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第6話
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仁左衛門が留め置かれていたのは、目付け屋敷の北側、座敷牢であった。
三方を板で囲まれ、僅かに開かれた明り窓から曇空の弱々しい光が差し込み、板の間にうっすらと波を作っている。
仁左衛門は端然と正座し、その波を見るともなしに見ていた。
見張りの者が開けた小さな入口から中に入ると、背筋まで凍てつくような冷たい空気に混じって、汗とも糞尿ともいえぬ、鼻腔の奥を刺激するような匂いが漂っていた。
普段汗臭い道場で稽古をしているので、そんな匂いには慣れているはずだが、それが座敷牢という独特の雰囲気と、その中ですっと背筋を伸ばして座している男の姿に圧倒されてしまった。
仁左衛門は、随分痩せていた。
昔から痩せ気味ではあったが、頬はまるで剃刀で切り落としたかのようにげっそりと扱け、胡麻を塗したように髭が生えている。
白い顔が、生気を抜かれたように更に青白い。
だが、なぜかその眼には、床の光が映りこんでいるのか、妙にキラキラと輝いていた。
由比は、男の変わりように驚き、不謹慎にも胸が高鳴った ―― 妙に男ぶりがあがったようだ。
「仁左衛門様」
声をかけると、男はいま気が付いたように、
「いや、これは由比殿」
と、あの間の抜けた笑顔を遣した。
その顔に、ああ、やはり仁左衛門であると安堵した。
父の隆景が目付けに取り合い、何度か交渉した結果、一度だけという約束で会うことが許された。
由比は昨晩から何を話そうかと考え、一睡もできず、目付けの屋敷に着いても、その考えが纏まらなかった。
黙って目の前に座る由比に、仁左衛門から頭を下げた。
「この度は、このようなことになって大変申し訳ございません。もうお聞き及びかと存じます。すべては私の不徳の致すところ。如何様にも」
如何様にもとは、恐らく『離縁』して欲しいと言っているのだと思った。
「離縁はしません」
はっきりと言った。
「しかし……」
「しかしも糸瓜もございません。縁切りのために、私はここに来たわけではありません。確かめたかったのです、私は」
「あなたらしい」
仁左衛門は、ふと笑みを零した。
「確かめるとおっしゃられても……」
「まことにあなたが? 本当にあなたが? 本当に?」
由比は、しつこく訊いた。何度も何度も訊きなおした。
「嘘ですよね、あなたが横領なんて?」
仁左衛門は答えない。
ただ視線を落として、冷たい床を見つめる。
「なぜ黙っておられるのですか? 黙っておられたら、やったと言うのと同じなのですよ? 私にも話してくださりませぬか?」
夫は、妻の説得にも口を開かない。
「なぜそこまで? もしや、どなたかを庇っておいでですか? 本庄様ですか? 仁左衛門様、お答えください!」
これにも答えず、じっと黙っている。
「もしや、ご自分のためですか? それは、女の方?」
仁左衛門は顔をあげ、何とも悲しげな笑みをこぼす。
「お答えください、仁左衛門様! このまま黙っておいでだと、あなたは不名誉な罪を被せられ、罪人になるのですよ」
このまま黙っていれば、すべての責任を背負わされるのは間違いない。
一番はやっていないことだが、本人の筆が残っている以上、言い逃れは難しい。
信じたくはないが、仮に罪を犯したとしても、理由を述べれば、責任を取る形で腹を切ることができる。
武士としては、最期に汚名をそそぐ、名誉ある死だ。
黙すれば、罪人となる。
公金を私腹のために横取りしていたとなれば、罪は重い。
恐らく、斬首は避けられないであろう。
武士として、不名誉な死に方だ。
名誉ある死か、不名誉な死か、死ぬことに変わりはないのだが、腹を切るか切らないかの違いを、侍は重んじた。
仁左衛門に武士の魂が残っているならば、潔く全てを白状し、武士として名誉ある死を選ぶのが一番であるが………………
腹を切るのが怖いのか、全く口を開かない。
いや、恐れている様子は伺えない。
首切りの話をすれば、いつも頬を引き攣らせ、露骨に嫌そうな顔をする男であるのに、いまは静かに座っている。
まるで覚悟を決めているようだ。
それは、何の覚悟だろうか?
罪人として首を切られる不名誉な覚悟だろうか?
仁左衛門は、なぜに、それほど腹を切ることを嫌がるのか?
同じ死するならば、己の名誉を保って死にたいではないか?
