったのだが。三浦に目撃者がいると言われて、慎重になっていた。尻の調子は良かったし、行かなくてもいいようにも思えて、ずるずると一週間延ばしてしまっていた。
土曜日、部活に出て、これが日常、と思いながら帰路についたところだった。なにが悪かったかわからないが、急な腹痛に襲われて、スーパーに駆け込んだ。榊に拾ってもらったスーパーだ。けれど、今はそんなことを考えている余裕はない。とにかくすぐにトイレだ。用を足すと、腹痛は嘘のように治っていた。ほっとしてトイレから出ようとした時だった。コンコン、とノックが聞こえた。コンコン、とノックで返し、しかし水を流す。急ぎでも、音で出ようとしているのがわかるだろうと思ったからだ。着衣を整えて、ドアを開けると、見覚えのある顔が立っていた。
「よぉ。」
榊だった。
「先生・・・。」
「どうした。大丈夫か?」
目元を拭われて、潤んでいたことに気付く。
「真っ青な顔して駆け込んでいくのが見えたんで、様子見に来たんだ。どうした?」
普段、この時間に榊はいないはずだ。土曜日は診察が終わったらビールを買いに来て、家でだらだら過ごすと言っていた。
「お腹痛くて。でも、大丈夫・・・。先生どうしているの?」
「腹痛だぁ?」
榊の手が、腹部に触れる。探るような手つきに、しかし体温が心地いい。されるままになっていると、榊はうん、と頷いた。
「治まったんだな?」
「あ、はい。」
「じゃぁ大丈夫だろ。続くようなら明日来い。」
明日は日曜日。病院は休みだ。
きょとんとした顔をしていると、榊が溜息をついた。
「オレは今週休みがねぇの。今日は学会で、まぁ病院の方は休みだったが、明日は当番医に当たってて。そういうわけだから、明日は休みじゃねぇの。急患随時対応。」
そう言う榊の買い物袋には、確かにビールが入っていなかった。
「じゃぁ、本当にたまたま?」
「あぁ。まぁ、そうだな。」
榊は少し微妙な顔をしたが、すぐにいつもの笑顔になった。
「先生?」
尋ねると、ここじゃなんだから出ようぜ、と連れ出される。
駅の方へと車で送られながら、少し叱られた。
「おまえさぁ。先週来なかっただろう。待ってたんだぞ。」
「・・・すみません。」
いろいろ事情があって、とは本人には言えない。何となく、榊が好きで肛門科をやっているようではないことを、薄々察していたからだ。その榊に、人に見られて恥ずかしかったから、とは言いづらかった。そのせいで、三浦に告白されるような事態に陥ったことも、もちろん言うつもりはなかった。
「先生、ごめんなさい。」
「いや・・・。今週休まなきゃならないのをおまえに言ってなかったからな。だから、今日あたり来るんじゃないかと思ってよ・・・。」
もしかして、待っていてくれた?
