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第1章 夏
1.わた雲ソフトクリーム
宇宙の渚。
地球と宇宙が溶け合う場所。
3万メートル先の、すぐそこの宇宙――。
七月のとある水曜日の放課後。私、霜連澪は、いつものように屋上の天文ドームで顧問の羽合先生の、その言葉を復唱していた。
「せんせー、やっぱりよくわからないんですけど……」
私は首を傾げながら尋ねた。
「だから言ってるでしょ。宇宙はね、霜連が思ってるほど遠くない。――とにかく、身近なんだよ」
先生は優しい口調で語りかけるように説明してくれた。
エアコンのホコリだらけのフィルターを外す私の足元で、先生が脚立を支えてくれている。額の汗をシャツの袖で拭い、何度もむせて涙目になっている先生の姿を見て、私はクスッと笑みをこぼした。
「3万メートルということは30キロ? 30キロなら、東京に行くよりも近いですねー!」
私はわざとおどけてそう言ってみた。
「ねえ先生、今年の夜の流星観測、どうするんですか?」
そう言いながら、慎重にフィルターを先生に手渡す。天文ドームの中央には、大きな望遠鏡がどっしりと構えている。
「はは、ダメだよ。女子生徒と二人きりなんて、無理無理。職員会議で問題になるのは勘弁だからね」
先生は苦笑しながら首を横に振った。
「でも先生、昼の天体観測なんてもう飽きちゃったんですけど……」
私は口を尖らせた。
かつては十人もいた天文部の部員も、今や私一人。最初はただの人数合わせのために入部したのに、みんな次々と辞めていった。「兼部に忙しくなった」とか「受験勉強で大変だ」とか「彼氏ができた」とか……、そんな理由だった。
頼りにしていた二人の先輩も卒業してしまい、来春私が卒業すれば、ついに天文部は消滅してしまうかもしれない。
「じゃあせめて、夏の合宿は? 先生、引率してくれますよね?」
私は期待を込めて尋ねた。
「ダメだってば。合宿だともっとまずいに決まってるでしょ」
「えーっ、なんで!? 私、今年こそ八ヶ岳に行きたいんですけど!」
私は食い下がった。
「いくらなんでも、女子生徒と男教師が二人きりで旅行なんて、ありえないでしょ。わかってるよね?」
先生は呆れたように言葉を重ねた。
「一学期は必死に新入生の勧誘をしたのに、結局一人も入部してくれなかった。もうこの天文部は、私一人ぼっちなんですよね……」
横目で顔色をうかがいながらつぶやいてみるも、先生は口を閉ざしたまま。
「ちぇっ、まったく……」
不満を口にしつつも、私はぞうきんを手に取り、エアコンを一生懸命磨き上げた。自分の頑張りが目に見える形で現れるのが、掃除の魅力だと思っている。額から汗が垂れてきたので、私は思わずぞうきんでその汗を拭ってしまった。その様子を黙って見ていた羽合先生は、にやりと笑みを浮かべた。
「旅行じゃなくて引率」
私は真剣な眼差しで先生を見つめた。
「あ、もしかして先生……。何かまずいことが起きるのを期待してたりするんですかぁ?」
そう言いながら私は、脚立の上で腰をくねらせ、スカートの裾をひらひらとさせてみせた。
「あのな。そんな動きしてたらパンツ見えちゃうぞ」
「えへへ、別にいいですよ。ほらほら、もっとよく見えるようにしてあげますよぉ」
私は意地悪そうに笑って、さらにスカートをまくり上げた。
「おいおい。霜連。ちょっと、やめなさい!」
「大丈夫ですって、ほらちゃんとジャージ穿いてるじゃないですかぁ」
「……白だな」
え……? ええっ!? マジですか? あれれ、なんで今日に限って……!
「きゃああ――っ!」
「冗談だよ、冗談。とにかくっ……」
頭をガシガシ掻きむしる羽合先生。
自他ともに認める天文オタクなのに、そのすっきりとした顔立ちから女子にも人気だ。
頭脳明晰、ルックス抜群。でも事務処理能力は皆無。天は二物を与えたりしないってことね。プリントの配布を忘れたり、テストの答案をなくしたり。生徒からも心配されっぱなしだ。
「ねえ先生、職員会議は?」
「ああ、行きたくない。性に合わないんだ」
「またそんなこと言って。あはは」
会議嫌いの先生がここを秘密基地代わりにしてるのは知ってる。
「あんまり大人をからかっちゃダメだぞ」
「だって先生、私とそんなに歳離れてないじゃないですか」
「そうかなあ」
先生は首を傾げながら、指を折って年齢の差を数え始めた。
「ちょ、ちょっと! 先生、手、離さないで!」
私が叫ぶと同時に、脚立がぐらつく。慌てて座り込んでしまった。
「おっと、ごめんごめん」
「たった七つしか違わないんですよ。それに、私ももうすぐ同い年だし」
「えっ? なんのこと?」
私は、ホコリを取ってきれいにしたフィルターを先生から受け取りながら答える。
「先生と付き合っていた頃のお姉ちゃんと」
羽合先生は姉の綾の幼なじみで、そして恋人でもあった。
「とにかく、合宿は無理だって。第一、君のご両親に説明がつかないよ」
「えー、先生こそ、うちの親から信頼されてるの知ってるくせに」
