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1巻
1-2
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ふうわりと柔らかい声で久馬は言った。
「浅さん、薩摩藩邸に行ってみようや。賊がそれほど気にしていた猪の肉について、俺たちも探ってみる価値はあるぞ」
だが、この日、黒沼久馬と山田浅右衛門は三田にある薩摩藩上屋敷には行き着けなかった。
二人が連れ立って、片門前から将監橋を渡ろうとした矢先──
「黒沼様──っ!」
猛烈な勢いで駆け寄って来たのは、見るからに年季が入った岡っ引きだ。
「ん? ありゃ、松兵衛親分だ。なんかあったかな?」
深川は森下町の松兵衛親分。人呼んで、〈曲木の松〉は久馬の父の代からの十手持ちである。
当人はそろそろ倅の竹太郎に引き継がせたいと思って仕込んでいる最中なのだが、この息子、名親分の父親に似ず腑抜けの遊び人で、とても岡っ引きなど務まらないと、誰もが陰で言っている。当の竹太郎がなりたがっているのは戯作者――小説家なのだ。それで、この曲木の松親分、未だに老骨に鞭打って八百八町を駆け回っているという次第。
尤も、松兵衛は若い時分よりこのあだ名で呼ばれていた。
というのも、足が異様に速かったからだ。普通に歩いている親分など、誰も見たためしがない。いつも頑丈でちょっとやそっとでは折れそうにない体ごと通りをブッ飛ばして行く。枯れ木の如く年取った今でも、不思議と足だけは衰えないのである。まさに曲木。そのココロは、曲がっている木は柱にゃならない……走らにゃならない……江戸っ子好みの駄洒落だ。
さて、その、走らにゃならない松親分、息せき切って久馬に報告した。
「ここであったが百年目! ちょうど良かった! なにね、今しがた倅の竹を八丁堀まで呼びにやったところなんでさぁ。実は、例の事件でちょいとばかり出てきやした。それで、こりゃぜひとも黒沼の坊のお耳に入れねばと思いやしてね」
「例の事件とは?」
思わず訊いた浅右衛門だった。
「これは山田様! またご一緒で? 弥次喜多並みにお仲がよろしいですな!」
言葉とは裏腹に、松兵衛親分は慇懃に頭を下げる。
「あれれ? 山田様は坊からまだお聞きになっていませんので?」
「なあ、何度も言うが〝坊〟はよせ。俺はもう歴とした同心なんだぜ、松」
久馬の苦言は聞こえなかったのか、老岡っ引き、そのまま続けた。
「六日前の夜、深川で別嬪が立て続けに三人、斬り殺された事件でさぁ!」
久馬がたくさん抱えている事件の内の三つ目である。そもそも、こっちの事件の検視に行っていて、久馬はケダモノ屋の方には立ち会えなかった。
「それがね、今日になってもう一人、これは柳原の夜鷹なんだが、やっぱし殺されてるのがめっかって──検視の際にお世話になっている春庵先生に診てもらったら、どうも先の三人と同じ頃、殺られたらしいと言うんでさ」
夜鷹は最下層の遊女のことだ。柳原の土手は彼女たちの稼ぎ場所だった。江戸時代の川柳にこんなのがある。
『君は京、嫁は大坂、江戸は鷹』
なにやら暗号のようだが、地域で異なる遊女の名称を詠んでいるだけだ。京は辻君と呼び、大阪は惣嫁、夜鷹は江戸でのみ使われた。
「何だと?」
流石に若い定廻り同心は目を瞠る。
「すると……四人もか? 四人も、同じ日の同じ頃合に女たちが殺されたと言うのか?」
それだけじゃなくて、と老十手持ちは顔を顰めた。
「よくよく調べてみると死体におかしな類似点があるんでさぁ」
〈四〉
ケダモノ屋の件はひとまず脇に押しやって、久馬と浅右衛門は松兵衛親分に導かれるまま、深川は菊川町にある裏店に入った。
路地の奥、小粋な格子造りの二階屋の主の名は文字梅という。曲木親分の娘で、三味線音楽の一流派である常盤津節の師匠として生計を立てている。
「こいつが話した方が早えや。何しろこのネタは全部、こいつが仕入れて来たんでさ」
自慢したいのか恥じ入りたいのか、松兵衛は白くなった鬢を頻りに掻いている。
それもそのはず。親分が日頃から、こっちが息子だったら俺はどんなに安泰か、とぼやいているほど、姉の文字梅は優男の弟と違って頭脳明晰、度胸満点、器量も気風も申し分ない傑物と評判なのだ。
「ほんと、常磐津の師匠にしとくのが勿体ねぇや!」
「馬鹿をお言いでないよ、お父っつあん。それより──黒沼の坊ちゃま、あたしゃ、どうも腑に落ちないんですよ」
さっそく話し出す文字梅師匠。
殺された別嬪たちは皆、玄人筋の女だった。辰巳芸者の千菊と汐見。それから、両国の水茶屋の看板娘、おりん。
千菊はお座敷帰り、おりんは湯屋帰りの道で、汐見の方は置屋の自室で殺された。芸者同士とはいえ、千菊と汐見は置屋も違うし、友人というわけでもない。
つまり、死んだ三人が三人とも、何一つ関わりを持たない間柄なのだ。だが、その死体には明らかな共通点があった。それこそ──
「髪料をつけていないんでさ」
