あの日、君が目指した空の果てへ

嶌田あき

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1巻

1-3

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 男子生徒がカメラを覗き込み、念入りに最終チェックをしている。
 背後に見えるのは銀色に輝く天文ドーム。見慣れた光景だ。紛れもなく、私たちの高校の屋上だった。
 再びガクンと大きく揺れた直後、カプセルはもう宙を舞っていた。
 ぐるぐると回転する不安定な映像の片隅に、一瞬だけ制服姿の理科部員たちが映り込む。見上げる空に向かって手を振る、十人ほどの生徒たち。その中に、弾けるような笑顔で手を振る少女の姿があった。

「お姉ちゃん……!」

 思わず叫んでしまった。

「マジか。ちょっと戻してみよう!」
「お願い……」

 大地が慌てて映像を少し戻す。私は画面に釘づけになって指差した。

「やっぱり……。ここに映ってる! ねえ先生、ほら!」
「ああ、本当だ……」

 先生は小さくつぶやくと、じっと画面を見つめた。ズームしてみると、お姉ちゃんの口元が動いているのがわかった。「……すばるくん」と言っているような気がする。羽合すばる。先生の名前だ。
 私はそのことに戸惑いつつも、それ以上にお姉ちゃんの動く映像が見れたことに感激し、陽菜に抱きついた。

「きゃー! 信じられない! 陽菜ぁ!」
「澪、本当によかったね! 間違いなくこれは、六年前にお姉さんが打ち上げた気球なんだね」

 そう言いながら、陽菜は私の頭をそっと撫でた。その瞳には、うれし涙が光っている。

「じゃあ、続きを見てみようか」

 大地がそう小声で提案し、再生ボタンをクリックした。


 気球はゆっくりと高度を上げていく。あっという間に、屋上に立つ人々は米粒ほどの大きさにしか見えなくなった。
 やがて校舎の全容が画面に収まり、駅まで続く川沿いの遊歩道、行き交う人や車も、すべてがミニチュアの世界のよう。時が止まったかのような町並みを、気球は鳥の目線で見下ろしている。はるか下の屋上では、天文ドームがキラキラと日光を反射し、まるで灯台のように気球の旅立ちを見守っていた。
 ぐるぐると回転する画面は一向に収まる気配がない。風に翻弄ほんろうされて頼りなげだ。けれどいつの間にか、気球は雲と同じ高さにまで昇ってきていた。

「ここらへんで高度2000メートルくらいかな」

 と先生が解説する。
 そのまま気球は、もくもくとしたわた雲の中へと吸い込まれていった。途端に視界が真っ白になる。まるで深い霧の中を進むよう。
 大地が早送りすると、やがて視界が晴れ、雲の上に抜け出した。

「ねえ見て! 雲の上にまだ雲があるよ!」

 指差した青空のずっと上のほうに、うっすらと別の雲が見える。下に広がるふわふわの雲海とは違い、上空の雲は湯気ゆげが立ち込めるようにモヤモヤとしている。雲の切れ間からは、三月とは思えないほど強い日差しが容赦なく差し込んでいた。

「ねえ大地、あの雲まであとどれくらいあるのかな?」
「うーん、そうだな……」

 大地は画面から目を離さずに首を傾げた。

「ったく、あんた何も知らないのね」
「悪かったな。でも地学って入試に使わないしなぁ。澪だって同じだろ?」
「まあ、そうだけど。……でも、あんたは一応、理科部の部長なんだからさ」
「だったらさ、どうせ昼しか観測してない天文部なんだし、ついでに気象観測もやってみたら? ガハハハ!」
「もう!」

 私たちがそんなやりとりをしている間にも、気球はぐんぐんと高度を上げていく。つい先ほどまでずっと上のほうに見えていた雲が、いつの間にか近くまで迫っている。そのモヤモヤとした雲の先には、青空が広がっていた。雲一つない、まさに晴天という言葉がぴったりの光景だ。ぐるぐる回転するカメラに、銀色のまぶしい太陽光が差し込んでくる。

「この辺りで高度6000メートルってとこかな」

 と先生が言った。

「えっ、もうそんなに!?」
「ああ。今見えているあのモヤモヤとした雲は、巻層雲けんそううんっていうんだ。通称、うす雲とも呼ばれていてね。高度5000メートル以上の上空にだけ発生する、上層雲の一種なんだよ」
「へぇ~、さすが理科の先生ですね」