私の記憶をたどれば、少なくとも小学生の頃から、当時、高校生だった先生はよく我が家に来ていた。宿題を教えてくれたり、家族そろって夕食を囲んだりしたこともある。「それに先生、まだお姉ちゃんのこと、好きなんでしょ? だから絶対に、先生は私には手出さないってわかってるんだから」
私がべーっと舌を出すと、先生は苦笑いしながら頭をぽりぽりと掻いた。
「とにかく、そういう冗談は……」
「さて、先生は今日、何回『とにかく』って言ったでしょう?」
なんておどけてから作業に戻ると、ドームの扉をノックする音が響いた。
「きゃっ!」
私の悲鳴に、先生も「な、なんだ!?」と驚いて思わず手を離してしまう。
「わわっ」
脚立が大きく揺れる。必死でバランスを取ろうとするが――。
「危ない!」
「きゃあああ!」
ドサッ。
先生は必死で私の体を抱き止めてくれた。二人で尻もちをついた鈍い音が、ドーム内にこだまする。
その時、一人の女子生徒が身を屈めるようにして入ってきた。
「やっぱりここにいた! って、ちょっと二人とも何やってんの!?」
私たちの目の前に、親友雨宮陽菜が立っている。長身でスラリとした陽菜は、悲鳴を上げることも無言で立ち去ることもなく、呆れたようにツッコミを入れてきた。
「ねえ澪。二人が仲良しなのは知ってるけど、白昼堂々と学校でってのはどうなの?」
「ち、違うの! これはその……」
私がうろたえていると、先生はいたって冷静に、エアコンを指差して笑った。
「エアコンのフィルター交換をしてたんだ。雨宮が急に入ってきたから、霜連が驚いて脚立から足を滑らせて――」
「え? ああ、なるほど! あははー。なぁんだ。私はてっきり……」
「ちょっ、陽菜! 変なこと言わないでよ!」
「はいはい、わかったって。ほら澪、アンタ早く離れなさい」
陽菜は中学からの親友で、姉のような存在。今は弓道部のエースとして活躍する才色兼備の美少女――。だけど、恋愛に関しては奥手なところがある。
「それにしても珍しいね。陽菜がこんなところに来るなんて」
「ねえ、理科部に届いた怪しいメールの話、聞いた?」
陽菜は黒髪を耳にかけながら、ドームの隅にあるテーブルに座った。私はスカートのホコリを払いながら、眉をひそめる。
「怪しいメール?」
「よくわからない数字の羅列。暗号……、かな? 今、理科部で解読しようとしてるんだけど、全然意味わからなくて」
「ん? 理科部? ああ、かけ持ちしてるんだっけ? それで、なんで私に?」
「それがね……。ほら、これ」
陽菜に見せられたスマホの画面。差出人の名前を見て、私は絶句した。
メールアドレスの横には、『Aya Shimotsure』の文字。そう、私の姉の名前だ。
「まさか……」
先生を見ると、先生もスマホを覗き込んでいた。そして苦々しい顔で頷き、陽菜に向かって言う。
「雨宮。間違いない、これは霜連のお姉さんの名前だ。この学校の卒業生で、数年前に理科部の部長を務めていたんだ」
「そうですよね……。でもさ……、ねぇ、澪?」
「ありえないよね」
「どうしよう。……澪、私、幽霊とかめっちゃ苦手なんだけど……」
陽菜は肩を震わせながら、不安げな表情を浮かべる。私はそんな陽菜を見て、優しく微笑んだ。
「だ、大丈夫よ。きっと誰かのイタズラだって。ね?」
「……ねえ澪。ちょっと物理実験室に来てくれない?」
「え? 今から!? ……うん、わかった。じゃあ先生、あとはよろしくお願いします!」
先生の返事も聞かず、私は陽菜の手に引かれ、階下の物理実験室へと急いだ。
「よっ、澪! 待ってたぜ」
物理実験室の引き戸を勢いよく開けると、幼なじみの風間大地が元気よく手を振った。「こっちこっち」と促されるまま、私と陽菜は教卓脇の実験テーブルについた。
「ねえ大地、まさかこのメール、あんたのイタズラ?」
私は不審げに尋ねた。
「違うって。昨日の放課後、理科部のアドレスに届いたんだよ」
大地は理科部部長らしからぬ坊主頭をポリポリと掻きながら言った。そして、例のメールが表示されたタブレットを私に差し出す。
「昨日って……。ありえない。だって、大地も知ってるよね。お姉ちゃんはさ、六年前に――」
亡くなっている。お姉ちゃんが今の私と同じ、高校三年生の時に。白血病で。
私の言葉に、大地と陽菜の表情が曇った。
「ま、落ち着こうぜ。で、このメアドは合ってんのか?」
大地が画面のメールアドレスを指差して尋ねる。画面を見つめ、私は頷いた。
「うん。……たぶん。でも、どういうこと……?」
「さあな。オレにもわかんねえよ。でもな、理科部の頭脳集団がもう解読に取りかかってるから、すぐなんとかなるさ」
そう言いながら大地が振り返ると、黒板には難解な数式とマニアックな記号がびっしりと並んでいた。それを囲むようにして、部員たちが白熱した議論を交わしている。その光景を見ていたら、なんだかほっこりとした気分になってきた。
「みんな頑張ってるねー、部長以外。あはは」
私は皮肉っぽく言って笑った。
「でもよお、オレがメアドに気づかなきゃ、今頃はスパムメールと一緒にポイよ。どうよ、オレの貢献でかくね?」
ドヤ顔で言い放つ大地に、私は呆れつつ尋ねる。
「はいはい、わかったから。で、大地的にはこのメール、なんだと思う? やっぱ幽霊とか?」