それが武士というものではないのか?
女の由比でさえそう思うのだから、男として生まれた仁左衛門ならば、当然のことと思うのだが。
夫は、妻の再三の説得にも応じず、最期までだんまりを押し通した。
「情けない!」、由比は吐き捨てるように言った、「それほど、腹を切るのはお嫌ですか? どのみち罪を問われるとお考えなら、最期は武士として潔く死のうとはお思いにはなりませぬか?」
仁左衛門は、困ったような顔でじっと膝元を見つめている。
「私は、あなたのことを見誤っておりました。他の殿方とは少し違うお考えの方で、優柔不断で、押しに弱いところはありますが、女の私の意見もよく聞いてくださる、珍しいお方だと、尊敬はしないにしても、一目置いておりました。もちろん、夫であるということもそうですが。ですが、それも全て失せました。あなたはやはり、ただの『ぼんくら』でした」
由比は、すくりと立ち上がった。
「腹を召されないのでしたら、私が首をばっさりと切ってあげましょう。次にお会いするのは、刑場ですね。それでは」
夫に一礼して、牢から出ようとした。
「由比殿」と、男はか細い声で呼び止めた。
もしや覚悟を決めたのかと立ち止まり、振り返る。
「何でしょうか?」
「お願いがございます」
「私にできることでしたら」
「それではお言葉に甘えて……、団子を……」
仁左衛門の言葉を聞いたあと、由比は牢の扉を勢い良く閉め、ドタドタと足を踏み鳴らして出て行った。
石段を上がっていくと、額にしっとりと汗をかいた。
「なんで私がこんなことを……」と呟きながら、由比は険し顔で上がっていく。
石段が辛いわけではない。怒っているのだ。
仁左衛門のお願い事とは、団子の所望であった。
公金を横領するという重大な罪に問われているにも関わらず、この場に及んで団子を欲しがった仁左衛門の豪胆さに、流石の由比も呆れかえってしまった。
仁左衛門が、他の者とは一風変わった考えの持ち主であることは百も承知である。
それでも、常識というものがあろう。
罪を認めも否定もしないのに、団子だけは欲しがるなんて。
豪胆というよりも、無神経 ―― もはや、頭のどこかが弛んでいるとしか言いようがない。
しかも、例の団子屋で買って欲しいと言う。
それでなくても、仁左衛門と団子屋の仲を疑っているのに、その妻に夫の妾かもしれない女のもとに行かせるその無神経さ!
由比の怒りは頂点に達し、目付けの屋敷から帰った後、その怒りを剣の稽古にぶつけた。
誰が買いに行くかと怒った。
女を馬鹿にしている。
仁左衛門は、他の男よりはまだ女に理解があるほうだと思っていたが、全くの見当違い。
むしろ他の男よりも質が悪い。
こんな人を自分の夫に選んだかと思うと、由比は情けなくなった。
別に好いて一緒になったわけではないし、父親から強制されたわけではない。
自分が、自分の思うように動く人だと選んだのだから、自分自身の選定眼の悪さにも怒っていた。
団子など、誰が買いに行くか!
二度と仁左衛門のもとにも行かぬ!
このまま離縁してやる!
と、思って数日を過ごした。
だが、物事をはっきりさせないと気が済まない質である。
団子屋の女のことも気にかかるし、団子も頼まれたしと、とりあえず妻として夫の最後の願いを聞いてやろう、女の正体を確かめてやろう、別れるのはそれからでも遅くないと、由比はよやく重い腰をあげ、団子屋に向かった。
件の団子屋は、今日も客がいなかった。
常連客は、仁左衛門だけだったのだろう。
その彼も、いまは牢の中である。
女は、さぞかし寂しい想いをしているだろう、少しいい気味だと思った。
由比は下腹部に力を込め、まるで剣の試合に臨むように暖簾をくぐった。
誰もいない。
店内を見回してもいない。
奥からは、人の話し声が聞こえる。
『おとっつぁん、今日も槇田様はいらっしゃらないのよ。きっとお役でお忙しいのよ。ええ、そうね……、せっかく良くなってるのにね……』
父親と話しているようだ。
親子そろって仁左衛門を誑かしているのかと思うと、ますます腹が立ってきた。
由比は、奥に声をかけた。
『はぁ~い、ただいまま』と、間の抜けた声が返ってきた。
女が顔を覗かせると、あっと驚いていた。
『間違いない』と女の感が言っている。
由比は背筋を伸ばし、凛とした声で、「串焼き団子を十本ほどください」
女は、慌てて店の奥に入った。
由比よりも、若干年が若い程度だろうか?
