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忘却の彼方
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しおりを挟む「比和子ー! いつまで寝てるの! 遅刻するわよ!」
一階からお母さんの怒りを含んだ声が、ベッドの中で丸くなっていた私の耳に届く。
がばっと起き上がって、枕元の赤い目覚まし時計を手に取るともう七時半を過ぎていた。
慌ててベッドから下りてカーテンを開くと、朝日はもう既にかなりの熱量を持って降り注いでいる。
「マジか―!」
私は一人で叫んで、階段を落ちるように駆け下りた。
洗面所でお父さんと衝突しそうになって足を思い切り踏んづける。
「比和……」
「ごめん! 今急いでるから!」
非難めいた視線を無視して、顔を洗って歯を磨きながら二階へと戻り、今日の洋服を選ぶ。
あんまり肌を出すとお局様から御小言を貰うから、地味目で涼しいヤツにしないと。
口から泡が落ちそうになって、再び洗面所に戻るとヒカルがドライヤーを片手に陣取っていた。
九歳で色気づくって、早いのよ!
お尻でヒカルを押しやって私は口を漱いだ。
上守比和子、二十二歳。
社会人一年目であります!
自転車をかっ飛ばして、国明館高校を通り過ぎ、横滑りしながら駐輪場に到着。
乱れた髪を手で軽く直して、腕時計を確認すると八時ちょっと過ぎ。
何とか遅刻はしなかったと安堵して、私は二十階建てのオフィスビル三階を目指した。
大学を卒業してから、私は派遣会社に就職した。
派遣会社といっても、派遣されるのではなく派遣する側だ。
そこで主に事務仕事をして、たまにクライアントさんのところへ書類を届けたり、平平凡凡だ。
お給料はそこそこで、地道に貯金をしている。
実家暮らしだからそんなに使うことも無いし、結婚資金くらいは二人で貯めようねってお隣の幼馴染の守くんと約束をしている。
オフィスに入ると冷房が効いていて、私はしばらくエアコンの下で阿保みたいに顔を上げて涼んでいた。
それから少しして、お局様、いや堤さんが出勤。
私を見ると心配そうに駆け寄ってくる。
この人は敵に回すと面倒だけど、仲間でいる分には姉御肌でとても頼りになる人だ。
「上守さん、もう大丈夫なの?」
「大丈夫です! 御心配おかけしました!」
私は勢いよく頭を下げた。
実は先週、一週間会社を休んでしまったのだ。
おかしな夢を見た私は錯乱状態になって、危うく病院に入れられるところだったのである。
ド田舎のおじいちゃんの村のお家に嫁いでそこで暮らすっていう、有り得ない夢。
でも妙にリアルだったものだから、私は現実との区別がつかなくて家を飛び出したんだ。
で、おじいちゃんの村へ行くと、小さい頃に来たことがあるだけなのに、不思議なことに見覚えがあるところが多くて。
でも私がお嫁に行った先のお屋敷は、なかった。
何もない、普通の小高い山だった。
石段も、その先の門も、日本家屋も何もなかった。
獣道すらないその山に分け入り頂上へ行ってみても、廃墟になった建物の痕跡すらなく、私は大きな銀杏の木の下で呆然とした。
次におじいちゃんの家で、誰かの名前を出してその人はいないのかと聞けば、白い目で見られた。
何て言ったかなー、たまひこ。そう、玉彦。
夢の中で私はその人が大好きだった。
ものすんごいイケメンで、マンガに出てくる王子様みたいだった。
艶やかな髪が長く綺麗で、和服がすごく似合っていた。
どう考えてもこの時代に和服を普段着にしていることが変だったけど、まぁそこは夢の中だし。
そして抱き付けば石鹸の香りがして、背中に腕を回されると安心できた。
私には守くんがいるっていうのに、今思い出しても身体が火照る。
夢ってさ、自分の欲求が出るっていうじゃない?
私は夢の中で彼に抱かれながら、天国だった。
もうさー、守くんとエッチをしても多分満足できないんじゃないかなって思えるくらい。
大事に大事に、色々と、エロエロと。
オフィスでそんなことを思い出して、私は鼻血が出そうだった。
デスクに座ってPCの電源を押す。
最後の夢の記憶は、切なかった。
だから目が覚めたんだと思う。
お父さんとお母さんとヒカルが死んじゃう夢。
全部が夢だったのだと安心した半面、妙にリアルな記憶に私は混乱を極めた。
それから通山へと連れ戻された私は、家の中でアルバムを引っくり返し、スマホの中の貯め込んでいた大学時代の友達との思い出を振り返って、ようやく自分の夢がやはり夢だったのだと納得をしたのだった。
不意に電話が鳴って受話器を上げると、登録している派遣の子で今日は具合が悪いという。
私はファイルを引っくり返して、その子の穴埋めが出来る人を探す。
そんな日常。
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