そう言いながら、私は黒光りした実験テーブルを挟んで向かい側の大地にタブレットを滑らせた。
「ガッハッハ! まあ、幽霊の線もゼロじゃないけどさ。たぶん、なんらかの理由でネット空間をさまよってたデータの塊が、今になって届いただけじゃね?」
「ひぃっ! や、やっぱり幽霊なの……?」
顔を真っ赤にしてうつむいていた陽菜が、突然立ち上がって叫んだ。
「ははは、雨宮らしくないな! いつもは物静かなのに。まあ、落ち着けって」
大地が笑いながら陽菜をなだめる。その言葉に、陽菜はますます顔を赤くして、無言のまま席に座り直した。
「常識的に考えると、送信元のパソコンが何かのきっかけで急に動きだした、ってとこだろうね。いずれにせよ……」
「いずれにせよ……?」
私は身を乗り出すようにして、大地の言葉を待った。
「六年前、澪の姉さんが理科部で取り組んでた研究と、何か関係あるのは間違いないな」
(大地は見た目こそ体育会系だけど、実はメチャクチャ頭切れるんだよね……)
そう思いながら、私は大地の面倒くさそうな顔つきを観察していた。大地という名前とは裏腹に天真爛漫な性格。でも子供の頃から理科やパソコンが得意で、ピンチの時は鋭い洞察力を発揮する。
「澪。何か心当たりないか?」
いつもと違って真剣な眼差しの大地。私は必死に記憶をたどってみる。けれど、やっぱり何も思い出せない。
「私、その頃まだ小学生だったもん。お姉ちゃんが高校で何してたのか、全然知らないし……」
「だよな……」
大地は残念そうに肩を落とした。申し訳なさそうにする大地を見て、私もなんだか胸が痛んだ。
「あ、でもね、羽合先生なら、何か知ってるかも」
「物理の? どうして?」
大地が怪訝そうに眉をひそめる。
「えっ、あ、いや……。本当なら最後の手段にするつもりだったんだけどさ――」
「ああん? 歯切れ悪いな。なんだ、話しにくいことなのか?」
「あ、あのさ、羽合先生ってうちの高校の卒業生なんだよね。お姉ちゃんが高二で理科部の部長やってた時、先生は三年生で天文部にいたらしいの」
「なるほどね。昔から理科部と天文部って仲良しだったみたいだしな」
仲良かったのは別の理由があるんだけどね――。私は心の中でつぶやいた。
そこで、大地は急に話を変える。
「――それで、澪のぼっち天文部のほうはどうなんだ?」
「えっ?」
私は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「夜に活動できなくて、昼間だけなんだろ? まさか、雲の観察でもしてんのか? ハッハ」
からかうような大地の言葉に、思わず頬が火照る。
「ち、違うって! 失礼しちゃう!」
つい声を荒らげてしまった。
大地なんか真面目に相手にするんじゃなかった……。後悔しつつ、陽菜と一緒に帰る約束をして物理実験室をあとにした。
部活を終えると、いつものようにコンビニでアイスを買い、川沿いの遊歩道をゆっくりと歩く。バスに乗れば一瞬で家に着くけど、こうして陽菜とくだらない話をしながらのんびり歩くのが、何よりも好きなのだ。
いつもキリッとしている陽菜も、私と二人きりの時は柔らかい表情になる。だけど今日は、なんだか様子が違って、悩んでいるような顔で、
「ねえ澪、……好きな人、いる?」
そんなことを聞いてきた。アイスを舐める陽菜は、私が目をそらすのを見逃さない。
「ふふ、その顔は、いるね?」
「う、ううん。好きとかそういうのかはまだよくわからないけど……。でも、気になる人はいるかな」
「もしかして、……羽合先生?」
「えええっ!? ど、どうしてそれを!?」
「澪、アンタねぇ。――バレバレだってば」
呆れたように笑う陽菜。私は川面に揺れる夕日を見つめ、「でも、ダメなんだ」とアイスを一口、含んだ。
「先生だから?」
「それもあるけど……。羽合先生、きっとまだお姉ちゃんのこと忘れられないでいるんだと思う。だから、なんか、お姉ちゃんに申し訳なくって……」
「そっか……、うん、よくわかる」
「でも陽菜こそ、もしかして好きな人……、いるんじゃない?」
「ええっ!?」
アイスを食べようとした陽菜の手が止まった。
「隠しごとはよくないぞ。私と陽菜の仲じゃん」
「えっと、その…………、あ…………」
陽菜が顔を真っ赤にして、もじもじと言いかけた時だった。川向こうから、私の名前を呼ぶ声が響いた。
「みーーお!」
「え、大地!? どうしたの――!?」
どうやら走ってきたらしく、大地は肩で息をしている。大した幅じゃないこの川、そこまで大声じゃなくても聞こえるはずなのに。でも、大地につられて私も思わず叫び声を上げていた。
ふと陽菜を見ると、溶けたアイスがぽたぽたと垂れているのに気づかず、まるで夕焼けのように顔を赤らめている。
「ねえ陽菜、どうかした?」
「あ、私、もう帰るから」
「えっ、ちょっと待ってよ陽菜!」
「おおーい。みーお。ビッグニュースだぞ――!」
川向こうで、大地はまだ叫んでいる。
「おーーい、メールの新事実! 見つけたぞ――!」
「はーい、明日教えて――!」
私は大きく手を振って答え、急いで陽菜のあとを追いかけた。