ふっくらとした肉付きのいい頬に、つぶらな瞳、申し訳程度に鼻がついている。
由比が咲き誇る桜のような艶やかさであるならば、彼女は静かに佇む梅の花のようである。
なるほど、仁左衛門様はああいう女が好きなのだな。
団子を包んで持ってきた。
女は、恐る恐る差し出す。
由比は、「ありがとうございます」と御代を渡して受け取った。
受け取ったはいいが、この団子、どうしよう?
仁左衛門ではあるまいし、ひとりで十本も食べられない。
牢屋の中で、仁左衛門は例の店で団子を十本買ってくれと言った。
それを食べるのかと問うと、『ここでは、食べられませよ』と笑う。
なるほど、ではどうするのか?
『団子屋の娘に聞けば分かります』
ふたりの間に、自分には知らない秘密があるようだ。
それが悔しい。
由比は、怒ったように尋ねる。
「私、槇田仁左衛門の妻、由比と申します。ご存知ですよね?」
「は、はい、もちろんでございます」
団子屋の娘は、おどおどしながら上目遣いに見ている。
由比は、そういった弱々しい、女を前面に出すような態度が大嫌いだ。
無性に腹が立つ。
「主人がお世話になっております」
と、嫌味のように頭を下げた。
「と、とんでもございません」
と、女も慌てて頭を下げる。
嫌味の意味が分かっているのだろうか?
「主人はよくここへ?」
「は、はい、三日に一度は……、最近はお越しになりませんが」
「ええ、いまは牢屋に入っておりますので」
由比はあっさりと言った。
女は、酷く驚いている、「な、何かあったんですか?」
「あなたが心配するようなことではございません」、由比はきっぱりと言った、「ときに、この団子ですが、主人はいつもどうしていましたか? 一人で食べていたのですか?」
妾に聞くのも腹が立つが、大量の団子を捨てるわけにもいかない。
女は首を振る、「それでしたら……」と、寺のほうを指差した。
寺を訪ねると、ひょろっとした七十前後の和尚が出てきた。
名乗ると、「おお、槇田殿のご新造さんで」と歓迎された。
団子を差し出すと、さらに大歓迎だ。
「これはこれは助かります」
和尚は、相貌を崩して喜んでいる。
もしや、この和尚も団子好きで、一人で十本も食べるんじゃないだろうなと疑った。
「おい、槇田殿から団子をもらったぞ」
奥から、数人の子どもたちが飛び出してくる。
以前、石段ですれ違った子たちだ。
彼らは団子を見ると目を輝かせ、我先にと手を出してきた。
団子は、あっという間になくなった。
驚いている由比に、和尚が訊いた。
「いや~、みんな楽しみに待っておってな。最近槇田殿がお見えにならないんで、寂しがっておったところじゃ。ところが、まさかご新造さんが来るとは。ところで、槇田殿は? 最近、お役目のほうがお忙しいのかな?」
「いえ、主人は……」
話を聞くと、和尚は酷く驚き、そしてがっくりと肩を落とした。
「然様か……、槇田殿がそのようなことを。しかし、まだ槇田殿本人がやったと言っておるわけではないのであろう?」
「ええ、そうですが……、証拠もありますし、そのことになると何も話さないようで……、そうなるとやりましたと言っているようなものですから」
「うむ……、確かに……」
和尚は、考え込むように両腕を組んだ。
「ときに和尚様、主人はいつもここで何を?」
素朴な疑問であった。
「ん? ああ、槇田殿は、ここで子どもたちに算術や文字を教えておったんじゃよ」
そんなこと、一度も聞いたことがない。
お役を抜け出し、寺の境内で団子を食べているのは知っていた ―― ゆえに、『ぼんくら』だと言われている。
「あの子達は、可愛そうな子でなぁ~。近年の年貢の厳しい取立てや不作で、食べていけなくなって捨てられる、はたまた両親が病で亡くなる、そんな独り身になった子たちですわ。そんな子を、ワシがここに集めて育てておるが、槇田殿は親のない子を不憫に思われてな、三日に一度は団子を持ってきて、算術やら文字やら教えてくれるんですわ」
「主人が、そんなことを?」
「剣術はからっきし駄目だが、算術なら教えられる。読み書き十露盤ができれば、丁稚奉公にでて食っていけるだろう……という槇田殿のお考えでな」
子どもたちは、団子を頬張りながらも、書物を読んだり、十露盤を弾いたりしている。