「──?」
髪料とは髪につける飾り物、つまり簪のことだ。刹那、久馬も浅右衛門も意味がわからず、ポカンとした顔になった。松兵衛が口を挟む。
「いやあ! あっしもこいつに言われるまで気づきもしませんでした。流石、女の目だね? 言われてみれば──そうなんですよ。皆、商売柄、人より綺麗に着飾ってて当然さね? 新たにめっかった柳原の夜鷹にしたって、そりゃナリは辰巳に落ちるが、それでも簪くらいは……ねえ?」
「だからこそ」
藍地に白の立湧模様も粋な中型の膝をグッと乗り出して、文字梅は言う。
「ここまで着物がキチンとしてて女が簪をつけないなんざぁ、有り得ないね!」
男の久馬も浅右衛門も、そのことがさほど重要だとは思えなかった。
「下手人がよほど生活に窮していて……それで簪を奪い取ったのではないのか?」
「嫌ですよ、旦那」
浅右衛門の言葉を師匠は嘲笑った。その顔たるや〝牡丹が風に戦ぐの如く〟だな、と浅右衛門は内心思う。
「それほど窮しているなら、櫛も持ってくはずでしょう? 私はこの目で見て来ましたが、実際、辰巳の一人の櫛なんざ螺鈿の、そりゃ見事な細工物でござんした。でも、その櫛には手をつけていない……」
父親も横から相槌を打つ。
「娘の言う通りでさ! それに、金品目当てなら、羽織だって着物だって帯だって……それこそ身包み剥ごうってもんだ」
「これが簪だけってのが、私は妙に引っかかるんですのさ」
「うむ──」
世の中には簪好みの追剥ぎがいるのかもしれない……
思いつつ、久馬は首を傾げたついでに師匠を盗み見た。
文字梅の今日の簪は白い項に映える艶やかな蜻蛉玉。誰にもらったものやら。
結局、その日はもう陽も落ちたので、薩摩藩邸へ行くのはやめにした。
あれこれ理由をつけて、久馬は浅右衛門を組屋敷内にある自邸に引き入れ、遅くまで酒を酌み交わした。その夜は同宿して、翌日──
晴れて二人は三田の薩摩藩上屋敷に赴いた。
用件は〈猪肉〉なので、裏門から厨に直行する。
厨を仕切る賄い方の銀次は、一見陰気な感じの三十男だった。
久馬が、去る六月一日の昼前、〈山奥屋〉から配達された猪肉のことで訊きたいと切り出すと、料理人は目を丸くする。
「へえ……!」
「妙なことを訊くと思うだろうが、御用の筋でどうしても知りてぇんだ」
だが、料理人が驚いたのは黒紋付巻羽織りの同心の来訪ではなくて、もっと別の理由だった。
「いゃあ! よく訊かれると思いまして……」
「とは? 我々以外にもその肉のことについて、おまえに訊いた者がいるのか?」
「へい、おりやしたよ」
銀次は首から垂らしていた手拭いで顔を拭ってから、話し出す。
「〈山奥屋〉さんから配達されて、その夜の内に訊かれましたっけか。どうして覚えているかって? ヘヘッ、こっちの方を馳走になったんでさ!」
銀次は右手を猪口の形にした。
料理人は独り者で、藩邸内の中間部屋に寝泊まりしている。その夜は、仕事を終えた後、材木町界隈の居酒屋へ一杯やりに出かけた。月に何度かそうするそうだ。いつものように一人で気楽に飲んでいると、男が隣に座った。
「見るからに浪人風のお侍さんがね、富くじに当たったとかで酒を奢ってくれたんでさ。一緒に飲む内に〝お国柄〟の話になって……そのお侍が言うには、『薩摩は肉食の伝統がある。だから、藩士が皆、強壮で血気盛んなのだ』とさ。なるほどねえ! それを聞いて、あっしも大いに納得するところがありやした」
最初の印象に反して、料理人は話し好きらしく喋り出したら止まらない。立て板に水の如く話し続けた。
久馬は何とか割り込んで――
「それで? 猪肉の話になったんだな?」
「え? そうそう、その通り。『薩摩のお屋敷では活きのいい肉を何処から仕入れているのか』と訊くんで、あっしは『平川町の〈山奥屋〉だ』と教えました。あそこはケダモノ横丁の中でもいっち活きがいい。それこそ、甲州街道ブッ飛ばして来る、獲れ立ての猪肉には定評があるんでさ! それで、何だね、あっしが思うには──」
それを遮って久馬、単刀直入に訊いた。
「肉について訊ねられたのは、仕入先の店名だけか?」
「いえ、その日届いた肉の状態についても、えらく知りたがっていました。だから、あっしが思うに、あのお侍、よっぽど強くなりてぇんだな? 富くじで当てた金、いやさ、本当は博打かもしれやせんがね。だけど、そんなこたぁどうでもいい。とにかく、これからはその金で薩摩のお侍並みに肉をわんさと喰らって筋骨隆々、意気盛ん、これで仕官もできようってもんだ!」
「実際、その日の猪肉はどうだった?」
「ええ? はあ、いつも通り新鮮で良かったですよ。新鮮も新鮮、文句のつけようがねえ──いや、待てよ、獲れ立て過ぎの文句は言えるか?」
「いつもと違うところがあったんだな?」
久馬の目が煌めいた。
「へえ。鉄砲玉がね、入っていたんで。肉を捌いていたら、包丁の先にカツンと来て……吃驚しやした! こんなことは初めてで……」
猪肉に入っていた鉄砲玉……奇妙な話ではないか!