 私が感心すると、羽合先生は「おいおい」と軽いジョークを飛ばすような口調で返事した。

「あのなぁ、霜連。君はいったい、俺のことをなんだと思っているわけ……?」

 うす雲を突き抜けると、もはや気球より上空に雲は見当たらない。目の前に広がるのは、どこまでも澄み渡った青空だけだ。水平線の先に、地球の丸みすら感じられるようになっていた。

「わぁ……、すごい! 手作りのカプセルが、こんな空の高いところまで行って、この映像を撮影してきたなんて……。信じられない!」

 隣では大地と陽菜も、感動に圧倒されたように黙り込んで画面を凝視している。

「本当、すげえな……」
「うん。すごい。もう言葉にならないくらい……」

 上空へ行くほど、青空は濃さを増していく。それはもはや表現のしようもない深い青だった。画面の隅を見れば、空はもうあい色に染まりつつある。もしかしたら、もう宇宙はすぐそこまで迫っているのかもしれない。そんなことを予感させるほど濃い青だった。

「「まるで映画の世界」」

 互いの考えを読み取ったかのように、陽菜と大地が同時につぶやいた。
 その刹那せつな、唐突に映像が乱れ、ノイズの走る画面が天地を逆にし始めた。目まぐるしく視界が回転する。
 銀色の太陽、青空、白い雲海。青、白、青、銀、青…………。
 地上の様子が映し出された時には、そこかしこに白い帯状の物体が宙を舞っているのが見て取れた。

「え、何これ!?」

 目が回りそうなほどぐるぐると回転を続ける画面。その中心では、青空に繋がる一本の白いロープが、まるで母子を繋ぐへその緒のようにはっきりと見えていた。
 気球の高度が徐々に下がっていく中、はるか下方に見えていた雲が、再び近づいてくる。

「まさか、気球が割れた?」

 心配そうに大地が羽合先生を見やる。先生は「そうだろう」と、表情を変えることなく画面に釘づけになったまま答えた。

「えっ!? それって大丈夫なんですか!?」
「大丈夫。すぐにパラシュートが開くはずだから」

 羽合先生は驚くほど冷静に答える。
 先生の言葉通り、その直後に突如として画面が大きく揺れた。どうやらパラシュートが開いたらしい。
 すると、またしても映像が回転を始める。今度は左右方向の回転だ。もう少しゆっくりなら景色を楽しめそうだけど、いかんせん速度が速すぎる。

「結局、宇宙の渚にはたどり着けなかったのか……」

 宇宙の渚までは3万メートル。そこまで到達していないことは私にもわかった。
 なんだか悔しくてたまらない。

「でもほんと、すごかったです。大感動です! お姉ちゃんがのめり込んだ理由、なんとなくわかった気がします」
「……そっか。だったらさ――」

 羽合先生は何かを言いかけて、でもすぐに「あ、いや……。なんでもないんだ」と言葉を呑み込んだ。そして、照れくさそうに鼻の頭をぽりぽりと掻いた。

「先生……?」

 すると、先生は苦笑いを浮かべた。
 タオルで額の汗を拭うと、潮風が頬を撫でていく。そういえば、こんなにやかましく蝉が鳴いていたっけ……? ふと、その声の大きさに気がついた。
 パラシュートにるされて戻ってきたカプセルが、参道の木々の向こうに見えた気がした。
 思わず青空を仰ぎ見る。さっきよりもさらに大きく成長した入道雲が、まるで高く手を伸ばして微笑んでいるみたいだった。


 * * *


 神社からの帰り道の途中、先生が海を見渡せる駐車場に車を停めた。
 大地が陽菜を誘ってコンビニに買い出しに向かい、私は図らずも羽合先生と二人きりになっていた。
 車を降りて、先生と二人で浜辺に向かう。学校の制服で天文ドームにいるのはいつものことだけど、私服で海辺を歩くのはなんだか妙に恥ずかしい。
 青空が眩しい砂浜。波はゆっくりと打ち寄せ、はるか彼方には白亜の灯台がそびえ立っている。

「はぁ~、気持ちいい! やっぱりサンダルにして正解っと」

 サンダルを脱ぎ捨て、裸足で冷たい砂浜を歩く。時折、透明な波が白い泡をあげて足元をくすぐっていく。

「だな」

 先生もビーチサンダルを手に持ち、隣をてくてくと歩いた。
 振り返れば、濡れた砂浜には私と先生の二人の足跡だけが、ぽつりぽつりと刻まれている。青い海と白い砂が織りなす景色。ここは、まさに渚と呼ぶにふさわしい場所だ。
 くるぶしを捉える波の感触が心地いい。目を閉じて立ち止まり、素足の感覚を確かめるように、ちゃぷんと波を蹴り上げてみる。これくらいなら平気かな、と思いながら、どんどん海の中へ。気づけば膝までかっていた。

