フラれ侍 定廻り同心と首打ち人の捕り物控

sanpo

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白殺し

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「いやー、それにしてもいい月だったな!」
 上機嫌で黒沼久馬くろぬまきゅうまが言う。
「俺は、月見なら、この二十六夜の月がいっち好きさ。海の上にホワリと浮いた細い月。奥ゆかしいったらない――ン?」 
 微苦笑した首打ち人を見逃さず、そっちへ首を巡らす。
「何が可笑しいんでぇ、浅さん?」
「いやなに、久さんが今夜の月を好きなのは待ってる〝間〟のせいもあるかと思ってさ」
「――」
 ぐうの音も出ない、大当たりである。
 二十六夜の月見は江戸で隆盛した行事だ。七月二十六日の夜の月を舟に見立て、その上に阿弥陀・観音・勢至のありがたい御姿が出現すると信じられていた。しかも、この夜の月は九つ半から八つ、深夜1時から2時に昇る。それ故、江戸の人々は神社の境内、高台のべっそうや料理屋、もっと富裕の者なら屋根舟を仕立てて月の出を待った。いづれにせよ酒盛りは欠かせない。二人も今宵、柳橋の料理屋で大いに酒を酌み交わし、心行くまで月を拝んで、今帰路についたところである。このまま帰るのももったいなくて柳原土手をそぞろ歩いている。
「まぁな。ああ、今夜の月待ちに食った水物はべらぼうに美味かったぜ!」
 水物とは夏野菜の煮物をひんやりと冷やしたこの季節ならではの料理だ。定廻り同心の正直さにまた微苦笑する首打ち人だった。
 が、風流もここまで。不穏な叫び声が美しい月夜を斬り裂いた。
「人殺し! 人殺しだーーーっ!」
 更に幾人もの声が続く。
「人殺し!」
「人殺しがいるぞ!」
「何だと? 行こう、浅さん!」
 友人を促して久馬は声のする方へ駆け出した。

 それは不思議な光景だった。場所はちょうど柳森稲荷がある辺り。細い上弦の月の下、凍ったように佇んでいる一人の男。足元には羽織を纏った女が倒れている。月の光のせいか女は妙に冴え冴えと白く見えた。血の痕なども見当たらない。二十六夜待ちの特別の夜なので出歩いていた者が多かったようだ。既に周囲には人垣ができていた。
「どけ、どけ! 人殺しとは聞き捨てならねぇ」
 人の群れを掻き分けて飛び入った久馬、その巻羽織に目を止めて周りから声がかかる。
「あ、八丁堀の旦那、いいところへ来た――」
「大変だ、殺しです!」
「ほら、ご覧の通り、人殺し――」
 ここで再び人垣がざわついた。
「あ、見ろ! 人殺し野郎が逃げ出したぞ!」
 それまで倒れた女の傍らに呆然と立ち尽くしていた男が突如、身を翻して走り出したのだ。
 刹那、幾人かが叫んだ。
「秀、いけねぇ! 逃げるな!」
「逃げてもなんにもならねぇぞ、秀!」
と言うのか、あいつ?」
 久馬が声の上がった方を見廻して訊く。
「ってことはおまえたち、あいつ――下手人を知っているのか?」
「知ってまさぁ」
「知ってるも何も、あいつは俺たちの仕事仲間です」
「待て、秀!」
 野太い声とともに大柄なひとりが、逃走した男を追って駆けだした。つられて傍にいた数人も一斉に動く。皆、揃いの印半纏を着ていて、その背が夜の海の波のように畝って揺れた。
「俺も行くぜ――おっ、いいところに来た、おめぇは岩本町の親分だな? 屍骸の方は頼んだぞ」
 今しがた到着した顔見知りの岡っ引きにそう告げるや久馬も走り出した。
「待ちやがれ、秀とやら。悪事はお天様が……って、今はお月さんか、ともかく、この定町廻り黒沼久馬が許さねぇ。地の果てまでも追いかけて必ずお縄にするぜ!」
 勿論、首打ち人山田浅右衛門やまだあさえもんも袖を引かれるまま、ひた走る。

