89 / 378
第二章「槻の木の下で」 中編
第2話
しおりを挟む
鹿島の社内で、祝事を謡っているだけで額から汗が滴り落ちる頃になると、鎌子の希望は、焦りに変わっていた。
遠く飛鳥の地では、新しい大王の誕生とともに、入鹿を大臣とする新体制が始まったと風の噂に聞いた。
しかし、鎌子は、まだ鹿島の社の祝である。
―― どうしたのだろう、蘇我殿は?
大臣になったら、私を飛鳥に呼ぶと言ってくれたのに。
忙しいのだろうか?
そうだろうな………………
新政権が誕生して、まだ間もない。
軌道に乗るにしても、半年近くは掛かるだろう。
いや………………、もう半年だぞ!
まさか、蘇我殿は私のことを忘れておいででは?
まさか………………
いや、有り得る。
身近に、有能な人材でも見つけたのかもしれない。
ああ、私はなんて不幸だ。
やはり、鹿島になんぞ来るのでなかった………………
鎌子は、己の境遇を嘆いた。
七月に入り、鹿島の社に飛鳥からの客があった。
「ようこそ鹿島へ、秦殿」
「いや、ご無沙汰してます、中臣殿」
掛甲に身を固めた背の高いこの御老体は、秦河勝造である。
秦氏は、秦の始皇帝を祖に持つ渡来人の一族であり、山城の葛野(京都市右京区)を根拠地としていた。
秦氏は、上宮王家とも関係が深く、厩戸皇子から仏像を譲り受け、蜂岡寺(広隆寺)を建立している。
「この地には何ようで?」
「いや、不尽川まで来たついでに、鹿島の社に参拝して帰ろうと思いまして。しばらく、御厄介になりますが」
河勝は、掛甲を脱ぎながら答えた。
「いえいえ、存分に休んで行ってください。で、不尽川には?」
「ほら、例の常世神の騒ぎですよ」
「ああ」
「いや、酷い話があるものです」
話とはこうだ。
不尽川の辺(富士川付近)で、大生部多という男が、ある村で虫を厳かに掲げて、「この神は常世の神だ。この神は、富も寿命も齎す」と言って、その虫を祀らせたことから話は始まった。
じきに、巫覡たちもこの男に同調して、「この神を祀れば、貧しい者は裕福に、老いたる者は若返る」と言い、「財産を全て捨てて、この神を信奉せよ」と騒ぎ立てた。
この話を聞いた人々は、巫覡たちに従って、家も仕事も財産も捨て、常世神を祀るために歌い踊り捲くった。
やがて、この話が各地に広まったから大変で、飛鳥の地でも家財を投げ出し、常世神信仰に更ける者が出てきたのである。
そのため、この事態を重く見た政府は、河勝に根源の大生部多を討ち、事態を沈静化するように命じたのである。
「それで、その常世神というのは、結局、何だったのですか?」
「桑子でしょう。見ましたが、緑色で黒の斑点がありましたよ」
秦氏は、織物生産に携わった一族である。
秦氏に、蚕に似た常世神の沈静化を命じたのは、このためである。
武装を全て解いた河勝に、鎌子は酒を振舞った。
そして、予てからの疑問を問うてみた。
「ところで、最近、飛鳥はどうですか? 大后が大王に就かれ、蘇我殿が大臣になられたと聞いています。それに、山背大兄は亡くなられたとか?」
「酷い話ですよ。林大臣も何をとち狂ったか、いきなり上宮王家を攻撃するとは」
「では、やはり蘇我殿が上宮王家を襲ったのですか?」
「ええ、林大臣は、山背大兄が邪魔になったのでしょ。もともと、仲もあまり良くなかったですしな。山背大兄が大王では、大臣になったらやりにくいと考えたのでしょうね。しかし、殺すこともなかったのに」
本当にそうだろうか?
本当にそれだけのことだろうか?
「しかし、最近、蘇我家はやりすぎですな」
「えっ、どういうことですか?」
「いえ、この春から、蘇我親子は甘檮丘に屋敷を建てているのですが、それを上の宮門、谷の宮門なんて呼んでいるそうです。おまけに、屋敷の周りを城柵で囲んだり、武器庫を造ったりと。飛鳥じゃ、蘇我殿が大王家を襲って、自分が大王になるつもりじゃないかと専らの噂ですよ」
「まさか、そんな……」
鎌子は、目を見開いた。
「それだけ、林大臣は異常だということですよ」
河勝は首を振り振り、ぐっと酒を飲んだ。
遠く飛鳥の地では、新しい大王の誕生とともに、入鹿を大臣とする新体制が始まったと風の噂に聞いた。
しかし、鎌子は、まだ鹿島の社の祝である。
―― どうしたのだろう、蘇我殿は?
大臣になったら、私を飛鳥に呼ぶと言ってくれたのに。
忙しいのだろうか?
そうだろうな………………
新政権が誕生して、まだ間もない。
軌道に乗るにしても、半年近くは掛かるだろう。
いや………………、もう半年だぞ!
まさか、蘇我殿は私のことを忘れておいででは?
まさか………………
いや、有り得る。
身近に、有能な人材でも見つけたのかもしれない。
ああ、私はなんて不幸だ。
やはり、鹿島になんぞ来るのでなかった………………
鎌子は、己の境遇を嘆いた。
七月に入り、鹿島の社に飛鳥からの客があった。
「ようこそ鹿島へ、秦殿」
「いや、ご無沙汰してます、中臣殿」
掛甲に身を固めた背の高いこの御老体は、秦河勝造である。
秦氏は、秦の始皇帝を祖に持つ渡来人の一族であり、山城の葛野(京都市右京区)を根拠地としていた。
秦氏は、上宮王家とも関係が深く、厩戸皇子から仏像を譲り受け、蜂岡寺(広隆寺)を建立している。
「この地には何ようで?」
「いや、不尽川まで来たついでに、鹿島の社に参拝して帰ろうと思いまして。しばらく、御厄介になりますが」
河勝は、掛甲を脱ぎながら答えた。
「いえいえ、存分に休んで行ってください。で、不尽川には?」
「ほら、例の常世神の騒ぎですよ」
「ああ」
「いや、酷い話があるものです」
話とはこうだ。
不尽川の辺(富士川付近)で、大生部多という男が、ある村で虫を厳かに掲げて、「この神は常世の神だ。この神は、富も寿命も齎す」と言って、その虫を祀らせたことから話は始まった。
じきに、巫覡たちもこの男に同調して、「この神を祀れば、貧しい者は裕福に、老いたる者は若返る」と言い、「財産を全て捨てて、この神を信奉せよ」と騒ぎ立てた。
この話を聞いた人々は、巫覡たちに従って、家も仕事も財産も捨て、常世神を祀るために歌い踊り捲くった。
やがて、この話が各地に広まったから大変で、飛鳥の地でも家財を投げ出し、常世神信仰に更ける者が出てきたのである。
そのため、この事態を重く見た政府は、河勝に根源の大生部多を討ち、事態を沈静化するように命じたのである。
「それで、その常世神というのは、結局、何だったのですか?」
「桑子でしょう。見ましたが、緑色で黒の斑点がありましたよ」
秦氏は、織物生産に携わった一族である。
秦氏に、蚕に似た常世神の沈静化を命じたのは、このためである。
武装を全て解いた河勝に、鎌子は酒を振舞った。
そして、予てからの疑問を問うてみた。
「ところで、最近、飛鳥はどうですか? 大后が大王に就かれ、蘇我殿が大臣になられたと聞いています。それに、山背大兄は亡くなられたとか?」
「酷い話ですよ。林大臣も何をとち狂ったか、いきなり上宮王家を攻撃するとは」
「では、やはり蘇我殿が上宮王家を襲ったのですか?」
「ええ、林大臣は、山背大兄が邪魔になったのでしょ。もともと、仲もあまり良くなかったですしな。山背大兄が大王では、大臣になったらやりにくいと考えたのでしょうね。しかし、殺すこともなかったのに」
本当にそうだろうか?
本当にそれだけのことだろうか?
「しかし、最近、蘇我家はやりすぎですな」
「えっ、どういうことですか?」
「いえ、この春から、蘇我親子は甘檮丘に屋敷を建てているのですが、それを上の宮門、谷の宮門なんて呼んでいるそうです。おまけに、屋敷の周りを城柵で囲んだり、武器庫を造ったりと。飛鳥じゃ、蘇我殿が大王家を襲って、自分が大王になるつもりじゃないかと専らの噂ですよ」
「まさか、そんな……」
鎌子は、目を見開いた。
「それだけ、林大臣は異常だということですよ」
河勝は首を振り振り、ぐっと酒を飲んだ。
0
あなたにおすすめの小説
江戸の老人ホーム(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)
牛馬走
歴史・時代
木下弥左衛門は、隠居暮らしに淋しさを覚える暮らしをしている。彼はかつて、上意討ち代行をおこない、危険と隣り合わせの日々を送っていた。上意討ち代行は名前の通り、上意討ちを代行する。家中に仇をなして出奔した者を、当主の依頼、あるいは上意討ちを命じられた者の要請を受けて当該の者を討ち取り謝礼をもらっていた。
他方で、そんな彼はのちにいう老人ホーム、介添え長屋に住んで仲間と穏やかな毎日を過ごしている。そんな彼は、胃がんを患う。だが、死を覚悟することを習いとしていた彼は、その事実を静かに受け入れる。死ぬまでに何ができるか、と考える。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる