ロンドンの疾風

sanpo

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「起きてよ、お兄ちゃん、ねぇ、起きてったら!」
「ん……」
 体を揺すぶられてエドガーはベッド代わりのソファで薄く目を開けた。居間の壁にピッタリと寄せたこのソファは、またエドガーが夜番で留守の間、妹ミミの寝床にもなるのだ。
 それにしても――
 鼻腔を擽る甘美な香り……昨日の成功の残り香…… てことは、ああ、やっぱり全ては夢だったのか?
「寝ぼけてないで、ちゃんと起きて、お兄ちゃん! お客さんよ」
「?」
 鼻先に妹の持った棒キャンディ、そして、その後ろに立っているのは――
「ヒュー・バード!」
「熟睡中、失礼、昨日の話の続きをしたくてさ」
 エドガーは毛布を跳ね除けてモゴモゴ言った。
「よく僕の家がわかったな?」
「昨日、帰り際に会社の名簿を見たのさ」
 そんなことはなんでもない、とウィンクをしてヒューは湯気の立つ包みを掲げて見せた。
「途中で買って来たんだ。ファッジと焼きたての生姜パンだよ。シェファーズパイもあるぜ、朝食にどうだい?」
 口いっぱいに甘いお菓子を頬張って小さな妹は笑った。
「私はもうもらっちゃった! おいしいわよ、エド」
 エドガーが大急ぎでお茶を用意する間、人形遊びを始めたミミをヒューは微笑みながら眺めていた。
「わお、素敵なお人形さんだね! ドレスがまた素敵だ」
「ありがとう、この子の名前はプリンセス・ミミよ。ママが縫ってくれたの」
「母さんはリバティ百貨店の縫製部に勤めてる。優秀なお針子なんだぜ。だから端切れでなんでもささっと作っちゃうのさ」
 カップと皿をテーブルに置くとエドガーはやや声を低くして背後のドアを指差した。
「父さんもね、腕のいい仕立て屋だったんだけど、胸を悪くして……今、療養中なんだ。モチロン、元気になったらすぐ店に復帰する予定さ」
「ああ、だからここ・・に住んでるのか」
 こことは、サヴィル・ロウ。コンジット・ストリートとヴィーゴストリートの間にあってオーダーメイドの高級紳士服店が集中する区域である。その3番街、1階と2階が倉庫に使用されている細長い3階建ての建物の最上階がエドガーの住居だ。父の務めていた店の所有するこのビルに店主オーナーの好意で間借りさせてもらっている。
「さてと、話を聞かせてくれよ、ヒュー。本について何か読み取れたのかい? マーブルやガウン同様、これまた聖書や宗教に関わることだった?」
「マーブル?」
 ミミがパッと顔を上げたのでヒューはポケットから取り出して紙袋ごと渡した。
「これだよ。どうぞ、ミス・タッカー。好きに遊んでいいよ」
 エドガーに視線を戻すと、
「本はについては、ずっと考えてんだが、よくわからなかった。それで――」
 改めて、シーモア氏を発見した時の様子に立ち返って考えることにした、とヒューは言う。
「あの本のこと、周囲の状況も含めて、どんな風だったか思い出せるかい、エド?」
 ルパート・シーモア氏は裸で、胸にナイフを突きさしたまま仰向けに倒れていた。右手はしっかりとガウンを握っていた。左手の本は……
「本は開いた状態で、その上にシーモア氏の手が乗っていた。と言うか、手を置いた格好だった。やや小ぶりの本。シーモア氏の大きな手が被さる形で、内容やページについてははっきりとは見えなかったな。待てよ、あの時――」
 エドガーは何かを思い出しかけた。シーモア氏の指の間から見えた物、あれは……
 だが、エドガーがそれを言う前にヒューの声が重なった。
「その通りさ! エド、あの状況でよくそこまで細かく見てたな。えらいぞ」
 またしてもヒューに認められた。天にも昇る心地。