「それをどうした? それは今、何処にある?」
おまえが持っているのか、と久馬が急き込んで訊くと、料理人は呆れ顔で首を横に振った。
「例のお侍にも訊かれましたがね。どっこい、ンなもの、あっしは持っちゃいませんよ。ちょうどその時、通りかかった成田様が素早く横からもぎ取るじゃありませんか。この成田様ってのは、お若いが大変な食通でして、ちょくちょく厨房に足を運ばれるんでさあ。それも大の肉好きとくる。あの日もいい猪肉が入ったと聞いて、覗きにいらしたんでしょうよ」
「それで?」
忍耐強く久馬は先を促した。
「その成田様が水で濯いでからつくづくと見入って、『こりゃ面白い! 体中から玉とは奇瑞ぞ! 俺にくれ』とおっしゃった。こっちはそんな鉄砲玉、邪魔っけなだけだ。ハナから捨てるつもりだったんで、『どうぞ、どうぞ』てなもんです。ま、この成田様のふるまいは、酒を奢ってくれたお侍様も『酔狂な奴もいるもんだ』なぁんて面白がって聞いてましたよ」
「黒沼様? 黒沼様ではありませんか!」
だだっ広くて薄暗い武家屋敷の厨に響き渡る、清涼な声。天上界に住む仏鳥、迦陵頻迦の鳴き声とはまさにこれか。振り返ると、今しも駆け寄って来たのは、あの前髪の若侍、三島鹿内だった。
「我が藩邸にわざわざお越しくださるとは! それでは、辻斬りの件で何かわかったのですね? ありがとうございます!」
若侍は喜びに破顔した。白い頬がうっすらと朱を刷いて、今や紅梅の風情である。
「そうだった! 三島殿は薩摩藩士と言っておられたな。いや、これは──嬉しがらせて申し訳ない」
慌てて久馬は手を振った。
「私が今日、こうしてやって来たのは全く別の用件なのです」
「え?」
久馬は、手短にケダモノ屋の番頭殺しについて鹿内に説明した。
「そういうわけで、本日は猪肉を捌いた際、傍におられたというご家中の成田殿にお会いして、更に詳しく話をお訊きしたく思います。ちょうど良かった! 三島殿、その方を呼んで来てもらえませんか?」
「それはできかねます」
三島鹿内は唇の端を吊り上げる。笑っているのか怒っているのか、いずれにせよゾッとするほど凄艶な表情だった。
久馬は苦笑して頼み込む。
「今回は貴殿のご期待に添えず申し訳なかった。辻斬りの件は約束通り、新しい情報が入り次第、必ずやお知らせします。だから――そう意地悪しないで成田殿に会わせてください」
「意地悪ではござらぬ。会わせるのは無理だから、そう言っているのです。何故なら、成田殿はもうこの世にはおりません」
長い睫毛に縁取られた双眸を伏せたまま、若侍は言った。
「お探しの成田新九郎こそ、先日、比丘尼橋で果てた当人です」
「あ」
「〈花の同心〉のご多忙は私も存じ上げております。されど──いかにお忙しいとはいえ、よもや犠牲者の名も覚えておられないとは……! たかが辻斬り。黒沼様にはその程度のものだったのですね?」
久馬は一言もない。
「黒沼様のこのご様子では、情報など、待ったところで永遠に届くはずはなかったのだ。それを真剣に……一日千秋の思いで待っていた自分が浅はかでした。では、これにて」
冷たい一礼の後、衣擦れの音だけを残して三島鹿内は去って行った。
「そう落ち込みなさんな、こういうこともあろうさ」
朝からずっと一緒にいて、久々に聞く浅右衛門の声だった。
カクカクと曲がりくねった道、俗に言う〈薩摩屋敷の七曲がり〉。その堀の傍で、先刻より久馬は膝を折ってしゃがみ込んでいた。
巻羽織りの内側、腰に差した赤い房付きの十手が突っ張って、さぞや心地悪かろうに、その姿勢のままじっと水面を見つめている。
「たかが辻斬り。珍しくもない、と軽んじたのは事実さ」
改めて久馬は思い出す──
六月三日の朝、京橋川の西端にかかる比丘尼橋の袂まで自分を呼びに来たのは、八代洲河岸の権三親分の下っ引きだ。筵を剥いで死体も確認した。その際、既に身元は割れていた。
比丘尼橋近くには、猪肉を食わせる店がある。亡骸はそこの常連の薩摩藩御書院番士・成田新九郎、二十一歳とのこと。あまりの滅多切りに息を呑んで合掌した。
「だが、忘れてしまったのだ!」
黒沼久馬は忸怩たる思いで更に記憶を辿る。比丘尼橋の件の後すぐ、今度は曲木の松親分がやって来て、例の深川の別嬪たちの死体の方へ引っ張って行かれた。こっちは立て続けに三人――その後、四人に増えたが。
そうして、それら複数の殺しの中で、自分が一番興味を持ったのが、仲間伝いに聞いた麹町のケダモノ屋の事件だったとは……!
