桜はまだか?

hiro75

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第二章「そら豆」

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 正親が膝の関節を気にして歩いていると、頬を剃刀で剃り落としたような、目つきの鋭い男が前から近寄ってきた。

 男は、正親の五歩手前で立ち止まって、頭を下げた。

 火付改の「鬼の勘解由かげゆ」こと、中山勘解由直守なおもりである。

 この正月に、火付けや盗賊などの凶悪犯を取り締まるよう拝命を受けたばかり。

 何かと口煩い男だ。

 仕事にも熱心で、熱心なあまり、無茶な取調べをするとの批判も多い。

 町人だけでなく、怪しい風体や行動をしていれば、武士や僧侶も捕縛して、役宅で拷問にかけるらしい。

 海老責なんていう拷問は、直守が考え出したとか………………

 神田橋の近くにある役宅からは、連日連夜拷問に苦しむ男女の叫び声や泣き声が聞こえてくるとか………………

 嘘か、本当か知らないが、それまで熱心な仏者だったが、火付改を拝命したとき、仏壇を壊し、「鬼になる」と言ったとか………………

 ともかく町人は、勘解由と聞いただけで身震いする。

 正親も苦手な男だ。

 僅かばかり頭を下げ、通り過ぎようとした。

 と、直守が呼び止めた。

(ええい、面倒な)

 正親は眉を顰めた。

「何用でござろうか?」

 足の膝を気にして、上体だけで振り返った。

「一昨日、当家の同心が、町奉行所の同心に無礼を働いたようで」

「ほう……」

 初耳だ。

「ご無礼をお許しください」

 直守は頭を下げた。

「左様か。いや、お恥ずかしい話、昨日は体調を崩して勤めを休んでおったのでな。詳しい事情は知らんが、こちらも色々と至らぬことがあったのであろう。わしからも十二分に注意しておくゆえ、許され」

 しわがれた声で言った。

 何を言われているのか分からない。

 が、直守に先手を取られるのは嫌な気がしたので、当たり障りなく逃げることにした。

「勿体ないお言葉で」と、直守は頭を下げたが、「されど」と、口調が強くなった。

(やれやれ、煩い男じゃの)

 直守に分からぬように、ひとり溜息を吐いた。

「火付けは我等が取り締まるところ。あまり差し出がましい真似をされると職務に関わりますので」

 直守の言葉に、正親は片眉を上げる。

「なるほど、良く覚えておこう」

 これ以上面倒になるのはごめんだ。

 正親は、膝の痛みも忘れて、逃げるように冷たい廊下を歩き出した。
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