そこに仁左衛門が、あの間の抜けた笑顔で子どもの様子を見ながら歩き回っている姿が重なった。
三方を板で囲まれ、僅かに開かれた明り窓から曇空の弱々しい光が差し込み、板の間にうっすらと波を作っている。
仁左衛門は端然と正座し、その波を見るともなしに見ていた。
見張りの者が開けた小さな入口から中に入ると、背筋まで凍てつくような冷たい空気に混じって、汗とも糞尿ともいえぬ、鼻腔の奥を刺激するような匂いが漂っていた。
普段汗臭い道場で稽古をしているので、そんな匂いには慣れているはずだが、それが座敷牢という独特の雰囲気と、その中ですっと背筋を伸ばして座している男の姿に圧倒されてしまった。
仁左衛門は、随分痩せていた。
昔から痩せ気味ではあったが、頬はまるで剃刀で切り落としたかのようにげっそりと扱け、胡麻を塗したように髭が生えている。
白い顔が、生気を抜かれたように更に青白い。
だが、なぜかその眼には、床の光が映りこんでいるのか、妙にキラキラと輝いていた。
由比は、男の変わりように驚き、不謹慎にも胸が高鳴った ―― 妙に男ぶりがあがったようだ。
「仁左衛門様」
声をかけると、男はいま気が付いたように、
「いや、これは由比殿」
と、あの間の抜けた笑顔を遣した。
その顔に、ああ、やはり仁左衛門であると安堵した。
父の隆景が目付けに取り合い、何度か交渉した結果、一度だけという約束で会うことが許された。
由比は昨晩から何を話そうかと考え、一睡もできず、目付けの屋敷に着いても、その考えが纏まらなかった。
黙って目の前に座る由比に、仁左衛門から頭を下げた。
「この度は、このようなことになって大変申し訳ございません。もうお聞き及びかと存じます。すべては私の不徳の致すところ。如何様にも」
如何様にもとは、恐らく『離縁』して欲しいと言っているのだと思った。
「離縁はしません」
はっきりと言った。
「しかし……」
「しかしも糸瓜もございません。縁切りのために、私はここに来たわけではありません。確かめたかったのです、私は」
「あなたらしい」
仁左衛門は、ふと笑みを零した。
「確かめるとおっしゃられても……」
「まことにあなたが? 本当にあなたが? 本当に?」
由比は、しつこく訊いた。何度も何度も訊きなおした。
「嘘ですよね、あなたが横領なんて?」
仁左衛門は答えない。
ただ視線を落として、冷たい床を見つめる。
「なぜ黙っておられるのですか? 黙っておられたら、やったと言うのと同じなのですよ? 私にも話してくださりませぬか?」
夫は、妻の説得にも口を開かない。
「なぜそこまで? もしや、どなたかを庇っておいでですか? 本庄様ですか? 仁左衛門様、お答えください!」
これにも答えず、じっと黙っている。
「もしや、ご自分のためですか? それは、女の方?」
仁左衛門は顔をあげ、何とも悲しげな笑みをこぼす。
「お答えください、仁左衛門様! このまま黙っておいでだと、あなたは不名誉な罪を被せられ、罪人になるのですよ」
このまま黙っていれば、すべての責任を背負わされるのは間違いない。
一番はやっていないことだが、本人の筆が残っている以上、言い逃れは難しい。
信じたくはないが、仮に罪を犯したとしても、理由を述べれば、責任を取る形で腹を切ることができる。
武士としては、最期に汚名をそそぐ、名誉ある死だ。
黙すれば、罪人となる。
公金を私腹のために横取りしていたとなれば、罪は重い。
恐らく、斬首は避けられないであろう。
武士として、不名誉な死に方だ。
名誉ある死か、不名誉な死か、死ぬことに変わりはないのだが、腹を切るか切らないかの違いを、侍は重んじた。
仁左衛門に武士の魂が残っているならば、潔く全てを白状し、武士として名誉ある死を選ぶのが一番であるが………………
腹を切るのが怖いのか、全く口を開かない。
いや、恐れている様子は伺えない。
首切りの話をすれば、いつも頬を引き攣らせ、露骨に嫌そうな顔をする男であるのに、いまは静かに座っている。
まるで覚悟を決めているようだ。
それは、何の覚悟だろうか?
罪人として首を切られる不名誉な覚悟だろうか?
仁左衛門は、なぜに、それほど腹を切ることを嫌がるのか?