「不思議なもんだな? 同心なんかやってると、人の死に無感覚になるらしいや」
久馬は乾いた笑い声を上げた。
「死に優劣を付ける。順番を当てる。興味の度合いで死を推し量る……あーあ、自分で自分が嫌になっちまう。気づかぬ内に俺は冷てぇ人間になっちまったかな?」
「いちいち一体化していちゃ、やりおおせない仕事もあるさ。突き放すしかやりようがない、何処までも交わることのない道を歩む心構えが入用な仕事も、な。そういうのは〝冷血〟というのとは少し違うだろう……」
「……!」
死刑執行人である己の生き様を言っているのかと、久馬はハッとして友を仰いだ。浅右衛門の横顔はあくまでも涼やかで、周囲の川の水よりも透き通って見えた。視線の先、この流れの果てに輝く芝の海がある。
「肝心なのは、いつ何時も曇りのない、まっさらな目を維持しているかどうか、さ。違うか、久さん?」
「うん。俺だって、たった一つきりの殺しなら、もう少し慎重に扱ってたさ。浅さんが言ったように、曇りのない、しっかりした目で見つめたはずだ。だが、このところ多かったから……」
そこまで言って、久馬は突然黙り込んだ。
(そう、多過ぎるんだ……)
その上、全ての死と死の間隔があまりにも近過ぎる。
久馬は、実際に〝殺し〟が起こった順番に整理して考えてみた。まず、ケダモノ屋の番頭殺しが麹町で六月一日夜に起こった。次に、未明、京橋川、比丘尼橋の辻斬り。
そして、その夜だから六月二日、一晩の内に連続して四人の女たちが殺されている。
最初の番頭と次の薩摩藩士は〝猪肉〟という点で繋がりがあることがわかった。
甲州街道直送の新鮮な猪肉。
〈山奥屋〉がそれを薩摩の上屋敷に配達した後、調理された。その時、近くにいたのが成田新九郎で、この男は肉から出た異物──料理人曰く〝鉄砲玉〟を手に入れた……
「──」
やおら久馬が立ち上がった。
川に石を投げていた浅右衛門がゆっくりと振り返る。浅右衛門の手を離れた小石は三、四、五、と川面を掠って、九つまで数えて水中に没した。
「久さん、どうした?」
「わかったぞ! 浅さん、どうやら全ての鍵はそれ、石……いや、玉なのだ……!」
〈五〉
深川は六間堀の船宿の二階。
座敷には既に、松兵衛親分と文字梅師匠が神妙な面持ちで座している。
堀に面した窓の前には、この日も何のかんのと引っ張って来られた山田浅右衛門がいた。
最後に到着した三島鹿内が座るのを待って、久馬は徐ろに口を開く。
「今日、皆に集まってもらったのは他でもない。今回の一連の〝殺し〟について、はっきりさせたいと思ったからだ」
即座に松兵衛親分が叫んだ。
「と、おっしゃるてぇと……別嬪殺しの下手人がわかったんで?」
鹿内は怪訝そうに眉を寄せる。
「別嬪殺し? それは何のことでしょう? 私の方──辻斬りに関わる話ではないのですか?」
久馬は腕を伸ばして一同を鎮めた。
「三島殿、こちらは松兵衛親分と娘さんの文字梅師匠。深川界隈で起きた四人の女殺しを調べてくれている。この〝殺し〟は貴殿のご友人、成田新九郎殿が辻斬りに遭ったのと同じ日の夜、立て続けに起こったのだ」
まずこちらから説明させてほしい、と南町配下の定廻り同心は断って、話し始めた。
「女たち……二人の辰巳芸者と水茶屋の娘と夜鷹、計四人がほぼ同時刻、但し、それぞれ別の場所で斬り殺された。お互いの繋がりは全くない。だが、共通点が一つあった。女たちの髪から簪が抜き取られていること──」
ここで、鹿内が眉をひそめて首を傾げた。
「……簪?」
「それも身に付けていたものだけじゃござんせん」
文字梅が言い添える。
「私が後日、改めて調べましたのさ。その結果、女たちの所持品の中から、平打ち以外の簪が一切合切奪い取られておりました」
「さて」
絽の黒羽織の袖を振って腕を組む久馬。
「ここで辻斬りに話を戻そう。斬られた成田殿は、藩邸で料理人が猪肉を捌いていた折、近くにいたことがわかった。つまり、ここにもう一つの〝殺し〟、ケダモノ屋の番頭が斬り殺されたそれとの繋がりが浮かび上がって来る。何だと思う?」
老親分、常盤津の師匠、薩摩藩中小姓が、同時に声を揃える。
「……猪肉ですか?」
「ご明察!」
力強く久馬は頷いた。
「これは私が、押し込みのあった当夜、その場に居合わせた店の小僧から直接聞いたのだが。ケダモノ屋〈山奥屋〉の番頭徳蔵は、賊に斬り殺される前、甲州街道経由でその朝に入荷した猪肉の配達先を問われて『薩摩上屋敷』と答えたとか。そして、屋敷の料理人も肉を捌いたその夜に、正体のわからぬ浪人風の男から、猪肉に変わった点はなかったか訊かれている。実際、猪肉には異物が混じっていた。料理人は鉄砲玉だろうと言っているが──この猪肉の出荷元こそ重要なのだ」
猪肉が獲れた場所は、甲州街道の果て、甲州甲斐国。
「ここに何か繋がりはないだろうか? と俺は考えた」
甲斐国と言えば、そもそもの始まりとなった猪肉……ケダモノ屋〈山奥屋〉……山か、甲斐はまさに山深いからな。だから山流しって言葉が……
(待てよ、ひょっとして……)