榊の言い方に、かぁっと耳が熱くなる。自分はおかしい。榊の些細な言動や、こうして車で送られたりすることが、嬉しくてたまらない。もしかして、本当は三浦の言っていた通り、自分はホモで、榊のことを好きになってしまったのだろうか。
そんなことが、あるだろうか・・・。
「ねぇ先生。この駅の噴水のジンクスって知ってますか?」
問いかけると、榊はあぁん?と視線をこちらによこした。車はロータリーの隅に停まっている。噴水を背にしていた。
「高校生が何考えてるかなんてしらねぇな。・・・この噴水には近寄るな。」
「なんでですか?」
「有名なスポットなんだよ。男のナンパの。」
三浦から聞いた話とは少し違うが、やはり男同士の恋愛に関わる場所なのだと言うことは知れた。
「この辺で泣かされた患者なんかがたまに来るの。・・・おまえはそんなのになるなよ。」
釘を刺されるが、自分にそんなつもりはないし、逃げ足には自信があった。
「・・・なりませんよ。」
とても、榊に気持ちを伝えられる雰囲気ではなかった。恋愛感情かどうかはわからないが、榊を好きなこの気持ちを。
「先生じゃぁ、オレ帰りますね。送ってくれてありがとうございました。」
「あぁ。腹、ホントに大丈夫か?明日は開いてるから、遠慮しないで来るんだぞ。」
「大丈夫です。ありがとうございました。」
お腹の痛みはなくなっている。大丈夫そうだと思った。榊が手を振って見送ってくれる。それに、軽く頭を下げて、車を降りた。

 どうしよう。この気持ちをどうしたらいいんだろう。
一度自覚してしまうと、「榊のことが好き」という思いは、消えてくれそうになかった。けれど、昨日の腹痛は治ってしまったし、薬はなくなってしまったけど、調子は悪くないしで、病院にまでかかる理由がなかった。行けば、榊のことだ、食事くらい連れて行ってくれるかも知れない。けれど、それは自分が子供だからだ。榊は確かそう言った。出も今自分は、子供扱いされたくない。ガキだから、なんて言われたくないのだ。
「どうしよう・・・。」
時間が解決する?このまま、なかったことにして、日常に戻るには、少し膨らみすぎた思いを抱えて、枕に鼻先を埋めた。
榊のどこが好きかと問われれば、あの手指を思い出す。優しくて温かい手。苦痛から救ってくれたあの手が好きだ。少しぞんざいな物言いも好きだ。
ふと、前回の診察を思い出した。体の奥に触れられて、痴態を晒してしまった時のことを。思い出すだけで、深い場所に痺れが走った。
「わ。」
思わず声が上がってしまう。中心が熱を持ったからだ。
覚えるなって言われたのに・・・。
強すぎた刺激を、しかし体は忘れていなかった。ぎゅっと股間を押さえて丸くなる。
「どうするんだよこれ・・・。もー・・・。」
誰にも邪魔されない深夜の密室。けれど頭の中はぐちゃぐちゃで、快楽を追う気にはなれなかった。

 日曜日。スーパーで差し入れのプリンを買って、榊医院に向かう。体はどこも悪くない。強いて言えば寝不足だったが。
榊に会いたかった。
榊医院は、一階部分が駐車場の四階建てだ。診察室は二階にある。階段を上がって、ドアに手をかけたが、「休診」の札がかかっていた。ドアの横にインターホンがあったが、押すのはかなり勇気がいった。ドアの前で、プリンを二つ抱え座り込んでいると、ドアの鍵が開く音がした。ハッとして、立ち上がる。ドアの向こうには榊の姿がガラス戸越しに透けていた。
「先生・・・。」
「なんだ。どうした?」
こんなところに座り込んで、と榊は心配そうな顔をしている。
「なんでオレが来てるのわかったの?」
榊は扉を開けると、上を指さした。指の先には防犯カメラが設置されている。なるほど、と思ったが、この場でうろうろしているのを見られていたのかと思うと恥ずかしくてたまらなかった。
「ずっと見てたんですか?」
「いや。何となくモニター見たら誰かが座り込んでたから、急患かと思って・・・。」
そうか、とほっとして溜息した。だが、榊の眼光は鋭いままだ。
「どうした?やっぱり腹痛か?」
昨日の今日だ。しかし、榊の言葉に首を振って、プリンを差し出す。
