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第一章「雛祭」
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源太郎が十八になると、作太郎とともに与力見習になり、父の後にくっついて出歩くようになった。
すると、どこからともなく縁談話が湧いては消え、消えては湧き出てくるようになった。
源太郎の父八右衛門は、『どこそこの娘は、なかなかの器量良しだそうだ』と、源太郎に持ち掛けてくるのだが、その都度、源太郎は、
『はあ……』
という気のない返事をした。
源太郎にしてみれば、なぜ多恵ではないのだろうという思いがあった。
幼馴染であるし、与力の娘だ。
妻には持ってこいである。
源太郎も、多恵以外の女が白無垢を着て、自分の傍らに座ることなど考えられなかった。
八右衛門が隠居し、源太郎が本勤並となると、縁談話が現実の話となった。
八右衛門が持ち込んできた話は、どこかの旗本の娘で、その娘が源太郎のことを見初めて、源太郎でなければ嫁に行かぬと駄々を捏ねたらしい。
『どうだ、これはまたとない話だぞ』
八右衛門は乗り気のようだった。
『はあ、されど、旗本のお姫様が与力の新造など務まりましょうや?』
『馬鹿を申せ、お前が養子に行くのだ』
武家は家を継ぐのが当然である。
が、碌が上がれば、それまでの名前を捨てることなど雑作もなかった。
『父上、私、ようやく本勤並になれたのですよ。まだ、学ぶべきことは沢山あります』
『与力など、激務な反面、碌は低い。それに、どんなに励んでも年番方止まりじゃ。だが、旗本になれば幕府の要職に就けるぞ』
と、八右衛門は皮算用をする。
『私は、吟味方という仕事が好きですし、それに……』
『なんじゃ、言い交わした相手でもおるのか?』
そう訊かれて、源太郎は多恵の名前を上げそうになったが、
(多恵のことを好いているのは、自分だけかもしれない。多恵は、他に好いている相手がいるのかもしれない)
と思い直し、結局、彼女の名前は言わなかった。
『まあ、良く考えるんだな』
八右衛門がそう言った翌日には、奉行所内でも源太郎と旗本の娘とのことが噂になっていた。
『やったな、源太郎。これでお前も旗本か』
同じく本勤並になった作太郎が彼を呼び止め、羨ましそうに言った。
『まだ決まったわけじゃない』
源太郎は、作太郎の物言いにちょっとばかり腹が立った。
『なんだ、随分と機嫌が悪そうだな。まさか、この縁談、断るつもりじゃないだろうな?』
源太郎は目を逸らした。
『そうなのか? 何でそんな勿体ないことを? あっ、まさか、お前、あの饅頭娘のことを』
『煩いな』
『止めとけ、饅頭娘は所詮二百石取りの与力の娘だぞ。それに比べれば、旗本のお姫様なんて……』
『これは、俺の縁談だ。俺の好きなようにするさ』
源太郎は、足を踏み鳴らして作太郎の前を立ち去った。
『おい、あんまり馬鹿な真似はしなさんな』
作太郎は、源太郎の背中に言った。
縁談話は長引かせるものではない。
八右衛門は、
『源太郎、早く返事を出せ。さもなくば、わしが申し出を受けるぞ』
と急かす。
源太郎は、どうしたものかと迷っていた。
確かに、不浄役人と蔑まれる与力にはまたとない話だ。
だが、多恵のことは気になる。
この話が出てから多恵とは会っていない。
勤めの帰り道など、わざわざ遠回りになる中村家の前を通るのだが、屋敷の中からは多恵の声すら聞こえてこなかった。
その日も夕闇の中を、
(やれやれ、どうしたものか……)
と俯きながら海賊橋を渡った。
すると、
『あら、神谷様』
源太郎には嬉しい声が耳に入ってきた。
見れば、牧野家の桜の下に、愛くるしい饅頭顔があった。
すると、どこからともなく縁談話が湧いては消え、消えては湧き出てくるようになった。
源太郎の父八右衛門は、『どこそこの娘は、なかなかの器量良しだそうだ』と、源太郎に持ち掛けてくるのだが、その都度、源太郎は、
『はあ……』
という気のない返事をした。
源太郎にしてみれば、なぜ多恵ではないのだろうという思いがあった。
幼馴染であるし、与力の娘だ。
妻には持ってこいである。
源太郎も、多恵以外の女が白無垢を着て、自分の傍らに座ることなど考えられなかった。
八右衛門が隠居し、源太郎が本勤並となると、縁談話が現実の話となった。
八右衛門が持ち込んできた話は、どこかの旗本の娘で、その娘が源太郎のことを見初めて、源太郎でなければ嫁に行かぬと駄々を捏ねたらしい。
『どうだ、これはまたとない話だぞ』
八右衛門は乗り気のようだった。
『はあ、されど、旗本のお姫様が与力の新造など務まりましょうや?』
『馬鹿を申せ、お前が養子に行くのだ』
武家は家を継ぐのが当然である。
が、碌が上がれば、それまでの名前を捨てることなど雑作もなかった。
『父上、私、ようやく本勤並になれたのですよ。まだ、学ぶべきことは沢山あります』
『与力など、激務な反面、碌は低い。それに、どんなに励んでも年番方止まりじゃ。だが、旗本になれば幕府の要職に就けるぞ』
と、八右衛門は皮算用をする。
『私は、吟味方という仕事が好きですし、それに……』
『なんじゃ、言い交わした相手でもおるのか?』
そう訊かれて、源太郎は多恵の名前を上げそうになったが、
(多恵のことを好いているのは、自分だけかもしれない。多恵は、他に好いている相手がいるのかもしれない)
と思い直し、結局、彼女の名前は言わなかった。
『まあ、良く考えるんだな』
八右衛門がそう言った翌日には、奉行所内でも源太郎と旗本の娘とのことが噂になっていた。
『やったな、源太郎。これでお前も旗本か』
同じく本勤並になった作太郎が彼を呼び止め、羨ましそうに言った。
『まだ決まったわけじゃない』
源太郎は、作太郎の物言いにちょっとばかり腹が立った。
『なんだ、随分と機嫌が悪そうだな。まさか、この縁談、断るつもりじゃないだろうな?』
源太郎は目を逸らした。
『そうなのか? 何でそんな勿体ないことを? あっ、まさか、お前、あの饅頭娘のことを』
『煩いな』
『止めとけ、饅頭娘は所詮二百石取りの与力の娘だぞ。それに比べれば、旗本のお姫様なんて……』
『これは、俺の縁談だ。俺の好きなようにするさ』
源太郎は、足を踏み鳴らして作太郎の前を立ち去った。
『おい、あんまり馬鹿な真似はしなさんな』
作太郎は、源太郎の背中に言った。
縁談話は長引かせるものではない。
八右衛門は、
『源太郎、早く返事を出せ。さもなくば、わしが申し出を受けるぞ』
と急かす。
源太郎は、どうしたものかと迷っていた。
確かに、不浄役人と蔑まれる与力にはまたとない話だ。
だが、多恵のことは気になる。
この話が出てから多恵とは会っていない。
勤めの帰り道など、わざわざ遠回りになる中村家の前を通るのだが、屋敷の中からは多恵の声すら聞こえてこなかった。
その日も夕闇の中を、
(やれやれ、どうしたものか……)
と俯きながら海賊橋を渡った。
すると、
『あら、神谷様』
源太郎には嬉しい声が耳に入ってきた。
見れば、牧野家の桜の下に、愛くるしい饅頭顔があった。
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