同じ死するならば、己の名誉を保って死にたいではないか?
それが武士というものではないのか?
女の由比でさえそう思うのだから、男として生まれた仁左衛門ならば、当然のことと思うのだが。
夫は、妻の再三の説得にも応じず、最期までだんまりを押し通した。
「情けない!」、由比は吐き捨てるように言った、「それほど、腹を切るのはお嫌ですか? どのみち罪を問われるとお考えなら、最期は武士として潔く死のうとはお思いにはなりませぬか?」
仁左衛門は、困ったような顔でじっと膝元を見つめている。
「私は、あなたのことを見誤っておりました。他の殿方とは少し違うお考えの方で、優柔不断で、押しに弱いところはありますが、女の私の意見もよく聞いてくださる、珍しいお方だと、尊敬はしないにしても、一目置いておりました。もちろん、夫であるということもそうですが。ですが、それも全て失せました。あなたはやはり、ただの『ぼんくら』でした」
由比は、すくりと立ち上がった。
「腹を召されないのでしたら、私が首をばっさりと切ってあげましょう。次にお会いするのは、刑場ですね。それでは」
夫に一礼して、牢から出ようとした。
「由比殿」と、男はか細い声で呼び止めた。
もしや覚悟を決めたのかと立ち止まり、振り返る。
「何でしょうか?」
「お願いがございます」
「私にできることでしたら」
「それではお言葉に甘えて……、団子を……」
仁左衛門の言葉を聞いたあと、由比は牢の扉を勢い良く閉め、ドタドタと足を踏み鳴らして出て行った。
石段を上がっていくと、額にしっとりと汗をかいた。
「なんで私がこんなことを……」と呟きながら、由比は険し顔で上がっていく。
石段が辛いわけではない。怒っているのだ。
仁左衛門のお願い事とは、団子の所望であった。
公金を横領するという重大な罪に問われているにも関わらず、この場に及んで団子を欲しがった仁左衛門の豪胆さに、流石の由比も呆れかえってしまった。
仁左衛門が、他の者とは一風変わった考えの持ち主であることは百も承知である。
それでも、常識というものがあろう。
罪を認めも否定もしないのに、団子だけは欲しがるなんて。
豪胆というよりも、無神経 ―― もはや、頭のどこかが弛んでいるとしか言いようがない。
しかも、例の団子屋で買って欲しいと言う。
それでなくても、仁左衛門と団子屋の仲を疑っているのに、その妻に夫の妾かもしれない女のもとに行かせるその無神経さ!
由比の怒りは頂点に達し、目付けの屋敷から帰った後、その怒りを剣の稽古にぶつけた。
誰が買いに行くかと怒った。
女を馬鹿にしている。
仁左衛門は、他の男よりはまだ女に理解があるほうだと思っていたが、全くの見当違い。
むしろ他の男よりも質が悪い。
こんな人を自分の夫に選んだかと思うと、由比は情けなくなった。
別に好いて一緒になったわけではないし、父親から強制されたわけではない。
自分が、自分の思うように動く人だと選んだのだから、自分自身の選定眼の悪さにも怒っていた。
団子など、誰が買いに行くか!
二度と仁左衛門のもとにも行かぬ!
このまま離縁してやる!
と、思って数日を過ごした。
だが、物事をはっきりさせないと気が済まない質である。
団子屋の女のことも気にかかるし、団子も頼まれたしと、とりあえず妻として夫の最後の願いを聞いてやろう、女の正体を確かめてやろう、別れるのはそれからでも遅くないと、由比はよやく重い腰をあげ、団子屋に向かった。
件の団子屋は、今日も客がいなかった。
常連客は、仁左衛門だけだったのだろう。
その彼も、いまは牢の中である。
女は、さぞかし寂しい想いをしているだろう、少しいい気味だと思った。
由比は下腹部に力を込め、まるで剣の試合に臨むように暖簾をくぐった。
誰もいない。
店内を見回してもいない。
奥からは、人の話し声が聞こえる。
『おとっつぁん、今日も槇田様はいらっしゃらないのよ。きっとお役でお忙しいのよ。ええ、そうね……、せっかく良くなってるのにね……』
父親と話しているようだ。
親子そろって仁左衛門を誑かしているのかと思うと、ますます腹が立ってきた。
由比は、奥に声をかけた。
『はぁ~い、ただいまま』と、間の抜けた声が返ってきた。
女が顔を覗かせると、あっと驚いていた。
『間違いない』と女の感が言っている。
由比は背筋を伸ばし、凛とした声で、「串焼き団子を十本ほどください」
女は、慌てて店の奥に入った。
由比よりも、若干年が若い程度だろうか?