そのことに気づいた久馬は、即刻、同心仲間の伝手を頼って探ってみたのだ。
甲州甲斐国は、戦国時代の梟雄、武田信玄の領地として有名である。但し、現在、久馬たち幕臣には別の認識がある。そう、〈山流し〉の地だ。
幕府開設当初、家康公はこの地に甲府藩を置き、将軍家の血筋に守護させてきた。綱吉の頃、異例の抜擢で城主に側用人、柳沢吉保が配属されるも、吉宗以降は幕府直轄、所謂天領地に戻された。現在、甲府城に詰めているのは〈甲府勤番〉と呼ばれる侍たちである。
「浅さん、薩摩藩邸に行ってみようや。賊がそれほど気にしていた猪の肉について、俺たちも探ってみる価値はあるぞ」
だが、この日、黒沼久馬と山田浅右衛門は三田にある薩摩藩上屋敷には行き着けなかった。
二人が連れ立って、片門前から将監橋を渡ろうとした矢先──
「黒沼様──っ!」
猛烈な勢いで駆け寄って来たのは、見るからに年季が入った岡っ引きだ。
「ん? ありゃ、松兵衛親分だ。なんかあったかな?」
深川は森下町の松兵衛親分。人呼んで、〈曲木の松〉は久馬の父の代からの十手持ちである。
当人はそろそろ倅の竹太郎に引き継がせたいと思って仕込んでいる最中なのだが、この息子、名親分の父親に似ず腑抜けの遊び人で、とても岡っ引きなど務まらないと、誰もが陰で言っている。当の竹太郎がなりたがっているのは戯作者――小説家なのだ。それで、この曲木の松親分、未だに老骨に鞭打って八百八町を駆け回っているという次第。
尤も、松兵衛は若い時分よりこのあだ名で呼ばれていた。
というのも、足が異様に速かったからだ。普通に歩いている親分など、誰も見たためしがない。いつも頑丈でちょっとやそっとでは折れそうにない体ごと通りをブッ飛ばして行く。枯れ木の如く年取った今でも、不思議と足だけは衰えないのである。まさに曲木。そのココロは、曲がっている木は柱にゃならない……走らにゃならない……江戸っ子好みの駄洒落だ。
さて、その、走らにゃならない松親分、息せき切って久馬に報告した。
「ここであったが百年目! ちょうど良かった! なにね、今しがた倅の竹を八丁堀まで呼びにやったところなんでさぁ。実は、例の事件でちょいとばかり出てきやした。それで、こりゃぜひとも黒沼の坊のお耳に入れねばと思いやしてね」
「例の事件とは?」
思わず訊いた浅右衛門だった。
「これは山田様! またご一緒で? 弥次喜多並みにお仲がよろしいですな!」
言葉とは裏腹に、松兵衛親分は慇懃に頭を下げる。
「あれれ? 山田様は坊からまだお聞きになっていませんので?」
「なあ、何度も言うが〝坊〟はよせ。俺はもう歴とした同心なんだぜ、松」
久馬の苦言は聞こえなかったのか、老岡っ引き、そのまま続けた。
「六日前の夜、深川で別嬪が立て続けに三人、斬り殺された事件でさぁ!」
久馬がたくさん抱えている事件の内の三つ目である。そもそも、こっちの事件の検視に行っていて、久馬はケダモノ屋の方には立ち会えなかった。
「それがね、今日になってもう一人、これは柳原の夜鷹なんだが、やっぱし殺されてるのがめっかって──検視の際にお世話になっている春庵先生に診てもらったら、どうも先の三人と同じ頃、殺られたらしいと言うんでさ」
夜鷹は最下層の遊女のことだ。柳原の土手は彼女たちの稼ぎ場所だった。江戸時代の川柳にこんなのがある。
『君は京、嫁は大坂、江戸は鷹』
なにやら暗号のようだが、地域で異なる遊女の名称を詠んでいるだけだ。京は辻君と呼び、大阪は惣嫁、夜鷹は江戸でのみ使われた。
「何だと?」
流石に若い定廻り同心は目を瞠る。
「すると……四人もか? 四人も、同じ日の同じ頃合に女たちが殺されたと言うのか?」
それだけじゃなくて、と老十手持ちは顔を顰めた。
「よくよく調べてみると死体におかしな類似点があるんでさぁ」
〈四〉
ケダモノ屋の件はひとまず脇に押しやって、久馬と浅右衛門は松兵衛親分に導かれるまま、深川は菊川町にある裏店に入った。
路地の奥、小粋な格子造りの二階屋の主の名は文字梅という。曲木親分の娘で、三味線音楽の一流派である常盤津節の師匠として生計を立てている。
「こいつが話した方が早えや。何しろこのネタは全部、こいつが仕入れて来たんでさ」
自慢したいのか恥じ入りたいのか、松兵衛は白くなった鬢を頻りに掻いている。
それもそのはず。親分が日頃から、こっちが息子だったら俺はどんなに安泰か、とぼやいているほど、姉の文字梅は優男の弟と違って頭脳明晰、度胸満点、器量も気風も申し分ない傑物と評判なのだ。
「ほんと、常磐津の師匠にしとくのが勿体ねぇや!」
「馬鹿をお言いでないよ、お父っつあん。それより──黒沼の坊ちゃま、あたしゃ、どうも腑に落ちないんですよ」
さっそく話し出す文字梅師匠。
殺された別嬪たちは皆、玄人筋の女だった。辰巳芸者の千菊と汐見。それから、両国の水茶屋の看板娘、おりん。
千菊はお座敷帰り、おりんは湯屋帰りの道で、汐見の方は置屋の自室で殺された。芸者同士とはいえ、千菊と汐見は置屋も違うし、友人というわけでもない。
つまり、死んだ三人が三人とも、何一つ関わりを持たない間柄なのだ。だが、その死体には明らかな共通点があった。それこそ──