「ど、どうも、ヒュー」
「俺はあの時、シーモア氏の手を動かしてその下のページを見たくてたまらなかった。なんとか我慢したけど。きっとキース・ビー警部補は知ってるんだろうな。きちんと確認したはずだから」
 ヒューはパチンと手を打ち鳴らした。
「クソ、昨日シーモア氏邸の台所で警部補がいろいろ話してくれた時に、そのことも訊いておくべきだった」
「もう一度訊きに行くかい、ヒュー?」
「それもいいけど……今日は警部補より、カンバーランドさんに話を訊きに行くつもりさ」
「カンバーランド? 誰だよ、それ?」
「あの本を書いた人物さ。正確に言うと挿絵を描いた画家だ。あの本はマザーグース関連の書籍で先月出版された新しい本だ」
 エドガーは生姜パンを喉に詰めかけた。胸を叩きお茶で流し込んでから、叫ぶ。
「す、凄い、君は何だって知ってるんだな!」
 ヒューはペロリと舌を出した。
「悪い、ズルをした。イカサマしちまった」
 種明かしを披露する魔術師のように指をヒラヒラ揺らしてヒューは言う。
「実は、俺はあの本のこと少々知ってるんだ。以前シーモア氏にメッセージを届けた時に、お客が居合わせていて、シーモア氏が『友人の画家だ』と紹介してくれたんだよ。その人の名がトロイ・カンバーランドさ。挿絵を描いたマザーグース本が出版されたのを記念して二人でささやかな祝杯を上げてるって言ってた」
 いったん言葉を切る。
「カンバーランドさんはね、その日たまたまメッセージを配達した俺に、これも何かの縁だからと本を見せてくれて、喜びのお裾わけだとチップまでくれたんだ。だからよく憶えている」
 そっとヒューは息を吐いた。
「あの夜の二人はとても幸福そうに見えたっけ。いつも一人で居るシーモア氏を見慣れていたから、友達っていいもんなんだなと思って、俺はつくづく羨ましかった」
 喋り過ぎたと言うように唐突にヒューは腰を上げた。
「そういうわけだから、善は急げだ。エド、これからその画家を訪ねてみようぜ」
 慌ただしく身支度をするエドガーにヒューは指示した。
「社の制服を着ろよ、エド」
 よくよく見るとヒュー自身も着ていた。
 テレグラフ・エージェンシーの制服は最強だ。これを身に着けていればどんな路地へも入っていけるし、誰にも怪しまれない。まさに宣伝文句曰く、最新の情報をどこよりも早くどなたにも、私たちはロンドンの隅々までお届けいたします。
 そのまま夜番に出社してもいいようにローラースケートも肩に担ぐ。準備万端、玄関へ向かおうとしてエドガーは足を止めた。
「そうだ、マーブルを返さないと。ミミ!」
 部屋の隅で夢中で遊んでいる妹の傍へ駆けよる。王女のように美しいお人形とかなりくたびれた熊のぬいぐるみ、それぞれの前の紙のお皿にマーブルがきちんと並べてある。
「やあ、6個ずつ、ちゃんと分けてあげてるんだね、平等だね、お利口さんだな、ミミちゃん」
「喧嘩しないようにね。エド熊はいつもおやつを自分が多く取るから、いけませんって、今叱ったところなの」
「エド熊だって?」
「そうよ、この熊ちゃんはね、お兄ちゃんのものだったの。お兄ちゃんが毎晩抱いて寝てたせいで、ほ~ら、お鼻がひしゃげてるでしょ」
「アハハハ」
 吹き出すヒュー、真っ赤になるエドガー。
「要らないこと言うな! さあ、ミミ、マーブルを返すんだ」
「いいよ」
 ヒューは首を振った。
「ミミにあげようよ。こんなに楽しそうに遊んでるんだもの」
「ありがとう、ヒュー!」
 ミミは飛びついてヒューの頬にキスの雨を降らせた。
 気を取り直して、こんどこそ、いざ、出陣! 
 目指すはシーモア氏の友人の画家の家――
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