「先生差し入れ。休みがないって言ってたから、甘いものでもと思って。えっと・・・それだけ。じゃぁっ・・・。」
半ば無理やり榊の手にプリンの袋を押しつけると、踵を返した。階段を降りかけたところで、後ろから襟首を掴まれた。
「純也、待て。・・・薬終わったんだろう?」
コクリと頷く。
「まぁ、入れ。」
躊躇したが、またコクリと頷いた。
 榊は、診察室の明かりをつけると、椅子に座るように促した。そこに、一人で取り残されてしまう。しばらくして、榊はカルテを手に戻ってきた。
「で、あれからどうだ?」
「あ・・・。えっと、何ともない、です。」
言い淀む。あれからが、腹痛を指しているのか、切れ痔を指しているのかわからなかったからだ。ともかく、治ってしまったとすれば、もう、本当にここに来る理由がなくなってしまう。
「診るから。」
あれから、はお尻の方を指していたらしい。榊はなんでもないことのようにそう言ったが、前の時のように、体は素直には動かなかった。
「どうした。恥ずかしくなったか?」
「いえ・・・。そういうんじゃなくて。」
「じゃぁなんだ。」
でも、だって、だ。体は楽な方がいいけれど、ここに来る口実がなくなるから、だなんて言えないし。俯いてしまうと、榊も溜息をついた。
「前にも言ったろう。おまえはオレが拾った患者だ。責任感が違う。完治したかどうか、ちゃんと見ておきたい。」
そこまで言われると、見せないわけにもいかなかった。
「・・・じゃぁ、お願いします。」
おずおずとズボンを下ろし、下着を下げてベッドに上がる。
すると、榊は薬品棚からいくつか何かを取り出して、ベッドの横のカートに乗せた。目の端に入ったのは、きらりと光る肛門鏡・・・。緊張して、きゅ、と目を閉じた。するとすぐに、尻に冷たいゼリーの感じ。そして、優しい榊の指が中に潜った。
「っ・・・。」
「・・・この辺だったな。」
榊が指先でそこを撫でた。痛みも違和感もない。やっぱり治っちゃってるんだ、そう思った時指が抜けていき、肛門鏡を挿入された。
「うぅ・・・。」
いつもと違う圧迫感に、うめき声が漏れた。
「お。わかるか?」
「何がですか?」
榊の方を見やると、嬉しそうに口の端を上げている。
「今日は、麻酔のゼリーを使ってない。」
「えぇっ?」
尻には確かに濡れた感触がある。けれど、そう言われてみると、いつもより感覚がある気がした。
「痛くないな?」
こく、と頷く。すると、機械が抜けて出ていった。
「よしよし。完治だ。綺麗に治った。・・・まぁ若いからな。
ちゃんとした生活してれば、ぶり返すこともないだろう。」
榊の満足げな声が聞こえてくる。着衣直していいぞ、と言われた時には、涙が頬を伝っていた。
「・・・純也?」
手袋を外した手が、頬を拭ってくれるが、涙は後からあふれた。
「どうした?そんなに治ったのが嬉しいか?」
困ったような声の榊に、俯いて首を横に振って見せた。
「・・・だって・・・。」
「だって?」
「だって、もう、榊先生に会えなくなっちゃうってことでしょう?」
差し出されたティッシュで涙を抑えて、けれど肩が震えてしまう。小さくしゃくり上げたところで、榊が溜息した。
「おまえなぁ。・・・しょーがねぇな。ったくよぉ。」
迷惑そうに鼻を鳴らす榊に、涙が止まらない。それはそうだろう。自分だって重々承知だ。
「ここは、肛門科だけどよ。消化器内科も標榜に上がってるだろ。診てくれって言われれば、擦り傷だって切り傷だって、火傷だって診てるの。大体おまえ、インフルエンザの予防接種とかだってやるんだから、来る理由なんていくらでもあるだろうがよ。」
「うそぉ・・・。」
びっくりして、目を見開いてしまった。
「嘘じゃねーの。そんなのより・・・俺は、どっちかというと素直に飯食わしてくれって来てくれた方が嬉しい。プリンも嬉しかったが、医者がガキに物ねだるわけにいかねーんだよ。わかるだろ。」
照れくさそうに話す榊に、涙が止まってしまった。
「じゃぁじゃぁ、先生もオレとご飯食べたりするの、楽しかったの?」
