大兇の妻

hiro75

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第4話

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 今朝方、衣摺れの音に目を覚ますと、夫が身支度を整えていた。

 夫は、背中を向けたまま、儀式に出席すると言った。

 宇音美は、無言で夫の身支度を手伝った。

 止めるつもりはなかった。

 行かないで、今日はずっと一緒にいてくれると約束したではないですかと言っても、彼は行くだろう。

 夫を静かに送り出すのが妻の役目だと、宇音美は理解していた。

 靴を履かせようとした。

 夫の前に片膝をついた。

 夫は宇音美を見ずに、彼女の膝の上に右足を乗せた。

 妻も、夫の顔を見なかった。

 宇音美の気持ちが態度に表れたのだろうか、右の靴が宇音美の手からぽろりと落ちた。

 慌てて拾い上げた。

 再び、靴が落ちた。

 三度目、靴はまたしても入鹿の足を嫌がり、駄々を捏ねるように敷石の上を転がっていった。

『靴は、行くのを嫌がっていますわ』

 宇音美は笑って言った。

 それは、妻の代弁でもあった。

 入鹿は、無表情で仰向けになった靴を眺めていた。

 四度目、靴はしぶしぶ入鹿の足におさまった。

『行ってらっしゃいませ』

 妻は、有りっ丈の笑顔で夫を送り出した。

 門を出て、夫は振り返った。

 何か言いたげな顔だった。

 宇音美は待った。

 が、ついに言葉は出てこなかった。

 ただ、夫は笑った。

 宇音美が、いままで見たなかで一番の笑顔だった。

 ―― 太郎さまは、こうなることが分かっていたんだわ。だから昨夜は私のところにいらっしゃったんだわ。

 夫は、妻に止めて欲しかったのだ。

 無理にでも止めて欲しかった。

 『行かないで』と言って欲しかった。

 裾に追い縋り、泣いて止めて欲しかったのだ。

 宇音美は、物分かりのいい妻を演じてしまった。

 夫に迷惑をかけまいと、良妻を演じてしまった。

(本当は、ずっと傍にいて欲しかったのに)

 あのとき夫を止めていれば、いまごろ馬の上で雨に濡れることもなかっただろうに…………………
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