86 / 378
第二章「槻の木の下で」 前編
第18話
しおりを挟む
蘇我倉麻呂臣は、蘇我蝦夷の弟 ―― 蘇我倉摩呂臣の子であり、蘇我入鹿とは従弟同士になる。
大王家の財産等を収蔵した三蔵を管理するのが、蘇我倉家の本業である。
彼は、河内石川・河内山田(大阪府南河内郡)を本拠地としていた。
山田寺がある大和山田(奈良県桜井市山田)は、河内山田から移り住んだために名付けられた。
鎌子は、度々蘇我倉の屋敷に通うようになった。
麻呂は、三蔵管理とともに外国からの献上品の管理も任されていたので、その一環として外国使節団の饗応を行うことも多い。
鎌子が麻呂の屋敷を頻繁に訪れる理由は、外国人と接することができるからであったが、もう一つの理由は麻呂の娘たちにあった。
麻呂の子供は、男子三人・女子四人の、合わせて七人いた。
その内、鎌子の目を引いたのが、次女の遠智娘である。
姉の造媛も美しかったが、妹の遠智娘はさらに美しかった。
美しいのは顔だけではない、その仕草も鎌子の心を捉えた。
俯いた時の目。
微笑んだ時のえくぼ。
彼女の首筋を流れる黒髪。
鎌子は、常に彼女を目で追った。
「あの……、私の顔に、なにか付いてますか?」
蘇我倉家の庭先で、麻呂とともに酒を飲んでいた鎌子は、二人に酌をしていた遠智娘の顔をいつのも如く見つめていると、彼女からの突然の質問を受けた。
「はい、美しいです」
鎌子は油断していた。
「えっ?」
遠智娘の顔が真赤になった。
そして、美しい耳まで真赤な遠智娘を見て、鎌子は初めて自分の不躾な一言を恥じた。
「あっ、いえ、その……、美しい……、ゆ、夕日ですね」
「は? 夕日ですか?」
今日は、生憎の曇り空である。
仕舞ったと思った。
気まずい雰囲気が二人を包む。
「あっ、お酒、お注ぎいたします」
しかし、鎌子の杯は、まだ一杯である。
「えっ、あっ、はい」
彼は、飲み干そうと杯を手にしたが、余りの慌てように落としてしまった。
「あっ!」
二人の声が重なった。
重なったのは声だけではない。
杯を取ろうとした二人の手も重なっていた。
遠智娘は、真赤な顔を、さらに真赤にした。
鎌子も、自分の顔が熱っているのに気が付いた。
「あの、私、拭くもの、取って来ますので」
遠智娘は、顔を覆うように屋敷の中に入って行った。
鎌子は、その興奮にまかせて、杯に酒を注ぎ、勢いよく煽った。
そんな二人の様子を見ていた麻呂が訊いた。
「中臣殿は、どなたか契りを交わした相手はおありかな?」
突然の麻呂の質問に、飲み込んだ酒で咽てしまった。
「いえ、私は不調法者で」
とは言うものの、既に女は知っている。
鎌子は赤根売を思い出したが、あれは違うなと思い直し、頭を振った。
「そうですか、まあ、別に何人妻を娶ろうと宜しいのですが……、どうでしょうか、私の娘 ―― 遠智をもらって頂けないでしょうか?」
鎌子は、今度は酒無しで咽てしまった。
麻呂は構わず話した。
「どうやら、娘の方も中臣殿のことを想っておるようですし。私としても、学問に名高い中臣殿に婿殿となって頂けると嬉しいのですが」
この頃では、鎌子は摂津・河内・和泉地方では並ぶものなき存在となっていた。
もちろん、飛鳥の蘇我入鹿には適わなかったのだが。
「本当に、私でいいのですか? それよりも、大王家に嫁がれた方が………………」
内心は飛び上がるほど嬉しいのに………………遠慮するのも、蘇我家は大王家に妃を出す家柄のせいである。
蘇我本家には、いまのところ娘が生まれていなかったので、当然その役割は蘇我倉家に回ってくるはずである。