「そうだよ。」
視線をそらす榊に、思わず笑顔になってしまった。
「先生本当に?」
「本当だ。・・・ただし、おまえにそっちの気がなければの話だけどな。」
そっちの気、と言われてピンと来た。瞬時に三浦を思い出す。
「ちがいますよ。オレ・・・この間されたのはちょっと気持ちよかったかも知れないけど・・・ホモじゃないもん。」
体の奥に触れられて、中心を熱くしたのは、あまりに衝撃的で忘れようにも忘れられなかった。
「アレは俺もいたずらが過ぎたかと思ったよ。悪かった。」
榊は、ばつが悪そうに謝った。
「え?他の人にはしないの?」
「するよ。するけど、おまえはまだ若いからな。異常ないだろうことはわかってたから。」
ああなることがわかっていて、わざと触ったと言うことか。
「先生イジワル。」
「あぁそうだよ。」
榊がニヤリと笑う。
「それより、ハライタぶり返さなかったか?だったら飯に行こう。今日はランチはやってねぇが、その代わり日曜は特別メニューがある。」
「なんですか?」
「それは行ってのお楽しみだ。」

 特別メニューの大盛りカツカレー二枚乗せをぺろりと完食して、駅に向かっている。榊と並んで歩くのは、なんだかくすぐったい。車での移動も好きだが、歩くのが好きだった。
病院の昼休み。二人こっそり抜け出して、いつもの洋食屋。
榊と同じものをオーダーしたのも照れくさかった。榊曰く、尻の病に刺激物は厳禁だそうで。治ったお祝いに、カツカレーだったのだそうな。日曜日のカツカレーは特別で、一枚はロースカツ、もう一枚はメンチカツで、キャベツのサラダが山盛りついてくる。食べ盛りの胃袋の敵ではなかった。榊はその後、さらにわらび餅を食べていた。
 胃のあたりを擦りながらの帰り道。駅までは少し遠い。腹ごなしには丁度いい距離だったし、何より別れがたかった。
それでも、歩みを進めれば、だんだんと駅には近づいてきて。
噴水が見えたところで、榊が足を止めた。
「おまえ、本当にホモじゃないんだな?」
唐突に、榊がそう言った。
「違いますよ。」
「そうか。俺は職業柄おまえのことは抱いてやれねぇ。あそこは、セックスをするための穴じゃなぇからな。でも・・・それでもいいんなら・・・。」
「先生ちょっと待って!」
なんだかすごいことを口にしはじめた榊を止めて、慌てて噴水のそばに引っ張る。
「言うんならここで!っていうかオレが言いたい!」
榊が小さく舌打ちするのが聞こえたが、あえて聞こえなかったふりをした。
「先生、オレね。・・・先生のこと、好きになったみたい。」
「なんでぇ。中途半端な。」
男同士だぞ。もっと気合い入れろよ、と尻を叩かれる。
「好きです。これからも一緒にご飯連れてってください。」
「・・・おう。」
榊は、ニッと笑うと、肩を抱き寄せてきた。キスをされるかと思ったが、そうではなかった。それはそうだ。こんな白昼に男同士でそれはない。そのかわりに、きゅ、と手を握られた。
「よろしくな。」
こく、と頷いて、榊を見上げる。
なんだ。ここのジンクス、案外確率悪くないじゃないか。
「なんだ?」
「告白するなら、噴水でって思ってたから。」
榊が、あーと噴水を指さして固まった。
「やられた。ていうか、駄目だからな。絶対俺以外にここで声かけるなよ?間違いが起きても、そんときゃ助けてやんないからな?」
「わかってますよー。」
間違いってなんだろう。怖い答えが返ってきそうだと思いつつ、駅の方へと歩き出す。
 掛かり付けの榊医院は、家から電車で三駅。少し遠いが、学校帰りによれる距離だ。どんな言い訳を作って診察してもらおうかと考えていると、榊がぽんぽんと頭を叩いた。
「いいか。体調管理は怠るなよ?怠惰な患者は好きじゃねぇ。
そのかわり、いつでも遊びに来て良いからよ。」
手に何かを握らされる。
「家の鍵だ。裏口から上がって、俺の部屋で待っとけ。
土曜の午後と日曜はたいがい暇だ。」
榊はニッと笑った。

END
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