「こういうの、ずっと憧れてました。えへへ」

 そう叫んで足元の水を手ですくい、はしゃいだ笑顔で先生に水しぶきを浴びせる。

「アハハハ。まるで高校生の青春って感じ」
「何言ってんの。君は現役高校生でしょ」

 しぶしぶといった様子で眉を下げつつ、羽合先生も膝まで海に入ってきた。

「そうだけどさ、私こういう経験、初めてなんで。ほら、えいっ!」
「ちょっ……。うわぁ! こういうのは彼氏とやんなさい」
「だって彼氏なんていないんだもん! ったく、また先生ぶってる」

 そう言いながら、大きな水しぶきをかけようと波を蹴り上げた瞬間、砂に足を取られてバランスを崩してしまう。

「きゃっ!」
「おっと」

 咄嗟とっさに先生が腕をつかんでくれたおかげで、なんとか転ばずに済んだ。
 恥ずかしくなってきてしまい、うつむいていると、先生が心配そうに覗き込んできた。夏の雲が映り込んだ先生の澄んだ瞳に見つめられ、もう顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
 言葉を交わすこともできず、気まずい沈黙に包まれたまま、二人で波打ち際まで戻ってきて、乾いた砂浜に腰を下ろした。
 膝を抱えると、先生の肩とぶつかりそうなほど近い。いつもよりずいぶんと距離が近いような……。でも今さら座り直したら、わざと先生を避けているみたいで変だろうな。そんなふうに、何も話さないまま波の音だけが二人を包み込んでいく。

「――宇宙の渚、結局たどり着けなかった……」

 私から沈黙を破った。そっと上目遣いで、先生の顔をうかがう。

「そうだね。でも1万メートルくらいは行ったんじゃないかな」
「どうして途中で割れちゃったんだろう……。お姉ちゃんの気球……」

 そう言ってから、またしばらく無言の時間が流れた。私はこの妙な状況に気が動転してしまい、突然変なことを口走ってしまう。

「…………すばるくん」
「え?」

 もう一度口にする。

「すばるくん……」

 自分で言っておきながら、あまりの恥ずかしさにぎゅっと目をつむってしまう。

「おいおい……。急になんなの?」
「お姉ちゃんのマネ。へへ、似てました?」

 私とお姉ちゃんとは、あまり似ていない姉妹だった。整った顔立ちにくりっとした可愛らしい瞳、学年トップの成績の姉と、私とは正反対。もう亡くなってしまった今となっては、容姿も頭脳も、胸の大きさに至るまで、全部不戦敗になってしまった。六つも歳が離れているから、思春期真っ只中の時期もずれていて、直接対決はできなかった。
 けれどそんな姉妹の中で、声だけは完璧に似ていると自負していた。

「先生、気づきましたか? お姉ちゃん、動画の中で先生のこと呼んでましたよね」
「と、とにかく、だな……」
「ああ、卑怯! また『とにかく』って言うんだ」

 頬を膨らませ、すごすごと先生に詰め寄る。先生は一歩退いてしまう。

「言ってたかな。とにかく……。似てるとも似てないとも言えないよ。どっち言っても、霜連は悲しむだろうから……」

 なんて意外な回答。

「――なあんだ。先生って、案外そういう気遣いができるんですね」
「案外とは、失礼な」

 先生はそう言って、視線を海に戻した。でもすぐに真顔になって、私をまっすぐ見つめてくる。
 そして、唐突に変な提案をしてきた。

「ねえ霜連。今度は君が気球で宇宙の渚を目指すのはどうかな?」
「えっ……」
「そしたら、……もう、比べなくて済むようになると思うんだ」

 ――比べなくて済む。お姉ちゃんと。
 先生は鈍感なようで、いつも私のことを気遣ってくれていた。
 私が、亡くなったお姉ちゃんにとらわれていることを、先生は知っているのだ。優秀だったお姉ちゃんといつも比べてしまい、私はずっと自分に自信がなかった。
 でも、そうなってしまっている一番の原因は、お姉ちゃんが好きになった人を、同じように好きになってしまったから――。
 そのことを、先生は気づいていない。