「髪料をつけていないんでさ」
「──?」
髪料とは髪につける飾り物、つまり簪のことだ。刹那、久馬も浅右衛門も意味がわからず、ポカンとした顔になった。松兵衛が口を挟む。
「いやあ! あっしもこいつに言われるまで気づきもしませんでした。流石、女の目だね? 言われてみれば──そうなんですよ。皆、商売柄、人より綺麗に着飾ってて当然さね? 新たにめっかった柳原の夜鷹にしたって、そりゃナリは辰巳に落ちるが、それでも簪くらいは……ねえ?」
「だからこそ」
藍地に白の立湧模様も粋な中型の膝をグッと乗り出して、文字梅は言う。
「ここまで着物がキチンとしてて女が簪をつけないなんざぁ、有り得ないね!」
男の久馬も浅右衛門も、そのことがさほど重要だとは思えなかった。
「下手人がよほど生活に窮していて……それで簪を奪い取ったのではないのか?」
「嫌ですよ、旦那」
浅右衛門の言葉を師匠は嘲笑った。その顔たるや〝牡丹が風に戦ぐの如く〟だな、と浅右衛門は内心思う。
「それほど窮しているなら、櫛も持ってくはずでしょう? 私はこの目で見て来ましたが、実際、辰巳の一人の櫛なんざ螺鈿の、そりゃ見事な細工物でござんした。でも、その櫛には手をつけていない……」
父親も横から相槌を打つ。
「娘の言う通りでさ! それに、金品目当てなら、羽織だって着物だって帯だって……それこそ身包み剥ごうってもんだ」
「これが簪だけってのが、私は妙に引っかかるんですのさ」
「うむ──」
世の中には簪好みの追剥ぎがいるのかもしれない……
思いつつ、久馬は首を傾げたついでに師匠を盗み見た。
文字梅の今日の簪は白い項に映える艶やかな蜻蛉玉。誰にもらったものやら。
結局、その日はもう陽も落ちたので、薩摩藩邸へ行くのはやめにした。
あれこれ理由をつけて、久馬は浅右衛門を組屋敷内にある自邸に引き入れ、遅くまで酒を酌み交わした。その夜は同宿して、翌日──
晴れて二人は三田の薩摩藩上屋敷に赴いた。
用件は〈猪肉〉なので、裏門から厨に直行する。
厨を仕切る賄い方の銀次は、一見陰気な感じの三十男だった。
久馬が、去る六月一日の昼前、〈山奥屋〉から配達された猪肉のことで訊きたいと切り出すと、料理人は目を丸くする。
「へえ……!」
「妙なことを訊くと思うだろうが、御用の筋でどうしても知りてぇんだ」
だが、料理人が驚いたのは黒紋付巻羽織りの同心の来訪ではなくて、もっと別の理由だった。
「いゃあ! よく訊かれると思いまして……」
「とは? 我々以外にもその肉のことについて、おまえに訊いた者がいるのか?」
「へい、おりやしたよ」
銀次は首から垂らしていた手拭いで顔を拭ってから、話し出す。
「〈山奥屋〉さんから配達されて、その夜の内に訊かれましたっけか。どうして覚えているかって? ヘヘッ、こっちの方を馳走になったんでさ!」
銀次は右手を猪口の形にした。
料理人は独り者で、藩邸内の中間部屋に寝泊まりしている。その夜は、仕事を終えた後、材木町界隈の居酒屋へ一杯やりに出かけた。月に何度かそうするそうだ。いつものように一人で気楽に飲んでいると、男が隣に座った。
「見るからに浪人風のお侍さんがね、富くじに当たったとかで酒を奢ってくれたんでさ。一緒に飲む内に〝お国柄〟の話になって……そのお侍が言うには、『薩摩は肉食の伝統がある。だから、藩士が皆、強壮で血気盛んなのだ』とさ。なるほどねえ! それを聞いて、あっしも大いに納得するところがありやした」
最初の印象に反して、料理人は話し好きらしく喋り出したら止まらない。立て板に水の如く話し続けた。
久馬は何とか割り込んで――
「それで? 猪肉の話になったんだな?」
「え? そうそう、その通り。『薩摩のお屋敷では活きのいい肉を何処から仕入れているのか』と訊くんで、あっしは『平川町の〈山奥屋〉だ』と教えました。あそこはケダモノ横丁の中でもいっち活きがいい。それこそ、甲州街道ブッ飛ばして来る、獲れ立ての猪肉には定評があるんでさ! それで、何だね、あっしが思うには──」
それを遮って久馬、単刀直入に訊いた。
「肉について訊ねられたのは、仕入先の店名だけか?」
「いえ、その日届いた肉の状態についても、えらく知りたがっていました。だから、あっしが思うに、あのお侍、よっぽど強くなりてぇんだな? 富くじで当てた金、いやさ、本当は博打かもしれやせんがね。だけど、そんなこたぁどうでもいい。とにかく、これからはその金で薩摩のお侍並みに肉をわんさと喰らって筋骨隆々、意気盛ん、これで仕官もできようってもんだ!」
「実際、その日の猪肉はどうだった?」
「ええ? はあ、いつも通り新鮮で良かったですよ。新鮮も新鮮、文句のつけようがねえ──いや、待てよ、獲れ立て過ぎの文句は言えるか?」
「いつもと違うところがあったんだな?」
久馬の目が煌めいた。
「へえ。鉄砲玉がね、入っていたんで。肉を捌いていたら、包丁の先にカツンと来て……吃驚しやした! こんなことは初めてで……」
猪肉に入っていた鉄砲玉……奇妙な話ではないか!
