桜はまだか?

hiro75

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第二章「そら豆」

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 秋山小次郎は、焦げ跡のついた塀を見下ろしていた。

 焦げた布切れも、いまだ幾つか残っている。

 朱色の生地に、色取り取りの刺繍が施してある。

 家の者に訊くと、お雛様の着物がなくなっていたという。

 それに火をつけたようだ。

 だが、風がなかったのが幸いして、火はそれほど大きくならなかった。

 焦げ跡から見ても、小火でもそうたいしたものではないらしい。

(これで火罪か……)

 小次郎は、盆の窪に手をやった。

「秋山様、旦那様がお会いになるそうですので……」

 番頭の嘉平の案内で、小次郎は客間に通された。

 客間は、一方が中庭に向けて開いている。

 微かに雀の囀りが聞こえる。

 客間と対面する部屋の障子が僅かばかり開いて、そこから市左衛門と妻のおさいが出て来た。

 そのとき、部屋の中に赤い繊毛が敷かれてあるのが僅かばかり見てとれた。

 二つの重い足音が近寄って、

「お待たせしました」

 と、市左衛門とおさいが入って来た。

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

 市左衛門が、深々と頭を下げた。

「いやいや」

 小次郎は手を横に振った。

「あの……、それでお七は……?」

 おさいは、目を真っ赤にして訊いた。

 目の下にくっりきと大きな三日月ができている。

 恐らく、娘のことが心配で夜もろくに寝ていないのだろう。

「いまは大番屋にお預けの身となっておる」

「あの子は、火付けをしたと言ったのでしょうか?」

「それが、何も喋らんのでな。否定するならその方が良いのだが、何も喋らないとなると、やりましたと言っているのと同じだからな」

 おさいが泣き崩れた。

「馬鹿、お止しなさい。何度泣けば済むんですか」

 市左衛門が窘めるが、おさいの涙は止まらなかった。

 小次郎は、おさいの気持ちがおさまるまで待った。

 おさいは、一頻り泣くとほっと息をついた。

「ところでお七だが、最近変わったことはなかったかい?」

「三度も火付けを働いたのですから、十二分に変わっております」

 市左衛門は、苦々しそうな顔で言う。

「そういうことを訊いてるんじゃねぇんだよ」

「はあ……、では、変わったことと申しますと?」

「心配事があったとかだな」

「さあ、私は気がつきませんでしたが……、おさい、お前はどうだい?」

「はぁ……、わ、私は……、気が付きませんでした」

 おさいは目を伏せる。

「あの火事があった頃からはどうだ?」

「火事でございますか? 大円寺の?」

 小次郎は頷く。

「さあ、変わったところはなかったと思いますが……」

「そうかい」

 小次郎は、盆の窪に手をやって中庭を見た。

 手水鉢の溜まり水に雀がやって来て、水浴びをしている。

「しかし、なんであの子が火付けなど……」

 市左衛門がぼそっと呟く。

「むかしは、本当に良い子でした。おとっつぁん、おとっつぁんと、お店で働く私の足下に駆け寄ってきて、お店に来るお客様にも、『可愛い子だ』と褒められましたのに……」

 おとっつぁんか……、俺もそういうときがあったなと、小次郎は思った。

「読み書きも、お針仕事も良くできた子で、ゆくゆくは加賀様のお屋敷に奉公させるか、良い相手を見つけてやるかと考えておりましたのに。育てた恩を仇で返すとは、このことでございますよ。全く、よくもあんな蓮っ葉に育ってくれたものでございます」

 市左衛門が、吐き捨てるように言った。

「お前さん、それはあまりにも酷い言い方じゃありませんか?」

 おさいが、真っ赤な目をして亭主をきっと睨みつける。

 小次郎もそう思った。

「本当のことじゃありませんか。だから私は言ったんですよ、あんまりあの子を甘やかすなと。あんな子に育ったのも、全部お前さんの躾けが悪かったんですよ」

「ええ、そうですよ。お七を躾けたのは、このあたしですよ。ですが、お前さんは口を出すだけで、何もしてくれなかったじゃありませんか」

「当然ですよ、私は商いがありますからね」

「そうやって、いつもいつも商いに逃げるんですよ。子どものことは、全部あたしに押し付けて」

「押し付けてませんよ、私も面倒を見てますよ。叱るときは、きちんと叱ります」

「うそばっかり、あのときだって……」

 またまた夫婦喧嘩がはじまった。

 夫婦喧嘩は犬も食わないというが、まさしくそのとおりだ。

 傍らで聞いている小次郎も、うんざりしてきた。

「いい加減にしねぇか、おめえら!」

 どすの利いた声で一喝した。

 市左衛門とおさいは慌てて口を噤み、塩をかけたなめくじのように小さくなった。
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