ふっくらとした肉付きのいい頬に、つぶらな瞳、申し訳程度に鼻がついている。
由比が咲き誇る桜のような艶やかさであるならば、彼女は静かに佇む梅の花のようである。
なるほど、仁左衛門様はああいう女が好きなのだな。
団子を包んで持ってきた。
女は、恐る恐る差し出す。
由比は、「ありがとうございます」と御代を渡して受け取った。
受け取ったはいいが、この団子、どうしよう?
仁左衛門ではあるまいし、ひとりで十本も食べられない。
牢屋の中で、仁左衛門は例の店で団子を十本買ってくれと言った。
それを食べるのかと問うと、『ここでは、食べられませよ』と笑う。
なるほど、ではどうするのか?
『団子屋の娘に聞けば分かります』
ふたりの間に、自分には知らない秘密があるようだ。
それが悔しい。
由比は、怒ったように尋ねる。
「私、槇田仁左衛門の妻、由比と申します。ご存知ですよね?」
「は、はい、もちろんでございます」
団子屋の娘は、おどおどしながら上目遣いに見ている。
由比は、そういった弱々しい、女を前面に出すような態度が大嫌いだ。
無性に腹が立つ。
「主人がお世話になっております」
と、嫌味のように頭を下げた。
「と、とんでもございません」
と、女も慌てて頭を下げる。
嫌味の意味が分かっているのだろうか?
「主人はよくここへ?」
「は、はい、三日に一度は……、最近はお越しになりませんが」
「ええ、いまは牢屋に入っておりますので」
由比はあっさりと言った。
女は、酷く驚いている、「な、何かあったんですか?」
「あなたが心配するようなことではございません」、由比はきっぱりと言った、「ときに、この団子ですが、主人はいつもどうしていましたか? 一人で食べていたのですか?」
妾に聞くのも腹が立つが、大量の団子を捨てるわけにもいかない。
女は首を振る、「それでしたら……」と、寺のほうを指差した。
寺を訪ねると、ひょろっとした七十前後の和尚が出てきた。
名乗ると、「おお、槇田殿のご新造さんで」と歓迎された。
団子を差し出すと、さらに大歓迎だ。
「これはこれは助かります」
和尚は、相貌を崩して喜んでいる。
もしや、この和尚も団子好きで、一人で十本も食べるんじゃないだろうなと疑った。
「おい、槇田殿から団子をもらったぞ」
奥から、数人の子どもたちが飛び出してくる。
以前、石段ですれ違った子たちだ。
彼らは団子を見ると目を輝かせ、我先にと手を出してきた。
団子は、あっという間になくなった。
驚いている由比に、和尚が訊いた。
「いや~、みんな楽しみに待っておってな。最近槇田殿がお見えにならないんで、寂しがっておったところじゃ。ところが、まさかご新造さんが来るとは。ところで、槇田殿は? 最近、お役目のほうがお忙しいのかな?」
「いえ、主人は……」
話を聞くと、和尚は酷く驚き、そしてがっくりと肩を落とした。
「然様か……、槇田殿がそのようなことを。しかし、まだ槇田殿本人がやったと言っておるわけではないのであろう?」
「ええ、そうですが……、証拠もありますし、そのことになると何も話さないようで……、そうなるとやりましたと言っているようなものですから」
「うむ……、確かに……」
和尚は、考え込むように両腕を組んだ。
「ときに和尚様、主人はいつもここで何を?」
素朴な疑問であった。
「ん? ああ、槇田殿は、ここで子どもたちに算術や文字を教えておったんじゃよ」
そんなこと、一度も聞いたことがない。
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「あの子達は、可愛そうな子でなぁ~。近年の年貢の厳しい取立てや不作で、食べていけなくなって捨てられる、はたまた両親が病で亡くなる、そんな独り身になった子たちですわ。そんな子を、ワシがここに集めて育てておるが、槇田殿は親のない子を不憫に思われてな、三日に一度は団子を持ってきて、算術やら文字やら教えてくれるんですわ」
「主人が、そんなことを?」
「剣術はからっきし駄目だが、算術なら教えられる。読み書き十露盤ができれば、丁稚奉公にでて食っていけるだろう……という槇田殿のお考えでな」
子どもたちは、団子を頬張りながらも、書物を読んだり、十露盤を弾いたりしている。
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