「それをどうした? それは今、何処にある?」
おまえが持っているのか、と久馬が急き込んで訊くと、料理人は呆れ顔で首を横に振った。
「例のお侍にも訊かれましたがね。どっこい、ンなもの、あっしは持っちゃいませんよ。ちょうどその時、通りかかった成田様が素早く横からもぎ取るじゃありませんか。この成田様ってのは、お若いが大変な食通でして、ちょくちょく厨房に足を運ばれるんでさあ。それも大の肉好きとくる。あの日もいい猪肉が入ったと聞いて、覗きにいらしたんでしょうよ」
「それで?」
忍耐強く久馬は先を促した。
「その成田様が水で濯いでからつくづくと見入って、『こりゃ面白い! 体中から玉とは奇瑞ぞ! 俺にくれ』とおっしゃった。こっちはそんな鉄砲玉、邪魔っけなだけだ。ハナから捨てるつもりだったんで、『どうぞ、どうぞ』てなもんです。ま、この成田様のふるまいは、酒を奢ってくれたお侍様も『酔狂な奴もいるもんだ』なぁんて面白がって聞いてましたよ」
「黒沼様? 黒沼様ではありませんか!」
だだっ広くて薄暗い武家屋敷の厨に響き渡る、清涼な声。天上界に住む仏鳥、迦陵頻迦の鳴き声とはまさにこれか。振り返ると、今しも駆け寄って来たのは、あの前髪の若侍、三島鹿内だった。
「我が藩邸にわざわざお越しくださるとは! それでは、辻斬りの件で何かわかったのですね? ありがとうございます!」
若侍は喜びに破顔した。白い頬がうっすらと朱を刷いて、今や紅梅の風情である。
「そうだった! 三島殿は薩摩藩士と言っておられたな。いや、これは──嬉しがらせて申し訳ない」
慌てて久馬は手を振った。
「私が今日、こうしてやって来たのは全く別の用件なのです」
「え?」
久馬は、手短にケダモノ屋の番頭殺しについて鹿内に説明した。
「そういうわけで、本日は猪肉を捌いた際、傍におられたというご家中の成田殿にお会いして、更に詳しく話をお訊きしたく思います。ちょうど良かった! 三島殿、その方を呼んで来てもらえませんか?」
「それはできかねます」
三島鹿内は唇の端を吊り上げる。笑っているのか怒っているのか、いずれにせよゾッとするほど凄艶な表情だった。
久馬は苦笑して頼み込む。
「今回は貴殿のご期待に添えず申し訳なかった。辻斬りの件は約束通り、新しい情報が入り次第、必ずやお知らせします。だから――そう意地悪しないで成田殿に会わせてください」
「意地悪ではござらぬ。会わせるのは無理だから、そう言っているのです。何故なら、成田殿はもうこの世にはおりません」
長い睫毛に縁取られた双眸を伏せたまま、若侍は言った。
「お探しの成田新九郎こそ、先日、比丘尼橋で果てた当人です」
「あ」
「〈花の同心〉のご多忙は私も存じ上げております。されど──いかにお忙しいとはいえ、よもや犠牲者の名も覚えておられないとは……! たかが辻斬り。黒沼様にはその程度のものだったのですね?」
久馬は一言もない。
「黒沼様のこのご様子では、情報など、待ったところで永遠に届くはずはなかったのだ。それを真剣に……一日千秋の思いで待っていた自分が浅はかでした。では、これにて」
冷たい一礼の後、衣擦れの音だけを残して三島鹿内は去って行った。
「そう落ち込みなさんな、こういうこともあろうさ」
朝からずっと一緒にいて、久々に聞く浅右衛門の声だった。
カクカクと曲がりくねった道、俗に言う〈薩摩屋敷の七曲がり〉。その堀の傍で、先刻より久馬は膝を折ってしゃがみ込んでいた。
巻羽織りの内側、腰に差した赤い房付きの十手が突っ張って、さぞや心地悪かろうに、その姿勢のままじっと水面を見つめている。
「たかが辻斬り。珍しくもない、と軽んじたのは事実さ」
改めて久馬は思い出す──
六月三日の朝、京橋川の西端にかかる比丘尼橋の袂まで自分を呼びに来たのは、八代洲河岸の権三親分の下っ引きだ。筵を剥いで死体も確認した。その際、既に身元は割れていた。
比丘尼橋近くには、猪肉を食わせる店がある。亡骸はそこの常連の薩摩藩御書院番士・成田新九郎、二十一歳とのこと。あまりの滅多切りに息を呑んで合掌した。
「だが、忘れてしまったのだ!」
黒沼久馬は忸怩たる思いで更に記憶を辿る。比丘尼橋の件の後すぐ、今度は曲木の松親分がやって来て、例の深川の別嬪たちの死体の方へ引っ張って行かれた。こっちは立て続けに三人――その後、四人に増えたが。
そうして、それら複数の殺しの中で、自分が一番興味を持ったのが、仲間伝いに聞いた麹町のケダモノ屋の事件だったとは……!