「私、お姉ちゃんの代わりになれるのかな……」

 遠くの海を見つめながら膝を抱えて肩をすくめ、ぼそりとつぶやく。まるで一人言のように。
 すると、先生は慌てたように言う。

「そういう意味で言ったんじゃないんだ」
「でも……、お姉ちゃんのこと、嫌いになりたくないし……」
「ごめん。なんでもないんだ。さっき言ったことは忘れてくれ」

 お姉ちゃんが目指した空の果て。見たかった景色。お姉ちゃんの代わりに、気球で宇宙を目指す。
 もしかしたら悪くないのかもしれない。お姉ちゃんが果たせなかった夢に挑戦する。もし成功すれば、ずっととらわれていた小さな世界から解き放たれ、自分に自信が持てるような気がする。

「……先生、あのね」

 海風になびく髪を押さえながら、声を出した。
 そう言ってから、やめておけばよかったと思いとどまり、一瞬だけ目を伏せる。でもすぐにまた顔を上げて、先生を見つめ返す。
 先生は、目をそらさず待っていてくれた。
 けれど、結局、本当に言いたかったことを口にできなかった。



 3.積乱雲キューピッド


 心待ちにしていた夏の天体観測合宿。当初先生は行けないと言っていたが、私がいろいろ根回しをした結果、ついに実現の運びとなった。
 電車を乗り継ぎ、山道をバスで登ること一時間。たどり着いたのは、小高い山の上にあるキャンプ場だった。周囲に人家はなく、星空観測に最適の暗さが約束されている。広々とした芝生の広場もあり、流星群を眺めるにはうってつけの環境だ。
 宿泊施設はコテージ。水道、電源、シャワーも完備で、女子には嬉しい限り。いつもの八ヶ岳じゃないことに不満をこぼした私をなだめるように、羽合先生が見つけてきてくれた高規格キャンプ場だった。

「すげえ! こんなところ、よく借りられたもんだ」

 リビングの広さに感嘆しながら、大地が振り返る。さすがに私と羽合先生の二人きりで合宿というわけにはいかず、心強い仲間として、大地と陽菜も同行してくれていたのだ。
 木のぬくもりが感じられるコテージは、まるで別荘にいるようなリラックスした雰囲気。

「えへへ、せっかく最後の合宿だもんね。思いきって部費の残金全部はたいちゃった!」

 男女で部屋を分け、荷ほどきを済ませるとすぐにキッチンで夕飯の支度したくを始める。食事は自炊だ。食材は事前にスーパーでしっかり買い込んである。電源がある今回のキャンプで最も重要な調理器具、炊飯器は大地が家から持参してくれた。

「で、今夜のメニューは?」
「もちろんカレーだよ! 天文部合宿の鉄板料理なんだから」

 キッチンの隅で、羽合先生が必死に戸棚をごそごそと探り回っている。

「先生、何してるんですか?」
「あれ、はかりはどこだ……」
「なぜ? 何に使うんですか?」
「カレーを作るのに決まってるだろう」
「はぁ?」

 どうやら先生は、料理を科学実験か何かと勘違いしているらしい。

「あはは、大丈夫ですって。先生、生活力皆無すぎません?」
「合理的なライフスタイルと言ってもらいたいものだが……」
「はいはい。別にグラム単位でキッチリ量らなくてもいいんです。イイカゲンが『良い加減』ってやつですよ。あはは」

 そう言ってジャガイモの皮むき用のピーラーを手渡すと、眉をひそめる羽合先生。これくらいならできるでしょ、と無言で意地悪な視線を送りつつ、私は私で探しものをしていた。

「あれ? 買い忘れたっけ……。おかしいなあ、確かこの辺に……。も~、どこ行っちゃったのよ~」

 買ったはずの材料が、置いたはずの場所にない。何度探しても見つからなかった。ふと思い出して尋ねる。

「そういえば先生、さっき『これは俺の分な』って大量に買ってませんでしたっけ?」
「何?」
「チョコレート。ね、一つくらい分けてくれません? 買ったはずなのに見つからないんですよ」
「えっ……。うーん、それは無理」
「は? なんで? あれ全部一人で食べるつもりですか?」
「そういうわけじゃないけど……」

 口数が減った羽合先生。私はここぞとばかりに疑いのジト目を向ける。

「何か言えない理由でもあるんですか? 子供っぽい……」
「霜連こそ、今すぐ必要なのかい? あ、腹が減ったのか?」
「違いますって! 先生こそ――。あ、もしかして! またお姉ちゃん絡みですか? 二人の思い出のチョコとか?」

 私の悪い癖で、先生のこととなると、ついお姉ちゃんと絡めてしまう。

「ち、違うよ……」
「ほんとうに?」
「ああ……。いや、その、つまりな……」
「やっぱり。先生の顔、すぐわかっちゃう」
「違うって。誓って綾のことじゃないよ。本当だ」

 先生の真剣な目が、まっすぐ私を見つめている。
 信じたい。信じたいのに――。でも、先生の目の奥に何か別のものを感じてしまう。隠しごとをしているような、後ろめたさのような。自分でも気づいていないかもしれない。無意識にお姉ちゃんのことを考えているんじゃないか。
 お姉ちゃんへの想いを持ったままの先生を、素直に受け入れたい。頭ではそう思っている。亡くなった人を忘れられないのは当然だって、理解しているつもり。でも今は、心がそれを許してくれない。
 先生が私じゃなくて、お姉ちゃんの影を見ているような気がして、胸が苦しくなる。
 そうして、自分でもよくないとわかっているのに、つい口に出してしまう。

「はいはい、どうせ先生はそればっかなんでしょ? もう六年も前に亡くなった人のことを、未だにグジグジと……」
「お、おい」
「お姉ちゃんの気球、お姉ちゃんの夢、お姉ちゃんの妹……」

 せきを切ったように、言いたくもない言葉が口からあふれ出してしまう。

「もう少し、今目の前にいる人にも気を配れっての!」

 怒りに震える声。それでも涙は出ない。勢いのまま、エプロンを乱暴に放り投げると、私はコテージをあとにした。


 * * *


 衝動的に飛び出したものの、すぐに冷静になった。とはいえ戻ることもできないので、チョコレートを買いに行くことにした。
 管理棟で自転車を借りると、一路山麓さんろくのコンビニを目指す。遠くの空には巨大な雷雲が垂れ込めているが、今のところこちらまで迫る様子はない。ま、どうにかなるでしょ。スマホだってあるし、ここは日本の山の中だもの。
 勢い任せに飛び出したものの、予想通りすぐに道に迷ってしまう。さすが私。それでも、畑仕事中のおばちゃんに道を聞いたり、通りすがりの車を停めて訊ねたりしながら、なんとかふもとのコンビニまでたどり着くことができた。
 無事に目当てのチョコレートを購入すると、駐車場のベンチでひと休み。蒸した風に吹かれながら、いつものお気に入りフルーツティーで喉を潤す。
 ふと目を落としていたペットボトルから顔を上げると、空には濃い灰色の積乱雲が広がっていた。先ほどよりもずっと近くに迫っている。ホコリっぽい匂いが鼻をかすめ、吹きつける風がいっそう冷たく感じられた。

(あー。……これはもうすぐ、ひと雨くるかな……)

 急いでリュックを背負うと、勢いよくペダルをぎだす。大丈夫、来た道を戻るだけだ。
 キャンプ場への分岐ぶんきを曲がり山道に入ると、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。

「ま、こんな雨ならへっちゃらよね」

 車の通らない山道は木々が覆い茂り、日没を迎えていないというのに真っ暗だ。自転車のライトが自動であかりを灯す。
 冷たい風が心地いいと感じていたのもつかの間、雨脚は徐々に強くなっていく。まるでバケツの水をぶちまけたような土砂降どしゃぶりになると、木々の隙間から容赦ない横殴りの雨が打ちつけ、視界は最悪だ。

「あーあ、やっちゃった……」

 とにかく急いでキャンプ場に戻ろう。ずぶれは避けられない。寒くはないし、帰ったら着替えればいいだけ。むしろ、熱くなった体に降りかかる冷たい雨は、意外と心地よかったりする。

(もう、全部先生のせい! チョコさえ分けてくれてれば、こんな目に遭わずに済んだのに!)

 本当は自分が悪いとわかってる。でもそう思わずにはいられない。
 ずぶ濡れになりながらもひたすらペダルを漕ぎ続ける。上り坂だろうがお構いなし。電動アシストのおかげで本当に助かった。
 ゴロゴロと雷鳴がとどろき、徐々に恐怖が募ってくる。けれど、前に進むしかない。雨に濡れたせいか、ブレーキの利きが悪い。激しい雨がはね返り、白くにごった路面が見えなくなりそうだ。
 そんな時、突如として茶色い物体が視界に飛び込んできた。

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