 下手人は筋違御門の方へ駆けて行く。火除御用地を横切って小柳町と平永町の間の細い路地に入る。一度も止まることなくそのまままっすぐ走りに走って、白壁町から道を挟んだ紺屋町の一画に飛び込んだ。
「なんでぇ、ここは?」
 かなりの距離を走った挙句、下手人の秀が逃げ込んだのは妙な場所だった――
 広い前庭の奥、やや引っ込んだところに建つ板張りの家屋。
「畜生、秀の奴、中からつっかえ棒をしやがった!」
「秀、観念して出て来い! 八丁堀の旦那の手を煩わせるんじゃない」
「そうともよ、もう逃げ場はねぇや。これ以上、俺たち紺屋亀七こうやかめしちの名に泥を塗るのはやめてくれ」
「こんな悪あがきをしても何にもならねえぞ、秀」
 閉ざされた戸の前、仲間たちの怒鳴る声が飛び交う中、久馬は大柄な男に向き直った。真っ先に追いかけた人物だ。
「おい、この建物、ここは?」
「へい、あっしらの仕事場――板場です」
「旦那、これを!」
 騒ぎを聞きつけて近くの自身番から定番や町役人たちが加勢に来た。手に手に差股さすまた突棒つくぼう袖絡そでがらみ鳶口とびぐち梯子はしごまでを抱えている。まさにこう言う時のために町内ごとにある自身番には火消し道具一式や捕り物道具が用意されているのだ。大木槌を使って一気に表戸を打ち壊す。
 破壊された戸口からまず久馬と浅右衛門が、続いて仲間たちがどっと雪崩れ込んだ。
「?」
 一瞬、久馬はゴシゴシと目を擦った。月明かりが薄く射す板場に立ち尽くす若い男、秀。
 先刻、柳原土手で見た男と同じ男には見えなかった。ずっと追いかけてきたのは本当にこの男だろうか? 何かが違う……
 そう感じたのは男が纏う雰囲気のせいかもしれない。憑き物が落ちたような静かな顔をしている。
 男は一歩前へ進み出ると久馬に両手を差し出した。
「ご面倒をおかけしました、同心様。お縄になります」
「え、む……」
 妙にあっけない幕切れに久馬は拍子抜けした。追って来た長い道中は何だったのだ? こんなに簡単に捕縛されるなら最初からあの場で大人しく捕まれば良かったものを。
「秀さん!」
 金切声に久馬は我に返った。ものすごい勢いで娘が駆け込んで来た。むじな菊の薄物、結綿ゆいわたに結った髪には緋色の鹿の子絞り。チリチリと花簪はなかんざしが揺れている。
「どうしたの? 何があったの、秀さん? これは、一体、なに……」
「同心様、うちの秀が何かやらかしたんのでしょうか?」
 娘の背後に立っているのは父親らしい。がっしりした肩に印半纏を羽織っている。彼方此方から声が飛んだ。
「親方!」
「親方!」
「おう、おまえたちも一緒か。一体、何があったんだ?」
「親方、秀が、代奴しろやっこを――辰巳芸者を殺しちまったんでさぁ」
「ば、馬鹿な……」
「あっしらが見つけた時にはもう遅かった」
「すみません、親方、俺たちがもっと早く追いついていたら良かったんだが」
「嘘!」
 娘が絶叫した。
「嘘よ! 秀さんが人殺しなんて……秀さんがそんな真似するはずがないっ!」
 娘は今度は久馬に飛びついた。
「同心様! これは何かの間違いです! この人は虫も殺せない優しい人なんです!」
 クルリと振り返って職人たちを見回す。
「あんたたちも、酷いじゃないか! 変なこと言わないでおくれよ。寄ってたかって私の秀さんを人殺し呼ばわりなんて」
 娘の目が大柄な男で止まる。
「玄さん、あんたが付いていて皆にこんな嘘をつかせるなんて、あんまりよ、見損なったわ」
「お嬢さん――」
「お嬢さん」
 声が重なった。口籠った大柄の男より、強くキリリとした声は下手人、秀のそれだ。
「玄兄いの言う通りでさ。俺が殺しました。俺は人殺しだ。だからもう、大丈夫です、お嬢さん」
「?」
 黒沼久馬はこの一言を聞き洩らさなかった。確かに眼前の男は言ったのだ。
「大丈夫です、お嬢さん」
 更に男は続けた。
「どうか、この先、お嬢さんは幸せに生きて行っておくんなさい」
「秀さん? ……そんな……イヤ、秀さんっ!」
 すがりつこうとする娘を父の親方が背中から抱き留めた。
「これ、あい・・――」
「いやああああ、秀さんーーーーっ!」
 目の前に突き出された藍の染みた両手に、気を取り直し、姿勢を正した久馬は縄を打った。
 

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