法隆寺燃ゆ

hiro75

文字の大きさ
288 / 378
第五章「生命燃えて」 前編

第13話

しおりを挟む
 唐からの表函には、飛鳥の群臣が危惧したような、戦の文字は含まれてはいなかった。

 むしろ、関係を修復する趣旨の書状であった。

 ただし、今回の使者は劉仁願の私的なもので、正式な唐からの使者は、翌年に派遣されるとのことであった。

 倭国としては、唐のこの申し出は願ったり叶ったりである。

 飛鳥の群臣は、すぐさまこの話に飛びついた……と、いったらことは簡単なのだが、やはりここでも中大兄と中臣鎌子の対立が浮き彫りになった。

 この時、間人大王は病の床に伏しており、蘇我連子大臣そがのむらじこのおおおみも既に故人となっていた。

 この段階で宮中を引っ張っていたのが、中大兄と鎌子である。

 鎌子は、もちろん唐の申し出を受けるつもりでいた。

 倭国としては、これを断る理由はない。

 だが、中大兄は唐に懐疑的である。

「我が国との関係を修復したいと言っているが、油断させておいて、高句麗征伐が終われば我が国に攻めてくるに違いない」

 これが、中大兄の主張である。

「お言葉ですが、ここで唐の申し出を却下すれば、逆に関係が悪化します。そうすれば、我が国は孤立することになるでしょう」

 鎌子は、中大兄の意見に反対した。

「内臣、お前は、我が国を新羅のような唐の属国にするつもりか? 我が国は開闢以来、他国の侵略は受けていないし、まして他国の属国すらなったこともない。これは、我が国の国益を損じる大罪だぞ」

「これは心外な。私は、唐と手を結ぶことが国益を損なうとは考えておりません。唐との関係を改善すれば、唐の文化・物資・情報を輸入することができます。さらに、唐より西の国々の情報を得ることも可能になるでしょう。これの何処が、我が国の国益を損ねるのですか?」

「唐の外交、は冊封政策だ。彼らの頭には、対等外交などない。唐と結べば、我が国は属国化されたのと同じだ!」

 いつもなら、ここで蘇我赤兄が助け舟を出すのだが、今回は珍しく中臣金連なかとみのかねのむらじが二人の間に入った。

 金は、中臣御食子連なかとみのみけこのむらじの弟の糠手子連ぬかてこのむらじの息子であり、鎌子の従弟にあたる。

「お二人のお考えは御尤もです。しかし、今回の使者は公的なものではないのですから、正式な回答は唐からの使者が派遣された折にするとして、今回は引き取らせては?」

 幕末でもこれと同じ様な話があったが、どうも日本人 ―― それも政治家や官僚は、ややこしい話を先延ばしにする癖があるようだ。

 しかし、大抵先延ばしが良い方に転がったことはないのだが………………

「待って如何する? それまでに攻め込まれるかも知れんのだぞ」

「先の戦で、我が国は唐の軍事力の強大さを思い知らされました。しかし一年あれば、我が国も唐と同じ水準の軍事力を持つことも可能でしょう。そうすれば、唐も簡単には我が国を属国にしようとはしないでしょうし、対等外交も可能になるでしょう」

 なるほど、金は良い案を出したなと鎌子は思った。

 金に同調したのは、鎌子だけではない。

 蘇我赤兄も、彼の意見に賛同した。

「私も、中臣殿の意見に賛成です。中大兄の言われるとおり、唐は我が国を属国としか考えてはいないでしょう。しかし、いま唐と戦っても勝てる確立が幾らとありましょうか? 加えて白江で、我が国は唐との軍事力の差を痛いほど思い知らされました。ここは中臣殿の言うとおり、唐側への返答はしばらく控えて、その間に軍備の増強をすべきでしょう。そうすれば、唐との交渉にも有利に働きます。如何でしょうか、ここは唐との外交は内臣殿、軍事に関しては中大兄が指揮を執られては?」

 赤兄は、これ以上宮内で中大兄と鎌子を対立させることは、得策ではないと考えていた。

 中央の対立は、地方にも伝播するものである。

 特にその対立が宮内の有力者同士なら、豪族たちが双方の後ろについて、さらなる対立を起こしかねない。

 しかも白村江の戦いで、地方の中央への批判が高まっている時期だ。

 ここは少々歪な関係だが、宮内を纏めることが先決であった。

 赤兄の意見は、中大兄と鎌子の両者に受け入れられた。

 これより以後、唐を仮想敵国として軍事を強化する中大兄と、唐との友好関係を推進する鎌子の二頭政治が行われるようになる。

 だが、外交と軍事は国政の大きな両輪である。

 進路が一致してこそ国家を動かすことができるのに、夫々が違う進路を目指していれば、その国家は動かなくなり、挙句の果には転覆してしまうものだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

江戸の老人ホーム(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)

牛馬走
歴史・時代
 木下弥左衛門は、隠居暮らしに淋しさを覚える暮らしをしている。彼はかつて、上意討ち代行をおこない、危険と隣り合わせの日々を送っていた。上意討ち代行は名前の通り、上意討ちを代行する。家中に仇をなして出奔した者を、当主の依頼、あるいは上意討ちを命じられた者の要請を受けて当該の者を討ち取り謝礼をもらっていた。   他方で、そんな彼はのちにいう老人ホーム、介添え長屋に住んで仲間と穏やかな毎日を過ごしている。そんな彼は、胃がんを患う。だが、死を覚悟することを習いとしていた彼は、その事実を静かに受け入れる。死ぬまでに何ができるか、と考える。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝

糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。 その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。 姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

処理中です...