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以下新作
奇妙の入り口
しおりを挟むその峠道を越えられたものはいないという。
長旅の帰り、近くに寄ったついでに行ってみることにした。
奇妙と恐怖の始まりだった。
時刻は九時二十分過ぎ。
ヘッドライトがかろうじて車線を浮かび上がらせるくらいの山の中腹にまで来た時、私はアクセルを緩めた。
なだらかな斜面の右手に看板が見えた。
『これより先、決して振り返ってはならない』
よくある謳い文句だ。私は笑い出しかけたが……果たして強がりだったかもしれない。通りすがる寸前で、ふと気付いて、前を見ながら思った。
「こっわ! なに今の……ねぇ、見た?」
「だいぶ年季入ってたねー。文字盤が剥がれかけてて雰囲気あるー」
「振り返ってはならないって、またありがちな……って気がするけどさ……いざ目の当たりにすると、こう、ね……」
「気になってくるよね、後ろが」
私は堪らず右足を元の位置に戻して、車のスピードをあげる。
心臓が激しく鳴り出した。
振り返ってはならない。確かによくあるお決まりの文句のように思えるが、鏡越しでもダメなんだろうか? 例えばサイドミラー、ルームミラーもダメだとすると、相当普段の癖や視界には気を遣わなければならないようだ。
私は神経を使い、それらを目に入れないようにしながらまっすぐ道なりに進んでいった。
道中は別に見るべきものもなく、景色に気を取られていると自然に後ろを向いてしまいそうになるから、できるだけ正面から視線をそらさないように務めた。
暗闇の山道をそうしてひた走った。
◇
会話はひっきりなしに続いた。
崖下に人のような影が見えただの。野生のクマが出るんじゃないかだのと続き、終いには身を乗り出して喋っていた。傍目には軽妙な、そんなやりとりで少しは恐怖が紛れるかと思ったが、とんでもない。とんでもない。この状況がすでに恐怖だ。
なぜって。
「……ちょっとさ、長くない? 長すぎない?」
「ずっと一本道のはずなんだけど……いつまで経っても道の先が見えてこないよ」
「引き返しておけばよかったかな……」
「でも『振り返ってはならない』でしょ? 進むしかないじゃん……」
「そうだけど……」
話し声が聞こえるたびに、車内は余計に異常性を増していく。
足元からむわっと込み上げるような生臭さが漂ってきた。ここは死体置き場のような匂いに満ちている。私はもはや背後どころか足元にさえ目をやれない。
「いったいいつになったら、この先に出れるの?」
看板を見てからずっと平静を保っていたが、私も今や半ば半狂乱なのをかろうじて喉元で堪えているところだった……というのも、私は一人で来たはずなのだ。
知り合いなど連れてきてはいない。
「……もう一時間は走ってるよね」
「もう見えてきてもいいはずなんだけどな……」
峠に入ったあの看板を目にした瞬間から始まったなにかの会話は、さも私の知人であるかのようにずっと話しかけてきている。
後部座席になにか乗っている。
決して振り返ってはならない。
私はアクセルを思い切り踏みしめて逃げ出したかったが、何かの罠かもしれないと思うと、それもまた憚られた。とにかく今は前だけを見て、走り続けるしかないのだ。
首元にまで二人が近づいてきていても。
「……ねぇ。ずっと無視してるよね」
「ねぇ……気にならないの」
囁きが息となって首元をくすぐる。
すぐそこになにかがいる。
物理的にはっきりと感じ取れる……。
しかしここまで懸命に堪えてきたのだ。それこそなにかが言ったようにもう小一時間は走り続けている。もう少し……もう少しのはずだ……とその時、それは言った。
「あ、見て!」
腕が伸びてきた。
私は突然のこともあったが、何よりもその正体の片鱗に言葉を失った。悲鳴は喉の奥で絶えたか、声に出なかった。
まっすぐに前方を指差す腕は全面苔に覆われていて、青く黒く、腐敗し切っている。今にも肉がそげおちそうに垂れている。
しかし、私は意を決してその指先を見た。
またしても暗がりに看板だ。
しかも今度のは入り口のもの以上に、遥かに朽ち果ててぼろぼろだった。ほとんどの文字がプレートごと消失していて読めず、かろうじて看板の体裁だけを残している。
『この先、立——るな!』
読めたのはそれだけだった。
なんだ? この先、立ち入り禁止。危険、入るな! とでも? しかし、そんなの……そんなのは今更ではないか。危険の前に置いておくもの、それが危険を潜り抜けてきた先にあるのでは話にならないじゃないか……。
「……なんだったんだろう?」
「あれじゃあ、読めないねぇ……」
それから間もなく、後部座席のなにかが示すより早く、今度は私から気がついた。
またまた看板。今はどんなものであれ、ヒントがほしい。私は救いを求めるように文字盤に集中した。今度のは比較的綺麗に整っている。
『ここは森の出口。運転、お疲れ様でした。堪えられたあなたはすごい』
ふざけやがって。私はいきり立ちたくなったが、安堵には変え難かった。
出口……本当に出口なのか、やっと。
その立て札が示すように道の先に街灯らしき灯りがぽつぽつと見えてきた。本当に峠を越えたらしい。
私は今度こそアクセルを踏みしめて、そこまで急加速して行った。
木々に覆われ真っ暗だった車外の様子も徐々に明るくなっていく。とはいえ、夜の暗さに違いはなかったが、それでも山道よりは遥かにマシだ。
「振り返らなかったね、ざーんねん」
「でもお兄さん、すごいよ。よく我慢したね」
「お疲れ様」
すると急速に車内の様子も元に戻っていく。
何者かの気配も遠ざかり、話し声も聞こえなくなり、やがて街灯の直下で青い灯りに全面が晒される頃には、車内に一人きりの静寂が、完全に戻ったようだった。
私はようやくとブレーキをかけ、道の端に寄せつつ車を止めると、外に出る。
一体何だったんだろう。
山の精霊やら神様やら、そんな目に見えないものの類というのは大概イタズラ好きと聴いたことがあるが、これもその一興ということなのだろうか。
私は下りてきた峠道、それから果てしなく見える山の黒い影を眺めながら、再び車を走らせるために振り返った——その時だった。
腐乱死体の顔面が目の前にあった。
それがあたかも若い女性であるかのような口調で言う。
「残念でした。ここはまだ山の中。振り返ったね、お兄さん」
とたんに街灯がバンっと消え去り、あたりは怪しげな濃霧が満ち満ちて、私を取り囲むと、何者かに足元を掴まれる感触。「ひっ」と私が声を漏らすもお構いなしに、どこぞへと引っ張り上げてくる。物凄い力で。私はその場に上体を倒して、顎を強く打ち、悶絶。道路を掻いて惑うその様を、眼球の代わりにうじを這い出させた眼窩で見下ろしながら、唇のめくれあがった悍ましい腐乱死体が、目の前に二体……。
「運転、お疲れ様でした。ここが終点です」
ウィッグが剥がれるようにくすんだ色の髪がズレ落ちて、地面にぼとりと跳ねた。
「ちなみにーあの立て札にはこう書いてあったんだよ。邪魔だからボクらが剥がしちゃった。『この先、立て札は嘘。決して信じるな!』ってね」
そいつらは言うのだった。
その峠道を越えられたものはいないという。
長旅の帰りか、近くに寄ったついでか、興味本位で入ってきた車に乗り込みながら私は運転席に向かって喋り出す。
「おい、今の見たか?!」
ひひひ。と笑いながら。
さぁ、楽しい奇妙と恐怖の始まりだ。
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