20 / 32
第一章・お見合いvol.1「ドワーフ」
第20話
しおりを挟む
──それは、セーロスが大穴を目にして愕然とする少し前のことであった。
♢ ♢ ♢
コルセット……それは女性の身体を美しい砂時計型に整えるための、優雅さと拷問の絶妙なブレンドだ。
「さぁ、姫様!もう少しでございますよ……!」
「ん……くぅっ!」
思わず漏れた声は、拷問を受けている囚人のようだ。コルセットなる拘束具は、私の内臓を八つ裂きにしようとしている。
これが美の追求なら、美しさとは一体どれほど残酷なものなのだろうか。
「うぅ……い、いたい……」
「姫様しっかりしてくださいませ!」
御付きのメイドさんが、私を鼓舞するように言う。
彼女の熱意は伝わってくるが、私の身体は別の意見のようだ。内臓は反乱を起こし、肋骨は降伏を叫んでいる。
メイドさんの励ましも虚しく、私はつい弱音を吐いてしまった。
「む、むり……」
この苦行は一体何のためなのか。美しさのためなら、私はゴブリンの姿でも構わない。少なくとも、ゴブリンは呼吸ができるはずだ。
「姫様、もう少しの辛抱です!」
「辛抱って、命の限界のこと……!?うぎ、うぎぎ……!?」
ついには目尻に涙を浮かべる始末である。
そもそも、なんでこんな拷問を受けなきゃいけないんだ?この衣装、まるで花嫁衣装みたいじゃないか。
コルセットって本当に必要?意味不明だよ。これじゃ、ご飯も食べられないじゃないか!
……あ、もしかして食べちゃダメなの?
「姫様、お気を確かに!」
ギュウウウッ!
さらにキツく締められるコルセット。私の体は悲鳴を上げた。「ぐえぇっ……」と情けない声が漏れる。
これはもう死の宣告だ。内臓が口から飛び出す日も近い。いや、もう出てるんじゃないだろうか。
私の脳裏に浮かんだのは、自分の葬式の光景。そこには、コルセットを着たまま棺桶に収められた私の姿があった。
せめて死後の世界では、もう少しゆったりとした服を着させてほしいものだ。
「うぅ……もうダメ……」
そう呟いた時であった。
ガチャリッ、と部屋の扉が開く音が部屋に響く。そして鏡越しに見えたのはカフォンの姿であった。
「姉さま!」
にこやかな笑みを携えたカフォンが、私の方に歩み寄ってくる。
金色の髪を揺らしながら、颯爽と歩くその姿はまさに天使のようである。
腹部に拷問を受けている私は、カフォンの姿を見て思わず助けを求めた。
「カフォン、助けてぇ……」
「あぁ、姉さま。そんな拷問器具のようなものをお腹に巻き付けて、お可哀想に。今楽にしてあげますから」
カフォンの指先が輝いた。その光は、私の希望の象徴だった。魔力の波がコルセットを包み込み、次の瞬間、あの忌々しい拘束具が爆発した。まるで私の怒りが実体化したかのようだった。
突如として解放された内臓たちは、歓喜の舞を踊っているようだった。
ようやくまともな呼吸ができる。空気って、こんなにも美味しかったっけ?