「いえ、長女の造が葛城様に嫁ぎますので」
「あっ、そうですか」
上宮王家ではないのかと、鎌子は不思議に思った。
「それに、三女の姪の相手は……、ほれ、いま来られました」
鎌子は、麻呂の指し示す方へ目をやった。
そこには、頬のふっくらとした、穏やかな顔の貴人が立っていた。
「軽様に嫁ぎますので」
「えっ、軽様ですか?」
軽様は確か、今年で四十……、蘇我倉殿の三女の姪娘はまだ十歳にもなっていないはずだが………………鎌子は首を傾げた。
「ええ、軽様が随分気に入られて、是非にとのことですので」
なるほど、そう言う趣味かと鎌子は思った。
「どうも、山田臣、酒を呼ばれに参りましたよ」
鎌子が顔を上げた時には、軽皇子が目の前まで来ていた。
「お待ち申しておりました、軽様、さあ、どうぞ、こちらへ。おい、軽様がお見えだぞ、酒の準備はできているか? 姪はどこに行った? こちらへ呼んで来なさい」
麻呂は、そのまま屋敷の奥へと入って言った。
「軽様、御機嫌いかがでしょうか?」
鎌子は、軽皇子に挨拶をした。
「おお、中臣連、そなたも呼ばれていたのですね」
と、彼も麻呂の後を追って屋敷の中へ入って行った。
鎌子も、軽皇子の後に続いた。
全く貴人の趣味は分からん、と頭を振りながら………………
この数日後、麻呂からの「あの話はなかったことに」という一言で終わってしまった。
理由を問うても麻呂は答えなかったが、鎌子が蘇我倉家の従者から聞いた話では、葛城皇子と造媛の縁談が、造媛の止むを得ない事情で破談となり、代わりに遠智娘と姪娘を嫁がせたということであった。
因みに、軽皇子には四女の乳娘を嫁がせたということだ。
鎌子は、これを聞いて思った。
―― 所詮、高値の花だったか………………
大王家の財産等を収蔵した三蔵を管理するのが、蘇我倉家の本業である。
彼は、河内石川・河内山田(大阪府南河内郡)を本拠地としていた。
山田寺がある大和山田(奈良県桜井市山田)は、河内山田から移り住んだために名付けられた。
鎌子は、度々蘇我倉の屋敷に通うようになった。
麻呂は、三蔵管理とともに外国からの献上品の管理も任されていたので、その一環として外国使節団の饗応を行うことも多い。
鎌子が麻呂の屋敷を頻繁に訪れる理由は、外国人と接することができるからであったが、もう一つの理由は麻呂の娘たちにあった。
麻呂の子供は、男子三人・女子四人の、合わせて七人いた。
その内、鎌子の目を引いたのが、次女の遠智娘である。
姉の造媛も美しかったが、妹の遠智娘はさらに美しかった。
美しいのは顔だけではない、その仕草も鎌子の心を捉えた。
俯いた時の目。
微笑んだ時のえくぼ。
彼女の首筋を流れる黒髪。
鎌子は、常に彼女を目で追った。
「あの……、私の顔に、なにか付いてますか?」
蘇我倉家の庭先で、麻呂とともに酒を飲んでいた鎌子は、二人に酌をしていた遠智娘の顔をいつのも如く見つめていると、彼女からの突然の質問を受けた。
「はい、美しいです」
鎌子は油断していた。
「えっ?」
遠智娘の顔が真赤になった。
そして、美しい耳まで真赤な遠智娘を見て、鎌子は初めて自分の不躾な一言を恥じた。
「あっ、いえ、その……、美しい……、ゆ、夕日ですね」
「は? 夕日ですか?」
今日は、生憎の曇り空である。
仕舞ったと思った。
気まずい雰囲気が二人を包む。
「あっ、お酒、お注ぎいたします」
しかし、鎌子の杯は、まだ一杯である。
「えっ、あっ、はい」
彼は、飲み干そうと杯を手にしたが、余りの慌てように落としてしまった。