すぐに陽菜に追いつくことができた。道沿いの公園で手を洗う彼女の姿を見つけ、そっと声をかける。
「――ごめんね陽菜……。陽菜の好きな人って、大地だったんだ……?」
陽菜は小さく頷いて答えた。
「もっと早く教えてくれればよかったのに」
「ごめんね……。私、変だったよね」
「全然。アイツはそんなこと気にしないって。ほら、だって、マイペースだし」
「やっぱり二人、仲良しなんだね」
「うん、小学校の頃からずっと一緒だからね。腐れ縁って感じ」
小さく笑う陽菜は、長い髪を耳にかけた。私より15センチも高い彼女が、今日はとても頼りなく小さく見えた。
「私、彼の前だと上手く話せなくて……。澪が羨ましいな」
「え、そうなの? てことは、理科部に入ったのも大地に会うためだったんだ。気づかなくてごめん……」
「はは……。私、冷たい人だと思われてたりするのかな」
そう言って自嘲する陽菜を見上げ、私は「そんなことないよ」と力強く言った。
「冷たいって君は言うが、そこに味があるんだよ。君もアイスは好きだろう? ……ってこれ、ロシアの小説家ツルゲーネフの言葉なんだって」
ふふん、と得意げに言ってみる。
「――っていうお姉ちゃんの言葉、なんだけどね」
そう言うと、陽菜もようやく笑顔を見せてくれた。私と陽菜は、まるで姉妹みたいに仲良しだ。時には、こうしてお姉ちゃん役が入れ替わることもある。
「アイスだけに、気持ちが冷めないうちに、頑張らないとね!」
「うん、その意気だよ陽菜! 絶対応援する!」
夕焼けに照らされた雲が金色に輝いている。歩きだした私たちを、まるで祝福してくれているみたいだった。
――そういえば、大地の言ってたビッグニュースって、いったいなんだったんだろ……。
* * *
そのビッグニュースとは別に、ショッキングな知らせが舞い込んできた。
やはり、天文部が廃部になるというのだ。来年の春に予定されている校舎の建て替え工事で、あの思い出深い天文ドームが再建されないことが決定したらしい。
私が卒業すれば、部員はゼロになってしまう。生徒会にとっては、ちょうどいいタイミングだったのかもしれない。
そんな暗い思いを抱えたまま、次の水曜日を迎えた。
夏休み前の最後の部活の日。胸の内にわだかまる何かを感じながら、いつもの屋上に向かう。
屋上に繋がる階段室の扉を開けると、そこにはいつものように空を眺める羽合先生の姿が。フェンスに寄りかかりながら、先生はこちらに気づいて手を振った。
「やあ、霜連。もう来ないかと思ったよ」
「あはは、先生こそ」
私はそう返して笑った。二人の間に、少し気まずい沈黙が流れる。
「…………」
「…………」
やがて先生が口を開いた。
「会議をサボる言い訳がなくなるのは困るな」
廃部の話は、羽合先生ももちろん知っているだろう。けれど、そのことに触れてしまえば、今このひとときの心地よさが、まるではかない泡のように消えてしまいそうで……。どうしても切り出せない。
「どうした? 今日は元気ないな」
先生が不思議そうに言う。私は先生の隣に並び、彼が見つめる先の空を仰ぎ見た。どこまでも深い青に、綿菓子みたいにふわふわと浮かぶ白い雲。七月の熱を帯びた夏風が、髪をそよがせる。不意に、先生を見つめていた自分に気づき、ドキリとする。
「天文部の最後の部員が、私なんかでごめんなさい。部員を増やすことができず、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「霜連のせいじゃないよ。仕方ないことだ」
優しく諭すような羽合先生の言葉が、私の胸をきゅっと締めつける。
「きゃっ!」
冷たいペットボトルが、頬に触れた。見れば、先生がにっこりと笑顔を向けている。差し出されたのは、大好きなフルーツティーだ。
「霜連はさ、もっと胸を張っていいと思うよ」
「え……?」
戸惑う私に、先生は優しく微笑んだ。
「ほら、天文部の活動って、一見すると銀河だの流れ星だのってロマンチックそうに見えるけど、実際はけっこう地味な作業の連続だろ? それでもへこたれず、霜連がコツコツと頑張ってきたの、俺は知ってるから」
「先生……」
「だからしっかり胸を張るんだ。いい?」
「……はい」
フルーツティーをごくごく飲む。ほんのり甘い香りと、意外とさっぱりとした味わい。甘みの奥にある渋さに、なんだか悔しさがこみ上げてくる。
「羽合先生も、天文部なくなってほしくないんですよね。だって、先生にとっても大事な思い出の場所だから……」
私の言葉に先生は、物憂げに微笑む。
「まあ時代の流れってやつかな。俺ももう教師三年目だ。そろそろ異動になるかもしれない。たとえ天文ドームが再建されたとしても、望遠鏡の扱いに詳しい先生が来るかどうかはわからない。潮時なのかもしれないね」
「先生、ごめんなさい……。私のせいで……」
「お、おいおい、そんな顔するなって……」
そんな二人の間に、ガチャリと階段室の扉が開く音が割って入った。
「おーい!」
大地だ。何やら興奮した様子で駆け寄ってくる。そうして一緒に天文ドームに入り、得意げな顔の大地から、話を聞くことになったのだった。