「はぁ、はぁっ……あ、ありがとうカフォン」
「どういたしまして。僕、姉さまのためなら何でもしますから。それに、コルセットなんて無くても姉さまは美しいですからね」
屈託のない笑みを浮かべ、私に微笑みかけるカフォン。
彼はこの世界において、いつも私の味方になってくれる可愛い可愛い弟だ。
その外見は、高級人形店のショーウィンドウに飾られた最高傑作のようで、性格も、教科書から飛び出してきた「良い子」の見本そのもの。
まぁ、ちょっとした……特殊な愛情表現があるけれど。それも彼の個性の一つ。
だと思いたい。
「?」
突如、私の視界に飛び込んできたのは、床を這いずり回るメイドさんの姿だった。
その動きは、まさに人生最後の一秒を必死に生き延びようとしているかのようだ。
まるで急に出現した凶悪な怪物から逃げるようなその動作に、私は首を傾げた。
「ど、どうしたの?そんな這いつくばって逃げて……」
私がメイドさんに声を掛けると、彼女は「ひぃ!?」と悲鳴を上げて私を見上げた。
その目には涙が浮かんでいる。
「あ、あのっ……私は何も見てませんから!だから命だけは!」
「え?いや、別に取って食ったりしませんよ?」
何を勘違いしているのか。私がメイドさんを食べようなんて思うわけないだろうに。
しかしよく見ると彼女の目線は私ではなく、横にいるカフォンに向けられていた。
カフォンはそんなメイドさんを一瞥すると、微笑んで口を開く。
「やぁエスカテリーナ。どうしたんですか、そんなに怯えて。まるで化け物から逃げるみたいですね」
エスカテリーナ。私の御付きメイドの名前だ。カフォンが彼女の名前を知っているのは、実は驚くべきことではない。
なぜなら、彼はこの王城の使用人全員の顔、名前、住所、家族構成、果ては趣味趣向まで把握しているのだから。
彼の頭脳は、もはや人間……エルフの領域を超越している。前に私が「家族構成まで覚えてるなんてすごいわ」と感心したら、彼は「家族を人質に取れば従順に……あ、いや、使用人の家族は我々の家族も同然ですからね」と言っていた。
ああ、なんて素晴らしい弟なのだろう。お姉ちゃん、感動で涙が出そうだわ。
もちろん、恐怖の涙なんかじゃないわよ、絶対に。
「い、いえ……そんな……ことは……ふっー……ふっー……!」
スカテリーナは息を切らせながら、私とカフォンの間で視線を落ち着きなく動かしていた。彼女の顔は恐怖で歪み、言葉を絞り出すのも一苦労という様子だ。
一体何がそんなに怖いのだろう?カフォンが姿を現してから、彼女の顔色は見る見るうちに変化し、今や熟れすぎたアボカドのような色合いになっている。確かに、カフォンは恐るべき魔法使いだ。しかし、彼が無差別に人命を奪うようなことはしないはずだ。
たぶん。
「貴女の実家が天から降ってくる謎の光に焼かれる前に精神状態を直した方がいいですよ。あぁ、実家が燃えた時のために消火部隊を事前に派遣しておきま……」
「カ、カフォン!来てくれてありがとう!待っていたわ!」
私の口が勝手に動いた。カフォンの危険な発言を封じ込めるかのように、私は彼の肩を掴み、言葉を遮った。
カフォンの視線が私の顔に移る。メイドさん……エスカテリーナは白目を剥きながら泡を吹いて気絶していた。
ああ、危険な状況だった。何が危険なのかは私にもよく分からないが、とにかくカフォンを野放しにしてはいけないという直感だけは働いた。
どうやら彼の注意を逸らすことに成功したらしい、カフォンはいつも通りの可愛らしい笑みを私に向けて口を開く。
「そういえば姉さま、僕に何の用事なんです?ドワーフとのお見合いが嫌になったから奴等を抹殺しろというなら喜んで殺りますけど」
「カフォンくん。お姉ちゃんが泣く前にそういうこと言うのやめようね」