「不思議なもんだな? 同心なんかやってると、人の死に無感覚になるらしいや」
久馬は乾いた笑い声を上げた。
「死に優劣を付ける。順番を当てる。興味の度合いで死を推し量る……あーあ、自分で自分が嫌になっちまう。気づかぬ内に俺は冷てぇ人間になっちまったかな?」
「いちいち一体化していちゃ、やりおおせない仕事もあるさ。突き放すしかやりようがない、何処までも交わることのない道を歩む心構えが入用な仕事も、な。そういうのは〝冷血〟というのとは少し違うだろう……」
「……!」
死刑執行人である己の生き様を言っているのかと、久馬はハッとして友を仰いだ。浅右衛門の横顔はあくまでも涼やかで、周囲の川の水よりも透き通って見えた。視線の先、この流れの果てに輝く芝の海がある。
「肝心なのは、いつ何時も曇りのない、まっさらな目を維持しているかどうか、さ。違うか、久さん?」
「うん。俺だって、たった一つきりの殺しなら、もう少し慎重に扱ってたさ。浅さんが言ったように、曇りのない、しっかりした目で見つめたはずだ。だが、このところ多かったから……」
そこまで言って、久馬は突然黙り込んだ。
(そう、多過ぎるんだ……)
その上、全ての死と死の間隔があまりにも近過ぎる。
久馬は、実際に〝殺し〟が起こった順番に整理して考えてみた。まず、ケダモノ屋の番頭殺しが麹町で六月一日夜に起こった。次に、未明、京橋川、比丘尼橋の辻斬り。
そして、その夜だから六月二日、一晩の内に連続して四人の女たちが殺されている。
最初の番頭と次の薩摩藩士は〝猪肉〟という点で繋がりがあることがわかった。
甲州街道直送の新鮮な猪肉。
〈山奥屋〉がそれを薩摩の上屋敷に配達した後、調理された。その時、近くにいたのが成田新九郎で、この男は肉から出た異物──料理人曰く〝鉄砲玉〟を手に入れた……
「──」
やおら久馬が立ち上がった。
川に石を投げていた浅右衛門がゆっくりと振り返る。浅右衛門の手を離れた小石は三、四、五、と川面を掠って、九つまで数えて水中に没した。
「久さん、どうした?」
「わかったぞ! 浅さん、どうやら全ての鍵はそれ、石……いや、玉なのだ……!」
〈五〉
深川は六間堀の船宿の二階。
座敷には既に、松兵衛親分と文字梅師匠が神妙な面持ちで座している。
堀に面した窓の前には、この日も何のかんのと引っ張って来られた山田浅右衛門がいた。
最後に到着した三島鹿内が座るのを待って、久馬は徐ろに口を開く。
「今日、皆に集まってもらったのは他でもない。今回の一連の〝殺し〟について、はっきりさせたいと思ったからだ」
即座に松兵衛親分が叫んだ。
「と、おっしゃるてぇと……別嬪殺しの下手人がわかったんで?」
鹿内は怪訝そうに眉を寄せる。
「別嬪殺し? それは何のことでしょう? 私の方──辻斬りに関わる話ではないのですか?」
久馬は腕を伸ばして一同を鎮めた。
「三島殿、こちらは松兵衛親分と娘さんの文字梅師匠。深川界隈で起きた四人の女殺しを調べてくれている。この〝殺し〟は貴殿のご友人、成田新九郎殿が辻斬りに遭ったのと同じ日の夜、立て続けに起こったのだ」
まずこちらから説明させてほしい、と南町配下の定廻り同心は断って、話し始めた。
「女たち……二人の辰巳芸者と水茶屋の娘と夜鷹、計四人がほぼ同時刻、但し、それぞれ別の場所で斬り殺された。お互いの繋がりは全くない。だが、共通点が一つあった。女たちの髪から簪が抜き取られていること──」
ここで、鹿内が眉をひそめて首を傾げた。
「……簪?」
「それも身に付けていたものだけじゃござんせん」
文字梅が言い添える。
「私が後日、改めて調べましたのさ。その結果、女たちの所持品の中から、平打ち以外の簪が一切合切奪い取られておりました」
「さて」
絽の黒羽織の袖を振って腕を組む久馬。
「ここで辻斬りに話を戻そう。斬られた成田殿は、藩邸で料理人が猪肉を捌いていた折、近くにいたことがわかった。つまり、ここにもう一つの〝殺し〟、ケダモノ屋の番頭が斬り殺されたそれとの繋がりが浮かび上がって来る。何だと思う?」
老親分、常盤津の師匠、薩摩藩中小姓が、同時に声を揃える。
「……猪肉ですか?」
「ご明察!」
力強く久馬は頷いた。
「これは私が、押し込みのあった当夜、その場に居合わせた店の小僧から直接聞いたのだが。ケダモノ屋〈山奥屋〉の番頭徳蔵は、賊に斬り殺される前、甲州街道経由でその朝に入荷した猪肉の配達先を問われて『薩摩上屋敷』と答えたとか。そして、屋敷の料理人も肉を捌いたその夜に、正体のわからぬ浪人風の男から、猪肉に変わった点はなかったか訊かれている。実際、猪肉には異物が混じっていた。料理人は鉄砲玉だろうと言っているが──この猪肉の出荷元こそ重要なのだ」
猪肉が獲れた場所は、甲州街道の果て、甲州甲斐国。
「ここに何か繋がりはないだろうか? と俺は考えた」
甲斐国と言えば、そもそもの始まりとなった猪肉……ケダモノ屋〈山奥屋〉……山か、甲斐はまさに山深いからな。だから山流しって言葉が……
(待てよ、ひょっとして……)
そのことに気づいた久馬は、即刻、同心仲間の伝手を頼って探ってみたのだ。
甲州甲斐国は、戦国時代の梟雄、武田信玄の領地として有名である。但し、現在、久馬たち幕臣には別の認識がある。そう、〈山流し〉の地だ。
幕府開設当初、家康公はこの地に甲府藩を置き、将軍家の血筋に守護させてきた。綱吉の頃、異例の抜擢で城主に側用人、柳沢吉保が配属されるも、吉宗以降は幕府直轄、所謂天領地に戻された。現在、甲府城に詰めているのは〈甲府勤番〉と呼ばれる侍たちである。
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