1.わた雲ソフトクリーム
宇宙の渚。
地球と宇宙が溶け合う場所。
3万メートル先の、すぐそこの宇宙――。
七月のとある水曜日の放課後。私、霜連澪は、いつものように屋上の天文ドームで顧問の羽合先生の、その言葉を復唱していた。
「せんせー、やっぱりよくわからないんですけど……」
私は首を傾げながら尋ねた。
「だから言ってるでしょ。宇宙はね、霜連が思ってるほど遠くない。――とにかく、身近なんだよ」
先生は優しい口調で語りかけるように説明してくれた。
エアコンのホコリだらけのフィルターを外す私の足元で、先生が脚立を支えてくれている。額の汗をシャツの袖で拭い、何度もむせて涙目になっている先生の姿を見て、私はクスッと笑みをこぼした。
「3万メートルということは30キロ? 30キロなら、東京に行くよりも近いですねー!」
私はわざとおどけてそう言ってみた。
「ねえ先生、今年の夜の流星観測、どうするんですか?」
そう言いながら、慎重にフィルターを先生に手渡す。天文ドームの中央には、大きな望遠鏡がどっしりと構えている。
「はは、ダメだよ。女子生徒と二人きりなんて、無理無理。職員会議で問題になるのは勘弁だからね」
先生は苦笑しながら首を横に振った。
「でも先生、昼の天体観測なんてもう飽きちゃったんですけど……」
私は口を尖らせた。
かつては十人もいた天文部の部員も、今や私一人。最初はただの人数合わせのために入部したのに、みんな次々と辞めていった。「兼部に忙しくなった」とか「受験勉強で大変だ」とか「彼氏ができた」とか……、そんな理由だった。
頼りにしていた二人の先輩も卒業してしまい、来春私が卒業すれば、ついに天文部は消滅してしまうかもしれない。
「じゃあせめて、夏の合宿は? 先生、引率してくれますよね?」
私は期待を込めて尋ねた。
「ダメだってば。合宿だともっとまずいに決まってるでしょ」
「えーっ、なんで!? 私、今年こそ八ヶ岳に行きたいんですけど!」
私は食い下がった。
「いくらなんでも、女子生徒と男教師が二人きりで旅行なんて、ありえないでしょ。わかってるよね?」
先生は呆れたように言葉を重ねた。
「一学期は必死に新入生の勧誘をしたのに、結局一人も入部してくれなかった。もうこの天文部は、私一人ぼっちなんですよね……」
横目で顔色をうかがいながらつぶやいてみるも、先生は口を閉ざしたまま。
「ちぇっ、まったく……」
不満を口にしつつも、私はぞうきんを手に取り、エアコンを一生懸命磨き上げた。自分の頑張りが目に見える形で現れるのが、掃除の魅力だと思っている。額から汗が垂れてきたので、私は思わずぞうきんでその汗を拭ってしまった。その様子を黙って見ていた羽合先生は、にやりと笑みを浮かべた。
「旅行じゃなくて引率」
私は真剣な眼差しで先生を見つめた。
「あ、もしかして先生……。何かまずいことが起きるのを期待してたりするんですかぁ?」
そう言いながら私は、脚立の上で腰をくねらせ、スカートの裾をひらひらとさせてみせた。
「あのな。そんな動きしてたらパンツ見えちゃうぞ」
「えへへ、別にいいですよ。ほらほら、もっとよく見えるようにしてあげますよぉ」
私は意地悪そうに笑って、さらにスカートをまくり上げた。
「おいおい。霜連。ちょっと、やめなさい!」
「大丈夫ですって、ほらちゃんとジャージ穿いてるじゃないですかぁ」
「……白だな」
え……? ええっ!? マジですか? あれれ、なんで今日に限って……!
「きゃああ――っ!」
「冗談だよ、冗談。とにかくっ……」
頭をガシガシ掻きむしる羽合先生。
自他ともに認める天文オタクなのに、そのすっきりとした顔立ちから女子にも人気だ。
頭脳明晰、ルックス抜群。でも事務処理能力は皆無。天は二物を与えたりしないってことね。プリントの配布を忘れたり、テストの答案をなくしたり。生徒からも心配されっぱなしだ。
「ねえ先生、職員会議は?」
「ああ、行きたくない。性に合わないんだ」
「またそんなこと言って。あはは」
会議嫌いの先生がここを秘密基地代わりにしてるのは知ってる。
「あんまり大人をからかっちゃダメだぞ」
「だって先生、私とそんなに歳離れてないじゃないですか」
「そうかなあ」
先生は首を傾げながら、指を折って年齢の差を数え始めた。
「ちょ、ちょっと! 先生、手、離さないで!」
私が叫ぶと同時に、脚立がぐらつく。慌てて座り込んでしまった。
「おっと、ごめんごめん」
「たった七つしか違わないんですよ。それに、私ももうすぐ同い年だし」
「えっ? なんのこと?」
私は、ホコリを取ってきれいにしたフィルターを先生から受け取りながら答える。
「先生と付き合っていた頃のお姉ちゃんと」
羽合先生は姉の綾の幼なじみで、そして恋人でもあった。
「とにかく、合宿は無理だって。第一、君のご両親に説明がつかないよ」
「えー、先生こそ、うちの親から信頼されてるの知ってるくせに」
私の記憶をたどれば、少なくとも小学生の頃から、当時、高校生だった先生はよく我が家に来ていた。宿題を教えてくれたり、家族そろって夕食を囲んだりしたこともある。「それに先生、まだお姉ちゃんのこと、好きなんでしょ? だから絶対に、先生は私には手出さないってわかってるんだから」
私がべーっと舌を出すと、先生は苦笑いしながら頭をぽりぽりと掻いた。
「とにかく、そういう冗談は……」
「さて、先生は今日、何回『とにかく』って言ったでしょう?」
なんておどけてから作業に戻ると、ドームの扉をノックする音が響いた。
「きゃっ!」
私の悲鳴に、先生も「な、なんだ!?」と驚いて思わず手を離してしまう。
「わわっ」
脚立が大きく揺れる。必死でバランスを取ろうとするが――。
「危ない!」
「きゃあああ!」
ドサッ。
先生は必死で私の体を抱き止めてくれた。二人で尻もちをついた鈍い音が、ドーム内にこだまする。
その時、一人の女子生徒が身を屈めるようにして入ってきた。
「やっぱりここにいた! って、ちょっと二人とも何やってんの!?」
私たちの目の前に、親友雨宮陽菜が立っている。長身でスラリとした陽菜は、悲鳴を上げることも無言で立ち去ることもなく、呆れたようにツッコミを入れてきた。
「ねえ澪。二人が仲良しなのは知ってるけど、白昼堂々と学校でってのはどうなの?」
「ち、違うの! これはその……」
私がうろたえていると、先生はいたって冷静に、エアコンを指差して笑った。
「エアコンのフィルター交換をしてたんだ。雨宮が急に入ってきたから、霜連が驚いて脚立から足を滑らせて――」
「え? ああ、なるほど! あははー。なぁんだ。私はてっきり……」
「ちょっ、陽菜! 変なこと言わないでよ!」
「はいはい、わかったって。ほら澪、アンタ早く離れなさい」
陽菜は中学からの親友で、姉のような存在。今は弓道部のエースとして活躍する才色兼備の美少女――。だけど、恋愛に関しては奥手なところがある。
「それにしても珍しいね。陽菜がこんなところに来るなんて」
「ねえ、理科部に届いた怪しいメールの話、聞いた?」
陽菜は黒髪を耳にかけながら、ドームの隅にあるテーブルに座った。私はスカートのホコリを払いながら、眉をひそめる。
「怪しいメール?」
「よくわからない数字の羅列。暗号……、かな? 今、理科部で解読しようとしてるんだけど、全然意味わからなくて」
「ん? 理科部? ああ、かけ持ちしてるんだっけ? それで、なんで私に?」
「それがね……。ほら、これ」
陽菜に見せられたスマホの画面。差出人の名前を見て、私は絶句した。
メールアドレスの横には、『Aya Shimotsure』の文字。そう、私の姉の名前だ。
「まさか……」
先生を見ると、先生もスマホを覗き込んでいた。そして苦々しい顔で頷き、陽菜に向かって言う。
「雨宮。間違いない、これは霜連のお姉さんの名前だ。この学校の卒業生で、数年前に理科部の部長を務めていたんだ」
「そうですよね……。でもさ……、ねぇ、澪?」
「ありえないよね」
「どうしよう。……澪、私、幽霊とかめっちゃ苦手なんだけど……」
陽菜は肩を震わせながら、不安げな表情を浮かべる。私はそんな陽菜を見て、優しく微笑んだ。
「だ、大丈夫よ。きっと誰かのイタズラだって。ね?」
「……ねえ澪。ちょっと物理実験室に来てくれない?」
「え? 今から!? ……うん、わかった。じゃあ先生、あとはよろしくお願いします!」
先生の返事も聞かず、私は陽菜の手に引かれ、階下の物理実験室へと急いだ。
「よっ、澪! 待ってたぜ」
物理実験室の引き戸を勢いよく開けると、幼なじみの風間大地が元気よく手を振った。「こっちこっち」と促されるまま、私と陽菜は教卓脇の実験テーブルについた。
「ねえ大地、まさかこのメール、あんたのイタズラ?」
私は不審げに尋ねた。
「違うって。昨日の放課後、理科部のアドレスに届いたんだよ」
大地は理科部部長らしからぬ坊主頭をポリポリと掻きながら言った。そして、例のメールが表示されたタブレットを私に差し出す。
「昨日って……。ありえない。だって、大地も知ってるよね。お姉ちゃんはさ、六年前に――」
亡くなっている。お姉ちゃんが今の私と同じ、高校三年生の時に。白血病で。
私の言葉に、大地と陽菜の表情が曇った。
「ま、落ち着こうぜ。で、このメアドは合ってんのか?」
大地が画面のメールアドレスを指差して尋ねる。画面を見つめ、私は頷いた。
「うん。……たぶん。でも、どういうこと……?」
「さあな。オレにもわかんねえよ。でもな、理科部の頭脳集団がもう解読に取りかかってるから、すぐなんとかなるさ」
そう言いながら大地が振り返ると、黒板には難解な数式とマニアックな記号がびっしりと並んでいた。それを囲むようにして、部員たちが白熱した議論を交わしている。その光景を見ていたら、なんだかほっこりとした気分になってきた。
「みんな頑張ってるねー、部長以外。あはは」
私は皮肉っぽく言って笑った。
「でもよお、オレがメアドに気づかなきゃ、今頃はスパムメールと一緒にポイよ。どうよ、オレの貢献でかくね?」
ドヤ顔で言い放つ大地に、私は呆れつつ尋ねる。
「はいはい、わかったから。で、大地的にはこのメール、なんだと思う? やっぱ幽霊とか?」
そう言いながら、私は黒光りした実験テーブルを挟んで向かい側の大地にタブレットを滑らせた。
「ガッハッハ! まあ、幽霊の線もゼロじゃないけどさ。たぶん、なんらかの理由でネット空間をさまよってたデータの塊が、今になって届いただけじゃね?」
「ひぃっ! や、やっぱり幽霊なの……?」
顔を真っ赤にしてうつむいていた陽菜が、突然立ち上がって叫んだ。
「ははは、雨宮らしくないな! いつもは物静かなのに。まあ、落ち着けって」
大地が笑いながら陽菜をなだめる。その言葉に、陽菜はますます顔を赤くして、無言のまま席に座り直した。
「常識的に考えると、送信元のパソコンが何かのきっかけで急に動きだした、ってとこだろうね。いずれにせよ……」
「いずれにせよ……?」
私は身を乗り出すようにして、大地の言葉を待った。
「六年前、澪の姉さんが理科部で取り組んでた研究と、何か関係あるのは間違いないな」
(大地は見た目こそ体育会系だけど、実はメチャクチャ頭切れるんだよね……)
そう思いながら、私は大地の面倒くさそうな顔つきを観察していた。大地という名前とは裏腹に天真爛漫な性格。でも子供の頃から理科やパソコンが得意で、ピンチの時は鋭い洞察力を発揮する。
「澪。何か心当たりないか?」
いつもと違って真剣な眼差しの大地。私は必死に記憶をたどってみる。けれど、やっぱり何も思い出せない。
「私、その頃まだ小学生だったもん。お姉ちゃんが高校で何してたのか、全然知らないし……」
「だよな……」
大地は残念そうに肩を落とした。申し訳なさそうにする大地を見て、私もなんだか胸が痛んだ。
「あ、でもね、羽合先生なら、何か知ってるかも」
「物理の? どうして?」
大地が怪訝そうに眉をひそめる。
「えっ、あ、いや……。本当なら最後の手段にするつもりだったんだけどさ――」
「ああん? 歯切れ悪いな。なんだ、話しにくいことなのか?」
「あ、あのさ、羽合先生ってうちの高校の卒業生なんだよね。お姉ちゃんが高二で理科部の部長やってた時、先生は三年生で天文部にいたらしいの」
「なるほどね。昔から理科部と天文部って仲良しだったみたいだしな」
仲良かったのは別の理由があるんだけどね――。私は心の中でつぶやいた。
そこで、大地は急に話を変える。
「――それで、澪のぼっち天文部のほうはどうなんだ?」
「えっ?」
私は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「夜に活動できなくて、昼間だけなんだろ? まさか、雲の観察でもしてんのか? ハッハ」
からかうような大地の言葉に、思わず頬が火照る。
「ち、違うって! 失礼しちゃう!」
つい声を荒らげてしまった。
大地なんか真面目に相手にするんじゃなかった……。後悔しつつ、陽菜と一緒に帰る約束をして物理実験室をあとにした。
部活を終えると、いつものようにコンビニでアイスを買い、川沿いの遊歩道をゆっくりと歩く。バスに乗れば一瞬で家に着くけど、こうして陽菜とくだらない話をしながらのんびり歩くのが、何よりも好きなのだ。
いつもキリッとしている陽菜も、私と二人きりの時は柔らかい表情になる。だけど今日は、なんだか様子が違って、悩んでいるような顔で、
「ねえ澪、……好きな人、いる?」
そんなことを聞いてきた。アイスを舐める陽菜は、私が目をそらすのを見逃さない。
「ふふ、その顔は、いるね?」
「う、ううん。好きとかそういうのかはまだよくわからないけど……。でも、気になる人はいるかな」
「もしかして、……羽合先生?」
「えええっ!? ど、どうしてそれを!?」
「澪、アンタねぇ。――バレバレだってば」
呆れたように笑う陽菜。私は川面に揺れる夕日を見つめ、「でも、ダメなんだ」とアイスを一口、含んだ。
「先生だから?」
「それもあるけど……。羽合先生、きっとまだお姉ちゃんのこと忘れられないでいるんだと思う。だから、なんか、お姉ちゃんに申し訳なくって……」
「そっか……、うん、よくわかる」
「でも陽菜こそ、もしかして好きな人……、いるんじゃない?」
「ええっ!?」
アイスを食べようとした陽菜の手が止まった。
「隠しごとはよくないぞ。私と陽菜の仲じゃん」
「えっと、その…………、あ…………」
陽菜が顔を真っ赤にして、もじもじと言いかけた時だった。川向こうから、私の名前を呼ぶ声が響いた。
「みーーお!」
「え、大地!? どうしたの――!?」
どうやら走ってきたらしく、大地は肩で息をしている。大した幅じゃないこの川、そこまで大声じゃなくても聞こえるはずなのに。でも、大地につられて私も思わず叫び声を上げていた。
ふと陽菜を見ると、溶けたアイスがぽたぽたと垂れているのに気づかず、まるで夕焼けのように顔を赤らめている。
「ねえ陽菜、どうかした?」
「あ、私、もう帰るから」
「えっ、ちょっと待ってよ陽菜!」
「おおーい。みーお。ビッグニュースだぞ――!」
川向こうで、大地はまだ叫んでいる。
「おーーい、メールの新事実! 見つけたぞ――!」
「はーい、明日教えて――!」
私は大きく手を振って答え、急いで陽菜のあとを追いかけた。
すぐに陽菜に追いつくことができた。道沿いの公園で手を洗う彼女の姿を見つけ、そっと声をかける。
「――ごめんね陽菜……。陽菜の好きな人って、大地だったんだ……?」
陽菜は小さく頷いて答えた。
「もっと早く教えてくれればよかったのに」
「ごめんね……。私、変だったよね」
「全然。アイツはそんなこと気にしないって。ほら、だって、マイペースだし」
「やっぱり二人、仲良しなんだね」
「うん、小学校の頃からずっと一緒だからね。腐れ縁って感じ」
小さく笑う陽菜は、長い髪を耳にかけた。私より15センチも高い彼女が、今日はとても頼りなく小さく見えた。
「私、彼の前だと上手く話せなくて……。澪が羨ましいな」
「え、そうなの? てことは、理科部に入ったのも大地に会うためだったんだ。気づかなくてごめん……」
「はは……。私、冷たい人だと思われてたりするのかな」
そう言って自嘲する陽菜を見上げ、私は「そんなことないよ」と力強く言った。
「冷たいって君は言うが、そこに味があるんだよ。君もアイスは好きだろう? ……ってこれ、ロシアの小説家ツルゲーネフの言葉なんだって」
ふふん、と得意げに言ってみる。
「――っていうお姉ちゃんの言葉、なんだけどね」
そう言うと、陽菜もようやく笑顔を見せてくれた。私と陽菜は、まるで姉妹みたいに仲良しだ。時には、こうしてお姉ちゃん役が入れ替わることもある。
「アイスだけに、気持ちが冷めないうちに、頑張らないとね!」
「うん、その意気だよ陽菜! 絶対応援する!」
夕焼けに照らされた雲が金色に輝いている。歩きだした私たちを、まるで祝福してくれているみたいだった。
――そういえば、大地の言ってたビッグニュースって、いったいなんだったんだろ……。
* * *
そのビッグニュースとは別に、ショッキングな知らせが舞い込んできた。
やはり、天文部が廃部になるというのだ。来年の春に予定されている校舎の建て替え工事で、あの思い出深い天文ドームが再建されないことが決定したらしい。
私が卒業すれば、部員はゼロになってしまう。生徒会にとっては、ちょうどいいタイミングだったのかもしれない。
そんな暗い思いを抱えたまま、次の水曜日を迎えた。
夏休み前の最後の部活の日。胸の内にわだかまる何かを感じながら、いつもの屋上に向かう。
屋上に繋がる階段室の扉を開けると、そこにはいつものように空を眺める羽合先生の姿が。フェンスに寄りかかりながら、先生はこちらに気づいて手を振った。
「やあ、霜連。もう来ないかと思ったよ」
「あはは、先生こそ」
私はそう返して笑った。二人の間に、少し気まずい沈黙が流れる。
「…………」
「…………」
やがて先生が口を開いた。
「会議をサボる言い訳がなくなるのは困るな」
廃部の話は、羽合先生ももちろん知っているだろう。けれど、そのことに触れてしまえば、今このひとときの心地よさが、まるではかない泡のように消えてしまいそうで……。どうしても切り出せない。
「どうした? 今日は元気ないな」
先生が不思議そうに言う。私は先生の隣に並び、彼が見つめる先の空を仰ぎ見た。どこまでも深い青に、綿菓子みたいにふわふわと浮かぶ白い雲。七月の熱を帯びた夏風が、髪をそよがせる。不意に、先生を見つめていた自分に気づき、ドキリとする。
「天文部の最後の部員が、私なんかでごめんなさい。部員を増やすことができず、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「霜連のせいじゃないよ。仕方ないことだ」
優しく諭すような羽合先生の言葉が、私の胸をきゅっと締めつける。
「きゃっ!」
冷たいペットボトルが、頬に触れた。見れば、先生がにっこりと笑顔を向けている。差し出されたのは、大好きなフルーツティーだ。
「霜連はさ、もっと胸を張っていいと思うよ」
「え……?」
戸惑う私に、先生は優しく微笑んだ。
「ほら、天文部の活動って、一見すると銀河だの流れ星だのってロマンチックそうに見えるけど、実際はけっこう地味な作業の連続だろ? それでもへこたれず、霜連がコツコツと頑張ってきたの、俺は知ってるから」
「先生……」
「だからしっかり胸を張るんだ。いい?」
「……はい」
フルーツティーをごくごく飲む。ほんのり甘い香りと、意外とさっぱりとした味わい。甘みの奥にある渋さに、なんだか悔しさがこみ上げてくる。
「羽合先生も、天文部なくなってほしくないんですよね。だって、先生にとっても大事な思い出の場所だから……」
私の言葉に先生は、物憂げに微笑む。
「まあ時代の流れってやつかな。俺ももう教師三年目だ。そろそろ異動になるかもしれない。たとえ天文ドームが再建されたとしても、望遠鏡の扱いに詳しい先生が来るかどうかはわからない。潮時なのかもしれないね」
「先生、ごめんなさい……。私のせいで……」
「お、おいおい、そんな顔するなって……」
そんな二人の間に、ガチャリと階段室の扉が開く音が割って入った。
「おーい!」
大地だ。何やら興奮した様子で駆け寄ってくる。そうして一緒に天文ドームに入り、得意げな顔の大地から、話を聞くことになったのだった。
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