私はカフォンの両肩を掴んで、その目を見ながら諭すように語りかける。
すると彼は「そうですか?姉さまがそう言うなら……」と渋々といった様子で頷いた。
危ないところだった。危うくお見合い相手を殺すところだったよ。
そしてもう少しで王国間の戦争が勃発するところだった。私は安堵の息を吐き出し、再びカフォンと向き合った。
「あのね、カフォン。お願いがあるんだけど……」
そして私は、目の前の小さな悪魔……ではなく、天使に『お願い』をしたのだった。
カフォンの目が好奇心に輝いた。
「何でしょう、姉さま?僕にできることなら何でもします!」
その「何でも」という言葉に、私は背筋に冷たいものを感じた。
カフォンの「何でも」は、往々にして常識の範疇を超えてくるのだ。
「えっとね、私を……逃がして欲しいの」
一瞬、カフォンの瞳が鋭く光ったような気がした。
しかし彼はすぐにいつもの温和な表情に戻ると私の真意を図ろうと言葉を投げかける。
「姉さま、貴女は何から逃げたいのですか?兄から?この国から?この世界から?それとも、貴女を縛る全てのものから?」
「そんな壮大なものから逃げたいわけじゃないわ。お見合いから逃げたいだけなの。まあ、お兄様からも逃げたいけど、それは日課みたいなものね」
カフォンは「お見合い」という言葉に反応して、少し首を傾げた。
どうやら彼は私がお見合いから逃げたがっているのを、少し不思議に思っているようだ。
「ドワーフがそんなにお嫌いですか?」
「別にドワーフの殿方が嫌なわけじゃないわ。会ってもいないのに、好きも嫌いもないしね。ただ、私は自分の相手くらい自分で決めたいだけ」
「ほう」
私の言葉に、カフォンは興味深そうに目を輝かせた。
決して筋骨隆々なドワーフの王様を見て怖くなったとか、ドワーフたちの「血液飛沫お掃除セット付き」な鎧を見て漏らしそうになったからとか、そんなんじゃないからね。
本当だよ。
そして彼は私の前に跪くように身を屈めると、まるで神託を受ける聖者のような口調で語りだした。
「なるほど、姉さまはこのお見合いを『運命』とか言う安っぽい言葉を使って拒否するのではなく、もっと現実的な手段で断るということですね」
「え?あー、そう……なのかな?まぁ、うん」
私は困惑気味に返事をした。カフォンは時々、妙に難解な言葉を操ることがある。
この少年のような外見をした天使(あくま)は、私の脳みそをはるかに凌駕する知性の持ち主らしい。
その叡智は、きっと宇宙の果てまで届くんだろう。
……カフォンくんキミ何歳よ?弟だよね、キミ?私のお爺さんとかじゃねぇよな?
「いいでしょう。姉さまが願うなら、僕はその願いを叶えましょう。例えそれが、を二度と元に戻せないほど世界をメチャクチャにすることだとしても」
「だからそういう物騒なこと言うのやめようね?私、別に世界の破滅を願う邪神とかじゃないから」
カフォンはまるでペンギンの行進でも始めるかのように、可愛らしくトテトテと音を立てながら窓辺へ向かった。
「では姉さま、少々お待ちくださいね」
「え?」
はて、一体何をするつもりだろうか。
私はてっきり不思議な魔法パワーでワープやら瞬間移動やらを駆使するのかと思っていたのだが。
あ、もしかして壁に空間同士を繋げる素敵な扉でも作るのだろうか?
なんてファンタジーな世界なんだぁ。私の脳みそは、まるでお花畑のようだ。ユニコーンが虹を吐きながら駆け回っているレベルで。
「姉さま、お手を」
現実に引き戻される。カフォンが手を差し出してきた。まるでシンデレラの舞踏会にでも招待するかのように。
私は躊躇うことなく、その手を握る。弟の手とはなぜこうも温かいのだろうか。
弟の手は妙に温かい。まるで赤ちゃんのように……。
こんなに温かいのは、もしかして魔法の副作用?それとも、単に手汗がやばいだけか?
「では行きますよ」
すると次の瞬間、カフォンの掌からシュウシュウと魔力の奔流が溢れた。
それは次第に、真っ黒なタピオカみたいな邪悪なものへと変貌していく。私は思わず心の中で絶叫した。
(あ、これダメなやつやん)
目の前の光景は、まさに「美しい」の反対語を体現したような代物。メルヘンとは程遠く、むしろ悪夢の具現化といった感じだ。
世界が蠢き出すような錯覚に陥る。でも、そんな優雅な時間は与えられない。
次の瞬間、カフォンの手から闇の波動が解き放たれた。それは、まるで私の部屋の壁に恨みでもあるかのように、轟音とともに吹き飛ばしていく。
城が揺れる程の衝撃と、耳をつんざくような轟音が響き渡った。
「おっと、ちょっと力入れすぎちゃったかな。まぁ、これでいっか」
カフォンが言う。何が「いっか」なのかさっぱり分からないが、彼のにこやかな顔を見ていると、私まで「まぁいっか」という気分になってくる。
というか、今さらそう思うしかないだろう。
壁に空いた大穴──いや、もはや「壁」と呼べるかすら怪しいが──からは青空が覗いている。
そこから、まるで「ほら、外に出ておいでよ」と誘うかのような風が吹き込んでくる。
私は髪を風になびかせながら呟いた。
「いい天気ね」
素晴らしい現実逃避である。もしかしたら、私はもう正気を失っているのかもしれない。
「さぁ、姉上」
カフォンが私の手をぎゅっと握り、無邪気な笑顔で見上げてくる。そして、こう言った。
「どこまで逃げたいですか?世界の果てまで行きたいなら、途中にある国々を吹き飛ばしますから」
弟の口調は、まるでピクニックの準備をする時のように軽やかだった。
ただし、普通のピクニックでは国を吹き飛ばしたりはしないけれど。
「そうね。じゃあ、お城の近くの森に行きましょうか」
世界の被害を最小限に抑えるには、近所で済ませるのが最適だろう。
国際問題を起こすよりは、地元の生態系を少し乱す程度で留めておきたい。
「森……いいでしょう。姉上の望むままに」
カフォンは頷き私に手を向けて何やら呟くと、私の身体がふわりと宙に浮いた。
そのまま窓から見える青空に向かって、私たちの身体は吸い寄せられていく。
「わぁ、すごい!私達飛んでるわ!」
ようやく平和なファンタジーらしい魔法の効果を味わった私は、年甲斐もなくはしゃいでしまった。
そんな私の姿を見て、カフォンはにこにこと嬉しそうに笑っている。
「姉上が喜んでくれて何よりです。遥か昔の大戦の時は、空を飛んだ瞬間に四方八方から魔法が飛んできて身体がぐちゃぐちゃになっちゃいましたからねぇ。平和な時代で良かっ「あぁ楽しいわ!優雅に空を飛ぶのは!」」
カフォンが何やら物騒なことを言っていた気がするけど、きっと気のせいだろう。たぶん「ぐちゃぐちゃ」は「わくわく」の言い間違いだったんだ。そうに違いない。そうであってくれ。
私は弟の言葉を聞き流しながら、空の旅を堪能するのだった。時々、下を見ては鳥のように自由だと感じ、そして高所恐怖症になりかけては目をそらす。
そんな、ちょっとしたスリルを楽しみながら。
♢ ♢ ♢
コルセット……それは女性の身体を美しい砂時計型に整えるための、優雅さと拷問の絶妙なブレンドだ。
「さぁ、姫様!もう少しでございますよ……!」
「ん……くぅっ!」
思わず漏れた声は、拷問を受けている囚人のようだ。コルセットなる拘束具は、私の内臓を八つ裂きにしようとしている。
これが美の追求なら、美しさとは一体どれほど残酷なものなのだろうか。
「うぅ……い、いたい……」
「姫様しっかりしてくださいませ!」
御付きのメイドさんが、私を鼓舞するように言う。
彼女の熱意は伝わってくるが、私の身体は別の意見のようだ。内臓は反乱を起こし、肋骨は降伏を叫んでいる。
メイドさんの励ましも虚しく、私はつい弱音を吐いてしまった。
「む、むり……」
この苦行は一体何のためなのか。美しさのためなら、私はゴブリンの姿でも構わない。少なくとも、ゴブリンは呼吸ができるはずだ。
「姫様、もう少しの辛抱です!」
「辛抱って、命の限界のこと……!?うぎ、うぎぎ……!?」
ついには目尻に涙を浮かべる始末である。
そもそも、なんでこんな拷問を受けなきゃいけないんだ?この衣装、まるで花嫁衣装みたいじゃないか。
コルセットって本当に必要?意味不明だよ。これじゃ、ご飯も食べられないじゃないか!
……あ、もしかして食べちゃダメなの?
「姫様、お気を確かに!」
ギュウウウッ!
さらにキツく締められるコルセット。私の体は悲鳴を上げた。「ぐえぇっ……」と情けない声が漏れる。
これはもう死の宣告だ。内臓が口から飛び出す日も近い。いや、もう出てるんじゃないだろうか。
私の脳裏に浮かんだのは、自分の葬式の光景。そこには、コルセットを着たまま棺桶に収められた私の姿があった。
せめて死後の世界では、もう少しゆったりとした服を着させてほしいものだ。
「うぅ……もうダメ……」
そう呟いた時であった。
ガチャリッ、と部屋の扉が開く音が部屋に響く。そして鏡越しに見えたのはカフォンの姿であった。
「姉さま!」
にこやかな笑みを携えたカフォンが、私の方に歩み寄ってくる。
金色の髪を揺らしながら、颯爽と歩くその姿はまさに天使のようである。
腹部に拷問を受けている私は、カフォンの姿を見て思わず助けを求めた。
「カフォン、助けてぇ……」
「あぁ、姉さま。そんな拷問器具のようなものをお腹に巻き付けて、お可哀想に。今楽にしてあげますから」
カフォンの指先が輝いた。その光は、私の希望の象徴だった。魔力の波がコルセットを包み込み、次の瞬間、あの忌々しい拘束具が爆発した。まるで私の怒りが実体化したかのようだった。
突如として解放された内臓たちは、歓喜の舞を踊っているようだった。
ようやくまともな呼吸ができる。空気って、こんなにも美味しかったっけ?
「はぁ、はぁっ……あ、ありがとうカフォン」
「どういたしまして。僕、姉さまのためなら何でもしますから。それに、コルセットなんて無くても姉さまは美しいですからね」
屈託のない笑みを浮かべ、私に微笑みかけるカフォン。
彼はこの世界において、いつも私の味方になってくれる可愛い可愛い弟だ。
その外見は、高級人形店のショーウィンドウに飾られた最高傑作のようで、性格も、教科書から飛び出してきた「良い子」の見本そのもの。
まぁ、ちょっとした……特殊な愛情表現があるけれど。それも彼の個性の一つ。
だと思いたい。
「?」
突如、私の視界に飛び込んできたのは、床を這いずり回るメイドさんの姿だった。
その動きは、まさに人生最後の一秒を必死に生き延びようとしているかのようだ。
まるで急に出現した凶悪な怪物から逃げるようなその動作に、私は首を傾げた。
「ど、どうしたの?そんな這いつくばって逃げて……」
私がメイドさんに声を掛けると、彼女は「ひぃ!?」と悲鳴を上げて私を見上げた。
その目には涙が浮かんでいる。
「あ、あのっ……私は何も見てませんから!だから命だけは!」
「え?いや、別に取って食ったりしませんよ?」
何を勘違いしているのか。私がメイドさんを食べようなんて思うわけないだろうに。
しかしよく見ると彼女の目線は私ではなく、横にいるカフォンに向けられていた。
カフォンはそんなメイドさんを一瞥すると、微笑んで口を開く。
「やぁエスカテリーナ。どうしたんですか、そんなに怯えて。まるで化け物から逃げるみたいですね」
エスカテリーナ。私の御付きメイドの名前だ。カフォンが彼女の名前を知っているのは、実は驚くべきことではない。
なぜなら、彼はこの王城の使用人全員の顔、名前、住所、家族構成、果ては趣味趣向まで把握しているのだから。
彼の頭脳は、もはや人間……エルフの領域を超越している。前に私が「家族構成まで覚えてるなんてすごいわ」と感心したら、彼は「家族を人質に取れば従順に……あ、いや、使用人の家族は我々の家族も同然ですからね」と言っていた。
ああ、なんて素晴らしい弟なのだろう。お姉ちゃん、感動で涙が出そうだわ。
もちろん、恐怖の涙なんかじゃないわよ、絶対に。
「い、いえ……そんな……ことは……ふっー……ふっー……!」
スカテリーナは息を切らせながら、私とカフォンの間で視線を落ち着きなく動かしていた。彼女の顔は恐怖で歪み、言葉を絞り出すのも一苦労という様子だ。
一体何がそんなに怖いのだろう?カフォンが姿を現してから、彼女の顔色は見る見るうちに変化し、今や熟れすぎたアボカドのような色合いになっている。確かに、カフォンは恐るべき魔法使いだ。しかし、彼が無差別に人命を奪うようなことはしないはずだ。
たぶん。
「貴女の実家が天から降ってくる謎の光に焼かれる前に精神状態を直した方がいいですよ。あぁ、実家が燃えた時のために消火部隊を事前に派遣しておきま……」
「カ、カフォン!来てくれてありがとう!待っていたわ!」
私の口が勝手に動いた。カフォンの危険な発言を封じ込めるかのように、私は彼の肩を掴み、言葉を遮った。
カフォンの視線が私の顔に移る。メイドさん……エスカテリーナは白目を剥きながら泡を吹いて気絶していた。
ああ、危険な状況だった。何が危険なのかは私にもよく分からないが、とにかくカフォンを野放しにしてはいけないという直感だけは働いた。
どうやら彼の注意を逸らすことに成功したらしい、カフォンはいつも通りの可愛らしい笑みを私に向けて口を開く。
「そういえば姉さま、僕に何の用事なんです?ドワーフとのお見合いが嫌になったから奴等を抹殺しろというなら喜んで殺りますけど」
「カフォンくん。お姉ちゃんが泣く前にそういうこと言うのやめようね」
私はカフォンの両肩を掴んで、その目を見ながら諭すように語りかける。
すると彼は「そうですか?姉さまがそう言うなら……」と渋々といった様子で頷いた。
危ないところだった。危うくお見合い相手を殺すところだったよ。
そしてもう少しで王国間の戦争が勃発するところだった。私は安堵の息を吐き出し、再びカフォンと向き合った。
「あのね、カフォン。お願いがあるんだけど……」
そして私は、目の前の小さな悪魔……ではなく、天使に『お願い』をしたのだった。
カフォンの目が好奇心に輝いた。
「何でしょう、姉さま?僕にできることなら何でもします!」
その「何でも」という言葉に、私は背筋に冷たいものを感じた。
カフォンの「何でも」は、往々にして常識の範疇を超えてくるのだ。
「えっとね、私を……逃がして欲しいの」
一瞬、カフォンの瞳が鋭く光ったような気がした。
しかし彼はすぐにいつもの温和な表情に戻ると私の真意を図ろうと言葉を投げかける。
「姉さま、貴女は何から逃げたいのですか?兄から?この国から?この世界から?それとも、貴女を縛る全てのものから?」
「そんな壮大なものから逃げたいわけじゃないわ。お見合いから逃げたいだけなの。まあ、お兄様からも逃げたいけど、それは日課みたいなものね」
カフォンは「お見合い」という言葉に反応して、少し首を傾げた。
どうやら彼は私がお見合いから逃げたがっているのを、少し不思議に思っているようだ。
「ドワーフがそんなにお嫌いですか?」
「別にドワーフの殿方が嫌なわけじゃないわ。会ってもいないのに、好きも嫌いもないしね。ただ、私は自分の相手くらい自分で決めたいだけ」
「ほう」
私の言葉に、カフォンは興味深そうに目を輝かせた。
決して筋骨隆々なドワーフの王様を見て怖くなったとか、ドワーフたちの「血液飛沫お掃除セット付き」な鎧を見て漏らしそうになったからとか、そんなんじゃないからね。
本当だよ。
そして彼は私の前に跪くように身を屈めると、まるで神託を受ける聖者のような口調で語りだした。
「なるほど、姉さまはこのお見合いを『運命』とか言う安っぽい言葉を使って拒否するのではなく、もっと現実的な手段で断るということですね」
「え?あー、そう……なのかな?まぁ、うん」
私は困惑気味に返事をした。カフォンは時々、妙に難解な言葉を操ることがある。
この少年のような外見をした天使(あくま)は、私の脳みそをはるかに凌駕する知性の持ち主らしい。
その叡智は、きっと宇宙の果てまで届くんだろう。
……カフォンくんキミ何歳よ?弟だよね、キミ?私のお爺さんとかじゃねぇよな?
「いいでしょう。姉さまが願うなら、僕はその願いを叶えましょう。例えそれが、を二度と元に戻せないほど世界をメチャクチャにすることだとしても」
「だからそういう物騒なこと言うのやめようね?私、別に世界の破滅を願う邪神とかじゃないから」
カフォンはまるでペンギンの行進でも始めるかのように、可愛らしくトテトテと音を立てながら窓辺へ向かった。
「では姉さま、少々お待ちくださいね」
「え?」
はて、一体何をするつもりだろうか。
私はてっきり不思議な魔法パワーでワープやら瞬間移動やらを駆使するのかと思っていたのだが。
あ、もしかして壁に空間同士を繋げる素敵な扉でも作るのだろうか?
なんてファンタジーな世界なんだぁ。私の脳みそは、まるでお花畑のようだ。ユニコーンが虹を吐きながら駆け回っているレベルで。
「姉さま、お手を」
現実に引き戻される。カフォンが手を差し出してきた。まるでシンデレラの舞踏会にでも招待するかのように。
私は躊躇うことなく、その手を握る。弟の手とはなぜこうも温かいのだろうか。
弟の手は妙に温かい。まるで赤ちゃんのように……。
こんなに温かいのは、もしかして魔法の副作用?それとも、単に手汗がやばいだけか?
「では行きますよ」
すると次の瞬間、カフォンの掌からシュウシュウと魔力の奔流が溢れた。
それは次第に、真っ黒なタピオカみたいな邪悪なものへと変貌していく。私は思わず心の中で絶叫した。
(あ、これダメなやつやん)
目の前の光景は、まさに「美しい」の反対語を体現したような代物。メルヘンとは程遠く、むしろ悪夢の具現化といった感じだ。
世界が蠢き出すような錯覚に陥る。でも、そんな優雅な時間は与えられない。
次の瞬間、カフォンの手から闇の波動が解き放たれた。それは、まるで私の部屋の壁に恨みでもあるかのように、轟音とともに吹き飛ばしていく。
城が揺れる程の衝撃と、耳をつんざくような轟音が響き渡った。
「おっと、ちょっと力入れすぎちゃったかな。まぁ、これでいっか」
カフォンが言う。何が「いっか」なのかさっぱり分からないが、彼のにこやかな顔を見ていると、私まで「まぁいっか」という気分になってくる。
というか、今さらそう思うしかないだろう。
壁に空いた大穴──いや、もはや「壁」と呼べるかすら怪しいが──からは青空が覗いている。
そこから、まるで「ほら、外に出ておいでよ」と誘うかのような風が吹き込んでくる。
私は髪を風になびかせながら呟いた。
「いい天気ね」
素晴らしい現実逃避である。もしかしたら、私はもう正気を失っているのかもしれない。
「さぁ、姉上」
カフォンが私の手をぎゅっと握り、無邪気な笑顔で見上げてくる。そして、こう言った。
「どこまで逃げたいですか?世界の果てまで行きたいなら、途中にある国々を吹き飛ばしますから」
弟の口調は、まるでピクニックの準備をする時のように軽やかだった。
ただし、普通のピクニックでは国を吹き飛ばしたりはしないけれど。
「そうね。じゃあ、お城の近くの森に行きましょうか」
世界の被害を最小限に抑えるには、近所で済ませるのが最適だろう。
国際問題を起こすよりは、地元の生態系を少し乱す程度で留めておきたい。
「森……いいでしょう。姉上の望むままに」
カフォンは頷き私に手を向けて何やら呟くと、私の身体がふわりと宙に浮いた。
そのまま窓から見える青空に向かって、私たちの身体は吸い寄せられていく。
「わぁ、すごい!私達飛んでるわ!」
ようやく平和なファンタジーらしい魔法の効果を味わった私は、年甲斐もなくはしゃいでしまった。
そんな私の姿を見て、カフォンはにこにこと嬉しそうに笑っている。
「姉上が喜んでくれて何よりです。遥か昔の大戦の時は、空を飛んだ瞬間に四方八方から魔法が飛んできて身体がぐちゃぐちゃになっちゃいましたからねぇ。平和な時代で良かっ「あぁ楽しいわ!優雅に空を飛ぶのは!」」
カフォンが何やら物騒なことを言っていた気がするけど、きっと気のせいだろう。たぶん「ぐちゃぐちゃ」は「わくわく」の言い間違いだったんだ。そうに違いない。そうであってくれ。
私は弟の言葉を聞き流しながら、空の旅を堪能するのだった。時々、下を見ては鳥のように自由だと感じ、そして高所恐怖症になりかけては目をそらす。
そんな、ちょっとしたスリルを楽しみながら。
0
あなたにおすすめの小説
推しの幸せをお願いしたら異世界に飛ばされた件について
あかね
恋愛
いつも推しは不遇で、現在の推しの死亡フラグを年末の雑誌で立てられたので、新年に神社で推しの幸せをお願いしたら、翌日異世界に飛ばされた話。無事、推しとは会えましたが、同居とか無理じゃないですか。
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
面倒くさがりやの異世界人〜微妙な美醜逆転世界で〜
蝋梅
恋愛
仕事帰り電車で寝ていた雅は、目が覚めたら満天の夜空が広がる場所にいた。目の前には、やたら美形な青年が騒いでいる。どうしたもんか。面倒くさいが口癖の主人公の異世界生活。
短編ではありませんが短めです。
別視点あり
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
子供にしかモテない私が異世界転移したら、子連れイケメンに囲まれて逆ハーレム始まりました
もちもちのごはん
恋愛
地味で恋愛経験ゼロの29歳OL・春野こはるは、なぜか子供にだけ異常に懐かれる特異体質。ある日突然異世界に転移した彼女は、育児に手を焼くイケメンシングルファザーたちと出会う。泣き虫姫や暴れん坊、野生児たちに「おねえしゃん大好き!!」とモテモテなこはるに、彼らのパパたちも次第に惹かれはじめて……!? 逆ハーレム? ざまぁ? そんなの知らない!私はただ、子供たちと平和に暮らしたいだけなのに――!
周囲からはぐうたら聖女と呼ばれていますがなぜか専属護衛騎士が溺愛してきます
鳥花風星
恋愛
聖女の力を酷使しすぎるせいで会議に寝坊でいつも遅れてしまう聖女エリシアは、貴族たちの間から「ぐうたら聖女」と呼ばれていた。
そんなエリシアを毎朝護衛騎士のゼインは優しく、だが微妙な距離感で起こしてくれる。今までは護衛騎士として適切な距離を保ってくれていたのに、なぜか最近やたらと距離が近く、まるでエリシアをからかっているかのようなゼインに、エリシアの心は揺れ動いて仕方がない。
そんなある日、エリシアはゼインに縁談が来ていること、ゼインが頑なにそれを拒否していることを知る。貴族たちに、ゼインが縁談を断るのは聖女の護衛騎士をしているからだと言われ、ゼインを解放してやれと言われてしまう。
ゼインに幸せになってほしいと願うエリシアは、ゼインを護衛騎士から解任しようとするが……。
「俺を手放そうとするなんて二度と思わせませんよ」
聖女への思いが激重すぎる護衛騎士と、そんな護衛騎士を本当はずっと好きだった聖女の、じれじれ両片思いのラブストーリー。
なんか、異世界行ったら愛重めの溺愛してくる奴らに囲われた
いに。
恋愛
"佐久良 麗"
これが私の名前。
名前の"麗"(れい)は綺麗に真っ直ぐ育ちますようになんて思いでつけられた、、、らしい。
両親は他界
好きなものも特にない
将来の夢なんてない
好きな人なんてもっといない
本当になにも持っていない。
0(れい)な人間。
これを見越してつけたの?なんてそんなことは言わないがそれ程になにもない人生。
そんな人生だったはずだ。
「ここ、、どこ?」
瞬きをしただけ、ただそれだけで世界が変わってしまった。
_______________....
「レイ、何をしている早くいくぞ」
「れーいちゃん!僕が抱っこしてあげよっか?」
「いや、れいちゃんは俺と手を繋ぐんだもんねー?」
「、、茶番か。あ、おいそこの段差気をつけろ」
えっと……?
なんか気づいたら周り囲まれてるんですけどなにが起こったんだろう?
※ただ主人公が愛でられる物語です
※シリアスたまにあり
※周りめちゃ愛重い溺愛ルート確です
※ど素人作品です、温かい目で見てください
どうぞよろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる