法隆寺燃ゆ

hiro75

文字の大きさ
130 / 378
第三章「皇女たちの憂鬱」 前編

第5話

しおりを挟む
 橘の君が、初めての口付けを経験した日から、霍公鳥は足しげくこの裏庭に舞い降りて来た。

 橘の季節が終わる頃になっても、

『もう、橘も散ってしまいますわ。そうすれば、あなた様もこの庭に降りて来られなくなりますね』

『橘は、実も美味しいのですよ』

 と言って通い続けた。

 彼は高向王たかむくのおおきみと名乗り、用明天皇の孫にあたる人物であった。

 宝皇女は不思議だった。

 あれほど異性の前に顔を出すことを嫌った彼女が、高向王の前では平気だ。

 それだけでなく、高向王と話をすると、素の自分を出すことができた。

 彼の話は気取ったところはなく、かと言って堅苦しいところもない。

 その話は機知に富み、聞いている者を飽きさせなかった。

 二人は逢瀬を交わす度に、親密さを増していった。

 彼女は、彼の傍にいると言い知れぬ安らぎを覚えた。

 人は、一生をともにする相手を見つけるために生きていると言うけれど、もしかしたら、この人が私の一生を捧げる人かも知れない………………と。

 女性は恋をすると美しくなると言うが、宝皇女もそれに漏れず、日に日に美しくなっていき、その噂が飛鳥の男たちの口に上った。

 そうなると、急に縁談話が増えるのは当然であった。

『弟が、娘と一度会いそうなのだが』

 と、父の茅渟王が母の吉備姫王に相談した。

 弟とは田村皇子たむらのみこで、宝皇女より一歳年上である。

『田村様がですか? でも、あの子、好きな人がいるのですよ』

『えっ、そうなのか? いつの間に? 何処の誰だ?』

『何処のどなたかは詳しくは存じませんが、もう随分前から』

『知らなかった。宝が、そう言ったのか?』

『いえ、言わなくても分かるじゃないですか。あの子、最近綺麗になったでしょう』

 こういうことは、女親の方が鋭いらしい。

『そうか?』

『そうかって……、女は恋をすれば綺麗になります。私も、そうでしたから』

『そうだったかな?』

『どういう意味ですか、それは!』

『いや、なんでもない。しかし、素性の分からぬヤツと付き合っているのは、どうもな……』

『それは男親の考えですね。あの子はいま、初めての恋をしているのです。初恋の相手と添え遂げようとも、そうでなくとも、女にとっては一生の思い出となるのです。それを、親の考えで壊したくはないのです。そんなことをすれば、あの子、一生私たちを怨みますわ』

『しかしな……』

『お願いです、あなた、あの子のこと、信じて見守ってやって下さい』

 吉備姫王の懇願により、二人は宝皇女の交際を温かく見守ってやることにした。

 橘の実が黄色く色づき、心地よい香りを漂わせるよういになると、彼女の気持ちは深く沈んだ ―― 実が落ちてしまえば、もう霍公鳥は来ないのだと。

 男は、それを知ってか知らずか、橘の実を褒める。

『思ったとおり、良い実がなりましたね。美味しそうですね』

 高向王は、実を一つもぎ取った。

『美味しい? いえ、酸っぱいですわ』

 ―― ニッポンタチバナの実はとても酸っぱい………………

『そうですか? 祖父の屋敷の橘はとても甘かったですよ』

『いえ、酸っぱいのです。酸っぱい実は、誰も見向きもせず、落ちて萎んでいくのです』

 宝皇女は、悲しげに目を伏せた。

 高向王は、彼女の体を引き寄せる。

『この実は甘いですよ。霍公鳥が言うのですから間違いありません』

『嘘おっしゃって』

『嘘ではありません。霍公鳥は、この実を食べたいのです』

 高向王は、宝皇女を見つめた。

『本当? では……、お試しになって……』

 宝皇女も彼を見上げる………………二度目の口付けを交わした。

 高向王の手から、橘の実が転がり落ちた。

 その夜、宝皇女の寝室には、明け方近くまで明かりが灯っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝

糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。 その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。 姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

処理中です...