桜はまだか?

hiro75

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第一章「雛祭」

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 源太郎が十八になると、作太郎とともに与力見習になり、父の後にくっついて出歩くようになった。

 すると、どこからともなく縁談話が湧いては消え、消えては湧き出てくるようになった。

 源太郎の父八右衛門やえもんは、『どこそこの娘は、なかなかの器量良しだそうだ』と、源太郎に持ち掛けてくるのだが、その都度、源太郎は、

『はあ……』

 という気のない返事をした。

 源太郎にしてみれば、なぜ多恵ではないのだろうという思いがあった。

 幼馴染であるし、与力の娘だ。

 妻には持ってこいである。

 源太郎も、多恵以外の女が白無垢を着て、自分の傍らに座ることなど考えられなかった。

 八右衛門が隠居し、源太郎が本勤並ほんきんなみとなると、縁談話が現実の話となった。

 八右衛門が持ち込んできた話は、どこかの旗本の娘で、その娘が源太郎のことを見初めて、源太郎でなければ嫁に行かぬと駄々を捏ねたらしい。

『どうだ、これはまたとない話だぞ』

 八右衛門は乗り気のようだった。

『はあ、されど、旗本のお姫様が与力の新造など務まりましょうや?』

『馬鹿を申せ、お前が養子に行くのだ』

 武家は家を継ぐのが当然である。

 が、碌が上がれば、それまでの名前を捨てることなど雑作もなかった。

『父上、私、ようやく本勤並になれたのですよ。まだ、学ぶべきことは沢山あります』

『与力など、激務な反面、碌は低い。それに、どんなに励んでも年番方ねんばんがた止まりじゃ。だが、旗本になれば幕府の要職に就けるぞ』

 と、八右衛門は皮算用をする。

『私は、吟味方という仕事が好きですし、それに……』

『なんじゃ、言い交わした相手でもおるのか?』

 そう訊かれて、源太郎は多恵の名前を上げそうになったが、

(多恵のことを好いているのは、自分だけかもしれない。多恵は、他に好いている相手がいるのかもしれない)

 と思い直し、結局、彼女の名前は言わなかった。

『まあ、良く考えるんだな』

 八右衛門がそう言った翌日には、奉行所内でも源太郎と旗本の娘とのことが噂になっていた。

『やったな、源太郎。これでお前も旗本か』

 同じく本勤並になった作太郎が彼を呼び止め、羨ましそうに言った。

『まだ決まったわけじゃない』

 源太郎は、作太郎の物言いにちょっとばかり腹が立った。

『なんだ、随分と機嫌が悪そうだな。まさか、この縁談、断るつもりじゃないだろうな?』

 源太郎は目を逸らした。

『そうなのか? 何でそんな勿体ないことを? あっ、まさか、お前、あの饅頭娘のことを』

『煩いな』

『止めとけ、饅頭娘は所詮二百石取りの与力の娘だぞ。それに比べれば、旗本のお姫様なんて……』

『これは、俺の縁談だ。俺の好きなようにするさ』

 源太郎は、足を踏み鳴らして作太郎の前を立ち去った。

『おい、あんまり馬鹿な真似はしなさんな』

 作太郎は、源太郎の背中に言った。

 縁談話は長引かせるものではない。

 八右衛門は、

『源太郎、早く返事を出せ。さもなくば、わしが申し出を受けるぞ』

 と急かす。

 源太郎は、どうしたものかと迷っていた。

 確かに、不浄役人と蔑まれる与力にはまたとない話だ。

 だが、多恵のことは気になる。

 この話が出てから多恵とは会っていない。

 勤めの帰り道など、わざわざ遠回りになる中村家の前を通るのだが、屋敷の中からは多恵の声すら聞こえてこなかった。

 その日も夕闇の中を、

(やれやれ、どうしたものか……)

 と俯きながら海賊橋を渡った。

 すると、

『あら、神谷様』

 源太郎には嬉しい声が耳に入ってきた。

 見れば、牧野家の桜の下に、愛くるしい饅頭顔があった。
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