月夜の理科部

嶌田あき

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3.下弦

第22夜 想いと想い(上)

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 3月初旬、大学受験を成功裏に終わらせた先輩は、約束通り私を梅まつりに誘ってくれた。街の中心にある小さな湖に南面する、陽当たりのいい梅園である。春の訪れを告げる満開の梅。淡い色で小さく咲く梅は、桜に比べてどこか頼りなさそうで、私はなんだか自分を見ているような気になった。

「どうしたの? 悩みごと?」

 心配そうに覗き込む先輩。無邪気な優しさが、今日はどうにも眩しすぎた。穏やかな春の陽気にウグイスの声。ほんのり漂う甘酸っぱい梅の香り。

「あの先輩……」

 ウキウキのはずが、どうもそんな気分になれない。

「ん?」

 先輩が八重歯をこぼす。

「……あ……いや、なんでもないです」

 それもそのはず「観測時間マシンタイム、返してください」の一言はいつまでも出ないまま。ついに観測計画を
変更できるデッドラインの日を迎えてしまった。「今日こそ言わなきゃ」の『今日』は何回もやってきたが、本当に今日がその『今日』だった。
 月からデータを取り戻すのに、望遠鏡が何の役に立つのかは分からない。しかし、ローバーによる侵入は悪手と分かり、もう月面望遠鏡ぐらいしか月との繋がりを感じられるものは残されていなかった。皮肉なことに、その望遠鏡こそがデータを削除する引き金でもあるのだが。

 サーバーからデータが追い出される日が、刻一刻と迫っていた。
 もう、これ以上優柔不断してたら取り返しがつかないことになる。私の脳裏には〈手遅れ〉の言葉が何度もよぎった。その度に「そんなわけない!」と目を背けてきたが、そうやって自分に嘘をつくのも、もう限界にきていた。
 いまさら望遠鏡を返してくれなんて伝えたら、先輩は何と言うだろう。失望で、もうあの笑顔を自分に向けてくれなくなることが、私はたまらなく怖かった。

(どうしようか……)

 よく考えると、私の目の前にあるのは、2択だった。
 先輩をとるか、ユキくんをとるか。自分が可愛いか、レネさんに尽くすか。表の顔で取り繕うか、ありのままの裏の顔か。

「はぁ」

 丘の中程にある開けた場所に出た。茶店の前に並ぶ真っ赤な緋毛氈ひもうせん敷きの縁台は、多くの人で賑わっていた。高台の縁にある雰囲気の良いベンチに腰掛けると、眼下の梅林の向こうにはキラキラ輝く湖面が一望できる。その向こうに見えるひときわ背の高い研究所の本館。

「……あの、先輩……」

 決断の時は来た。
 白黒、いや、表裏ハッキリさせよう――。私は覚悟を決めた。

(本当の私を見たら、きっと軽蔑するよね)

 静かに目を閉じる。心のなかで、ユキくんとレネさんに謝った。

(ゴメン、ユキくん。ゴメン、レネさん。優柔不断も、これで終わりにするね……)

「大丈夫?」

 小刻みに震える私の肩に先輩が優しく触れた。

「あの、あの……。ごめんなさい。私……」
「フフフ。いつも俺に謝ってばかりだね」

 優しい言葉。目を開けて、顔を見た。

「謝ることなんて、ひとつもないんだよ」

 少年みたいな瞳。吸い込まれそうになった私はしおらしく髪を耳にかけた。

「今日は可愛いチョーカーしてるね」

 先輩が首元を指差す。

「……? あ、これ? お守りなんです」

 忘れてた! ユキくんのとんぼ玉! 月、には見えないよね――。 
 月の模様に何を見るかは、人それぞれだ。うさぎ、おばあさん、かに、わに、ろば。カエルなんて人もいる。こんなふうに違って見えるのは、月を見ていないから。ありのままの月を見ようとせず、自分が見たいものを月の模様に見出そうとしているのだ。これはつまり、月面に投影した自分を見ているに過ぎない。

 月を見ている人は皆、月を見ていない。38万キロメートル彼方の鏡で、自分自身を眺めているのだ。月は心を映す鏡――。そう気付いたとき、私の世界のすべてが裏返った。
 先輩のことを見ているようなつもりで、ほんとうは彼の目に映る自分を見ていたのだ。彼は星ばかり見ているような顔して、ちゃんと私のことを見てくれていたというのに。

「あの、先輩……ごめんなさい」
「フフフ。もういいって、謝らなくてさ」
「あの、そのっ……」
「ほんとうに大丈夫。全部、そのままで。自分の気持ちに素直になりたいだけなんだよね?」

 世界は沢山の2択から紡ぎ出される。
 0か1か。表か裏か。天文部か理科部か。抹茶ババロアかぜんざいか。そして、自分か他人か――。1つ決断すると次の2択が出てくる。それを決断すると、また次だ。こうして2択が増えるたびに爆発的に大きくなっていく可能性の宇宙を、優柔不断の糸が丁寧に編んでゆく。

「キョウカの優柔不断はさ、優しさなんだよ。この宇宙への」

 彼の唐突な言葉に、私はドキッとした。

「ありえたはずの宇宙を、全部抱え込んでいる」

 今立っている世界は、自分が選んだ世界。でも、選ばれなかった世界も、常に気にしている。それこそが、優柔不断の優しさなのだった。

「先輩……」

 胸の中でふつふつと沸き上がる感情に、私はもう嘘をつくまいと決めた。

「ほら! 顔を上げて。謝らなきゃなんないのは、俺なんだよ。最初から、俺の片思いだったのに、キョウカは優しいからさぁ」

 傷つけたくない、傷つけてはいけない人まで傷つけてしまった。私は目を閉じた。

「はい、これ」

 先輩の声に私はゆっくりと目を開いた。彼から手渡されたのは、ミルク色のUSBメモリ。望遠鏡の利用サイトのトークンだった。

「時間と座標、セットしてある。竹戸瀬先生なら、意味わかるはず」
「えっ!? どっ、どういうことですか?」
「急ぎな! 大丈夫。きっとまだ間に合うよ!」

 先輩は優しく微笑み、私の肩を叩いた。
 私は走りだした。走って、走って、ただひたすらに走った。梅まつりだけの臨時駅。ホームに滑り込んできた今日のために用意されたような特急に飛び乗った。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 今は息切れさえも気持ちがいい――。2択で選ばれなかった無数の宇宙が背中を押してくれている。そんな気がした。
 世界の全てが、また少しずつ動き始めた。
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