「あっ!」
二人の声が重なった。
重なったのは声だけではない。
杯を取ろうとした二人の手も重なっていた。
遠智娘は、真赤な顔を、さらに真赤にした。
鎌子も、自分の顔が熱っているのに気が付いた。
「あの、私、拭くもの、取って来ますので」
遠智娘は、顔を覆うように屋敷の中に入って行った。
鎌子は、その興奮にまかせて、杯に酒を注ぎ、勢いよく煽った。
そんな二人の様子を見ていた麻呂が訊いた。
「中臣殿は、どなたか契りを交わした相手はおありかな?」
突然の麻呂の質問に、飲み込んだ酒で咽てしまった。
「いえ、私は不調法者で」
とは言うものの、既に女は知っている。
鎌子は赤根売を思い出したが、あれは違うなと思い直し、頭を振った。
「そうですか、まあ、別に何人妻を娶ろうと宜しいのですが……、どうでしょうか、私の娘 ―― 遠智をもらって頂けないでしょうか?」
鎌子は、今度は酒無しで咽てしまった。
麻呂は構わず話した。
「どうやら、娘の方も中臣殿のことを想っておるようですし。私としても、学問に名高い中臣殿に婿殿となって頂けると嬉しいのですが」
この頃では、鎌子は摂津・河内・和泉地方では並ぶものなき存在となっていた。
もちろん、飛鳥の蘇我入鹿には適わなかったのだが。
「本当に、私でいいのですか? それよりも、大王家に嫁がれた方が………………」
内心は飛び上がるほど嬉しいのに………………遠慮するのも、蘇我家は大王家に妃を出す家柄のせいである。
蘇我本家には、いまのところ娘が生まれていなかったので、当然その役割は蘇我倉家に回ってくるはずである。
「いえ、長女の造が葛城様に嫁ぎますので」
「あっ、そうですか」
上宮王家ではないのかと、鎌子は不思議に思った。
「それに、三女の姪の相手は……、ほれ、いま来られました」
鎌子は、麻呂の指し示す方へ目をやった。
そこには、頬のふっくらとした、穏やかな顔の貴人が立っていた。
「軽様に嫁ぎますので」
「えっ、軽様ですか?」
軽様は確か、今年で四十……、蘇我倉殿の三女の姪娘はまだ十歳にもなっていないはずだが………………鎌子は首を傾げた。
「ええ、軽様が随分気に入られて、是非にとのことですので」
なるほど、そう言う趣味かと鎌子は思った。
「どうも、山田臣、酒を呼ばれに参りましたよ」
鎌子が顔を上げた時には、軽皇子が目の前まで来ていた。
「お待ち申しておりました、軽様、さあ、どうぞ、こちらへ。おい、軽様がお見えだぞ、酒の準備はできているか? 姪はどこに行った? こちらへ呼んで来なさい」
麻呂は、そのまま屋敷の奥へと入って言った。
「軽様、御機嫌いかがでしょうか?」
鎌子は、軽皇子に挨拶をした。
「おお、中臣連、そなたも呼ばれていたのですね」
と、彼も麻呂の後を追って屋敷の中へ入って行った。
鎌子も、軽皇子の後に続いた。
全く貴人の趣味は分からん、と頭を振りながら………………
この数日後、麻呂からの「あの話はなかったことに」という一言で終わってしまった。
理由を問うても麻呂は答えなかったが、鎌子が蘇我倉家の従者から聞いた話では、葛城皇子と造媛の縁談が、造媛の止むを得ない事情で破談となり、代わりに遠智娘と姪娘を嫁がせたということであった。
因みに、軽皇子には四女の乳娘を嫁がせたということだ。
鎌子は、これを聞いて思った。
―― 所詮、高値の花だったか………………
0
あなたにおすすめの小説
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる